大嶽丸(2)
「
そう呟くように言ったのは
大内記の職にある篁は、様々な記録を保管しておくため資料庫で作業を行うことが多く、その日も資料庫で
「それは何者なのです」
「美しき女ぞ」
賀陽親王は扇子で口元を隠し、笑いながらいった。
「はい?」
「
「しかし、それはあやかしなのですよね」
「そうじゃ。だが、人によってはあやつを天女だと呼ぶものもおるそうじゃ」
賀陽親王はそういって、資料棚から一本の木簡を取り出して篁に手渡してきた。
「古いものだが、ここに立烏帽子のことが書いてある。近江と伊勢の間にある鈴鹿山に住むそうじゃ」
木簡を受け取った篁はそれを読んでみたが、立烏帽子は山に住み着く盗賊と書いてあり、またの名を鈴鹿御前というとも書かれていた。しかし、鈴鹿御前は天女であり、鬼もしくは天の
「正直言って、よくわかりませぬ。立烏帽子というのは、実際のところ何者なのです」
「それは
「しかし、あやかしに会いに行くとなると」
「我も連れていけ、篁」
「それはなりませぬ」
「なぜじゃ。我が邪魔か?」
「いえ……」
「安心せい。自分の身は自分で守れる。これでも武芸の腕は父に褒められたこともあるのじゃぞ」
賀陽親王は剣を振る真似をして見せた。父というのは、桓武天皇のことであり、賀陽親王は桓武天皇の第十皇子でもあった。
「どんなに中務卿の腕が立とうとも、今回はお連れするわけには行きませぬ」
「なぜじゃ」
「今回の目的は立烏帽子ではありませぬ。その立烏帽子が蘇らせたという、大嶽丸にあるからです」
賀陽親王によれば、大嶽丸というのは鈴鹿山に住む盗賊の
その話については、先日篁が父の岑守から聞かされた話と同じであった。
「うむ……」
大嶽丸の名前を聞いた賀陽親王は黙ってしまった。どうやら、鈴鹿御前には会ってみたいが、大嶽丸には会いたくないようだ。
「ですから、こたびは私だけで行かさせてください」
「仕方がないな。無事に戻ってくるのじゃぞ」
「はい」
こうして、篁は鈴鹿山へと向かうことになったのだった。
※
その夜、篁の屋敷に来客があった。
明の朝に立とうと思っていた篁はすでに就寝していたが、屋敷の前に人が立つ気配で目を覚ましていた。
「篁様、お客様がお見えです。いかがなさいますか」
篁が自室に家人がやってきて声を掛けた。
すぐに起き上がった篁は鬼切無銘を片手に部屋を出た。
ただならぬ気配がしていた。
その気配は間違いなくあやかしのものであった。
屋敷の前に佇んでいるのは、ひとりの男だった。月明かりに照らされ、その体が蒼く輝いているように見えた。
「夜分に失礼いたします」
透き通るような声だった。やはり現世の者ではない。篁はそう察した。
「鈴鹿と申します」
「なんと……」
その名前を聞いて、篁は驚かされた。まるで昼間の賀陽親王との会話をどこかで盗み聞きでもされていたのではないかと疑いたくなる。
よく見ると、それは男ではなかった。狩衣姿で男装した若い女なのだ。
凛とした顔立ちの鈴鹿は男装していてもその美しさが際立っており、どこか妙な色気すらも感じさせるところがあった。
「して、このような刻に何用で」
「大嶽丸の件で」
鈴鹿は短くそう篁に伝えると、腰に佩いていた太刀を鞘ごと篁へと差し出した。
その太刀には見覚えがあった。坂上家に伝わる鬼切丸と呼ばれている太刀に間違いなかった。
「これは……」
「大嶽丸が坂上広野麻呂様のお屋敷から持ってきてしまったものにございます。出来れば、篁様の方からお返し願えないかと」
「わかった。これは私の方で返しておこう」
そう言って篁は鈴鹿から鬼切丸を受け取った。
「ひとつ教えてくれぬか。大嶽丸とは何者なんだ」
「鈴鹿山の鬼神にございます」
「鬼神?」
「はい。元は人間でありましたが、死した後で冥府に落ちる前に鬼神として蘇ったのです」
鬼神と聞いて、篁は嫌な予感を覚えた。あの
「そのようなことが可能なのか」
「そういった術を使う者がいるそうです」
鈴鹿は目を閉じるようにして言った。
「その人物とは?」
「
「それは、そなたの名ではないのか」
篁がそう言うと、鈴鹿は黙った。
しばしの沈黙が流れる。聞こえてくるのは、草木にいる虫たちの声だけだった。
「元は
「と、いうと」
「立烏帽子は、鈴鹿山に降りた天女でございました。しかし、ある時を境に身も心も三つに分離をいたしました。立烏帽子という天の魔焰と、大嶽丸という鬼神、そして私でございます。大嶽丸は立烏帽子が自らの身を分け与え、鬼神としました」
「なんと……」
鈴鹿の話は篁の想像を超えたものであり、篁もすべてを理解できたというわけではなかった。ただ、わかったことは、大嶽丸という鬼神が生み出されてしまっているということだけは確かだということだった。
「篁様は、大嶽丸を討ち取るおつもりで?」
「大嶽丸が悪であるならば、討ち取らねばならん」
「わかりました。微力ながら、この鈴鹿も協力いたしましょう」
鈴鹿はそう言うと、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
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