第62話

 下界へ降りると、ちょうど朝を迎える頃だった。

「お帰りなさいませ」

 家人が門を開けて二人を迎え入れた。

「うん。ただいま。腹が減った」

 涼悠りょうゆうが言うと、

「今、食事の支度をしていますので、お部屋でお待ちください」

 と家人が言った。

「うん」

 二人は部屋へ行くと、身体を横たえた。涼悠は天界へ行くと、身体がいつもより疲れることを知った。

白蓮はくれん、凄く疲れたよ」

「うん。少し休みなさい」

 白蓮は慣れているようで、疲れを見せなかった。涼悠は目を瞑って少し眠った。白蓮は涼悠の安らかな寝顔を見て微笑みを浮かべた。


 目が覚めた涼悠は、凄くおなかが空いていたようで、腹の虫が催促の声をあげた。白蓮はそれに微笑み、

「さあ、食べようか」

 と言った。涼悠が起きるまで、白蓮も食事を取らずに待っていたようだ。

「うん」

 二人は静かに食事を済ませた。これまでのことを振り返る余裕が出来た涼悠は、思い返すと、心が休まる暇もないほどに、いろいろな事が立て続けに起きていたんだと改めて思った。今、こうして白蓮と二人で過ごす時間がとても心地よく、幸せを感じた。


 涼悠は白蓮の腿に頭を乗せて横になっていた。白蓮は涼悠の髪を撫でて、頬にそっと触れて、

「まだ疲れているのだろう? 眠っていいよ」

 と涼悠に優しく微笑んだ。

「うん」

 涼悠はそう返事をして、目を瞑ると、温かなまどろみに包まれ、緩やかに眠りについた。


 夢を見ていた。白く美しい宮殿の一部屋で、涼悠は美しい琴を弾き、隣では白蓮が翡翠の笛を優雅に吹いている。美しい姿、美しい調べが心地よく、懐かしく、そして温かかった。

「我が君……」

 涼悠は自分の言った言葉で目が覚めた。

「なあに?」

 白蓮は返事をして、目覚めた涼悠に微笑みを向けた。涼悠が見た夢は、天界で過ごしていた時の記憶で、日河比売ひかわひめ布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみを「我が君」と呼んでいた。

「白蓮。夢を見たんだ」

 夢の話を白蓮に話して聞かせると、

「うん。記憶は残っていたのだね」

 と嬉しそうに微笑んで、涼悠を抱き寄せて、頬擦りした。

「白蓮、俺はこのままでいいのか?」

「うん。日河比売ひかわひめに戻る必要はない」

 涼悠の言いたい事を理解している白蓮は優しく答えた。涼悠は神格を得ている。故に神の力で日河比売ひかわひめに戻ることも出来る。涼悠がその事に気付いたのだった。白蓮はすべて分かっていたが、涼悠の望むことが白蓮の望む事であり、涼悠がこのままでいたいと望むのなら、それが白蓮の望みだった。

「うん。俺はこのままでいる」

 そう言って白蓮に抱きついて、その匂いを嗅いだ。花のような仄かに甘い香りに包まれると、涼悠はいつも心地よさを感じていた。この香りが今までずっと、涼悠を包んでいた。日河比売ひかわひめだった頃も、常に彼が傍に居たのだと、今ならはっきりと思い出せる。


