三 ごめん、算盤さん
兵士は確かに「殿中省監」と言った。なぜそのような高級な身分の官吏が、わざわざ自分のようなたかが豪商の娘を出仕させるのか。
(一体、宮廷で何が起きている?)
それに、またしても勘が当たった。危急存亡の秋こんなときに出仕させるなんて、絶対にろくでもないことをさせられるだろう。
兵士の言葉も気にかかる。「紅の髪に、翠の瞳」。
殿中省監が出仕させたいのは蘇家の娘「鑭依」ではなく、「紅の髪に、翠の瞳」(に似た色素)を持つ娘ではないのか?
鑭依の危機管理能力が警鐘を鳴らしている。「関わらない方が良い。かなり危険、死ぬぞ」と。
何度でも言ってやろう。まだ死にたくない。
だが、鑭依の表情の変化に気付いた兵士は、とある大きな箱を持ってこさせた。馬車の中に積んであったのだと言う。
そして、理解した。これは命令なのだ。抗うことは決して許されない。
この蘇家を訪れたのは、兵士一人だけでない。馬は一騎ではなかった。兵士は箱を持って「こさせた」。馬車の音もあった。ならばその馬車の中にも、目の前にある箱以外に、人がいると考えるのは妥当だ。
兵士は箱の蓋を開く。ぎっしり詰まった連の貨幣。
眼をぎらつかせてそれを見る義兄。本当に分かりやすい男だ。
「……これは」
「出仕させることへの『危険手当』として、こちらを」
義兄はそれを、歓喜に震える手で受け取る。
随分と手が込んでいることだ。言われずとも義兄の答えは分かり切っている、
「
厄介者も追い払えるし、対価も大きい。五年間遊んで暮らせる、破格の金額だ。
(こいつ、阿呆かよ)
だが義兄は大切なあることに気付いていない。教えるべきか?
いや、こいつに言ってやる義理は無い。もう他人だ。たった今、自分はこいつによって売られたのだから。
こいつは既に金を「受け取った」のだ。それは了承を表す。
家人は、蘇家の主になったこの男に盾突くことはできない。
今ここで駄々をこねたところで、状況は覆らない。殺されはしないが、下手をすれば身一つで強制連行である。それは何が何でも避けなければいけない事態である。
見切りの良い諦めも必要である。
「鑭依よ。この兵士さまの言う通りにするように」
だが、自分はみすみす死ぬ気はない。
「分かりました。荷物を纏める時間をくださいませ」
―――さすがに、優しいお義兄さまは身一つで出ていけとは言わないでしょう?
嫌味も込めて、暗にそう言ってのける。
どんなに腸が煮えくり返っていても、貼り付けた微笑みで隠す。これは幼い頃からの癖でもあった。
「では」
憐み、同情、憤怒、いくつもの感情が混じり合った視線が自分に注がれていることを背に感じながら、急ぎ足で自室に戻る。
*******
鑭依が「鑭依」になったのは二年前。蘇家の娘になってからだ。
今度はどんな名になるのだろうか。
荷物を纏めるのもこれで最後になってほしいと、二年前の自分は願っていたというのに。
(いや、……長続きした方か)
ある時は、わずか七日で再び奴隷市場に戻ってきたのだから。
だが、その動作は手慣れたものだ。元々、そんなに荷物は無く、持っていける物も少ない。
自室にあるもののほとんどが、蘇家の娘となってから与えられたものなのだ。
くどいようだが、死にたくない。そして、今回は売られた先が先だから、危険であることは確実である。
だからこそ、荷物選びは重要である。
まず、貨幣。これは全く必要ない。
連は今、滅びるか否かという状況にある。そして七割ほどの確率で後者であると見込む。
滅びてしまえば、貨幣はただの嵩張る紙屑と化す。
逆に金塊や玉は、どこに行こうとある程度の価値が見込める、というわけだ。
だから、蘇康は阿呆なのだ。そんなことにも気付かない。
身体を動かしながら、頭の中でこの先のことを思い浮かべていく。
最低限の衣服は当然だが、まず必要なのは、路銀に成りえる物。それは軽くて、小型であるほど良い。
義父から与えられた物から適当に選ぶ。この二年間は、高価で質の良い物を見る機会が多く、そちらの「眼」はかなり養われた。
それから……。
(これは、忘れないようにしないと)
ほとんど使っていない一つの行李の中、隅にある細く古びた袋。
袋の口を開け、中のものを取り出す。
それは銀簪である。緻密に彫られた美しい模様や所々に填められた青水晶から、一級品であることが分かる。
何より眼を引くのは、簪の上部に填められた大きな玉だ。
初め、
青水晶がいつか見た澄んだ「川」の水とするならば、この美しく大きな玉は、未だ見たことのない、想像するだけの広大な「海」とやらの水だろう。
だが、これはただ美しいだけの簪ではない。
―――いやぁぁぁぁーっ、ははうえぇぇっ―――……!!!
