六 待てと言われて待つ奴はいない
例の買収した見張りからもらった地図を広げる。
この塔に連れてこられたときにも思った通り、ここは王宮の隅だ。方角でいうと、北西である。
一口に王宮といっても、妃嬪の暮らす後宮と政治の場である宮廷がある。
最初、鑭依は後宮の西門から馬車で直接入った。そして敏寧公主に会ったのは、後宮と宮廷を繋ぐ御殿だったのだ。
その御殿の奥には扉があり、そこを通って宮廷に入り、塔に監禁されたわけだ。
つまり、今の鑭依は正確に言えば宮廷内にいるのだ。
これも、幸運なことであった。もし男子禁制の後宮内に囚われていたら、まずあの素敵な見張りに会えなかったし、脱出も難しくなっていただろう。
見張りとの会話を思い出す。
********
「まず、岑軍はどう動く?岑軍にとって重要なことは、王宮内を制圧したあと、王族を捕らえること。逆に、捕らえられず逃げられると厄介なことになりやすい」
それは理解できる。連は全体的に丸い形だ。そして、国都はかなり西より……岑寄りである。
国都の制圧と、連の滅亡は同義ではない。王族を捕らえきれず、東の有力者、かつ王族への協力者の方へ逃げてしまうと戦いが長引いてしまうからである。
国が国として機能している限り、滅ぼすのは並大抵のことではない。ある程度の軍事力が必要になる。
岑軍は大軍だ。兵站や士気の問題もあるから、長引くことは避けたいだろう。
「だがな、王族は早く逃げ出しすぎるのは良くないことなんだ」
「え、何で?」
王在りての国。国在りての王。そういうものだと思っていた。
絶対的な君主が存在しないという国もあると聞いたことがある。人民によって選ばれた代表者が政の一切を取り仕切ると。
またそのような国は、人は神の下、皆平等であり、生まれながらにして法に縛られることのない、誰にも犯すことのできない自由に生きる権利が保証されているとも謳うとか。
そんなことはありえない、と鑭依は思う。
皆平等であるという世界。虐げられてきた人々にとって、それはひどく甘い誘惑だろう。
かつての自分なら、その誘惑に自ら投じてしまったかもしれない。
今でこそ分かることだが、そんなことは不可能である。
なぜ、奴婢という身分、階級が一定以上存在しているのか?
たとえ自分が下賤の者であると甘んじて受け入れていたとしても、人は本質的に誰かしらの上に立っていたい。それは生まれ持ってした性である。
人口の七割以上を占める、庶民、いわゆる農民、商人、工人。
文官・武官などの役人に、官位がない者、または民兵なども含めば二割。残りの一割の内、三分ほどが王公や王族。
そして最後の七分を占めるのが奴婢だ。
奴婢制度の撤廃は簡単だ。だが、そのあとの奴隷産業に関わる者たちの混乱は目に見えている。
そして人口の七割を占めている庶民に、自分は最下層ではないという「満足感」を与えることができ、君主制度への不満を起こさせない。
そんな便利な存在を、わざわざ無くす者はいるのか?いや、いない。
金の採掘される鉱山があったとしよう。その近くに蟻の住処があったとしても、誰も気にはしない。あっけなく、蟻は押しつぶされる。
奴婢たちは、いわばその蟻なのだ。
それはともかく。
見張りの言葉を不思議に思って聞けば、苦い顔とともに教えてくれる。
「残された者の気持ちだな。王に見捨てられたと思えば、当然戦意は喪失する。最悪、王族がどこに逃げたか、重要なことを教えるかもしれん。言い方は悪いが王族側としては『裏切り』行為となり、時間稼ぎにもならんだろうな」
「言い方は悪い」……か。それはこの見張りは「見捨てられた者」の気持ちがよく理解できたからの言葉だろう。
「ま、だから、王族としてはできれば『粘って、必死に戦った。でも無理だった。不承不承逃げます。本当にすみません!君たちの犠牲は忘れない!』……という形にしたい」