 ようやく平穏が訪れたと思うと、涼悠の気持ちも羽が付いたように浮かれ始め、

「そうだ、拓真と遊んでやろう。白蓮も一緒だぞ」

 と言って、白蓮の手を取り、庭へ駆けだした。

「拓真! 遊んでやるから出て来いよ!」

 拓真のいる三番目の叔父の家に行くと、

「拓真様は、只今、呪術を学んでおります」

 と家人の者が言った。

「ああ、そうか。拓真ももうそんな年だったのか」

 沙宅家では、十歳になると、呪術について学び、十二歳になると、仙術を学ぶため、修行に行くことになっていた。

「それじゃ、仕方ないな」

 そう言って、涼悠は淋しそうな顔で戻って行ったが、いいことを思いついたとばかりに、急に明るい表情になって、

「そうだ、お前が遊んでくれよ」

 と白蓮に言った。

「うん。何をする?」

 と白蓮は微笑んで聞いた。

「追いかけっこだ。俺が逃げて、お前が俺を追いかける。お前が俺を捕まえたら、お前の勝ち。俺が逃げ切ったら俺の勝ちだ」

 そう言ってから、

「ほら、逃げるから追いかけろ!」

 涼悠はそう言って屋根へ飛び上がり、走って逃げた。それを見て、白蓮は薄く笑い、すぐに追いかけた。涼悠は白蓮に追いつかれると、得意げに身を躱して、白蓮の手をすり抜けるようにして逃げた。手が届きそうで届かない。そんな二人の追いかけっこはしばらく続いた。涼悠がふと、目を向けた先に、姉の美優みゆの姿が見えた。

「姉ちゃん!」

 嬉しくなって、屋根から飛び降りて、美優の座る廊下の前に立った。

「元気になったのか?」

 と涼悠が美優に声をかけた直後、白蓮が涼悠の背後に、花びらのようにふわりと降り立ち、後ろから手を回して、その身体をそっと優しく包み込んで、

「捕まえた」

 と言った。涼悠は顔だけ白蓮へ振り返って、

「今のは無しだ」

 と言うと、

「駄目だ。私の勝ち」

 と真剣な顔で言ったので、涼悠は諦めて言った。

「分かった、分かった。お前の勝ちだ」

 それを聞いて、白蓮は満足げな顔で、

「うん」

 と頷いた。そんな二人を見て美優は嬉しそうに微笑み、

「涼ちゃん、良かったわね。白蓮様に遊んでもらえて」

 と言った。そこへ、落ち着いた足取りで颯太そうたが歩いて来た。

「涼はいつまでも子供だな」

 そう言って、父親のような温かな眼差しを向けた。

「お前だって、同じだろ?」

 涼悠が言い返すと、

「はははっ。私はもう子供でない」

 話し方も以前と違い、大人びていた。もう、颯太は子を持つ父の顔になっていた。

「なんでだよぅ。俺ばかりが子ども扱いか?」

 涼悠が拗ねると、皆が笑った。

「白蓮まで……」

 白蓮は愛おしそうに笑みを浮かべて、涼悠を見つめていた。

「そろそろ、二人の祝言を挙げようと思う。早い方がいいから、今夜でもいいだろうか?」

 颯太が言うと、

「俺と白蓮の祝言を挙げるのか?」

 涼悠が聞いた。

「もちろんだ。二人が夫婦めおととなったことを、沙宅家の者たちで祝う。嫌なのか?」

 颯太が聞くと、

「嫌なわけじゃないが……」

 涼悠はなんだか複雑な思いだった。男同士の夫婦なんて聞いたことがない。二人の祝言を挙げて、みんなが祝ってくれるのか心配していたのだ。

「お前が憂慮していることなら問題ない。沙宅家の者たちは、皆、二人が夫婦になった事を祝いたがっている。そろそろ支度をしないと間に合わないからな。宴の準備を始める」

 颯太は有無を言わせず、準備をしに行った。

「涼悠」

 白蓮は声をかけると、涼悠を抱きしめて、

「私も皆に祝ってもらいたい」

 と言葉を続けた。

「分かったよ」

 涼悠は観念したかのように言った。みんなに祝ってもらうのは、気恥ずかしくて、どうにも居た堪れない気持ちだった。そんな涼悠を見て、美優は、

「涼ちゃんがお嫁さんを貰うのじゃなくて、お嫁に行くことになったわね。私はとても嬉しいわ」

 と笑顔を向けた。美優がこんなに喜んでくれるのなら、涼悠も嬉しかった。

「姉ちゃんが喜んでくれるなら、花嫁衣裳だって着てやるよ。どこの女よりも綺麗に着こなしたら、似合いすぎて都中みやこじゅうの男たちに求婚されるだろうな」

 などと、いつもの軽薄な言葉が口をついて出た。こんな冗談を聞いたのは、美優も久しぶりで、声を上げて笑った。しかし、白蓮の表情は曇り、

「それは困る」

 と真剣な顔で言った。

「白蓮、冗談だよ。そんな顔をするな」

 涼悠は笑いながら言った。

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