気を失う前、最後に
ずっとずっと、前の記憶を思い出しそうになり、
再び簪を袋にしまい、荷物を整える。本当にここを出ていく、いや追い出されるのかと思うと、何だか不思議な気持ちになった。
わずか二年。身体で感じる時間もあっという間だった。だが、十三年しか生きていない少女において、考えてみればそれは長い時間だった。
自室を出、荷物を抱えて再び義兄や兵士たちがいる部屋に戻る。
「こちらへ」
兵士に
外門へ向かう途中、さぞご満悦な顔をした蘇康と目が合った。
「……父の分からぬ忌み子が。お前がいなくなってようやく清々するわ」
「……」
その通りだ。鑭依には生まれたときから父がいなかった。
父を知ることもないまま、母を七つのときに奪われた。
だから、純粋に嬉しかった。十二になってようやくできた父という存在が。
それを奪ったのは、この男なのだ。
見捨てたことを後悔していなくても、悔しいという気持ちはあったのだから……。
ぴたりと歩みを止めた鑭依を、皆が不審げに見る。だが、そんなことはどうでも良かった。
ずんずんと蘇康の方へ歩いていき、まっすぐ睨み返す。
「な…、なんだ……」
その問いには答えない。無言で荷物の中から算盤を取り出す。
(ごめん、算盤さん)
――そして、蘇康のはちきれんばかりに太った腹を思いっきり突いてやった。
っぐはぁ、と無様に転がる蘇康を見下ろし、あっけにとられている家人に目もくれず、更に足でぐりぐりと腹を踏んづける。
「…ねぇ、義父上を殺したの、あんたでしょ」
確信を持った言い方で問う。いや、この目で見たものは疑えない。
周りがざわめくが、そんなの知ったこっちゃない。
「…っ、なんっ、のことだっ、っぐぇ、しょうこっは、ないだろっ!!」
「そうだね。でも私、見てたから。あんたが昨日の卯の刻六時、義父上の私室で短刀で刺すのを」
瞬間、蘇康は怯えのようなものを目に浮かべたが、再び虚勢を張る。
「っは、何を言っている。義父上が倒れていたのは別館だ!第一、使われたのは短刀ではなく包丁だろう!それに刺されたのは昨日未明だぞ。嘘をついているのはお前だ!俺は未明、寝ていたんだ。従者もそのことを知っている!!」
(あー、本当に馬鹿だ、こいつ)
呆れてしまう。こんな奴に売られる羽目になるなんて、情けなくなる。
「……ねぇ、お義兄さま」
あえて、「お義兄さま」と呼ぶ。
「なんで義父上が別館で刺されたことを知っているんですか?あんたが起きてきたときには既に別の部屋に遺体が安置してあったのに。あんた、『父上が死んだ!?病で!?』とか言って初めて聞いたかのように驚いたのに。なんで使われたのが包丁であることを知っているんですか?凶器、見つからなかったのに。いや、そもそもあんたたちで病死にしましたもんね。遺体確認の医者も呼ばず、あんたの従者は遺体を布で隠してすぐに棺桶に入れて。そのまま病で亡くなったことにしたもんね。養女むすめである私でさえも遺体は見れなかった。病で息絶えた時刻を、刺された時刻と同じ『昨日未明』だと言っていたこともそうですが、そもそもなんであんたは義父上が『何者かに刺されて死んだ』ということを知っているんですかっ!?」
一息で言ったため、かなり苦しい。再度呼吸して息を整えてる。
「あんた、寝ていたならそんなことわかるわけないですよね。なら見ていた?いや、そこにいたのは義父上と、刺した犯人と、見ていた私だけ。じゃあ、あんたしか犯人はいないっ」
そこまで言ったところで、今になってようやく動いた蘇康の従者に無理やり突き飛ばされ、地に尻餅をつく。
「大丈夫ですか、蘇康さま!?」
「うるさい、うるさいうるさいうるさいぃぃぃぃ!」
意味もなく顔を真っ赤にしてわめく蘇康。その様子を見つつ、やはり蛸だな、と心の中で嘲る。
こんな簡単で急ごしらえのひっかけに引っかかるか、賭けではあったが、その賭けに成功したわけだ。
(もう十分)
こんな状況下で、蘇康の罪を確定し、裁くことは無理だ。それ以前に、こいつを罪人として捕らえるということ自体、できるかどうか怪しい。
これはただの自己満足だ。だが、算盤には申し訳ないがかなりすっきりした。
裳についた埃を掃って立ち上がる。
いまだ訳の分からないことをわめく蘇康には目もくれず、ただまっすぐ、外門の方へ。
「……っお嬢様!」
その声にやっと振り返れば、年が近く、仲の良かった使用人の少女の一人である。
鑭依より一つ二つ年下で、妹のように思うことがあった。
「…なに?」
「っあの…、今までありがとうございました!お嬢様のおかげでっ、わたし…」
瞬間、くしゃっと顔を歪ませ、今にも泣きそうな顔になる。
(全く、眼が離せない…)
算盤を荷物の中に入れると同時に、別の物もこっそり取り出す。
この少女はかつて、蘇康に犯されそうになった。
家族が病に罹り、その薬代を稼ぐためにこの蘇家で働いていたのだ。どんなにひどい目にあっていても、辞めるわけにはいかなかったのだ。
偶々鑭依が通りかかったから良いものの、あの糞は少女にも手を出すのかと思えば、あれだけの折檻では足りない気がしてくる。
「今までありがと。あなたも…自由に生きなよ」
そう言って泣きじゃくる少女の手を取り、手に隠し持っていたものをこっそり握らせた。
小さいが、高価な翡翠と真珠でできた歩揺である。売れば、相当な金額になるだろう。
驚く少女に微笑み、再び外門へと歩く。
あの娘にああは言ったが、はたして鑭依こそ「自由」なのだろうか。そもそも、「自由」に形はあるのか。
どちらにせよ、人は誰しも何らかの鳥籠に縛られているのか。
本人が「自由」だと思っていれば、それが本人の一番の幸せなのだ。
門のところまで行くと、鑭依はゆっくり振り返った。
ここは自分の家だった。初めてできた、父という存在。与えられた庇護。
すべて、塵の如く消え去ったもの。また奪われてしまった。
家庭教師に徹底的に叩き込まれた優雅な仕草で微笑み、また膝をついて拱手する。
「今まで、お世話になりました。どうか、この蘇家の人々に幸あらんことを願っております」
……無論、鑭依の言う「蘇家の人々」に、蘇康は入っていない。入れてやるものか。
―――これから、三十回目に売られたさきへと向かう。
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