五 見える未来、明日は筋肉痛
今、爛依がいるのは塔の最上階である。
そして、地面までの高さは目算ではあるが、おおよそ二十九、三十尺くらいだろう。
この
この階と塔の外には見張りがつかないが、下は各階ごとに見張りが二名。全部で六名いるから、その空きを突いて、階段を降りていくということは不可能であると考えたからだ。
消去法で窓からの脱出を選択したが、それも決して容易いことではない。
何の道具もなく、ただこの窓から下に飛び降りるのは無理だ。鑭依の身体では、間違いなく無事で済まない。窓自体が高い箇所にあるし、そもそも道具を、そして材料を手に入れること自体も難しいのだ。
とはいえ、そんなことではへこたれない。
夕餉を運んできた見張りに、こっそり
ここに鑭依を閉じ込めた人は、まさか見張りが買収されるとは思っていなかったのだろう。だが、現にできてしまったのだから、どうしようもない。
見張り曰く、「この国はもう無理」。「岑軍の勢いは全く止まらない」とも。
そして、概算だとこの国都に辿り着くのは明後日の未明頃らしい。
つまり、何もしなければ鑭依の生命もそこまでだ。おそらく、味方の兵士に裏切られた、という体にして鑭依を敏寧公主として岑に差し出し、本物の敏寧公主は脱出するのだろう。
見張りも多少鑭依に同情したのか、詳しい情報をくれたのだ。
「俺にとっちゃ、お前さんが脱出しようとしても関係ない話だ。上官がいなかったら見逃してやるよ」
更には、そう約束してくれたのだ。
やはり、惜しげなく白玉を差し出したのが良かったのかもしれない。白玉自体、純白の玉は高価だというのに、あれは更に透明度が高く高価である「羊脂玉」を使った櫛なのだから。
(さてと)
見張りから受け取った材料を手に取り、にんまりと鑭依は笑った。
決行は、明日の深夜だ。岑軍が襲う直前のごたごたに紛れ、脱出する。
*******
「……なんか嬢ちゃん、随分と楽しそうだな」
決行前の夕方。夕餉を運んできたのは買収した例の見張りである。
だが別に鑭依は楽しくない。ただ
「……小父さん、ここ、手伝ってくれる?」
梁に縄を通したいのだが、身長的に少々きつい。だから色々積み上げてその上に乗って作業していたのだが、あまりの均衡感覚のなさに落ち込む。
まぁ、丁度いい人材が来たので、遠慮なく頼むことにする。
「いや、いいけど。普通、俺に頼むか?仮にも見張りだぞ」
「櫛を受け取った地点ですでに共犯。……それで、例のブツは?」
この見張りには、もう一つ頼み事をしてあった。言っておくが、別に「ブツ」と言ったって、断じてそんな危険で怪しいものではない。
見張りは「なんか段々図々しくなってきているなぁ」とぼやきつつ、ぺらんと紙を渡してきた。
「ざっくりだがな。俺もここで働いていた期間長いし、我ながらうまくできたと思うぞ」
それは、この王宮内の簡易的な地図である。どこに何があるのか。気をつけるべきところはどこか。
(これは、これは)
「小父さん、すごいね。……分かりやすいわ、これ」
簡易的ながらも、必要な情報はこまめに書かれているし、とても見やすい。こっちの才能あるのではないか。要領も良さげだし、見張りなんかじゃなくてもっと出世できそうなのに。
なんともあれ、この人に頼って正解である。
「じゃ、俺は行くから。嬢ちゃんも頑張れよ」
「うん。小父さんもね」
やはり、この人も逃げる気満々だった。当然か。簡単に交渉に同意したし、世渡りが上手いのだろう。
そう考えれば、出世しない理由もわかってきた。単純に、本人が出世を望んでいないからだろう。
(よし)
急いで夕餉をかき込む。こんなときだが、塩味がきいた粥はとても美味しかった。隠し味は何だろうか?
