第31話

 役小角えんのおづぬが話し終えると、涼悠りょうゆうは目を輝かせて、今まで派手なだけだと思っていた彦瀲尊ひこなぎさのみことを見つめた。

「お前って、いい奴なんだな。何で言わないんだよ。俺たちのためにそんなにも尽くしてくれただなんて、知らなかったじゃないか。さっきもお礼を言ったけど、それだけじゃ足りないよな? もう一度、ありがとうと言っておくよ。俺たちに何かしてもらいたい願い事はないか? できることなら何でもやるぞ」

 涼悠はにっこり笑って彦瀲尊ひこなぎさのみことに言うと、

「ならば、また、二人の奏でる音が聞きたいな」

 と答えた。

「音って? ああ、白蓮はくれんが話してくれた笛と琴だよな? 俺が琴を弾けばいいんだよな? しかし、ここには琴はなさそうだ。白蓮、何とかならないか?」

 涼悠が言うと、白蓮はたもとに手を入れて、

「琴ならここに」

 そう言って取り出した。まさか、白蓮の袂に琴が入っているとは思わなかった涼悠は驚いて、

「お前、なんてところに琴を仕舞っているんだ? 重かったんじゃないか?」

 と言ったが、そもそも、重いという前に、そんな大きなものが入るわけがない。と言うことは、やはり白蓮の袂は普通ではなく、法力を使って大きな物も、重い物も収納できるようになっているのだろう。

「重くはない」

 と白蓮は答えて、琴を涼悠の前に置いた。それはもちろん、日河比売ひかわひめの物で、色鮮やかな蝶が舞う姿が描かれていた。話しで聞くよりも本物はとても雅で美しかった。

「すごく綺麗だな」

 涼悠が目を輝かせて言うと、

「お前の物だ」

 と白蓮が言った。

「俺が貰ってもいいのか?」

日河比売ひかわひめの物だから、これはお前の物。貰うも何もない」

 それを聞くと、涼悠は嬉しくてその琴に触れた。木の触り心地もよく、張られた弦に触れて音を聴くと、心が穏やかになる。その響きが懐かしいと感じるのは、日河比売ひかわひめの頃の名残だろうか? 涼悠は自分の知らない調べを奏でていたが、その手を止めることはなかった。その音に合わせるように白蓮が笛を吹くと、二つの音が重なり合い美しく調和した。それは正に、あの頃の二人の奏でていたものだった。耳に心地よく、心は和み、身体には気が養われ、誰もがこの音に心身ともに癒されていく。

 役小角の小さな庵からその音は緩やかに、そして、鮮明に流れて、他の神々の耳にも心にも届いた。


 涼悠は弾き終わると、

「不思議だな。この琴の弦に触れたとたん、今まで聴いたこともないはずの調べを、まるで知っていたかのように、俺のこの指が奏でた。やっぱり、皆が言うように俺は日河比売ひかわひめなんだろうな」

 そう言って、白蓮に向かって微笑んだ。その姿は昔、天界で見た日河比売ひかわひめそのものだった。今までいろいろな事があって、やっとこうして日河比売ひかわひめが自分の元に戻って来た事に安堵し、白蓮も日河比売ひかわひめに微笑みを返す。

「白蓮、お前もそんな顔をするんだな」

 いつも憂いを含んだ表情の白蓮だが、今はそれがなく、幸せそうな笑みを見せた。涼悠はそれが嬉しくて、つい白蓮の頬にそっと手を触れた。白蓮はその手に自分の手を重ねて、熱のこもった眼差しで涼悠を見つめる。

 見つめ合う二人を、役小角えんのおづぬ彦瀲尊ひこなぎさのみことは穏やかな表情で見守った。その時、庵の外では何やら数人の気配がした。二人の奏でる音に惹かれて、何人か集まって来ているようだ。

 役小角えんのおづぬが口を開いた。

「外に神々がお見えになられているようだ。二人とも、外へ出て顔を見せてあげるといい」

「神々だって? まさか、俺たちに会いに来たのか?」

 涼悠が驚いて言うと、役小角えんのおづぬが答えた。

「そうだ。神々はお前たち二人の奏でる音が好きで、お前たちのことも好きなのだから会いに来たのだよ」

「分かった。白蓮行こう」

 涼悠は白蓮の手を取り、外へ出ると、待ち構えていた神々は二人の姿を見て感嘆の声を上げた。

「おおっ、これはまさしく布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみ日河比売ひかわひめ。やはり、今の調べもお二人の奏でたものに違いない。ほら、私の言った通りであろう?」

