第24話

 根の国で日河比売ひかわひめは、暗い洞窟に百の亡者と共に閉じ込められていたが、それを嘆くことはなかった。光が一切いっさい入らない、真っ暗な洞窟の中で、日河比売ひかわひめの身体から発せられる霊気の淡い光が醜い姿の亡者を照らす。現世で罪を犯した者の成れの果てだった。しかし、その姿を恐れる事も、嫌悪することもなく、優しく語り掛け、水を与え、渇きを癒し、痛みがあるという者にはその手で触れて、痛みを取り除いた。そうして、一人、また一人と、亡者の魂を癒し、天へと送っていた。百年の月日が経つと、百の亡者の魂はすべて天へ召されていた。


伊邪那美いざなみよ。私の妻を返してくれ」

 いくら待ち続けても、日河比売ひかわひめを返してくれる気配もなく、とうとう我慢の限界とばかりに、布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみは根の国へ行き、今度は力づくで日河比売ひかわひめを奪うと、

「己! 許さぬ!」

 伊邪那美命いざなみのみことが恐ろしい形相で追いかけてきたが、その追っ手を阻むため、大岩を落として根の国を飛び出した。伊邪那美命いざなみのみことはそれ以上追いかけることは出来なかったが、その怒りをぶつけると布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみは白い蛇に、日河比売ひかわひめは消滅した。

日河比売ひかわひめ!」

 白蛇となった布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみが叫んだが、やはり声は届かなかった。


 日河比売ひかわひめがどこへ消えたかというのは、のちに分かった事だが、人として転生てんしょうしたのだった。

 白蛇となった布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみは地面を這いずり、十数年かけて転生てんしょうした日河比売ひかわひめを探し続けて、ついに出会うことが出来た。


 それはある夜、広い敷地にある大きく立派な屋敷での事。空には青く輝く満月が浮かび、その淡い光の下にも関わらず、陽に照らされたかのように華やかな少女が佇んでいた。白蛇は一目でその少女が己の妻であることを確信した。カサカサと音を立てて、暗い茂みから姿を現すと少女は言った。

「待っていましたよ」

 白蛇は少女へ近寄り、

「迎えに来た。しかし、神格を失い力が使えない」

 と嘆いた。

「構いません。わたしも今は人の子。あなたがいればそれでいいのです」

 少女はそう言って、手を差し伸べると、白蛇はその白く細い指の先にそっと口づけをした。

「白くて美しい姿。あなたをびゃくと呼びましょう」

 少女が言うと白蛇は、

「では、あなたを何と呼んだらいいだろう?」

 と尋ねた。

「わたしの名はりょう

 少女は答えた。


 茂みから出た白蛇は、その身体を晒すと、青白い月の光に照らされて白く輝き、幻想的で得も言われぬほど美しい。

「わたしの手に乗って、一緒に屋敷へ戻りましょう」

 りょうはそう言ったが、

「私は蛇。あなたと屋敷へは行けません」

 と悲し気に言った。

「それでは、人の姿になってはどう?」

「私にはその力が足りません」

 びゃくが言うと、りょうは言った。

「月の光があなたに力を与えています。今なら人の姿にもなれるでしょう」

 びゃくりょうの言葉を信じて念じると、その姿は白い靄に包まれゆらゆらと揺れて人の姿を成していった。それは、あの掛け軸『月下げっか白蓮はくれん』そのものだった。

「さあ、一緒に行きましょう」

 りょうびゃくの手を取り、屋敷の中へ入ると、愛おしそうにその身を寄せた。びゃくりょうの身体を抱き寄せ優しく包んだ。


 りょうはその年、十五歳となり、多くの殿方からの求婚があったが、その申し出をすべて断った。

「わたしにはすでに夫がります」

 と答え、常に傍らにはあの白い蛇のびゃくがいた。それをよく思わない者たちが、姫は邪神に心を奪われたと吹聴し、りょうの父はそれに怒り、人を使ってびゃくを殺してしまった。まず捕えて、その首を切り落とし、二度と復活しないように、八つに刻んだ。

