あなたに微笑む

八日郎

あなたに微笑む

 悲しくて、嬉しくて、切なくて、幸せで、そしてなにより、とても残酷な夢を見た。



 夢の中の僕は、公園の滑り台の近くのベンチに軽く腰かけて、公園で遊び回る子供たちの元気な声を、聞くともなく聞いていた。

 なんだか頭がひどくぼうっとして、首より上に熱がこもっているようだった。

 手の甲に冷たいものが落ちてきて、そこで初めて、自分の瞳から大粒の涙が静かにはらはらと零れ落ちていることに気が付いた。


 僕は手に、薄紅色の、シンプルだけどかわいらしい封筒を持っている。

 それを見た僕はただ、「彼女らしいな」と思った。その手紙は、生前彼女が僕に宛ててしたためたものであった。


 彼女は一週間前に、病気でこの世を去った。

 僕は、彼女を蝕んでいた病気の名前も、それどころか彼女が病気と闘っていることすら、これっぽっちも知らなかった。


 手紙には、たった一度、それも各駅停車の電車のたった三駅分の間、少し言葉を交わしただけの彼女の、知るはずもない筆跡で、「あなたのことが好きでした」と、ただ一言書かれていた。

 

 彼女が僕と同じ気持ちであることを知り、浮足立つ僕の心は、彼女がもうこの世にいないという事実にきつく締めつけられた。

 僕の瞳は依然、大粒の涙を流し続け、手元にある彼女の丁寧な文字をにじませている。


 手紙を閉じた僕は、「僕だって貴女が好きです」と、届くはずのない言葉を、彼女に向けてぽつりとつぶやく。

 同時に吹いた強い風が、僕の言葉と、たくさんの山桜のはなびらを巻き上げて渦を作り、空高く昇っていく。

 はなびらに遮られ、彼女まで声が届かないような気がして、僕はもっと声を張る。

 

 僕の声が大きくなるにつれ、はなびらはその量を増やし、さらに大きい渦へと姿を変える。

 そこで僕は、そうか、このはなびらの渦は、僕の思いを彼女のところまで届けようとしているのだな、とふと気が付く。

 薄紅色の大きい渦は、青く広い空へと高く高く吸い込まれ、僕はそれを眺めて、彼女の薄紅色のほほえみを思い出すのだ。



 目を覚ました僕は、だらしなく顔を歪めて、嗚咽を漏らしながら泣いていた。

 彼女からもらった手紙を握りしめていたはずの手には、手紙の薄紅の代わりに、ベッドシーツの濃紺がぐしゃぐしゃに握りしめられていた。

 手は力を入れすぎたのか、血が止まり青白くなっている。顔は中心にしわを寄せすぎて、元の形に戻ろうとせず、皮膚が突っ張ったようになっている。


 僕の寝ぼけた頭は、さっきまでの視界を埋め尽くす薄紅が夢であったことを、徐々に理解し始めた。

 なんて夢を見てしまったのだろう。大きなため息が、肺の奥の方から抜けていった。彼女が僕に想いを寄せるなんてことは、あるはずがない。

 

 僕は熱がこもってぼうっとする頭を持ち上げて、彼女のいなくなってしまった大学へ行くための準備をするべく、ベッドから這い出た。 

 

