青カルト 補足
あの頃はまだ薬を飲んでいなかったから、おしっこが薬品の匂いになったりしなかった。今私は沢山の薬が手放せなくてそれは全部必要な薬なのがとても不甲斐ない。一つでも欠けてしまうことを考えると、まあ、そのときはそのときなんだろうけど。あまりそれについてあれこれ言われたくはない。
あの貝殻は何貝の殻だったろう。図鑑を開こうと思うけれど探しても無い。捨ててしまったんだっけ、いやあれは古本屋に売ってしまったんだ。あの図鑑は劣化が激しくてあまり高く売れなかった気がする。銭勘定なんて最高にどうでもいいことばかり覚えている。とにかく図鑑はないからネットで調べよう。あれは巻き貝だったと思うけれど私の記憶違いだったらどうしよう。割れた巻き貝が私の足に刺さったんだんじゃなかったっけ。
幼い頃の思い出は思い出せない。だってみんな私のことをどう思っていたのか見え透いているし、それが今となっては変わってしまったことも知っている。嫌なことばかり覚えているから、これからは楽しいことだけを覚えていよう。
奇麗な海岸なんてなかった。あの浜は汚かった(と思う)。だって滅茶苦茶ゴミとか浮いていてそれに触らないように注意された記憶があるし。でもそれらは全て曖昧で確かに思い出すことはもう叶わない。
今は温暖化の影響で海は生ぬるいんだろう。ニュースでそう言っていた気がする。青い海が生ぬるいって気持ち悪いな。プールもぬるいと他人の体温の中にいるみたいで気持ち悪いから、同じなんだろうか。海は誰の体温?
砂浜に立っていると浮き輪を持つ手がビニール臭くなってしまって、体中にそれが移ってしまいそうで嫌だった。そんなことあるわけないのに、そのときだけはそんな気がしたんだ。
波打ち際も奇麗とは言い難かったはずだ。それはどこにでもあるとても平凡な光景だった。とても特別な光景だった。ズタズタになったゴミ袋の残骸や流木の破片が流れ着いていても不思議ではなかった。だいぶ昔のことだから、忘れてしまったけれど。
忘れてしまったけれど、それはどこにでもあるとても平凡な風景だった。そしてとても特別な光景だった。
男の子が泳いでいるのを見ていた。小学生だろうか。私より、お兄さんだ。
今年の夏は水母の死骸がいっぱい上がって、彼はその巨大なワンタンスープみたいになった海が面白くて仕方がないらしく、楽しそうに泳ぎ回っていた。父があれには毒があるから――それは当然なのだけれど――と言って私が海に入らないようにしていたのも私が浜辺に立っている理由だった。それと足を怪我していたから。
私には今、足を怪我したという断片的な記憶しかない。右足だったのか左足だったのか、足のどの指を怪我したのか、実のところよく思い出せない。その記憶は大脳皮質の奥深くに収納されていて生きているうちには二度と思い出せないような気がする。ちょうど今になって足を怪我した日と水母と男の子に会った日は別の日だったんじゃないかなんてそんな気がしてきてしまっているのだから、これだから、記憶なんてアテにしてはいけないのだ。
砂まみれになって剥がれかけの絆創膏。公園に遊びに行って怪我をしたときも、運動会で怪我をしたときもこれをつけていた。これは大人になってみればとても不衛生な代物だけれど、子供の私にとってはかけがえのないものだった。
海水は目に悪いし塩が目に染みて痛いから、だから目を開けたくなかった。
昔の記憶を思い出すのは疲れる。だって、もうほとんど思い出せないし。そんなものを何度も折り返して読んだって仕方ないだけだ。仕方ないだけなのになぁ。
眠りについているとき、私は楽園にいる。楽園の夢には温かい日差しが降り注いでいる。あなたには理解できないだろうから、私はそれを文章で再現する。何度も何度も書き記して教えてあげる。
この思い出も私の夢でコーティングされているのだろうか?
瞼を閉じればいつでもあの海を思い出せる。それは不確かで曖昧な記憶だけれど、それでもいつもそこにあるのだから、だからそれでいいのだ。
水平線の向こうにな特別なものなんて何もない。幸せも理想郷も何一つない。何もないことだけがわかる。
私の見た景色以外、何も信じてはいない。
青カルト 梦 @murasaki_umagoyashi
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