両面宿儺

両面宿儺(1)

 弟である小野おのの千株ちかぶが篁を訪ねてきたのは、湿った空気が肌にまとわりつくような暑い夜のことだった。


「千株が訪ねて来るなんて、珍しいこともあるものだ」


 篁は家人にそう言ったが、その口調は嬉しそうであり、弟思いの兄であるということを現していた。

 質素ながらも酒席の用意をした篁は、いつものように庭の見える縁側に腰をおろした。


「父上や母上は元気にしているか」

「はい。それはもう」

「そうか、それは良かった」


 篁はそう言うと、千株の盃に酒を注ぎ、自分も盃に唇を近づけた。

 この頃、篁と千株の父である小野おのの岑守みねもりは大宰府に赴任中であり、多禰たねのくに大隅おおすみのくにに編入させるなどといった活躍を見せていた。


「して、千株。本日は、なに用でやって来られた」


 酒がだいぶ進んだところで、篁は千株に問いかけた。

 現在、千株は父と共に大宰府で暮らしており、父の使いとして大内裏へとやって来たついでに立ち寄ったとのことであったが、本題は別にあると篁は見抜いていた。


「やはり兄上は千里眼をお持ちのようだ。隠し事は何もできん」


 少し酔った様子の千株はそう言うと、盃を置いて真剣な顔になった。

 その顔つきに篁は嫌な予感を覚えた。


「なにか、あったのか」

「リョウメンスクナ」


 千株は小さな声でその言葉を呟いた。


「なに?」


 聞き返した篁に、千株は諦めたようにゆっくりとした口調で言った。


「兄上は、両面りょうめん宿儺すくなというものをご存じか」

「鬼神であろう。我がご先祖様が退治したという」


 両面宿儺とは、仁徳にんとく天皇の頃に飛騨地方に現れたという、異形の鬼神の名前であった。その姿は恐ろしいもので、一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いている。胴体のそれぞれに手足があり、力強く軽捷けいしょうで、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いたといったことが日本書紀には記されている。

 その両面宿儺を朝廷の命を受けて退治したというのが、武振熊たけふるくまのみことであり、その武振熊命は、篁たち小野家の祖であるとされていた。


「その両面宿儺がどうかしたのか」


 篁は嫌な予感を拭い去ることができず、千株に問いかけた。


「兄上は昔から、あやかしが見えるなどと申されておりましたな」

「それと何の関係があるというのだ」

「私は鬼神などという者の存在は信じておりませぬ。しかし……」

「なんじゃ、早う申せ」

「両面宿儺を名乗る者に妹をさらわれました」

「なんと……」


 篁は絶句した。篁と千株には年の離れた妹がひとりいた。一緒に住んでいた頃は、よく篁もその妹を可愛がっており、妹の方も篁によく懐いていた。


「父上は何と?」

「小野家の問題であるから、兄上に相談せよと……」

「しかし、両面宿儺などというのは、何百年も前の話だぞ」

「ですから、私は鬼神などという者は信じておりませぬ。どこぞの誰かが、我が小野家に対して嫌がらせをしているのです」


 千株は目に涙を溜めながら篁に言った。


「わかった。その話は、この篁が引き受けよう。千株、お主も力を貸してくれ」

「もちろんです」


 その夜は、そこで酒を飲むのを止めにした。もはや飲めるような気持にもならなかった。

 篁は家人に言って膳をさげさせて、千株の床を用意させた。

 そして、千株が眠ったのを見届けると、家人に起こさぬようにと告げてから、篁はこっそりと屋敷を出た。


 向かう先は決まっていた。六道辻である。

 鬼のことは、鬼の総大将に聞いた方が良いだろう。そう考えたのだ。

 篁は六道辻の井戸の井桁に足を掛けると、中を覗きこんだ。

 あるのは漆黒の闇だった。

 本当にここが冥府へと通じているのだろうか。

 何度飛び込んでも、その不安が頭をよぎる。もし、ただの井戸だったら、どうなってしまうのだろうか。

 そんなことを考えながら、篁が井戸の中を覗き込んでいると、不意に誰かに背中を押されたような感覚があった。

 慌てて篁は振り返ろうとしたが、すでにその時には篁の体は井戸の中へと落ちていっていた。

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