 一人の神が言うと、

「本当にそうだ。あのお二人が戻って来たのだな」

「調べは、あの頃と変わらない。本当に癒される」

 と口々に言い、皆が喜んでいることが分かった。神々が喜んでいるのは、涼悠も嬉しかったが、自分が声を出したら男だと分かってしまい、彼らを失望させてしまわないかと心配で黙っていると、

「皆様に喜んでいただけて、私も嬉しいです」

 と白蓮が言った。それを聞いた神々は皆、一様に驚いた表情を見せた。白蓮が神であった頃、彼はこのようなことは一切言わなかった。その代わりに日河比売ひかわひめが笑顔を振りまいて、神々と言葉を交わしていたのだ。神々は二人の様子に違和感を覚え、訝るように見ていることに気付いた白蓮は、

「妻は疲れているのです」

 と言った。それを聞いた神々は、

「それは失礼した。気が付かず申し訳ない。お大事になさって」

「お二人に会えて良かったです」

「またお会いしましょう」

 そう言って帰って行った。白蓮が機転を利かせた事で、面倒なことにならずに済んだとほっとした涼悠だが、妻と言われて、恥ずかしいやら、嬉しいやらで、今は自分がどんな顔をしているのか想像もしたくない。白蓮はそんな涼悠の気持ちを知ってか知らずか、こちらを向いて優しく微笑むと、

「心配は要らない。お前は私のそばにいればいい」

 と言って身体を抱き寄せた。その時、庵から役小角えんのおづぬ彦瀲尊ひこなぎさのみことも出てきた。涼悠は抱き寄せられているのを見られるのが恥ずかしくて身じろいだが、白蓮にしっかりと抱かれていて、彼から逃れられなかった。

日河比売ひかわひめ、ここへは目的があって来たのであろう?」

 彦瀲尊ひこなぎさのみことが聞くと、涼悠は思い出したかのように言った。

「そうだ。恵禅尼に会いに来たんだ。どこにいるんだ?」

「向こうに白い屋根が見えるだろう? 恵禅尼はあそこにいる」

 その建物は屋根だけではなく、全体が真っ白だった。他の宮殿はどれもこれも煌びやかで豪奢な建物だったから、逆に目立っていた。

「そうか、あそこにいるんだな。白蓮行こう」

 涼悠が白蓮に声をかけると、

「分かった」

 と言って振り返り、

小角おづぬ様。行ってきます」

 と役小角に声をかけ、

彦瀲尊ひこなぎさのみこと、ありがとうございました」

 と礼を言って頭を下げてから、涼悠と手を繋いで白い宮殿へ向かって歩いた。すると、

「私も行こう」

 と彦瀲尊ひこなぎさのみことも二人の後ろについて来た。

「お前も来るのか?」

 涼悠が振り返って言うと、白蓮は立ち止まって涼悠に、

「お前と呼ぶのはやめなさい」

 と諫めた。彦瀲尊ひこなぎさのみことはそれを見て笑いながら、

「本当に日河比売ひかわひめは面白いな」

 と言っただけで、まるで気にしていないようだったが、涼悠は白蓮に言われた通り、お前と呼ぶのはやめようと思った。

「分かった。じゃあ、なぎさって呼ぶよ。彦瀲尊ひこなぎさのみことじゃ、長すぎる」

「はははっ。私をなぎさと呼ぶか。お前だけだよ、そんな呼び方をするのは。ますます気に入った。その呼び名でいい」

 彦瀲尊ひこなぎさのみことは扇子を優雅に振りながら上機嫌に笑った。そんな彼の顔をよく見ると、整った顔立ちをしていることに気付いた。色白の肌をしていて、綺麗に弧を描いた眉の下には、海の底のような青みがかった黒い瞳。その瞳を見つめると、彼の情の深さが見える。先ほど役小角えんのおづぬが話してくれたように、彦瀲尊ひこなぎさのみことには常に深い考えがあり、深い情と慈しみの心を持っているのだと知ることができて、涼悠も彼が好きになった。

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