*******
夜。真っ黒な闇の中、大きな月の光だけが頼りである。
はるか西の方から、ちらほらと火が見える。旗は見えないが、あれが岑軍だろう。
(急げ)
先程の失敗から学び、窓の下は崩れないように、かつ階段状になるように物を積んだ。こうすれば登りやすい。
まず、先に荷物を縄でくくり、降ろしておく。自分の脱出のために邪魔になってしまうからだ。
鑭依は用意した一本の縄の先端を、下へと垂らす。縄の先端には重石として花瓶を採用してある。あの花瓶、中々の重さだった。そして、片方の先端は扉に固定した。
つまり、房の扉→梁→窓(外)となっている。
幸運にも扉は外開きであり、花瓶の重さが窓側、すなわち逆の内側方向にかかるため、開けにくくなっている。見張りは塔の中にしかいない。よって、この房の扉を開けられないようにしたことで、更に脱出しやすくなったというわけだ。
鑭依の腰にも縄が結ばれており、その縄の先も輪となっていて、外へと垂れている縄に通っている。
これは命綱だ。だが、万全を期して、もう一つ命綱を用意した。
窓の横には、大きな管が通っている。これは高いところまで水を届かせるためのものであり、かなり頑丈だ。そして、この管は本来同じ長さの二本の管を繋げてつくられたものであり、つなぎ目の支えが塔にあるのだ。
もう一本、縄を腰に結ぶと、その先端を水管に通し、輪をつくる。
そして一本目の縄をつたっていくと、途中で二本目の命綱が水管の支えに引っかかる。そこで二本目の命綱を切り、そのまま先程と同じように、一本目の縄をつたって降りていけばいい。
万が一手を滑らせて落ちていっても、地面から半分の高さで二本目の命綱が引っかかる。二本目の命綱を切ったあとでも、その高さはおよそ十五尺。すなわち半分の高さ。それに、一本目の縄にかかっている命綱もあるのだ。
鑭依はそこまでの腕力がないが、この方法なら高確率で脱出できる。
衣は胡服に着替えた。もちろん調達担当はあの見張りである。更に、掌に布を巻いて、縄で擦れてもある程度は保護できるようにしてある。
「…よし、いくぞ」
びゅうびゅうと風が吹き付ける。花瓶が重石として上手く機能し、縄がぶらぶらと大振りになることはないが、それでもある程度は揺れてしまうだろう。
だが、そんなことは小事。今は生きるためにやれることはやるべきである。
意を決して、縄に手をかけ、両足を縄に絡みつける。そのまま縄の方に身体を近付けて、塔の窓から身体を離す。
今の鑭依は縄にしがみついている状態だ。ここから、少しずつ下に降りていくことになる。
やはり風があるため、ゆらゆら揺れる。掌に布を巻いて正解だ。縄が擦れ、隙間があいていた指に擦り傷ができている。保護しなかったらもっとひどいことになっていただろう。
命綱があるとはいえ、正確な体重と縄の強度の計算はできていない。故に、慎重に成らざるを得なかった。
やがて、二本目の命綱が水管の支えに引っかかった。ここで半分である。
当然ながら、この命綱を切らないと進めない。だが、切るためには最低でも片手をあける必要があるため、ここが一番下に落ちてしまいやすく、危険な箇所でもあった。
(……慎重に、気をつけて)
懐から短刀を取り出す。鞘を抜くのは大変なので、予め刀身を出した状態で、何重にも布で包んで入れておいたのである。こうすれば布を振り落とすだけで良い。
片手と両足で一本目の縄にしがみつきながら、右手で短刀を握り、縄を切り落とす。
ブチブチッと音を立てて、縄が切れる。切り落としたのは自分の腰に結んだ輪と、水管にかけた縄をつなぐところだ。水管に通した輪もいずれ朽ちて、地に落ちることになるのだろうが、それまでは残り続けることになる。
なぜ、そんなところに縄輪があるのか。いつか見つけた誰かは不思議に思うだろう。
さて、ここからあと、十五尺。落ちても怪我ですむだろうが、油断は禁物だ。
腕がけっこう痛いが、力をこめていないと急降下してしまう。ひたすら耐えて、耐えて、少しずつ降りる。
(はは、明日は筋肉痛になりそう)
「明日」を迎えられるように、生きられるように。
下を見れば、もうあと花瓶が大きく、はっきりと姿が見えている。
あと少し。油断するな。どこかで偉い人も言っていた……気がする。
人が失敗するのは、もう大丈夫だと油断しているから。危険すぎるところだと逆に怪我はしにくいのだと。
―――――こつん――……。
沓が硬いものにあたった。
花瓶だ。そして―――、地面。
はぁ、と身体の力が抜けかけて、いや、まだだと気を引き締め直す。
腰に結びつけた縄を解き、先に降ろしていた荷物を手に取る。
「塔」からの脱出は成功した。これからは、「王宮」からの脱出をしなければいけない。
それは、見張りもいず、周囲の警戒は最低限で良かった塔からの脱出とは違い、常に周囲を確かめなければいけない。難易度で言ったら、圧倒的に後者の方が上だ。
むしろ、ここからが肝心なのである。
だが。とりあえず、第一段階は突破である。
軽く埃をはらうと、鑭依は歩き出した。
*******
三十尺=9.5メートル弱
建物で言うと、三階か四階くらいです。今回は四階にしました。
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