第8話 タベルナ・ソレオ

 その日、カップ酒事件の錦織から、東条のところに電話が入った。

「…無敵の東条さんよ、危機一髪だったっていうじゃないかよ」

「ふふ、おれは、酔っ払いと間違えられたり、入院したりはしてないぜ。…ふう、お互いに一歩間違えば危なかったな」

「ところで、犯人の目安はついたのかい? やっぱり、ボスの関係かい?」

「ばか、めったなことを言うんじゃない。この間、一対一で話に行ったんだ。あんたがやってるとは思わないけれど、何か秘密にしていることがあったら包み隠さず教えてくれとね」

「ええ、東条、おまえ度胸があるなあ。よくまあ、ボスにそんなこと…」

「荒谷のボスは笑って言ってた。実は俺のところにも正体不明の脅迫メールが届いてるとね。そんなものに惑わされず、気にせず行けばいいとね」

「本当か? でもあの人の笑顔はいつもあとで怖いからな…。だとしたら、犯人は誰なんだ。」

「ふふふ、俺たちや荒谷さんに恨みを持っている者は、片手じゃ足りんだろう。」

「結局わからずじまいか」

「とにかくだ。恒例のグループ会議は予定通り今週の土曜日の夜に決行する。友田も安川も、片桐も出席の確認が取れている。休みでもしたら、本当に狙われるかもよ」

「はあ、クワバラクワバラ…。もうあんなつらい目にあうのはこりごりだよ。じゃあ、またな」

 あの十年前の出来事は絶対の秘密だ。最初の数年は秘密が漏れないよう、仲間の結束を強めるための集まりだったように思う。

 荒谷の方から次年度のグループ企業の経営指針が示されるのだが、それはあくまで形式で、今から二年前、一度どこからか秘密が漏えいし、荒谷から徹底調査の動議が提案された。調査の結果、情報管理が杜撰だった錦織の会社のパソコンがハッキングされたことが判明。その結果錦織の会社は、グループの補助金が打ち切られ、元々の放漫経営がたたり、倒産してしまった。会社自体は今荒谷が自分の傘下に移し、何もなければそのうち錦織の復帰を予定している。荒谷は実にしたたかで、飴と鞭を見事に使い分ける男なのだ。

 グループ会議は、例年、荒谷と五人の男たちのみで、「タベルナ・ソレオ」の一号店でひっそり行われている。もちろんこの日は店は休業、秘書や部下、シェフや店員たちも食事の用意だけしたら全員帰されてしまう。秘密の会議なのだ。

 だが、仲間が次々と襲われるこの異常事態、会議が何もなく終わるはずもなかった。


 その日、片桐グルメネットの社長片桐は、一人、パソコンの画面を見ながら考え込んでいた。そこにはまたもや届いた脅迫メールが映し出されていた。

『私は、お前もよく知っている男だ。お前たちの秘密はわかっている。例の二年前の錦織のパソコンのハッキング事件もよく知っている。とにかくこれ以上、秘密を漏らすな。少しでも漏らしたら今度こそ、おまえの命はない。』

 このメールはいったいなんなんだ。一体最終的には何がしたいんだ。気の弱い片桐は、もうぐったりしていた。

「おれは、何も漏らしちゃいない。いったい誰がこんなことを言っているんだ。もう、耐えられない、我慢できない」

 上着を脱げば、まだ左肩は包帯でグルグル巻きになっている。首元から痛々しい包帯がのぞいている。あの針が突き刺さったときの激痛は、殺されるという恐怖感とともに今も襲い掛かってくる。痛みがおさまった今も、思い出すだけで息が止まりそうになる。

 メンバーの中でも穏健派の片桐は、だからこそ我慢ができなかった。

「いつも、荒谷さんの言うとおりにしてきた。一度も逆らったこともないのにどうしてこんな目に遭わなければならないのか。この一連の騒ぎは別に真犯人がいるのか、それとも荒谷が関わっているのか、それとも両者が同時にからんでいるのか、それすらもまるでわからない。それにこの片桐グルメネットは、荒谷の立ち上げた会社だが、そこからここまで大きくしたのは自分の力だ。もう、荒谷さんの顔色をうかがいながら生きていくのはうんざりだ」

