地獄の沙汰

地獄の沙汰(1)

 雨の降る夜のことだった。

 篁が屋敷で寝ていると、どこかから自分を呼ぶ声がする。


「もし、もし、篁様、小野篁様」


 布団から起き上がり、太刀を左手に持つと篁は声のする方へと顔を向けた。

 声が聞こえてくるのは玄関の方である。


「もし、篁様」


 声は次第にはっきりと聞こえるようになってくる。

 女の、か細い声だ。

 しかし、その姿はどこにも見えない。


「誰かいるのか」


 篁は誰もいない玄関でひとり声を掛けた。

 静まり返った屋敷の中では、雨の降る音だけが聞こえている。


「わたくしめにございます」

「誰だ。名乗らなければ、わからない」

「失礼いたしました。わたくしめは、とあるお方の屋敷で働かせていただいていた女房でございます」


 その言葉に篁はピンと来た。

 この女は、あの竹藪で殺されていた女なのだと。


「なるほど。して、こんな夜更けに何の用だ」

「これより、わたくしめは冥府へ参ります。閻魔大王様の裁きを受けなければならないのです。そこで篁様にお願いがございます」

「どんなことかな」

「どうかわたくしめを地獄へ送らぬよう、閻魔大王様に口利きをしてはもらえないでしょうか」

「それは無理な相談だ。私には何の権限もない」

「そこを何とか……」

「無理なものは無理だ」

「そんな……」


 女が泣きそうな声を出す。

 困ったな、と篁は思った。いくら死人とはいえ、女性を泣かすというのは篁の趣味ではなかった。そこで篁は、代案を出すことにした。


「だが、一緒に地獄の門の前まで行ってやることは出来る。それでどうだろうか」

「本当でございますか」

「ああ」


 篁は出掛ける支度を整えると、そっと屋敷を抜け出した。

 女の姿はまったく見ることができないが、ぼんやりと青白い鬼火がふわふわと浮いているのが見える。もしかしたら、これが女の魂のようなものなのかもしれない。篁はそんな風に理解した。


 六道辻までやってくると、なんだか妙な気配があった。

 篁は何かがおかしいと思いながら、手を腰に佩いている太刀がいつでも抜ける場所に置いた。


「さあ、篁様。共に井戸へ入りましょう」

「うむ」


 篁は井桁に足を掛けると、井戸の中を覗き込んだ。

 いつもながら、井戸の中は闇だった。何度かここに飛び込んではいるが、何度やっても嫌なものだった。


「ささ、篁様」


 その言葉に後押しされ、篁は井戸の中へと飛び込んだ。

 ふわりと身体が浮くような感覚があった。

 だが、次の瞬間には、すぐに地へ足が着いていた。

 やはり何度やっても慣れないものだ。篁はひとり苦笑いをすると、前に見える朱色の門に向かって歩きはじめた。


「おい、篁。何しに来た」


 行く手を塞ぐかのように、篁の前に牛頭ごずが立ちはだかった。

 牛頭は右手に大きな鉄の棒を握っている。何かあれば、それで罪人の頭を叩き潰すのだろう。そんな牛頭の姿が安易に想像できた。


「閻魔大王に会いたい」

「大王は忙しいんだ」

「私が来たと伝えてもらえないか」

「忙しいといったのが聞こえなかったか」


 牛頭の声が怒気を含んだものに変わった。


「よせ、牛頭」


 そこへやってきたのは牛頭の相棒である馬頭めずであった。

 馬頭も牛頭と同じように鉄の棒を持っている。


「なぜじゃ、馬頭」

「閻魔大王がお会いになるそうだ」

「え?」

「お前の声がでかいから、門の中まで聞こえたそうだ」


 笑いながら馬頭はいい、門のところまで歩いていく。

 この巨大な門は牛頭馬頭の力を合わせて初めて開けることができる門なのだ。

 さっさと来い。馬頭は牛頭にいい、ふたりで門を開けた。


「おい、篁。次はこうは行かないからな」


 門を通って行く篁の背中に、牛頭は言葉を投げた。

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