 あの薄紅の渦や、彼女からの手紙が夢だったように、彼女が一週間前に病気で死んだことも夢であってほしいと、とめどなく流れ続ける涙をぬぐいながら、切に願った。






 彼女と出会ったのは静かな電車の中、秋晴れの気持ちいい朝だった。


 ひとつ前の駅で大量の人が降りて、一気にがらがらになった車両は、いつもと同じようにゆったりと乗客を運んでいた。

 僕の通う大学に行くためには、さっき大量に人が降りた駅で急行に乗り換えをした方が早い。

 この辺りは都心と離れているため、大学は僕の通っている大学くらいしかなく、店もまばらなため、電車に乗っているほとんどの学生が先ほどの駅で降りて行く。

 僕は、よっぽど急いでいるとき以外は、各駅停車に乗ったままゆっくりと学校に向かうのが日課であった。


 その日僕は、車窓の外を、黄色や橙色の葉を着た木々が通り過ぎるのを視界の端に捉えながら、眠たい目をこすりつつ、最近買った好きな作家の小説を読んでいた。


 電車の中はいつものようにがらがらで、向かいの座席に座っているおじいさんの寝息が、すぐそこに聞こえた。

 朝日を浴びながら気持ちよさそうに眠るおじいさんを見ていると、僕のまぶたも、だんだんと重くなってくるのが分かった。

 読んでいる小説も、さっきから同じ行ばかりを行ったり来たりしている。


 僕は、本を閉じ膝の上に乗せたまま、窓の外に広がる秋の景色を眺めて、大学の最寄り駅までの時間を過ごすことにした。


 ときどき日が当たって暖かい座席で、ぼうっと窓の外を眺めていると、人二人分ほどあけて横に座っていた女性が「あっ」と声を出した。

 ちらりと見ると、彼女は僕の手元を、口を開けたままにして眺めていた。

 大きな目から、ガラス玉のような眼球がきらきらと覗いている。


 僕の視線に気が付いた彼女は、少しの間僕の目をまっすぐ見つめた後、「あ、すいません」と慌てて謝り、自分の手元へ目をそらした。

 不思議に思った僕が、ふと彼女の手元を見たとき、僕の口からも彼女と同じような「あっ」という声が漏れた。


 「それ」

 「はい。偶然」


 彼女は少し照れくさそうに微笑んで、手に持っているものを僕に見えるように持ち上げた。

 彼女の手には、僕がさっきまで読んでいて、今は膝におとなしく乗せられている本と同じものが持たれていた。


 彼女は、首元にしっかりと巻かれたマフラーを少し緩めてから、こちらを向いた。座席にだらしなく全体重を預けていた僕は、慌てて背筋を伸ばし、彼女に少し体を向けた。

 背筋を伸ばしたおかげか、身体中の血液が一斉に動き出したかのように、全身が脈打ち始めた。寝ぼけていた頭が、すっと冴えてくる。


 彼女のつやつやと光る黒い革のつま先が、僕の方へ一歩近づいた。

 「お好きなんですか?」

 彼女はやわらかい笑みを浮かべたまま、僕に問いかけた。


 質問の主語が「本」を指すのか「作家」を指すのか、それとも別のものを指すのか考え、答えあぐねていると、それに気が付いたのか彼女は、ほほえみを絶やさずに言葉を続けた。


 「この作家さんの本読んでる人、はじめて会ったから」


 私は好きなんですけどね、と彼女は本を広げながら嬉しそうに笑っている。

 膝に乗せた本を覗く彼女の伏した目もとには、さらさらと長いまつげが揺れていた。本を撫でる手つきは、赤ん坊の頬を撫でるように優しく、白くて細い指は、冷えているのか指先だけがうっすらと赤くなっていた。


 「僕の周りにも、読んでる人、いないです」


 やっとのこと口にした言葉はぎこちなく、少しかすれた小さな声は、静かな車内でも聞き取りにくかったことだろう。


 「あ、ごめんなさい、なんか馴れ馴れしく話しかけちゃって」


 はっきりしない話し方のせいで、僕が迷惑がっていると思ったのか、彼女はあたふたと謝ってきた。

 正直なところ、突然のことで驚きこそしたが、迷惑だとか怪しいだとか、そういった感情は抱かなかった。むしろ、たまたま同じ本を同じ車両で読んでいた彼女に、多少なりとも興味がわいていた。


 「いえ、そんなこと。僕もこの人の本、好きなんで」

 「本当ですか?」


 ぱあっと、まるで小さな花が一斉にたくさん咲いたように笑顔になった彼女を見て、僕は、桜みたいに笑う人だなと思った。

 見た目は僕と同じくらいの年齢に見えるが、その笑顔は、十代になりたての少女のように明るく、無邪気で、華やかだった。


 彼女が嬉しそうに本の話をするのを横で聞き、たまに自分も思ったことを一言二言言いながら、しばらくの間、僕たちは静かな電車に揺られた。

 車窓の外の黄色や橙色と、彼女の浮かべる薄紅色の笑顔で、僕の周りはいつもより何倍も明るく、色とりどりになったように感じた。

 目を覚ました向かいに座るおじいさんは、僕と彼女の緊張感の抜けた自然な会話を聞いて、目の前に座る男女が、会って数分しか経ってない者同士だとは、思いもしなかったことだろう。


