ぼくの冒険のはなし
八日郎
ぼくの冒険のはなし
目覚まし時計のけたたましい音が聞こえる。
この音は、ぼくの知っている音の中で、二番目に嫌いな音である。
毎朝、もう少しだけ眠りたいと思いながら止めるのだから、嫌いになって当然だ。
ちなみに一番は、爪と黒板がこすれて鳴る、あのキーっていう音。
あれの次なのだから、目覚まし時計の音もなかなかに嫌な音だ。できればもっとやさしく起こしてほしい。
うるさいなあ、と思いながら、目覚まし時計の頭を少し強めにたたく。
がしゃんという音がして、時計の音はすっかり止まったけれど、あまりにもうるさい音だったから、まだ耳の奥でサイレンが鳴り響いているみたいで、変な感じがする。
カーテンを開けると、窓の外いっぱいの青い空が、ぼくの目に飛び込んできた。
今日はとてもいい天気だ。少し肌寒い部屋に、朝の暖かい日が差して、気持ちいい。
ベッドを整えてから、勉強机に向かって、昨日書いた日記を読む。
これはぼくの日課で、ぼくの将来の目標が、お医者さんになることに決まったときから、勉強と一緒に、一日も欠かすことなくやり続けていることだ。
小学一年生の夏からだから、もう三年とちょっとになる。
日記には、その日あったことと、明日のぼくへのミッションを書くようにしている。
つまり、ぼくは毎朝、昨日のぼくが決めた、今日やらなければいけないことを確認しているのだ。
今日のぼくのミッションのひとつは、『みゆに誕生日プレゼントをわたす。』というものだった。
最近覚えた「誕」という字が、練習の甲斐あって綺麗に書けている。
今日、十月二十三日は、みゆの誕生日だ。
机の上には、二か月分のおこづかいで買ったプレゼントが、綺麗にラッピングされて置いてある。薄いピンクの包装紙に、赤いリボンが付いていてかわいい。
先週の日曜日に行ったおしゃれなアクセサリー屋さんは、お客さんが女の人ばかりで、男子のぼくにはとても入りづらかった。
お店に足を踏み入れたときの気まずさは、くじ引きで決まった六人の給食係の、ぼく以外がみんな女子だったとき以上のものだった。
そんな居心地の悪いお店の中で、それでも一時間も悩んで、ぼくは、外国のコインのようなきらきらした飾りがついている、少し大人っぽいヘアゴムを選んだ。
光を反射する金色の飾りは、最近はよく一本に束ねられているみゆの、さらさらとした黒い髪に、きっと良く似合うはずだ。
満足な気分で、ふんと鼻息を漏らすと、窓の外の鳥がぴぴぴっと鳴いた。
鳥もぼくを応援してくれているみたいだ。きっとうまくいくに違いない。
ぼくは、なぜかわからないけれどとてもそわそわしていて、このプレゼントを早くみゆにわたさなければならない気がした。
みゆの顔を思い浮かべると、心臓がどきどきとして、耳が熱くなった。
みゆは、お隣に住む高校生である。
みゆのお母さんとぼくのお母さんは、家がお隣同士になってからの大の仲良しで、ぼくが小さい頃から、みゆはぼくの面倒を見てくれていたのだという。
ぼくに物心がついたころには、みゆの存在は、ぼくの中で大きなものになっていた。
みゆはせっかちなお母さんと違って、ぼくの話をにこにこしながら最後まで聞いてくれる。
聞いてくれるだけじゃなくて、間違っているところにはきちんと注意もしてくれる。
はきはきとしゃべるみゆのよく通る声は、目覚まし時計の耳に響く機械音より、はるかに目覚めにいいと思う。
同級生の女子は、口うるさいし、すぐに陰口を言うから、あまりすきじゃない。
女子たちも、陰でぼくのことを「がり勉」と呼んでいるらしいし、ぼくのことをあまりすきじゃないのだと思う。
だからというわけでもないけれど、みゆはずっと前からぼくの中での不動の一番で、みゆ以上が現れたことは、今のところ一度もない。
みゆは性格がいいし、勉強もできて物知り、太っていないけれど痩せすぎてもいないし、顔もかわいい。