――この男、中々面白い。
鑭依は目の前で一人劇場を見せられることになってしまった。
「だけど連王は正直、賢い王とは言い難い。『自分は王だから最後まで逃げん!!』と意地はっているらしい」
そしてこの見張り、中々の情報通のようである。
(でもねぇ)
上がしっかりしてくれなきゃ、下は大変だろう。上の尻拭いに走り回る目になるだろうし。
「王だから逃げん!」じゃない。「王だからそこそこのところで逃げてください!」だろうが。
すぐ逃げてもだめ、最後まで逃げないのもだめ。王族というのも大変そうだ。爛依には縁がないことだが。
「んで、言っておくけど、王宮のやつらはまだ岑軍は来ない、時間はあるって思ってやがる」
「……実際のところは?」
「無いだろ、そんなもん。この連はまともな奴はほとんど残っていないからな」
「やっぱ、三年前の、
漢微将軍とは、かつてはこの連の英雄だと讃えられ、王公にまで封じられた者だ。だが、宮廷のいわゆる覇権争いに巻き込まれ、(今では無実だったというのが定説である)罪に問われ、三年前、処刑された。
だが話はそれで終わらない。漢微将軍の処刑に激怒した部下や信奉者らが、反乱を起こしたのである。
それは時間がかかったものの鎮圧されたが、生き残った者は岑や奏に亡命した。
漢微将軍は誰からも信頼され、降伏した者の生命は必ず助けた、慈悲深い人物だったとか。
反乱鎮圧後も、連に愛想を尽かした将軍やそれ以外の有力者も、他国へと流れてしまっていた。
国都を出ればまだしも、今の宮廷は荒れまくっている。
この見張りの小父さんのように、優秀な人間も一部いるのだろうが、そういった者の大半は出世しようというやる気がない。理由は様々ではあるが。
「まぁ、何にせよ、俺が岑の総大将なら、最低限必要な数の精鋭だけ率いて、さっさと国そのものを落とすな。侵攻する側の岑にとっては速さが勝負だから」
侵攻が速ければ速いほど、連は対応がしきれなくなる。それは岑にとって最高の展開だ。
小父さんはしゃがむと懐からいくつかの小物を取り出し、それぞれ床に置いた。
そのうち硯を置いたところが、今いる塔なのだという。
「この塔は宮廷内だ。後宮じゃない。今から言っておくことを、ちゃんと聞いておけよ」
「…脱出の方法まで教えてくれるの?」
まさかと思って聞けば、あっさりとうなずく。
「白玉の礼だ。これくらいはしてやる」
そう見張りは言うが……。
あれ、おかしい。
一瞬、頭をひねる。微かな違和感が積もって、見過ごしてもいいのかわからない。気持ちが悪い。
(…まぁ、いい)
この違和感について、「今」考える必要はない。この状況下において大切なことは、この見張りが教えてくれる脱出方法をきちんと覚えておくことだ。
「この塔を出て南の方角に行くと、森のような場所がある。一昔前はきちんと管理されていたみたいだが、今はかなり荒れている」
宮廷内も大荒れで、そりゃ森まで手はまわらないだろう。
そう思ったのだが、どうやら別のところに理由があった。
十年前、手入れをしようと思って森に入っていった庭師は、そのまま出てこず、行方不明になったとか。
彼を探しに森に入った者たちも、彼を見つけるどころか、探しに言った者たちも戻ってくることはなかった。
ついには行方不明者は二十人を超え、時の王は森への立ち入りを禁止したという。
そんな森なら燃やしちまえば良くね?と思わなくもないが、なぜそのときの王は森を残したのか、今に至るまで残されているのはなぜか、未だよくわからない。
閑話休題。
単刀直入に言おう。――この森は王宮の「外」につながっている……らしい。
(いや、何でそんなことまで知ってんのよ?)
なんとこの見張りの小父さんは、命知らずなのか何なのか、森に入ったのだ。
王が立入禁止したというのだから、その禁を破れば当然重罪である。生命欲しさに出世を避ける人がすることか?