 気が付くと電車は、大学の最寄り駅の手前まで来ていた。

 

 僕が慌てて電車を降りようと腰を浮かし、挨拶をしようと彼女を振り返ると、彼女も同じように、電車を降りるために鞄を背負いなおしていた。


 「降りる駅まで一緒なんて、本当にこんなことってあるんですね」

 電車を降りた彼女は、定期をどこにしまったか探している僕を見て、心底楽しそうに笑った。

 秋の冷たい風に吹かれて、彼女の、肩にかかるほどの長さの髪が揺れる。


 「もしかして、そこの大学の学生ですか」

 風の冷たさに顔を歪め、ポケットに手を入れながら聞く僕に、彼女は、まだ巻くのには少し早いようにも思われる厚手のマフラーを巻きなおしながら、

 「もしかして、あなたもですか? すごい偶然」

 と、僕の答えを聞く前に、薄紅の笑顔を振りまいてはしゃいだ。


 何から何まで本当にすごい偶然ですね、と笑い合いながらホームの階段を上っているところで、彼女の携帯が着信音を響かせた。

 ちょっとすいませんと言い、彼女が電話に出る。階段のコンクリートが、うん、えー今? と、砕けた口調の彼女の声を、少しだけ反響させている。


 ひどく面倒くさそうな顔で電話を切った彼女は、僕の方へと向き直り、ぱんっ、と両手を合わせて謝った。


 「すいません、友達が次の授業の資料運ぶの手伝って、って」

 「いえ、急いで行ってあげてください」

 「本当にすいません、ありがとうございます。お話しできてよかったです」

 「僕も楽しかったです」


 彼女は小走りで改札を抜けると、思い出したように僕に振り返った。

 振り向いた勢いで、丈の長いベージュのコートと、手入れのされた髪の毛が一瞬ふわりと浮き上がり、元の位置におさまる。

 そして僕の方に向かって、薄紅色の笑顔が咲いた。


 「またお話、しましょうね」


 彼女の透き通った声が、改札の向こうの喧騒からでも、よく通って聞こえた。


 「はい、また」

 僕は走り去る彼女の背中に聞こえるように、普段は出さない大きな声を出した。


 いつもは灰色のように見える空が、その日は、青の絵の具をといた水を撒いたように、真っ青に見えた。

 これが僕と彼女の出会いであり、最初で最後の会話であった。






 それから何日か経った日、僕はいつものように、友人の吉田と学生食堂で昼食をとっていた。

 

