宴のあと(3)

 その日、非番だった篁は自室にもって、書や歌を書いていた。

 しかし、筆が乗らなかった。

 なぜだかわからないが、集中力に欠けている。

 どうしたものか。

 篁は筆を置くと障子を開けて、庭の木に目を移した。

 あの晩、会った姫はどこの公卿の娘だったのだろうか。

 ふと、木から舞い落ちていく葉を見ていたら、あの時見た姫の笑顔が浮かび上がってきた。

 もう一度、会えるものなら会いたいものだ。

 篁はため息をそっと吐くと、書の道具を片付けた。


 夕方になり、家人が食事の支度が出来たと呼ぶまで篁は自室に籠もったままだった。

 特に何をするというわけでもなく、ただ板の間に寝そべって天井を見上げている。

 さすがの家人も心配をして篁に声をかけた。


「どこか悪いのでございますか」

「いや、そんなことはない」

「そうですか。それならば、良いのですが」

「ああ」


 篁はそう答えたものの、どこか心ここにあらずといった様子だった。


 夕食は、少量の米と麦を炊いた粥と川魚の干物、それと茄子の漬物であった。

 いつもならば、粥を椀に二杯ほど食べる篁なのだが、その日は一杯食べただけで食事を済ませてしまった。

 やはり、どこか具合が悪いのではないだろうか。

 家人は心配をしたが、当の篁はまた自室へと引きこもってしまった。


 その夜、篁の屋敷を訪ねてきた者がいた。

 格好は直垂ひたたれ小袴こばかま、頭には萎烏帽子なええぼしという男性の格好ではあったが、顔はどこからどう見ても女であった。


「小野篁様に文をお持ちいたしました」


 妙に丁寧な口調で話すこの男装の女のことを家人は不審に思ったが、ちょうど自室から出てきた篁がその文を受け取った。

 篁には、その女の顔に見覚えがあった。あの夜、篁に助けを求めてきた女だった。


「もしよろしければ、お返事をいただきとうございます」

「わかった。しばし、お待ちを」


 篁は早足で自室に戻ると、受け取った文を広げてみた。

 そこには女性らしい文字で先日の礼が書かれており、その文字を見ただけで篁の脳裏には、あの時の姫の笑顔が蘇ってきていた。

 筆を執った篁は、先ほどまで何も書けず悩んでいたのが不思議なぐらいにすらすらと文を書きはじめた。

 そして、返事を書き終えた篁はそれだけでは飽き足らず、今の自分の気持ちを和歌にしたためて、文と一緒に訪ねてきた女に渡した。


「確かにお受け取りいたしました」


 丁寧な口調で男装の女は言うと、篁の屋敷を後にした。

 一瞬ではあったが、あの女の後をつけて行って、どこの屋敷から来ているのかを確かめたいという気持ちが篁の中で芽生えた。しかし、そんなことをすれば、姫に嫌われてしまうだろうと思い直し、その気持をぐっと押さえた。


 それから数日後、またあの女家人が篁の屋敷を訪れた。

 今度は昼間であったため、格好は男装ではなかった。どうやら、前回の男装は夜間の外出のための用心だったようだ。

 女家人は、篁に文と和歌の返事を書いたものを渡し、また篁からの返事を受け取って帰っていった。

 そんなやり取りが数日続いた。

 やり取りが続けば続くほど、篁の中で姫に今一度お会いしたいという気持ちが募ってくる。

 しかし、そこは我慢しなければならないと篁はおのれに言い聞かせていた。


 ある日、巡邏をしている時のこと、篁は少し先に見覚えのある牛車が止まっていることに気がついた。それは見間違うことはない、あの姫が乗っていた牛車だった。

 牛車の簾は前後共に下りていて、中の様子を伺うことはできない。

 場所はちょうど朱雀門の前。ここから先は大内裏となる。

 もし牛車が朱雀門の向こう側に用事があって止まっていたとするのであれば、姫は相当の身分の公卿の娘なのかもしれない。

 あまりジロジロと見るわけにもいかず、篁は横目で牛車を確認しながらも、その脇を通り過ぎた。


 その後も何度か姫との文のやり取りは続いたが、ある日を境にその文は途切れてしまった。

 それなりに篁は落ち込みもしたが、縁のなかったことだと思うようにして、姫と文のやり取りをしたひと時を忘れることにした。


 屋敷の庭に咲く梅の花が散り始めた頃の出来事だった。

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