 片桐は何かを決意し、電話を掛けた。最初に襲われた仲間の友田だった。友田もどちらかというと気の弱い太った男で、片桐とは気が合う。友田は釣りの最中に後ろから海に突き落とされ、死にかけてやっと這い上がってくると、現金が盗まれていた。やはり死ぬかと思ったようで、片桐の気持ちもよくわかってくれる男だ。

「夜遅くすまないねえ。うん、片桐だよ。今度の土曜日のグループ会議のことだが…」

 メンバーの間に不穏な動きが強まっていた。


 高見沢は、奉仕活動の主婦たちと買い物ネットワークで借りている広い畑の収穫に出向いていた。

 この間警察が来たことも、東条の事件が謎の渋滞で失敗したことも心に重くのしかかってくる。もう自分も、時間の問題なんだろうか。

「チーフ、今年は豊作ですね」

「みなさんのおかげです。今日、収穫した物は、農家の山村さんに出荷してもらい、高齢者福祉の活動に役立てます。さあ、もうひと頑張りしましょう」

「はーい」

 あれから、深海は何も言ってこない。警察もまだノーチェックだ。だがいつ自分がいなくなるかわからない。だから、高見沢は、活動がこのまま続いていくように、引き継ぎを始めている自分に気が付いた。

 農家の山村さんによく頼み込み、公民館に帰ってからも、事務のアルバイトと市の関係職員に当面の仕事の予定の話をしておいた。

 そして、時間になり、「ヘカテ」に出向いた。今日の深海ゆうきはきれいというより、どこかなまめかしい。

 やはりいつもとどこか違う緊張感があり、会話がはずまない。すると高見沢が、笑顔で言った。

「今日は、もう最後かもしれない、君と会えるのもさ。だから…」

「なんでしょう」

「勤務時間終了後、おれと夕食にいかないか」

「そ、それは…」

 ああ、確か「ヘカテ」の利用規定では、勤務以外での秘書との接触は原則NGだったな…。

「あ、ごめんな。やっぱり無理だったな。規則違反がばれたらやばいもんな」

 高見沢が向き直り、片づけを始めた時だった。後ろから深海がそっと近づいてきた。

「あの…」

「あ、さっきはごめんな」

「いいえ、夕食のお誘い、ぜひご一緒させてください。でも、ここから二人で一緒に出ていくことはできませんので。お店をお教え願います」

 すると、高見沢は立ち上がって深海に告げた。

「街の外れにある「タベルナ・ソレオ」の一号店だ。小さな店だが、明日荒谷たちのグループ企業の総会がある。それまでに一度出かけておかなければならないんでね。その理由を聞いても一緒に来るかい?」

 すると少しの沈黙の後で、深海ゆうきはしっかり目を見て答えた。

「では、夜の八時にお店でお待ちしております。ええっと…」

「実は、もう、買い物ネットの会で個室を予約してあるんだ」

「わかりました。では…」

 高見沢は心からのお礼を…繰り返した。

「ありがとう、ありがとう」

 彼女は静かに部屋を去った。

 復讐劇は、もう、最後の大勝負だけだ。すべては終わる。そうしたら…どうしようか。

 高見沢は犯行記録の入った外付けハードディスクを取り外すと、箱に詰め、宅配便の伝票を貼って、荷物に入れた

 二十六階から見る今日の街は、たそがれの光の中に静まり返っていた。


 その頃、裏道グルメの聖地「地球屋」では大騒ぎになっていた。マスターが半ば驚いて、大吾につぶやいた。

「大吾、おまえの友達はいいやつばかりみたいじゃが、これ以上増えると面倒みきれん、っていうか、店が壊れそうじゃな。ま、食べっぷりもいいし、もう少し付き合うかの」

「すいません、マスター、俺、その分頑張りますから…」

 店が壊れるというのもあながち嘘じゃない。あの筋肉ムキムキのオカマダンサーズのアルティメットミューズのメンバーになぜか、エスピオの巨漢金管ユニットダイヤモンドガイズのメンバー、マーズストームも三人そろい、もちろん、薫ちゃんもいる。でかい筋肉ボディたちの宴となっているのだ。

