第32話

 涼悠りょうゆうたちは白い宮殿へ向かって歩いているのに、なぜか距離が縮まらない。

「どうなっているんだ? ちっとも近づかないじゃないか」

 涼悠が言うと、

「お前が思っているより、割と遠い所にあるんだよ。まあ、気を楽にして、。歩いていればいずれは辿り着く」

 と彦瀲尊ひこなぎさのみことがのんびりと言った。天界は思ったよりも広く、役小角えんのおづぬの庵を出て半炷香はんちゅうこうほど歩いたところで、目の前に川が見えてきた。

「天界にも川があるんだな?」

 涼悠は興味津々で川を覗くと、

「川の中に星が流れている。なんだ? この魚、尾びれが薄絹のようだ」

 見るものすべてが目新しく、下界では見た事もない物ばかり。楽しくて夢中になっている涼悠はうっかり川に落ちそうになった。

「危ない」

 白蓮はくれんは涼悠の身体を優しく抱き寄せた。

「ありがとう」

 涼悠はにっこりと微笑んだ。

「お前は楽しくないと言ったが、天界って楽しい所じゃないか」

 涼悠が白蓮に言うと、曇った表情をして何も言わなかった。それを見て彦瀲尊ひこなぎさのみことが言った。

「彼は日河比売ひかわひめがいない所は、どこでも楽しくなくて、日河比売ひかわひめが一緒ならどこでも楽しいのだよ」

 その言葉を聞いて、涼悠は嬉しくなって白蓮の顔を覗き込み、

「お前、そんなに俺のことが好きなんだな」

 と揶揄うように言うと、

「好きだ」

 白蓮はそう言って、涼悠を抱きしめて頬に口づけをした。

「お前、なぎさの前で何てことをするんだ。恥じらいはないのか?」

 涼悠は恥ずかしさで、顔から火を噴きそうなほど熱くなった。

「はははっ。私は構わない。好きなだけ睦み合うがいい」

 彦瀲尊ひこなぎさのみことは派手な扇子で口元を上品に隠し、楽しそうに笑っている。白蓮はそれを横目に、涼悠の唇に自分の唇で軽く触れて微笑んだ。それはまるで悪戯をして、面白がっている子供のようだった。白蓮がこんな表情を見せるとは思わなかったが、それがとても可愛らしく愛おしい。しかし、そう思ったのもつかの間、彼ら二人の表情を見て分かったことがある。涼悠は彼らに揶揄われたのだ。

「お前ら! 俺を揶揄っただろう!」

 涼悠がそう言うと、二人は楽しそうに笑った。白蓮が声を出して笑うのを初めて見た。彼もこんな風に笑うんだなと、涼悠は嬉しく思った。

「涼悠、遊ぶのはこれくらいにしよう。先を急ぐ」

 そう言って白蓮は涼悠の手を取り優しく握ると、川に架かる橋を渡り、白い宮殿を目指して歩いた。

「ここは下界とは時の流れが違う。美優みゆのために急がないといけない」

 白蓮がそう言うと、涼悠ははっとした。決して忘れていたわけではない。

「そうだ、早くしないと。ほら、急ぐぞ!」

 そう言って、涼悠は白蓮の手を引いて足を速めた。その後ろを彦瀲尊ひこなぎさのみことが扇子で扇ぎながら、ゆっったりと優雅に歩いている。それでも、前を行く二人に後れを取ることはなかった。


 それから一炷香いっちゅうこうほど歩くと、目的の白い宮殿の全貌が見えてきた。白い塀に囲まれ、正面には門があり、硬く閉ざされていて、外側から大きなかんぬきで施錠されている。この中に恵禅尼えぜんには禁固されていた。後ろにいた彦瀲尊ひこなぎさのみことが、

「門を開けよ」

 と言うと、閂が抜けて門が開いた。彦瀲尊ひこなぎさのみことが先に入ると、涼悠と白蓮もそれに続いた。すると、後ろで再び門は閉じられ、閂がかかる音がした。彦瀲尊ひこなぎさのみことは気にせずに奥へ向かう。そこには立派な宮殿がそびえ立っていた。三重の屋根の瓦も白く、下から見上げるとかなり高さもある。入り口の戸は大きく開かれて、そこに吊るされた白い薄絹が風にゆらゆらとなびいていた。