鼻はちょっと低いけれど、大きな目が笑ったときに細くなるのは、どんな男だってどきっとするほどかわいいと思う。きっと学校では、男子にもてもてのはずだ。
今はまだ、みゆの方がぼくよりも身長が大きいけれど、去年から一年でぼくの身長は、八センチも伸びた。
成長期のぼくにかかれば、みゆより大きくなるのなんて、時間の問題だ。
さらにぼくは最近、たくましい身体になるための努力も少しずつ始めている。
毎朝苦手な牛乳も飲むし、給食に嫌いなものが出ても、吐き出しそうになるのを必死に我慢しながら、残さず全部食べている。
寝る前に少しだけ、腹筋と背筋とスクワットもしている。
お母さんには、身長が伸びなくなると言われたけれど、ぼくは今、成長期だから大丈夫なのだ。
ぼくの顏はお父さんに似ていて、決してイケメンとは言えないけれど、男はハートだと聞いたことがある。
ぼくは、弱い者いじめは絶対にしないし、困っている人を見かけたら助けるようにしている。
この前も、電車でおばあちゃんに席をゆずったら、お母さんにほめられた。
でも、みゆだって同じことをしたはずだし、お年寄りに席をゆずるのは当たり前のことなのだから、ほめられるほどのことじゃない。
みゆに釣り合う男になるためなら、ぼくはどんな努力だって惜しまないつもりだ。
ぼくがお医者さんになるために、勉強をしたり、本をたくさん読んだり、かしこくなるための努力をするようになったのにも、みゆは大いに関係している。
みゆは、今のぼくよりも小さい頃から中学二年生までずっと、ソフトボールに打ち込んでいた。
お母さんは、ぼくが将来お医者さんになると話したとき、「頑張るって決めたなら、みゆちゃんに負けないくらい頑張るのよ」と応援してくれた。
ぼくもお母さんも、それくらいみゆが頑張っているのを知っていたのだ。
みゆの手のひらにはいつもかたいマメができていて、手を繋いだときにざらざらして、少しだけ痛かった。
夕陽を浴びながら、毎日庭で素振りをしているみゆは、いつもは見せないような真剣な顔で、ぼくは、そんなかっこいいみゆをこっそり見るのがすきだった。
ソフトボールの話をするみゆは楽しそうだったし、みゆは本当にソフトボールがすきだったんだと思う。
しかし、ぼくが小学校に入学して初めての夏休み、みゆが日課だったはずの素振りをしなくなった。
それどころか、毎日元気に「いってきます」と言ってから走って行っていた部活にも行かなくなった。
夏休み中は朝から練習があって夕方へとへとになって帰って来るみゆに、部屋の窓から「おかえり」を言うのがその頃のぼくの些細な楽しみだったから、何となく元気が出なくなった。
みゆが部活に行かなくなってしばらく経った頃、みゆのお家の晩ご飯にぼくの家族がお呼ばれされた。
ぼくはその日、久しぶりにみゆに会えると思うと、なんだかそわそわして、毎日つけていた朝顔の観察日記をつけ忘れてしまった。
かわりに、普段は友達との約束がない限りあまり行かない大きな公園に行って、しばらくの間ひとりで走り回って遊んだ。
夕方、お父さんとお母さんと一緒にみゆの家に行くと、みゆのお母さんがみゆによく似た明るい声で迎えてくれた。
みゆのお父さんはソファで分厚い本を読んでいて、ぼくたちがリビングに入ると、みゆに似た目の細くなる優しい笑顔で「やあ、いらっしゃい」と言った。
みゆは、声や雰囲気はお母さん似で、顏はお父さん似だと思う。ぼくはみゆのお母さんもお父さんもすきだ。
リビングは、みゆのお母さんが作った料理のいい匂いでいっぱいになっていて、ぼくのお腹がぐうっと鳴いた。
そわそわしすぎて、朝も昼もいつもより食べられなかったのに、外ではしゃいだからかもしれないし、ぼくのお腹が、みゆのお母さんの料理がおしゃれでおいしいのを知っているからかもしれない。
匂いだけでわくわくするなんて、いつの間にぼくは、こんなに食いしん坊になったのだろう。
「しょうたくん、みゆ呼んできてくれる? 部屋にいるから」
みゆのお母さんに頼まれたので、ぼくは喜んで了承した。
