第58話

 翌朝、涼悠りょうゆう一行は賀茂家かもけを発ち、大峰山へ向かった。陽が高く昇ると、周りが木々に囲まれた道に差し掛かった。その時、牛車ぎっしゃが急に止まり、

沙宅さたく様」

 従者が怯えたように言った。

「うん。怯える必要はない」

 何が起きたのか、涼悠には分かっていた。涼悠と白蓮はくれんが牛車を降りて、行く手を遮った者と対峙した。それは巨大な蝶だった。美しくも妖しい瑠璃色の翅をゆっくりと動かして、鱗粉を振りまきながら舞っている。

「お前はこの間の虫だな」

 涼悠が言うと、

「はい。貴方様に命を救われた虫でございます」

 と蝶は答えた。

「はははっ。自分で虫と言うのか。名前はないのか?」

 涼悠が聞くと、

「私には名はありません」

 と答えた。

「そうか。それは可哀想だな。俺が名付けてやろう。瑠璃色の翅が綺麗だから瑠璃と呼ぼう」

 涼悠がそう言うと、蝶は嬉しそうに翅を動かし、

「ありがとうございます」

 と言うと、キラキラと舞う鱗粉で姿が隠れて、次に見えたときには瑠璃色の服をふわりと優雅に纏った少女の姿になっていた。深い青色の長い髪を後ろで一つに束ね、顔は輝くような白さに、頬はほんのり桃色で、唇は桜貝のように愛らしく、清楚に両手を前に揃えている。

「お前、前より霊力が上がったな」

 涼悠が言うと、

「はい。貴方様に呪符を剥がして頂いたおかげで、霊力も回復し、徐々に強くなっていきました」

 と瑠璃が答えた。

「それで、今日は何の用だ?」

 笑顔を向けて涼悠が聞くと、

「貴方様が、私を作った者を追っていると、虫たちから聞きました。それで私はお役に立ちたく、馳せ参じた次第です」

 と瑠璃が答えた。

「そうか。それじゃ、一緒に行こう。お前も牛車に乗って行け」

 涼悠が言うと、白蓮は微かに眉を寄せた。

「お心遣いは嬉しいのですが、私には恐れ多いです。他の者と共に歩きますので、お二人はどうぞ中へ」

 と瑠璃は深く頭を下げた。

「そうか、分かった」

 涼悠はそう言って、白蓮と共に牛車に乗った。


 陽が落ちる頃、ようやく大峰山の中腹に着いた。これ以上は牛車では登ることが出来ないため、従者たちにここで待つように言った。

「また、置いていかれるのですか?」

 従者たちは、もう既に闇が迫っている山の中に置き去りにされることが不安でたまらない様子だった。

「大丈夫だ。ついて来るより、ここにいた方が安全だ。瑠璃、こいつらの傍に居て守れ」

 涼悠が言うと、

「はい!」

 瑠璃は嬉しそうに返事をした。


 涼悠と白蓮は霊気に包まれて山の頂上まで登っていった。そこには粗末なつくりの建物と、季節外れの白く大きな芍薬の花が咲いていて、その傍らに静かな霊気を纏った禅心尼ぜんしんにが待っていた。

「そろそろ来る頃だろうと思っていました」

 禅心尼が言うと、

「やっと会えたな」

 涼悠が笑みを湛えて言った。

「なぜ、首を突っ込む?」

 禅心尼が静かに聞いた。

「人が傷つけられるのを放ってはおけないだろう?」

 涼悠が当然のように言うと、

「他人事なのにか?」

 と禅心尼は呆れたように言葉を返した。

「誰だろうと、傷付くのを見過ごせない」

「ふんっ。余程のお人好しか、真の善人か。どちらにせよ、己が傷ついてどうするのだ?」

 卑怯な手を使って、涼悠に術をかけておきながら、他人事のように禅心尼が言った。それを聞いた白蓮は、明らかに不快な表情を見せて涼悠の前に出て、

「術を解け」

 と一言言った。その言葉が発せられると同時に、禅心尼は苦悩の表情に変わり、喉を潰されたかのように声も出ない様子。

「白蓮、もういい。術は解かれた」

 涼悠が言うと、白蓮は冷ややかな視線を禅心尼に一瞬向けて、涼悠を抱き寄せた。

「見えているのか?」

 心配そうに白蓮が言うと、

「ああ。だからこれ以上、禅心尼を苦しめるな」

 と涼悠は白蓮を宥めた。

「分かった」

 と白蓮は答えながらも、心では禅心尼を許してはいない。

「ところで禅心尼。お前がこんなことをした理由を話してくれ」

 涼悠は冷静に言った。

「何故、お前に話さなければならないのだ?」

 禅心尼はつっけんどんに言ったが、本心では、誰かに聞いて欲しいと思っていた。それを涼悠は分かっているから、

「俺たちが聞いてやるから、話してくれ」

 と促すと、禅心尼は語り始めた。

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