 りょうは嘆き悲しみ、その亡骸を霊山の頂に葬り、祠を立てて祀りたいと申し出ると、それを許された。


 りょうは霊山の祠のそばに庵を建てて、一年喪に服した後、

「わたしは天へ昇ります」

 と言い、そのまま帰ることはなかった。


 天界へ昇ったりょうは、かつての日河比売ひかわひめの姿へと戻っていた。神々は下界を天から見ていて、彼らの身に起こったことはすべて知っていた。

日河比売ひかわひめ、戻られましたね」

 と声をかける神もいたが、まだ面白いことがないかと、退屈な神々は期待をしていた。

「わたしは夫を取り返しに行きます」

 日河比売ひかわひめが言うと、

「それは難儀な」

 と驚きの表情を見せながらも、ウキウキとしているようだった。


 びゃくの魂は根の国にあり、日河比売ひかわひめは彼を取り返しに根の国へ向かった。


日河比売ひかわひめではないか。今度は何用か?」

 相も変わらず醜い姿の伊邪那美命いざなみのみことは僅かに口角を上げ、分かりきったことを聞いた。この醜さの原因が何であるかなど、伊邪那美命いざなみのみことは考えもしないのだろう。他を羨み、憎しみ、恨む。そんな心が身の内から滲み出ているのだ。

「夫を返して頂きたいのです」

 と素直に思いを伝えるその謙虚さと、穢れもなく清らかな日河比売ひかわひめが眩しく見えて、

「ならばそのために、お前は醜い蛙にでもなるがいい」

 と伊邪那美命いざなみのみことは憎々し気に言った。

「それで、夫をお返し頂けるのならそのように」

 と日河比売ひかわひめ伊邪那美命いざなみのみことに深く頭を下げた。その素直さにもただただ、腹立たしいとばかりに、

「ならば、蛙となれ!」

 と言葉を投げつけると、日河比売ひかわひめは土色の醜い蛙の姿に変わり、びゃくの魂は転生てんしょうした。

伊邪那美いざなみさま、ありがとうございます」

 日河比売ひかわひめは醜い姿に変えられたことなど、気にも留めぬ様子で礼を述べた。その穏やかでいて清らかな心を目の前にして、己の醜さが際立ち、伊邪那美命いざなみのみことは怒りが頂点に達し、踵を返して去っていった。

 蛙となった日河比売ひかわひめはその歩みを止めることなく、生まれ変わったびゃくの元へと向かった。


 十年の月日を費やし、たどり着いたのは人々の暮らす都だった。そこで蛙となった日河比売ひかわひめを見つけた者が、感嘆の声を上げた。

「何と美しき雅な蛙だろう」

 十年の月日を経て、その蛙は七色に輝き、まるで宝石のように美しくなっていたのだった。

「これを御門みかどに献上したら、さぞお喜びになるだろう」

 七色の蛙を拾ったのは、時の左大臣で雅な上流貴族だった。籠に囚われた蛙は御門に献上され、眺め物とされた。


 ある時、日河比売ひかわひめが御門に言った。

「わたしは夫のある身です。どうか、ここから出して頂きたい」

 言葉を話す蛙に驚きはしたが、珍しい七色の蛙を手放したくはなかった。

「ならば、お前の夫もここへ連れて来よう。お前と同じ七色の身体をしているのか?」

 と尋ねると、

「夫は人として転生てんしょうしております」

 と日河比売ひかわひめが答えた。それを聞いた御門は機嫌を損ねて、

「ならば、その願いは叶えられぬ」

 と答えて、二度と口を利くことを許さなかった。日河比売ひかわひめは蛙の姿になっても、その美しさで、人々を惑わせてしまうようだ。

 その後も、日河比売ひかわひめは囚われたまま静かに時を過ごし、夫が見つけ出してくれることを信じて待ち続けた。

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