地獄の沙汰(8)

「また夜中に出かける」


 家人にそう伝えた篁は自室に籠って筆を執った。

 ひさしぶりに会った姫の顔を思い浮かべながら、いくつか歌を書き、少しだけ眠った。

 夜の帳が下り、辺りが暗くなったころ、篁は再び大内裏へと足を向けた。


「行くか」

「行こう」


 朱雀門の前で浄浜と落ちあい、そのまま藤原有統の屋敷の方角へと歩きはじめた。

 浄浜によれば、あの屋敷は常世とこよへの道を掠めて建っているのだという。ただ、あの屋敷を有統が建てる際に、誰かが屋敷に結界を張ったため有統自身には何の被害も出ていないとのことだった。


「そこの角を曲がったところだ」


 先を歩いていた篁は立ち止まり、浄浜にいう。

 浄浜も心得たとばかりに、無言で頷く。


 靄のようなものが立ち込めていた。

 空気も妙に生暖かい。

 篁は、あの臭いを嗅ぎ取っていた。


 辻に差し掛かったところで、どこかから犬の遠吠えが聞こえてくる。


「来るぞ」

「ああ」


 靄の中に蒼い炎が見えた。鬼火である。

 篁は足を止めると、背負っていた弓を手に取った。


 地響きがした。


「下がられよっ!」


 叫ぶように篁が言い、浄浜のことを突き飛ばした。

 その刹那、それまで浄浜が立っていた場所に毛むくじゃらの足が降ってきた。


「面白きかな、面白きかな」


 姿を現したのは、篁の倍ぐらいはある大きさの鬼だった。

 顔は、その辺にいるような野犬やけんと変わらぬものであるのだが、水干を身にまとい、頭には烏帽子まで被るという奇妙な姿なのである。

 その奇妙な姿に篁は戸惑いを覚えていた。

 こいつが狗神と呼ばれている狗頭の羅刹なのだろうか。

 どこか、今まで見てきた鬼たちとは違っていた。他の鬼たちよりも、禍々しいものを身にまとっている感じがあった。


「お前が狗神か」


 浄浜がその物の怪を見上げるようにして言った。

 すると狗頭の羅刹こと狗神はギロリと浄浜のことを黄色く濁った眼で睨みつけた。


「わしの名を気安く呼ぶ者がおるな。ほう、陰陽師か。それに弾正台の……小野篁。奇妙な組み合わせじゃわい」


 そう言って、狗神は笑い声をあげる。

 狗神が笑うたびに、口から吐き出された蒼い炎が燃え上がっていた。


「式神を降臨させますので、篁殿はお下がりを」


 そういうと浄浜は人形ひとがたの紙を取り出し、息を吹きかけた。

 浄浜が意味不明な言葉をぶつぶつと呟く。おそらく咒言じゅごん真言しんごんのようなものだろう。

 すると人形が鳥のような形に変化する。それは大きな鷹だった。

 鷹は天高く舞い上がり、狗神へと襲い掛かる。


「愚か者め。このような式神如きで、我を倒せるとでも思ったのか」


 狗神は毛むくじゃらの腕を振ると、突っ込んできた鷹を払い落した。


「ならば、これはどうかな」


 浄浜は更に人形を数枚取り出し、同じように息を吹きかける。

 次に現れたのは、武装した侍たちであった。

 侍たちは弓を引き、狗神に向けて矢を放っていく。


「小賢しい、小賢しいな」


 狗神は水干の袖を振り、飛んできた矢を払い落とす。

 こちらもあまり効果はないようだ。

 この状況に浄浜は舌打ちをすると、また懐から人形を取り出した。


「篁殿、すまぬが少し時間を稼いではもらえないだろうか。もっと強力な式神を降ろすのに少し時間が欲しい」

「わかった。出来る限りはやってみよう」


 篁はそう言うと、狗神の前に立ちはだかり、腰に佩いている太刀を抜いた。

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