第61話

 二人は沙宅さたく家へ戻った。

「あ~、腹が減ったな」

 涼悠りょうゆうはそう言って、厨を覗くと、

「涼悠様、お帰りなさいませ」

 家人の女が嬉しそうに言った。

「お疲れでしょう? お食事のご用意を致しますので、お部屋でお待ちください」

 まだ夕餉の時間ではないが、涼悠が忙しく、まともな食事がとれていないのではないかと心配していたようだった。

「ありがとう」

 涼悠と白蓮はくれんは部屋へ行き、ゆったりと身体を横たえた。

「このところ、忙しかったな」

 涼悠が言うと、

「うん」

 白蓮は頷いて、涼悠をそっと抱き寄せ、髪を撫でて額に口づけをした。色々あったが、ようやく平穏に暮らせると思うと、心はとても落ち着いて穏やかだった。二人がそうして寛いでいると、

「お食事をお持ち致しました」

 下ろした御簾の向こうから、家人の女が声をかけた。

「うん。ありがとう。そこへ置いてくれ」

 涼悠が言うと、

「はい」

 と返事をして、膳を置いていった。それから二人で静かに食事を済ませて、

「それじゃ、禅心尼ぜんしんにとの約束を果たしに行こうか」

 と涼悠が白蓮に言うと、

「うん」

 と頷いて、縮地しゅくちの術で瞬時に大峰山の頂上へ行った。

「禅心尼、準備は出来ているか?」

 涼悠が声をかけると、

「準備も何もない」

 と言って、禅心尼が庵から出てきた。涼悠と白蓮が手を繋ぐと、二人から発せられた霊気が三人を包んだ。それは淡い光を放ち、ゆっくりと天へ向かって昇っていった。それは夕闇に昇る月のように幻想的だった。


 天界のあの大きな門の前に着くと、三人は並んでその門を通ろうとしたが、禅心尼だけが門に阻まれた。それに気付いた涼悠は、

「禅心尼?」

 門を通らず、禅心尼の元へ戻った。白蓮も涼悠と共に戻り、

「通れないようだな」

 と一言言った。涼悠は約束したからには、必ず果たそうと心に決めていたから、ここで諦めるわけにはいかなかった。

小角おづぬ様! 門を通れないんだ。助けて欲しい」

 涼悠がそう呼びかけると、真っ白な靄の中からゆっくりと歩いて、役小角えんのおづぬが門を通って来た。

「よく来たね。涼悠、白蓮。そして禅心尼ぜんしんに

 役小角はそう言って、禅心尼の手を取り、

「さあ、行こうか」

 と言葉をかけて、門の見えない靄の壁へと向かった。それは先ほど禅心尼を阻んだが、役小角に手を引かれた禅心尼を阻むものはなかった。それを見て涼悠と白蓮も門を通って天界へと入っていった。

「小角様、なぜ禅心尼は通れなかったのですか?」

 涼悠が聞くと、

「まだ穢れが残っていたからだ。私が今、浄化した」

 とさらりと言った。

「そうか。さすが小角様」

 涼悠は役小角に更なる尊敬の念を抱いた。

「涼悠、約束を果たすのが先だろう。すぐにでも恵禅尼えぜんにに会いに行くがいい」

 役小角はそう言って、涼悠に笑みを向けた。

「うん。ありがとう」

 涼悠は屈託のない笑顔を役小角へ返し、禅心尼に向かって、

「見てごらん。あそこに見える白い宮殿が恵禅尼の家だ。ほら、早く行こう! 白蓮も」

 とはしゃいで、白蓮の手を取って走り出した。それを見た役小角は目を細めた。禅心尼は置いて行かれないように、

「待て! 私を置いて行く気か!」

 と声を掛けながら追いかけて行った。静かな天界に、急に騒々しさが訪れて、神々は彼らへと目を向けた。


 三人が白い宮殿に着いて、

「恵禅尼! 遊びに来たぞ。今日は誰を連れて来たと思う?」

 と涼悠が悪戯っぽく言うと、

「ふんっ。知っている。私の不肖な妹だろう? 禅心尼、私に何か言う事はないか?」

 宮殿の奥から声が聞こえてきた。入口の戸は開け放たれ、ふわりと風に靡く薄絹の間から、奥にいる恵禅尼の姿が見えた。六人の童女が彼女を囲み、何か喋っている。

姉様あねさま

 禅心尼が恵禅尼の姿を目にすると、瞳からひとしずく流れ落ちた。

「何をしている。早くここまで来い。いつまで待たせるのだ?」

 恵禅尼は気だるそうに言った。長椅子に身体を横たえた妖艶な姿の恵禅尼。下界での姿とはまるで違うが、禅心尼にとって見た目の違いなど問題ではなかった。恵禅尼の傍まで駆け寄ると、

「姉様」

 と恍惚とした表情で恵禅尼を見つめた。

「まったく、お前と言う奴は」

 恵禅尼がそう言って、跪いている禅心尼の頭を撫でた。

「禅心尼」

「よく来たね」

「会えて嬉しい」

「可愛い妹」

「泣かないで」

「怒ってないよ」

 六人の童女が次々、言葉をかける。禅心尼には、この童女たちが恵禅尼の心だと分かっていた。

「姉様。お会いできて、私も嬉しい」

 禅心尼がそう言うと、恵禅尼は彼女を椅子に座らせて、その胸に抱いた。

「もう、お前を離したりはしない。ここで一緒に暮らそう」

 と言葉をかけた。神格を持たない禅心尼が天界で暮らせるのだろか? と涼悠が疑問に思ったが、

『神格が無くても大丈夫だ』

 と白蓮が念で答えた。白蓮も神格を失っていたが、天界で暮らしていたという事を思い出した涼悠は納得した。

「恵禅尼、禅心尼。積もる話もあるだろう? 俺たちは下界へ帰るぞ。禅心尼との約束も果たしたしな」

 涼悠が言うと、

「ふんっ。約束を果たしたからといって、すぐに帰るとは無礼ではないか」

 恵禅尼が言った。

「もう帰っちゃうの?」

「せっかく会えたのに?」

「淋しいよ」

「もっといて欲しい」

「ありがとう」

「また来てね」

 童女たちが次々と言った。

「また来るよ。じゃあ、またな」

 涼悠はそう言って、恵禅尼の宮殿をあとにした。


「小角様。禅心尼の事、ありがとう。恵禅尼も嬉しそうだった」

 役小角の庵へ行き、涼悠は礼を言った。

「うむ。良かった」

 役小角はそう言って微笑んだ。

「それじゃ、俺たちは下界へ戻る」

 役小角に見送られて二人は下界へ戻った。天界ではほんの少しの時を過ごしたが、下界では三日が過ぎていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る