 吉田のつまらない話を聞きながら、味の濃い味噌汁をすする。

 いつもと何も変わらない、彩りのない淡々とした日常だった。


 昼時の学生食堂は、当然のことながら学生たちで賑わい、空席は数えるほどしか残っていない。

 そんな、声や物音が静まることのない食堂の中、吉田の声の隙間から、聞き覚えのある透き通った声が、僕の鼓膜を揺らした。


 とっさに声の聞こえる方に振り向くと、人混みの中に、あの笑顔が見えた。

 そこには、あの日と何も変わらない薄紅色の笑顔を浮かべて、彼女が楽しそうに笑っていた。


 「経済学部の子? あの子がどうかしたか」

 突然振り向いた僕の背後から、吉田が彼女を指さして言う。

 「ホラ、あの子だろ? あの、黄色のコートの」

 「黄色のコート……あ、本当だ」

 「は?」


 吉田に言われてから気が付いたが、彼女は鮮やかな黄色のロングコートを着ていた。僕にはコートの黄色よりも、彼女の笑顔の方が、色鮮やかに見えていたのだろう。


 あの日、風に舞いふわりと浮いた髪は、今日は一つに結われ、顔の横で残った髪の毛はゆるくウェーブをつくっている。

 小ぶりな鼻の頭には、あの日はなかった細いフレームの丸眼鏡が乗っている。

 今思うと、あの日と随分印象の変わった彼女を、よく認識できたものだ。


 「なに、知り合い? 気になってるとか?」

 「いや、そんなんじゃないけど」

 「可愛いもんな、あの子。でもやめとけ、あれ、あの横にいるイケメン、彼氏だよ。よく一緒に講義受けてるぜ。目立つから知ってる」


 そう言われて彼女の横に目を向けると、背の高い男前が、彼女に笑顔を向けて立っていた。

 チャラついた雰囲気はなく、その笑顔からは人柄の良さがにじみ出ている。

 彼女は依然、横に並ぶ長身の彼に笑顔を向けている。

 人だかりの中で、彼らのいるところだけ華やいで見えるようだ。確かに吉田の言う通り、目立っているかもしれない。


 スポットライトが当てられたように団体の中心で笑い合う二人は、誰がどう見ようと、お似合いのカップルだった。


 「お似合いだな」


 僕は、向かいの席に座っている吉田の耳にすら届かないような小さな声で、そんなことをつぶやいていた。

 僕の小さな声は、手に持たれた茶碗から出る味噌汁の湯気と一緒に、食堂の喧騒の中へとかき消されていった。






 それから何度か、食堂や講義室で彼女を見かけることがあった。

 彼女はいつも集団の中心で楽しそうに笑っており、彼女の周りも同じように、笑顔であふれていた。


 服装こそ毎度印象の違うものを着ていたが、彼女の浮かべる薄紅の笑顔は、いつだって変わらなかった。


 彼女を見かけるたび、僕の中では、声をかけるか否かの激しい葛藤が起きた。

 彼女はいつだって華やかで、明るくて、僕とはまるで別の、色鮮やかな世界の中を生きているように見えた。

 そんな彼女に自分から話しかけるほど、僕は自分に自信がなかった。

 しかし同時に、そんな彼女を見かけるだけで、僕の何の変化もない日常が、ほんの少しだけ色づくようにも感じた。

 

 気が付けば、どこにいても無意識に彼女を探すようになっていた。






 木々を彩っていた黄色や橙色が、風に吹かれて少しずつ土へかえり、季節は冬になった。

 その頃になると、構内で彼女を見かけることは少なくなっていた。


 僕はいつものように、各駅停車の電車に乗って、彼女と話した作家の本を読みながら、時折車窓の外を眺めたりしながら通学を続けた。

 電車の中で彼女に会うことは、あの日以降、一度もなかった。


 そんな風にひと月、ふた月と時は流れ、彼女とそれ以上の言葉を交わすこともないまま、僕はひとつ学年を進めた。

 彼女と出会った頃に、黄色や橙色を着ていた木々は、小さな花のつぼみをつけ始めた。

 秋が過ぎ冬が終わり、暖かくやわらかい日差しの降る春がやってきた。


 季節が変わり学年が上がっても、僕の日常は淡々としていて、これといった変化はなかった。

 彼女を見かけなくなってからというもの、僕はいつもと変わらない日常が、なんだかひどくつまらないもののように感じる瞬間があった。

 日々の彩りのなさに、若干の物足りなさを感じているようだった。






 そして昨日、いつものように食堂で昼食を取りながら、吉田のつまらない話を聞いていたところ、吉田は突然こんなことを言い出した。


 「そういえば、去年お前が見てた経済学部の子、なんか一週間前に亡くなったらしい」

 「えっ」

 「病気だったみたいだな。結構噂になってる」


 吉田はカレーを頬張りながら、「彼氏も友達も泣いてたぜー」と付け足した後、またさっきまでのつまらない話へと話を戻した。

 彼女の突然の訃報に驚きこそしたものの、僕は、どうりで最近見かけないと思った、と妙に納得した。若いのにかわいそうに、とも思った。


 一日の講義を一通り終え、帰りの電車で、僕はいつものように本を開いた。

 