やっとみゆに会えると思うと、スキップしてしまいそうになるほど、気持ちが弾んだ。
みゆの部屋は二階の一番奥にあって、扉の真ん中はガラスでできていた。
そこから中を覗いて、みゆをびっくりさせようと思ったぼくは、階段を登りきると、極力足音を立てないように、そろりそろりとみゆの部屋に近づいた。
男の子はみんな冒険のようなどきどきすることが大好きで、もちろんぼくもそうだったので、つま先歩きで廊下を進んでいる間、ぼくは、悪者につかまったお姫様を助けるために敵のアジトに忍び込んだヒーローみたいな気分を楽しんでいた。
扉までもう少しというところで、ぼくは、みゆの部屋から鼻をすするような音が聞こえることに気が付いた。
もしかして、ここ最近みゆが素振りをしていなかったのは、風邪をひいてしまっていたからではないのだろうか。
みゆが心配になって急いでガラスから中を覗くと、みゆは勉強机に突っ伏して肩を震わせていた。
細い肩が小刻みに揺れて、短く切りそろえられたきれいな黒髪が、窓からの夕陽を浴びてきらきらと光っている。
みゆが泣いていることは、子供のぼくにもはっきりと分かった。
ぼくは泣いているみゆを見たことがなかったので、驚いてしまって、なんだか喉の奥がぎゅっと苦しくなって、みゆに声をかけないまま一階に走って逃げた。
おろおろとしたままみゆのお母さんのところに行くと、ぼくの顔を見たみゆのお母さんは少し寂しそうに笑って、「しょうたくんは優しいねえ」と頭を撫でてくれた。
みゆが泣いていることも、声をかけられなかったことも、何も話していないのに、みゆのお母さんはすべてわかったようだった。
リビングの食卓テーブルの上には、みゆのお母さんが作った料理が所狭しと並べられていて、まるでバイキングレストランみたいだった。
中にはぼくの大好物のハンバーグもあって、ぼくのお腹はさっきよりも大きくぐうっと鳴いたけれど、ぼくの気持ちはさっきほどわくわくしなかった。
しばらくすると、みゆが二階から降りてきた。
ぼくは、さっきまであんなに会いたくてたまらなかったみゆの顔がちゃんと見れなくて、買ったばかりの、車の柄をした靴下を見下ろした。
テーブルの上を見て、「わあ、お母さん随分張り切ったね」とはしゃぐみゆの声は、いつもと変わらないよく通る声だったけれど、ちらっと見たみゆの顔は、目の周りと鼻が赤くなっていて、いつもの明るいみゆの笑顔じゃなかった気がした。
みゆのお母さんの料理は、相変わらずおしゃれでおいしかったけれど、みゆの顔を見るたびにぼくの喉の奥はぎゅっと苦しくなって、お腹はすいているはずなのに、たくさん食べることができなかった。
家に帰ってからお母さんが、みゆは練習中に足を怪我して、もうソフトボールができなくなってしまったのだということを教えてくれた。
あんなにすきだったソフトボールができなくなって、みゆが今どんな気持ちなのか、考えただけでこわくなった。
怪我をしてから毎日、みゆはああして机に突っ伏して静かに泣いていたのだろうか。
ぼくは、ぼくがみゆにしてあげられることを必死に考えて、一つの答えを出した。
ぼくがお医者さんになって、みゆの怪我を治してあげられれば、みゆはまただいすきなソフトボールをできる。
それ以来、ぼくは毎日日記をつけ、毎日ミッションをこなし、勉強をして、本をたくさん読んで、かしこくなる努力をし続けているのだ。
あの日から三年以上経ったけれど、ぼくは着実にかしこくなっていると思うし、お医者さんになる道を少しずつ進んでいるはずだ。
高校では部活に入らなかったみゆは、夕方の四時ごろ学校から帰ってくる。
ホームルームを終えたぼくは、時計の針がまだ三時になる前に、急いで教室を出た。
ランドセルを背負う前に、ともだちのヤマグチくんにサッカーに誘われたけれど、「今日はごめん、また誘って」と断った。
ぼくは女子には「がり勉」と言われ避けられているけれど、男子のともだちは多い方だと思う。
