第23話

 時は遡り、白蓮はくれんが神であった頃、その名を布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみといって、日河比売ひかわひめを妻に娶り、天界で優雅に暮らしていた。母神ははがみの桜が散るという性質を持ち、ふわふわとした花びらの如く原初の国土を支え、国造りの神として名が知られていた。その容姿は、抜けるような白い肌、涼やかな瞳は青く輝き、すっきりと通った鼻筋に、綺麗な形の唇は桜の花びらのよう。得も言われぬ美しさだが、ほんの少し、憂いの影が見え、他を寄せ付けぬ雰囲気を纏っていた。


 妻の日河比売ひかわひめは水にまつわる神で、清らかな心と、慈しみを持ち、誰からも愛される存在であった。そして、その容姿もまた、誰もが愛さずにいられないほど魅力的で、それを言葉に表すのなら、一面に白い花が咲いた中に、真紅の一輪の花があでやかに咲いて、他を圧倒するかの如く、強い印象と華やかさがあり、誰もがそれについ見惚れてしまう。


 雅な二人は音楽を好んだ。布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみの持つ翡翠ひすいの笛には、花の模様が彫られていて美しく、日河比売ひかわひめの琴には色鮮やかな蝶の舞う姿が描かれていた。二人の奏でる風雅な音に、他の神々は心が安らぎ癒されるのだった。


 この清らかで美しく、皆に癒しを与える日河比売ひかわひめをどうしても欲してしまうのは仕方のないことだが、ついに我慢が出来ずに、その花を摘もうと手を出してしまった愚かな神がいた。


 その神の名は、火須勢理命ほすせりのみことという。父神ちちがみ瓊瓊杵尊ににぎみのみこと母神ははがみが火中で三人の子を産み、その二番目として生まれた。その容姿は端正な顔立ちだが、眉尻は上がり気味で、強い眼光は剛毅な性格をよく表していた。火の盛んに燃える中に生まれた火須勢理命ほすせりのみことは、熱く燃え滾る感情の持ち主で、日河比売ひかわひめを一目見た時から、その魅力に我を忘れ、激しく恋慕した。しかし、その時すでに布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみの妻になっており、その想いを遂げることなど出来るはずもなかった。それでも、募る想いが炎のように燃え上がり、その性質は止められるものではなく、ついに日河比売ひかわひめを我が物にしようと捕えたが、布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみの怒りに触れ、逆に囚われた。そして、布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみの訴えにより、天之御中主神あめのみなかぬしのかみから罰を受け、下界へ追放された。

 火須勢理命ほすせりのみことは、黒い沼地に落とされ、その身体を黒く光沢のある鱗が覆い、非常に恐ろしい顔の龍の姿となっていた。沼地の泥は冷たく身体にまとわりつき、ぬめぬめとした感触は不快極まりなく、低く唸り声を上げながら沼から這い出て身震いし、泥を払い落とした。空を見上げると、そこには青く光る満月が浮かび、嘲るように黒龍を見下みおろしている。

「あの月はまるで、日河比売ひかわひめ布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみのようだ。地に落ちた私を、二人は見下みくだしているだろう。しかし、私が悪いのではない。日河比売ひかわひめが美しいことが罪なのだ。そして、布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみが独り占めしていることが悪い」

 罰を受けてもなお、反省するどころか、己に非はないという。天界の神々は、そんな黒龍に嘆き、半ば呆れて、情けをかけることもなかった。


 黒龍となり、一月ひとつき二月ふたつきと時は流れるように過ぎていった。天界では神として優雅な暮らしをしていたことを懐かしみ、今の己の姿に怒りを覚え、ついにその性質の如く、熱い炎のように燃え滾る感情を爆発させた。黒い炎を口から吹き、長く大きな身体をくねらせて空を飛び、人々の暮らす里まで行くと、すべてを薙ぎ払い、多くの命を奪った。

 それを知った日河比売ひかわひめは、嘆き悲しみ、その地へ降り立ち、

「黒龍よ、怒りを鎮めなさい」

 と声をかけた。その声が届いたのか、黒龍は暴れることを止めて振り返ると、

日河比売ひかわひめではないか。やはり、私の元へ来たのだな」

 と嬉しそうに自信たっぷりな様子で言った。しかし、そのすぐ後に、布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみも降り立ち、日河比売ひかわひめの傍らに立った。それを見た黒龍は、再び怒りの炎が燃え上がり、ひどく暴れると、人里はすべてが黒く焼け焦げてしまった。

「もう、これ以上の情けは無用。お前を根の国へ流す」

 布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみ伊邪那美命いざなみのみことに頼み、この場に根の国への門を開かせた。根の国とは、死者の魂の行く場所であり、そこには穢れた魂も送られていたため、悪霊邪鬼の根源とされている。そこにいる伊邪那美命いざなみのみこと黄泉津大神よもつおおかみと呼ばれ、根の国の主宰神しゅさいしんとして、その国を治めていた。

「行け!」

 布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみが袖を大きく振ると、強い風が吹き、黒龍は根の国へ続く門へと吸い込まれて行った。その時、大きな尻尾が日河比売ひかわひめを捉えて強く巻き付き、そのまま引きずり込まれてしまった。黒龍と日河比売ひかわひめが門を通るとすぐにそれは閉ざされて消えた。

日河比売ひかわひめ!」

 どんなに叫んでも、その声は届かないだろう。嘆いているわけにもいかず、布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみは天界へ戻り、もう一度、伊邪那美命いざなみのみことに頼みごとをしたが、聞く耳を持たなかった。なぜなら、一度目の頼みは、美しい布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみに頼まれたことが嬉しかったからで、二度目の頼みは、彼の妻を返して欲しいという事で、それに焼きもちを焼いたのだった。

 根の国での伊邪那美命いざなみのみことの姿は、人目を憚るほど醜く腐っている。そこへ煌びやかに輝くほど美しい日河比売ひかわひめが黒龍によって連れて来られたことを、ひどく怒っていた。そして、黒龍が日河比売ひかわひめへの狂おしいほど熱く滾る想いを抱いていることや、夫である布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみからの深い愛情を独り占めしていることを深く恨み、根の国から出してはくれなかった。

布波能母遅久奴須奴ふはのもぢくぬすぬよ、聞きなさい。日河比売ひかわひめが根の国へ来たことは、それが必要であったからでしょう。火須勢理ほすせりが黒龍となったのも、日河比売ひかわひめが起こしたことであり、その身の穢れを落とさなければならない」

 と伊邪那美命いざなみのみことは言った。布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみはその言葉に従い、日河比売ひかわひめの穢れが落ちるまで待ち続けた。それは優に百年を超えた。

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