 そして隣の机ではサリーお姉さまがエスピオのリーダー、アンドロメダ・メテオ・大門とデザイナーのパルサー・オメガ・月岡と熱く語り合っている。

 この間の事件がもとで交流が始まり、今度のエスピオのステージにアルティメットミューズがゲストユニットとしてセッションする話になっているのだ。

「大吾ちゃん、料理が足りないわ。なんか見繕ってジャカジャカもってきて。おねがあああい」

 大吾がデカい体でくるくる動き回る。

「マスター、じゃあ次は、アレキサンダー大王ステーキと、激辛アマゾンローストビーフ、お願いしまーす」

 その注文の声を聞いていたウタポンが、曽根崎にクレームをつけた。

「ちょっと、曽根崎さん、アレキサンダー大王ステーキも、激辛アマゾンローストビーフも聞いたことないわ。そんなメニューがあるなんて、教えてくれなかったじゃないの!」

 だいたいこの店は、いつもマスターの気まぐれ料理中心なので、もともとのメニューにはほとんど少ししか料理が載っていない。だから、曽根崎に聞いたりしないと、よくわからないのだ。

「ああ、すまなかったね。でもアレキサンダー大王ステーキは、西洋と東洋を股にかけたような豪快な料理で、それぞれに地域の味の工夫をした、イベリコ豚のステーキ、極上ビーフのサーロインステーキ、そして骨付きラムのステーキが一枚の皿に盛られていて、肉だけで五百グラムはある。量がすごいんだ。アマゾンローストビーフも、マスターがアマゾンで仕入れてきたトウガラシの原種を、さらにいろいろな調味料とともに熟成させ四年かかって作った特製チリソースで食べるんだ。鼻に抜けるようなさわやかな風味が激ウマなんだけれど、ちっとやそっとの辛さじゃないんだ。そう、そのうち体力がある時に挑戦しようか」

 ところが、今日のウタポンはすぐに納得はしない。というか、このおっとりした天然娘は、しかし、料理のことだけは譲れない性格、別人に変わってしまうのだ。

「そんな、逃げるようなことはできませんわ。気力さえ続けば、今日だって挑戦します。私、料理からは逃げたりしない、絶対」

 すると隣に座っていたトゥインクルグルグルタマコが目をうるうるさせて、感激している。

「そうよ、ウタポン負けちゃダメ。あなたがそうやって、自分の好きなものに命がけでぶつかって行くの、かっこいい。タマコ応援するから、ね、応援するからね」

 このタマコちゃんがいるとさらに面倒くさくなる、曽根崎はもう退散だ。

「わかった、今日は食べられる限り挑戦しよう。な、それでいいだろう?」

「はい」

あ れ、でも今日は一番うるさいはずの流石があまりしゃべらない。時々ぼそぼそ言っているけれど何を考えているのかわからない。不気味だ。

「はーい、おまちどうさま。子牛のカツレツウルトラミルキーです」

 大吾が運んできたのは、ミルキーなソースがかかった上品な欧風カツレツだった。

 さっそくかぶりつく、裏道グルメのメンバーたち。

「え、なに、これ、食感も味も初体験だわ。第一、衣の色がベージュ色じゃない?」

「薄くてしっとりしたサクサクの衣の下に、なんて、ジューシーで柔らかい…これがビーフなの? ミルキーなソースも絶品だし、なんて上品で、繊細な味だわ」

「このカツレツ、できるまでが長いんだ。まず柔らかな子牛の肉を、タンパク質を分解する酵素を持つフルーツエキスに漬けてさらに柔らかくし、そこから出した肉を今度は自家製のヨーグルトと生クリームを使ったミルキースープに漬け込んで甘さとコクをしみこませる。さらにそこから出して特製のハーブと岩塩で下処理、仕上げは低温の脂で四十分、あまりに低温なため衣はソフトでまだ白っぽい、最後に高温の油でカラッと揚げて、適度な酸味とコクのあるミルキーソースをかけるんだ」