勉強は大事だけれど、みんなでするサッカーや、ヤマグチくんのお家でするマリオカートやスマブラもすきだからかもしれない。
でも、たまにみんなで行こうと計画している、学校の裏山に捨ててあるエッチな本を探しにいく冒険は、ぼくは参加を遠慮させてもらっている。
冒険はわくわくするけれど、エッチな本を探すのは、少し気が引けるのだ。
昇降口に向かう途中で、なんだか嫌な予感がして、一度立ち止まった。担任の先生に、お手伝いを頼まれるような気がする。
ぼくは優等生だから、先生に何かを頼まれやすいのだ。
後ろから肩をトントンと叩かれて、「ちょうどいいから、手伝ってくれ」と言われる。
考えた途端、後ろから肩をトントンと叩かれた。
「ちょうどいいから、手伝ってくれないか」
振り向くと、担任の先生が申し訳なさそうな顔をして立っていた。嫌な予感が当たってしまった。
急いで帰って、早くみゆにプレゼントをわたさなければならないのに。
でもぼくは優等生だから、先生の頼みは断れないのだ。
帰り道を、走って通る。早く帰らないと、みゆが帰って来てしまう。
いつもの通学路は、どこからかキンモクセイの匂いがして、嬉しくなる。
ぼくは夏の暑いのが苦手だから、秋がすきだ。少し寒くなってくると、朝の匂いが変わるのがわかる。
秋の朝の匂いを嗅ぐと、なんだかとってもわくわくするのだ。赤や黄色の落ち葉が、地面いっぱいになって、踏むとかさかさ鳴るのも楽しい。
「ただいま!」と大きい声で言ってから、靴を脱いで家に上がる。走って階段を上って、部屋に掛け入る。
ランドセルをベッドの上に放り投げて、机の上に置いてあるプレゼントを持って、階段を駆け下りた。
「あんた何をそんなにばたばたしてんの」
玄関で靴を履こうとしていると、リビングからお母さんが出てきた。
「みゆちゃん、まだ帰って来てないと思うわよ」
お母さんの口からみゆの名前が出て、ぎくっとした。
慌てて振り返ると、お母さんは、にやにやした顔でぼくを見ていた。すごく楽しそうな顔をしている。
お母さんには、すべてお見通しのようだ。意地の悪いお母さんだ。
「プレゼント渡したら、すぐ帰ってきなさいよ。今日ハンバーグだから」
お母さんの声に「わかった」と返事をしながら、靴ひもを結びなおす。
今日のミッションはふたつ。プレゼントをわたして、もうひとつのミッションを何とかクリアしたら、すぐに帰ろう。晩ご飯は、ぼくの大好物だ。
大きく深呼吸をして、心を落ち着かせる。
緊張には、手のひらに「人」という文字をかいて飲み込むといいと聞いた。あとでやってみよう。
玄関のドアノブを握る手が、緊張というには異常なくらい震えている。
なんだか、こわい。
きっと緊張しているからだと自分を納得させて、「いってきます」と玄関の扉を開いた。
玄関の外は、遠くの空の太陽の光で、ほんのりオレンジ色に染まっていた。
明日の天気は、きっと晴れる。ぼくは最近、夕陽が出た次の日は晴れると本で読んだばかりだから、知っているのだ。
みゆの家の方を見ると、ちょうど帰って来たところだったらしく、玄関の前にみゆがいた。
今日は、肩にかかるくらいまで伸びた髪を下ろしている。
秋の、少し冷たい風に吹かれた髪が、陽の光を弾いてきらきら光った。
みゆの隣には、同じ高校の制服を着た坊主頭の男の人が立っている。ともだちだろうか。
声をかけようとして、息を吸い込んだまま、ぼくは声が出せなくなった。
みゆの手が、その男の人の手と繋がれていることに気が付いたからだ。
吸った息が声にならないまま、すーっと喉から出て行った。
「あ、しょうた」
ぼくに気が付いたみゆは、慌てて繋いでいた手を離し、その手をぼくに振った。
みゆの顔が少しだけ赤いのは、うっすらオレンジになっている太陽のせいじゃないと思う。
ぼくは、持っていたプレゼントを、こっそりと自分の後ろに隠した。
「どっか行くの?」
何も答えられないぼくを見て、みゆは少し首をかしげる。