「そんなわけで、森に入って南へまっすぐ進めば、王宮の外に出ていける。細いが一本道だから、迷うことはないし、連の王宮の奴は森まで入らんから、すくなくともそいつらの目はごまかせるだろ」
「……一応、地図でもくれます?『白玉』、あれ高く売れますけど?」
「わかった、……嬢ちゃん、だいぶ図々しいな」
彼はそう言いながらも、にやりと笑った。
********
そして、現時刻に戻る。
見張りの地図を見て最終確認し、南の方へ静かに走り出す。
辺りの物音、声が大きくなってきている。おそらくだが岑軍が近くまで迫ってきているのだと察したのだろう。
近くの植え込みに隠れたが、松明を持った兵士たちが走り回り、いつこちらに気付くかひやひやする。
今のところ、植え込みからこっそり顔だけのぞかせて見ても、慌ただしくてこちらを見る様子はない。
ふぅ、と一呼吸しつつ、森に目を向ける。
やはりというべきか、先に見える森の付近には、誰もいなかった。
こそっと音をたてないようにしつつ、植え込みから抜け出す。
(…こっち見ないでね〜!)
そう祈りつつ、鑭依なりに全速力で走る。
「立ち入り禁止」と書かれた札があるが、そんなことはどうでもいい。
が、ばっちりこちらを見た兵士と目が合った。
兵士も「んん!?」となってこちらを見るし、見つかった以上全速力で爛依も逃げるほかない。
「そこの、小娘ぇっ!待て!おい、逃げるな!」
――待てといって待つ奴がどこにいる!
少なくとも鑭依はそんな変な人間ではないが?
明らかに鑭依はおかしな人間である。王宮のこんな辺鄙な場所にいる、まだ幼いかつ小汚い胡服を着た娘など、怪しさ満点である。
当然、兵士たちに追いかけられる。
(っいやぁぁ、来ないでぇぇぇ!!!!!何で来んのよ!!??)
いや、怪しい人間だからですね。……それくらいはわかっている。
なんか、絵面的に怖い。恐怖以外の何物でもない。
森には、侵入を防ぐための柵がある。少々高いが、必死によじ登る。
火事場の馬鹿力というが、まさしくそれだった。
が、もとより鑭依の身体能力は高くない。いくら馬鹿力といったところで、もと
もと
とはいえ、均衡感覚の無さはひどすぎた。
結果、本日二度目、均衡感覚の無さを実感することになった。
柵を登り、森の方へ越えたところまでは良かった。だがそこでずるりと足を滑らせて、一気に均衡を崩してしまったのだ。
案の定、どしゃっ、と地面に墜落する。
(……い、たぁぁぁ…!!!!!)
ねぇ、悲鳴を我慢したこと、誰か褒めて。
ちなみにこのときの鑭依は、すでに見つかっているため、別に我慢する必要はなかったことには気付いていない。
唯一、良かったことを述べれば、この柵の高さはせいぜい三尺だったことである。更に追加してしまえば、落ちたのは足からであった。しかも、足の裏と膝裏にじーんという痛みはあるが、至って大きな怪我もない。
全くもって、変なところで運がいい。
――ガシャァン、と金属と金属がぶつかり合う激しい音。
刹那、ひんやりとした冷たい何かと、吹き抜ける風が頬をかすめた。
ひりつく熱さと、つつー、と生暖かい液体が肌をすべる。
血だ、と気付いたときには、反射的に地に身を伏せていた。
再び、風を切る音が身体の上で鳴る。
「っくそ、この餓鬼ぃっ!逃げるなぁぁぁ!!」
兵士は柵の隙間から槍を突き出していた。一度目の突きが刃の部分が鑭依の頬を裂いたのだ。
『死』という恐怖が、一気に襲いかかる。
「……っ」
怖い。この男は本気で鑭依を殺しにきている。
これまで以上に生命の危機にさらされたことは無い。
距離を持ってよく男を見てみれば、鑭依の監視をしていた塔の兵士の一人である。ここまで必死になるのは、鑭依に逃げられたら管理責任に問われるからか。教えてあげたい。国が滅びたら責任を問う人はいないと。
必死の人間に追いかけれれたら、それはそれは、と―――っても、まずい。
こちらがいくら必死でも、相手は並の男である。
足がもつれて転けそうになりながらも、ひたすらに足をただ動かす。
息が苦しい。かつて無いほどの速さで走っているだけではなく、いつ死ぬかわからないという状況にさらされ続けているのも。
―――怖い。怖い怖い!
