宴のあと(2)
「もし」
篁が辻を曲がろうとしたところで、闇の中から声を掛けられた。
若い女の声だった。
「どうかなされましたか」
警戒をしつつも、篁はその声が聞こえた方へと顔を向けた。
しかし、そこは闇が広がっているだけで、何も見えない。
「
「それはお困りですな」
「牛車の付の者は女ばかり。どうにもならずに困っております」
「わかりました。そこまで案内してください」
闇の中にちらりと女の背中が見える。篁はその背中の後を追った。
少し離れたところに、牛車が停まっているのが見えた。
牛車の御簾は降りており、引き手のはずの牛の姿はどこにもなかった。
「男の方を連れてまいりました」
先を歩く女がそういうと、牛車の周りがぼうっと明るくなった。
松明の灯りを右手に持った別の女家人が牛車の横に立っている。
「どうなされたのですか」
「牛車を引いていた牛が突然暴れだして、逃げてしまったのです」
篁の問いに、松明を持った女家人が答えた。
「それは困りましたな。どちらの御屋敷の方でしょうか」
「申し訳ございませんが、それは……」
「しかし、御屋敷の場所を聞かなければ、そこまでお連れすることはできません」
「どこかから、別の牛車を借りてくるというわけにはいきませんか」
「この時刻では、どこの屋敷も開けてはくれないでしょう」
篁の言葉に女家人は困った顔をしてみせた。
「もしくは、どなたかを御屋敷に走らせて、別の牛車を持ってくるとかは」
「
「では、私がここをお守りしましょう。その間に行かれてはいかがか」
「この夜道を女ひとりで行けと申されますか」
「それもそうですね……」
これは困ったぞ。篁は内心思った。
「やはり御屋敷を教えていただき、私が行ってまいりましょう」
「いえ、それはできませぬ」
「ではどのようにすればよろしいかな」
半ば呆れ気味に篁は女家人にいった。
「もうよい」
牛車の中から、女の声が聞こえた。
篁が牛車の方へと顔を向けると、御簾が開けられ、中から着物姿の若い女が顔を出した。
「われは、このお方に屋敷へ連れて行ってもらう」
女はそういうと、牛車からひょいと飛び降りた。
小柄な女だった。歳は童というほどでもないが、若いことは確かだった。
「偉丈夫よの」
篁のことを見上げるようにして女はいう。
「ひ、姫様」
「よい。下がっておれ」
強い口調で姫と呼ばれた女は女家人にいうと、女家人は頭を下げて一歩後ろにさがった。
「そなた、名を何と申す」
「小野篁と申します」
「篁か。良い名じゃ」
そういって姫は笑った。
「では、行くか」
姫はそういうと、松明を持った女家人ふたりに先を歩かせ、自分は篁と並ぶようにして歩きはじめた。
平安時代の姫の衣装といえば十二単が有名であるが、十二単は平安中期の正装であり、普段から姫が十二単を着ていたかといえば、そうではなかった。基本的には、宮中などの公の場でのみの着用であり、限られた場合でしか十二単は着られていなかったそうだ。
暗い夜道を歩く間、篁は無言だった。
正直なところ、何を話していいのかもわからなかった。
隣を歩く姫と呼ばれる人物は着物からして、高貴な身分であるということがわかった。
どこぞの公卿の娘なのだろう。
姫の方は、篁に興味津々らしく、無遠慮に篁のことをジロジロと見ては色々と質問をしてきた。
「その太刀は本物なのか」
「髭はあまり伸びていないのう」
「どうすれば、そんなに大きな体になるんじゃ」
などなど。篁はその姫の質問に対して、丁寧にすべてを答えながらも、周りへの警戒を怠ることはしなかった。
しばらく歩いたところで、前を歩く女家人が足を止めた。
「もうここまで来れば、大丈夫です。小野様、ありがとうございました」
この周辺には公卿の屋敷がいくつかあることを篁は知っていた。
しかし、この姫がどこの公卿の娘なのかわからないように、女家人は屋敷の手前で歩みを止めたのだ。
できた家人だ。篁は感心していた。
「こちらこそ、大したお力になれず、申し訳ない」
「篁、われは楽しかったぞ」
「私も楽しかったです」
「そうか。それはよかった」
姫はにっこりと笑った。どこか吸い込まれそうな笑顔だった。
「では、私はこれで」
篁はそういって頭を下げると、姫たちに背を向けた。
おそらく女家人は、篁が見えなくなるまで屋敷に入ろうとはしないだろう。同じ立場であれば、自分もそうするはずだ。
気を使って篁は速足で歩くと、つぎの辻の角を曲がった。
夜空に浮かぶ月の姿は、とても美しかった。
なにか良い歌が書けそうだ。
篁はそんなことを思いながら、家路を急いだ。
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