 がらがらの各駅停車の電車もいつもと同じで、静かに乗客を運んでいた。

 僕の耳には、向かいに座るサラリーマンの寝息と、電車の車輪がレールをこする音だけが響いていた。


 開いた小説は、以前彼女と話をした作家のもので、この作品はあの秋からもう何度も読み返し、表紙がクタクタになってしまっている。

 本を開いてからもうすぐ三駅になるが、僕の目は同じ行を行ったり来たりするだけで、全くストーリーを追えてはいなかった。


 学生が乗り換えに使う駅に電車が到着し、扉が開くのと同時に、たくさんの人が乗ってきた。

 僕は本に向けていた目線を上げ、人混みを眺める。

 冬に比べて薄着になった人たちの中にいる、厚着の人を無意識に目で追い、僕は、いつものように人混みの中から、彼女の薄紅色の笑顔を探している自分に気が付いた。


 吉田の声が、頭の中で反響する。

 「亡くなったらしい、病気だったみたいだな」。


 人混みの中をいくら探しても、彼女は、もういない。僕はもう、あの薄紅色の笑顔を見ることはない。


 ぐしゃ、という音が聞こえ手元に目線を戻すと、クタクタの本の表紙が、僕の左手によって見るも無残に握りつぶされていた。

 右手は拳を作り、力を籠めすぎて手の甲に血管が浮き出ている。手を開くと、爪が刺さってしまったのか、手のひらに鈍い痛みが走った。

 無意識に噛み締めていた歯の力を抜いて息を吸うと、喉の奥で、ひゅうっと音がした。音の鳴ったあたりが、ざらざらとして、気持ちが悪い。


 気が付くと、目から大粒の涙があふれ出て、僕のジーンズに冷たいシミをつくっていた。

 全身の血が沸騰したように体中が熱いのに、頭や指先は驚くほど冷たく、血が通っていないようだった。


 彼女が死んだ。


 僕は今さらになって、無意識に彼女を探す行動の意味に、気が付いてしまった。


 車窓の外には、灰色の空が広がっていた。僕の目に映るのは、彼女のいない「いつも通り」の日常だった。

 その日の夜、僕はあの夢を見た。






 夢で握っていた手紙の感触がまだ手に残っているうちに、僕は家を出た。

 一度落ち着いてしまったら、外に出たくなくなってしまうような気がした。


 泣き腫らした目をこすりながら、僕はいつもの各駅停車で、今日も何も変わらない一日を過ごすため、ゆっくりと学校に向かった。


 たくさんの学生が降りた後の車両は、いつも通り、静かに乗客を乗せて走った。

 僕は、昨日ぐしゃぐしゃにしてしまった小説を丁寧に伸ばしながら、ストーリーを読み進め続けた。本を膝の上で広げ、なるべく頭は上げないように本だけを見て、電車の揺れに身を任せることに専念する。


 もう少しで、彼女に声をかけられた場所に差し掛かろうとしている。

 僕は、彼女のいない現実や、知らず知らずのうちに自分が彼女に抱いていた感情から目を背けるために、力いっぱい目を閉じた。


 これ以上、彼女のことを考えていたくなかった。彼女のいない「いつも通り」に、悲しくなるのが耐えられなかった。


 ふと、「あっ」と透き通った声が聞こえたような気がした。

 慌てて顔を上げると、僕の目に飛び込んできたのは、車窓の外に広がった、色鮮やかな薄紅色だった。


 昨日までつぼみだった山桜の花が、大量に咲き誇り、春の暖かい日差しを浴びて風に揺れている。

 視界を埋め尽くす薄紅に向かって、僕の口は、僕の意識とは無関係に、言葉を発していた。


 「僕は貴女が好きでした」


 ざらざらしていた喉を震わせた音は、彼女と初めて言葉を交わしたときのような、小さくてかすれた、聞き取りにくい声だった。


 両手を窓に押し付け、外を食い入るように見つめる僕の目は、鮮やかな薄紅色から決して離れようとはしなかった。

 山桜は、風になびいてはなびらを落とすだけで、薄紅色の渦をつくろうとはしなかった。

 僕は、駅に着くまで窓に張り付いたまま、街を埋める薄紅色を、車窓越しに見下ろし続けた。


 そうして着いた駅のホームには、風に飛ばされた山桜のはなびらが、絨毯をつくるように敷かれていた。

 足元で風に吹かれ小さく踊るはなびらは、ホームに降り立った人たちの足の間をくぐるようにして、風に運ばれていった。


 ポケットから定期を取り出し、改札へ向かうところで、ひと吹き強い風が吹いた。

 風は、僕の上着の裾を引っ張り、はなびらを巻き上げ、改札の向こうで小さな弧を描き、一瞬ふわりと浮き上がった。


 改札を抜けた彼女が振り返り、薄紅色の笑顔で「またお話、しましょうね」と言ったようだった。


 「はい、また」


 すっと出た声は、思ったよりも大きく、改札の向こうまで通り抜けていった。喉のざらざらは消え、自然と頬が緩むのが分かる。


 風ははなびらを巻き上げ、薄紅色の渦をつくり、彼女に向けた最後の言葉を乗せて、高く昇って行った。

 空は、青の絵の具をといた水を撒いたように、真っ青だった。

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