第59話

 二十五年前の話、玄道げんどうが宮殿へ召され、恵禅尼えぜんにが一人で更なる厳しい修行を始めた。禅心尼ぜんしんにはそれを淋しく思っていた。尼寺へ戻ることのない恵禅尼に見捨てられたかのように感じていたのだ。修行の邪魔になると思い、恵禅尼に会いに行かなかったが、そのうち、雅な貴族が恵禅尼と恋仲になったと噂が流れた。姉弟子の幸せがそこにあるのなら、それを否定するつもりはなかった。しかし、その関係は、裏切りのような形で終わりを迎えた事を知った。そのことで恵禅尼がどれだけ傷付いただろうと、考えるだけでもはらわたが煮えくり返る思いだった。男への憎しみが生まれたが、尼僧の身で邪心に囚われてはいけないと心を鎮めるように努めていた。しかし、十年前、恵禅尼が邪に飲み込まれ、邪神と化した時、彼女を止めようとして、己も邪に飲み込まれてしまった。恵禅尼ほどの高僧が邪に飲まれたのは、心の奥底に、負の感情があったからだろう。それは言うまでもなく、男の裏切りのせいだった。何もかもが、あの男が原因なのだと。

 結局、その事件で恵禅尼は封印され、禅心尼は遠流に処された。しかし、裏切りの男は、今は大納言にまでなって、地位と名誉と財を手にしている。この、あまりにもの理不尽さを、許すことが出来なかった。


 禅心尼の語りが終わると、

「そうか。理由は分かった。だが、もう気を静めてくれ。恵禅尼はこんなことを望んではいない」

 と涼悠は言った。

「分かったようなことを……」

 涼悠の言葉に、禅心尼は不機嫌そうに腕組みをして、顔を背けた。

「お前、恵禅尼の事が好きなんだろう?」

 涼悠が言うと、

「ふんっ。だからなんだ?」

 と禅心尼は言い捨てた。

「だから、今度、一緒に会いに行こう」

 涼悠が笑顔で言う。

「はぁ? お前は何を言っている? 姉様あねさまは天界に居られるのだ。会えるわけがないではないか」

 禅心尼が呆れたように言ったが、涼悠は得意げな顔で、

「俺は天界へ行くことが出来るんだ。お前は神格を持たないが、神になれる素質があるから、連れて行くことも出来るぞ」

 と言い返した。

「まさか、それは本当か?」

 少し驚いたというような表情で禅心尼が言うと、

「ふんっ」

 と白蓮は鼻で笑った。禅心尼は白蓮を見て、彼が否定しないなら、涼悠の言っている事が嘘ではないと確信した。

「それなら、今すぐ連れていけ」

 禅心尼が傲慢な態度で言うと、

「今は駄目だ。俺たちは一度、都へ帰る。用事を済ませたら、お前の望みを叶えてやるから、少し待っててくれ」

 涼悠が穏やかに言った。今すぐ行きたかった禅心尼だが、約束してくれたことで、心が落ち着いたようだ。

「分かった」

 ようやく、この件も解決した。

「ところで、お前。蟲毒をやっただろう? あれはもう二度とやるなよ。虫にも命があるんだ。あいつに掛けた術を解け。もう、お前の物じゃない」

 涼悠が言うと、

「はっ! たかが虫にまで。お前はどこまでお人好しなのだ? 術? ああ、喋らせない術と、力を抑える術だな? 分かった解いてやろう。それと、蟲毒はもうやらないと約束する。だから、お前も私との約束を違えるなよ」

 禅心尼はそう言って、瑠璃にかけた術を解いた。

「禅心尼、ありがとう。俺も約束は守る」


 涼悠と白蓮は従者の元へと戻った。

「お帰りなさいませ」

 従者たちは二人が戻って来た事に安堵した。

「貴方様には、感謝してもしきれないほどの、恩を頂きました」

 瑠璃は地べたに跪いて平伏した。

「瑠璃、そんなことはしなくていい。俺たちは友達じゃないか頭を上げろ」

 涼悠はそう言って、瑠璃を立たせて、服に付いた土を払った。

「友達とは?」

 その言葉を知らない瑠璃が聞いた。

「心を許し合って、対等な間柄という事だ。だからあんまり畏まるなよ」

 涼悠はそう言って、瑠璃に笑顔を向けた。

「私は虫です。貴方様と対等など……」

 瑠璃が下を向いて、口ごもると、

「そんなことを言うなよ。淋しいじゃないか」

 涼悠は瑠璃の肩に手を置いて、

「ほら、顔を上げて俺を見ろ。これからも宜しくな」

 と言葉をかけた。瑠璃は顔を上げて涼悠の顔を見て微笑み、

「はい」

 と嬉しそうに答えた。

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