何人かの兵士が鑭依を追いかけている。すぐ近くに、ッダ、ダッダッダッと追いかける音がする。段々と距離が縮まって、暗いはずの森が、松明の光に照らされて明るくなっていく。
(……っは、)
それどころか。
鑭依の目の前にある、無数の分かれ道。
―――細いが一本道だから、迷うことはない……。
確かにあの見張りの小父さんはそう言っていたのに!!!!
(……どういうこと!?)
わけがわからない。どの道に進めばいいのか、そもそもなぜ一本道どころか何本もの道があるのか!?
今すぐ、小父さんに怒鳴って問いただしたいが、そんなことはできない。
すぐ近くまで追手は迫っている。迷っている暇はない。
(っあぁぁー、も――っ!)
――許さんぞ、あの見張り!
まぁ、もしそこに見張りの小父さんがいたら、「許されないからって俺が困ることあるか?」と言っていたかもしれないのだが…。
半ば自棄糞になって、一番右端の道へ走り出す。
この道がどこにつながっているのか、そもそも行き止まりかもしれない、何もかもがわからないままだ。でも、鑭依はとにかく進むしか助かる道は無い。
―――まぁ、分かれ道はたくさんあったけれど。
いや、ふざけている場合ではない……。
*******
いつのまにか、追手の足音も、松明の光もなくなっていた。
真っ黒に塗りつぶされた闇の中に、鑭依はただ一人いるだけだ。
無我夢中で走っていたから、自分がどこにいるのか全然わからない。完全完璧に迷子である。
一度立ち止まって、ゆっくりと息を整える。
上を見上げたら、目に入るのは綺麗な月。今のおおよその時刻を思い出して場所を探ろうと思ったが、どれだけの時間がたったのか、まったく想像できない。
月の位置から推測するに、おそらく南〜西の方角を自分は向いているのだろうが、自信がない。
気が動転すると、人というのはその当時の記憶が上手く思い出せないという。正しく鑭依はそれだった。
(…どうしよう)
幸い、荷は無事である。保存が効く食べ物も入れたから、水源さえ確保できれば最低でも三日は粘れるだろうか。
日が昇れば、具体的な方角がわかる。そうして、岑軍に接触して保護を頼むのが一番安全だ。
いくら軍とはいえ、どの国においても一般人に手を出すことは基本的に軍法にて禁じられている。ましてや、今の鑭依は明らかに「王族」という風貌はしていない。
そう思ったときだった。前方に小さく、だが確かに光が見えた。
あれは、岑軍の光か、それとも連側の者が持つ光か。
その光は、全く移動していない。連側ならば走り回っていると考えればいいのか。だというなら、岑軍の光と考えるべきか。
二つに一つの確率。それに賭けるか。
ごくりと生唾を飲み込むと、鑭依は静かにその光に向かって進んでいった。
こうしている間も、その光は動かない。光の方からは声も聞こえない。ただあるのは、風の音と遠くから聞こえる激しい戦闘の音、悲鳴、断末魔のみ。
やがて、木々を抜けた。
眩しい松明の光に、思わず目を細める。
ふわりと風はふいて、大きく『岑』と書かれた旗が靡く。
―――そこにいたのは、一人の女だった。
月光のような銀の長髪は風に揺れ、透き通るような白い肌に、しなやかな腕に、細い指に、美しい流線を描く首に絡みつく。
ゆっくりと振り向き、無感情にこちらを見る顔は、いっそ高慢なほどの美貌だった。
鼻筋の通った怜悧な顔立ちに、熟れた果実のような唇。
長い銀のまつげに縁取られた瞳は、満天の星空を映し取ったような、群青か、または瑠璃の玉のよう。
傾国の美女と言っても差し支えないほど―――、とにかく、今まで見てきた女の中で、一番の美しさだった。
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