こういう小さなしぐさも、みゆがやるとかわいいと思う。
ぼくは、初めてみゆが泣いているのを見たときみたいに、みゆの顔がちゃんと見れなくなって、足元に目線を落とした。
「弟?」
みゆの隣にいる男の人が、みゆに問いかける。
背が高くて身体が大きいし、坊主頭だし、大きなスポーツバッグを持っているから、野球部の人だと思う。
声が低くて、顏が男らしくて、ぼくは、どうしてぼくはこんなに小さいのだろうと悲しくなる。
「隣の家の子。いやでも、弟みたいなもんかな」
みゆは男の人に笑いかける。
みゆにとってぼくは、弟みたいなもの。
ぼくはいてもたってもいられなくなって、みゆと男の人に背を向けて全力で走った。
「ちょっと、しょうた!」とみゆがぼくを呼ぶ声が聞こえるけれど、無視してただがむしゃらに走った。
みゆなんて大嫌いだと叫びたかったけれど、きっと本当はそんなこと思ってもいないから、言えなかった。
キンモクセイの匂いの中を通り抜けて、走り疲れたときには、大きな公園の前に来ていた。
沈み始めた太陽が、さっきよりも鮮やかなオレンジ色で、公園の中を照らしている。
ぼくはブランコに座って、握りしめてぐしゃぐしゃになってしまったプレゼントの包みを開けた。
ヘアゴムを取り出すと、金色の飾りが夕陽に照らされて、宝石みたいに輝いた。
あの男の人は、きっとみゆの恋人だろう。
わかっていたけれど、高校生の男の人は、ぼくよりもはるかに大人で、強そうで、かっこうよかった。
みゆと繋いでいた手はごつごつしていて、ぼくの手を包み込んでしまうみゆの手を、包み込んでしまうくらい大きかった。
悔しいけれど、みゆにお似合いだった。
今更だけれど、ぼくは小学生で、子供で、みゆはぼくよりもずっと大人なのだと思った。
ヘアゴムを持ったままブランコでうなだれていると、近くから「にゃあ」と鳴き声が聞こえた。
さっきまで気が付かなかったが、足元に、小さな子猫がちょこんと座っている。
猫は、ぼくの持っているヘアゴムが気になるようで、ゆっくり近づいてきて、前足でちょいちょいとヘアゴムの飾りを触った。
ヘアゴムを手のひらに乗せて猫に近づけると、猫は顔を近づけて匂いを嗅いでいるようだった。
「これが気になるの?」と問いかけると、猫は一度ぼくをちらっと見たあと、ヘアゴムを咥えて走って行ってしまった。
「え、ちょっと、待って!」
慌てて猫を追いかけるけれど、猫は公園の中をすばしっこく走り回るから、なかなか追いつけない。
わたせなかったけれど、それはみゆにあげるはずのものだから、盗られたら困る。
猫が公園から出ようと、道路の方へ走っていく。ここから出られたら、きっと追いつけない。
もう少しで追いつきそうなのに。あともう少し。
ふと、このまま道路に出たらだめだ、と思った。
道路の向こう側からは大きなトラックが来ていて、ぼくは轢かれてしまう。
そうだ、だめだ止まらないと。
猫を追う足は止まらず、ぼくは道路に飛び出て、ぼくの両手は猫をしっかりと捕まえた。
猫はヘアゴムを離し、しなやかな身のこなしで、ぼくの腕からするりと逃げていく。
パーッというクラクションと共に、大きなトラックがぼく目がけて走ってくる。
あ、そうだ。
ぼくは、最近本で読んだ話を思い出した。
人は死ぬ前に、「人生が走馬灯のように駆け巡る」らしい。今までの記憶が、ビデオの早送りのように頭の中で思い浮かぶということらしい。
そうだった。ぼくは猫を追いかけて、道路に飛び出して、トラックに轢かれた。
ぼくは今、走馬灯を見ているんだ。
トラックのヘッドライトがまぶしくて、ぼくは静かに目を閉じた。
目覚まし時計の音が聞こえる。
いつものけたたましい音じゃなくて、もっと優しい音だ。みゆの声に似ている。
重たいまぶたをゆっくり開けると、目の前に目を真っ赤にさせたみゆがいた。
「しょうた! おばさん、しょうた目を覚ましたよ!」
起き上がろうとして、右足が動かないことに気が付いた。
見ると、包帯がぐるぐる巻きになっていて、天井に吊るされている。