「何用じゃ?」

 女の声が尋ねた。三人は入り口で止まり、

「お前に聞きたいことがある」

 と涼悠が言った。風に揺れる白い薄絹がふわりと大きく靡くと、奥に人がいるのが見えた。

「話すことなどない」

 と女が答えると、

「恵禅尼よ、話してやってはくれまいか?」

 と彦瀲尊ひこなぎさのみことが穏やかな口調で言った。

彦瀲尊ひこなぎさのみことの頼みなら聞いてやっても良い。入るがいい」

 恵禅尼はとても落ち着いた様子で、素直に三人を招き入れた。そこは無駄に広いが何もなく、入り口から奥の玉座まで五丈ほどあり、白地に薄い桃色の模様が描かれた絨毯が敷かれていて、玉座には一人の女がいた。その玉座は細かな彫刻が施された木製の長椅子で、女は足を延ばして脇息きょうそくに肘をつき気だるそうにしている。女に近づいて見ると、下界で見た恵禅尼とは服装も雰囲気もまるで違い、別人のようだ。身体にぴったりとした服は、赤い生地に金糸の刺繍が施され、白地の帯を締め、白い薄絹のほうを緩やかに纏い、白く美しい素足が広がった裾から見えている。零れ落ちそうなほど豊満な乳は上の方が服から出ていて淫らだ。下界では頭に頭襟ときんを被っていて顔はよく見えなかったが、こうして見ると整った顔立ちをしていることが分かった。顔周りの髪は両側に一筋ずつ残して後ろに結い上げ、豪華な装飾の金の髪飾りを付けている。白く滑らかな肌で、美しい形の眉、瞼には密集した黒い睫に、黒曜石のように輝く美しい瞳。頬はほんのり桃色で、真っ赤で艶やかに潤う唇。得も言われぬ美しさだが、それがかえって妖しさを醸し出していた。

「何でも聞くがいい」

 恵禅尼はどうやら機嫌がいいようで、微かに笑みを浮かべている。

「お前、何であんなに怒っていたんだ?」

 涼悠の質問には誰もが唖然とした。恵禅尼も少し目を見開いたが、元に戻って、逆に聞き返した。

「なぜ、そのような質問をするのだ? 私はお前の両親を殺したのだぞ」

 涼悠にとって恵禅尼は親の仇であり、憎むべき対象のはずだと誰もが思っている。それなのに、涼悠の質問は的を射ない。なぜ、それを知りたいのか。他に聞くべきことがあるのではないか。とそれぞれ思うのだった。

「師匠が言っていた。人には人の役割がある。お前にはお前の役割があって、それはお前のさがで、変えようのないものだ。起きてしまった不幸は仕方のないこと」

 涼悠は静かに、そして穏やかに言った。両親の死は、涼悠にとって辛い事で、その当時は怒りや憎しみが湧き、感情を抑えられなかった。しかし『月下げっか白蓮はくれん』の掛け軸を眺めているうちに、その感情も薄らぎ、修行によってこのような境地に至ったのだった。普段の涼悠からは想像もできないが、彼の精神は既に悟りを開き、雑念を捨て、自我を超越した意識状態に達しているという事なのだろう。


 涼悠の言葉を聞いて、理解した恵禅尼は、

「お前がそう言うのなら、それでいい。しかし、お前も酷なことを言う。お前が私に怒りや憎しみの感情をさらけ出して責め立ててくれた方が余程良かった。お前は私を責めもせず、怒りすら見せない。それがかえって自責の念を強くしてしまうではないか」

 と自嘲するように薄く笑った。

「自分を責める必要はない。俺はお前の話しを聞きに来たんだ」

 涼悠はそう言って、恵禅尼に微笑みかけた。その無邪気さに少し呆れて、少し心の荷が下りたように、彼女はほっと息をついた。

「お前が聞きたい事に答えてやろう。だが長い話しになる」

 恵禅尼はそう言うと、パチンッと指を鳴らした。すると、どこから来たのか童女が数人現れ、涼悠たちのために円座と、料理と酒の乗った膳を運んできた。この童女たちはもちろん人ではなく、恵禅尼が法力で動かしているのだ。それにしてもよく出来ていて、それぞれ違った顔で、楽しそうに微笑みを浮かべて、微かに笑い声も聞こえた。

「さあ、くつろがれよ」

 恵禅尼の前の座卓にも酒と料理、果物が置かれ、童女たちは彼女の周りに集まり、小さく笑っている。

「それでは、話して聞かせてやろう」

 恵禅尼はそう言って、語り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る