右腕も同じように、首に吊るされている。
「しょうた、よかった……」
お母さんは、ぼくの顔を見て泣きながら笑って、ぼくをやさしく抱きしめた。お母さん抱きしめられたのなんか久しぶりだったから、なんだかこそばゆかった。
ぼくは走馬灯で見たとおり、トラックに轢かれたらしかった。
病院に運ばれてから、一度心臓が止まったけれど、このとおり、今はちゃんと生きているし、今後も命に別状はないらしい。
ぼくが目を覚ましてから、みんなは泣いたり笑ったりして、ぼくが生きていることに喜んでいたけれど、しばらく経って落ち着くと、道路に飛び出したことに怒り出した。
ぼくは今日、一生分の説教をされたに違いない。
一番怒ったのは、みゆだった。
「どれだけ心配したと思ってんの」「突然走って行ったと思ったら事故なんて」「車には気を付けろって子供の頃から言ってるでしょ」と、ぼくを叱る言葉は止まらず、ぼくに怒っている間、みゆはずっと涙目だった。
みゆが泣いているのを見たのは、これで二回目だ。
ぼくはみゆに叱られている間、金色のコインの飾りが付いたあのヘアゴムを、いつわたそうかタイミングをはかっていた。
ヘアゴムは、お母さんがぼくを叱る前に、こっそりわたしてくれた。
救急車で運ばれているとき、ぼくが握りしめているのをお医者さんが見つけて、お母さんにわたしてくれていたらしい。
「やるならしっかりやんなさい」と笑いながら言うお母さんを見て、ぼくは、本当に敵わないなと思った。
お母さんには、何でもお見通しなのだ。
「あのね、みゆ」
みゆの怒りが落ち着いたころ、ぼくは、ヘアゴムをみゆに手わたした。
お父さんとお母さんは病院の手続きでばたばたしていて、みゆと僕しか病室にいない今がチャンスだと思った。
「ヘアゴム? くれるの?」
「みゆ、誕生日だから。本当は、ラッピングもしてたし、早くわたしたかったんだけど」
言葉の途中で、声がだんだん小さくなっていくのがわかった。
吊られた右手に視線を落とす。みゆはどんな顔をしているだろう。喜んでくれるだろうか。
「ありがと、大事にする」
果てしない時間に感じた一瞬の沈黙の後、みゆは明るい声で言った。
おそるおそる顔を見ると、みゆは、いつもの目の細くなる優しい笑顔だった。目じりに少し涙がたまっているようにも見える。
喜んでくれたみたいで、本当に良かった。
ミッションはクリアだ。
もうひとつのミッションは、ぼくがもっと大人になるまであとまわしでいい。
逃げているわけじゃないけれど、みゆに「好き」だというのはまだ早い。
みゆがぼくのことを弟だと思っているのなら、弟と思えなくなるくらいかっこういい男になればいいだけのことなのだ。
喜ぶみゆが見れたのだから、今はそれで十分だと思う。
「どう? 似合う?」
ヘアゴムで髪をくくったみゆが、ポニーテールをこちらに向けて問う。
ぼくの予想通り、みゆのさらさらした黒髪に、金色の飾りがよく似合っている。
「うん、」かわいいと思う、という言葉は、お母さんが病室に入ってきた音でかき消された。
ぼくのとても長い一日は終わった。
小学四年生にして、死というものを体験したぼくは、きっと他のどの同級生より、「生きる」ということにかしこくなったに違いない。
人は死ぬ前に「人生が走馬灯のように駆け巡る」というのも、実際に体験することができた。
ぼくは、ぼくが体験した、まるで冒険のようだったこの一日を、きっとずっと忘れないと思う。
日記には詳しくは書かないで、心にしまっておこう。
日記の最後に、明日のぼくへのミッションを書き足す。
『今日できなかった分の勉強を取りもどす。』『坊主頭にする。』のふたつに決定だ。
ぼくは、みゆに釣り合う男になるために、どんな努力も惜しまないのだ。
ぼくの冒険のはなし 八日郎 @happi_rou
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