 パリッ、フワ、トロリの食感で、フレッシュなビーフの後味が口いっぱいにいつまでも残る…。

「だから、こんなに繊細で、柔らかくてミルキーなのね。お口でとろけるようなカツレツなんて初めて…。ありがとう、曽根崎さん。ちゃんと私たちにピッタリの料理を考えていて下さったのに。さっきはごめんなさい。今日はこの繊細な味で終わりにするわ」

「ふふ、けっこうなことじゃないか。タマコちゃんはステージに命を懸けてる。ウタポンは料理の道、僕はグルメジャーナリストの道にそれぞれ命を懸けている。当然の結果さ」

 すると流石がカツレツをほおばったまま割り込んでくる。

「あたしだって、刑事に命をかけているの。心を鬼にしてやらなきゃならないこともあるのよ。」

 かなりマジだったが、みんなカツレツに心を奪われ、半分も聞いていなかった。

 やがて、カツレツを食べ終わり、デザートのティーータイムになると、思い出したように曽根崎が聞いてきた。

「さっき、流石ちゃん、何か言いたいことがありそうだったね」

「ええ、実はこの間の事件、まだ真犯人も、目的も分からないんだけれど、かなりあやしい人物が浮上してきたのよ。ところが、その人に明日会いに行くんだけれど、その人調べれば調べるほどいい人で、社会的にも貢献してるし、悪いのは、どう考えても襲われている人たちみたいなの。でも、そこもはっきりしない。でも、明日私が行って逮捕したら、本当に悪い奴らを助けてしまうことになるのではないかと思って。本当に悪い奴らが、陰で笑うことになるんじゃないかと思って…」

 実は、柴田が十年前の森っていうイタリアンのシェフの交通事故の記録を調べ直したところ、いろいろな事実が判明したのだ。交通事故は飲酒運転したうえでの居眠り運転だと言われていたが、はっきりした確証はなく、親友の高見沢という男が、闘病中をおして、何回も再捜査を懇願しにきたのだという。でも、灰色の状況証拠はいくつもあったが、結局うやむやになり、再捜査は行われなかった。

 森の遺品の中に大事なノートがないとか、知らぬ間にグループ企業体から創業者が排除されたり、いろいろな理不尽な目に遭っているのは、彼のほうだった。

「でも、私は刑事だから確かめに行かなければならない。ただ真犯人も、犯行の目的もはっきりしないこのタイミングで、高見沢さんに会うことが、いいことなのかどうか…。」

 そうか、彼女なりに刑事の仕事と戦っているんだ。

「でも、タマコちゃんもウタポンも曽根崎さんもみんなで命懸けてるんだから、あたしもまけていられない。明日は、がんばるわ」


 その頃、高見沢は、スーツを着て、メガネのフレームを取り換え、できるビジネスマン風に変装し、夜の街を歩いていた。手に持った小さな紙袋には、特別な仕掛けが仕込んであった。

「変わんねえな…。タベルナ・ソレオ一号店」

 そう、すべてはこの店から始まった。街はずれの商店街の隅にある小さな一軒家だ。

厨房と、客室、そして、八人までは入れる個室がある。メニューや従業員はまったく変わってしまったが、他は何もかわっちゃいない。

「すいません、個室を予約しておいた買い物ネットの会のものですが…」

「はい、もうお一人お見えですよ」

 案内されると、そこにはもう深海ゆうきが座っていた。いつものスーツ姿ではなく、おしゃれな服で全身を固めていて、一瞬わからないくらいであった。

「驚きました。素敵な部屋なんですね」

 見れば家具や調度品はみなヨーロッパ製の格調高いものだ。横の壁にはおしゃれな飾り棚があり、高級なワインの瓶やアンティークの置物などがたくさん並んでいる。モダンなシャンデリアや額縁にはめられた大きな油絵もある。しかもこの額縁の絵が、時々風景画から肖像画、リアルからシュールな絵へと切り替わるのだ。

「あ、これ、ハイビジョンのモニター画面だ。今は名画を定期的に映し出しているけど、会議の資料なんかを移すのに入れたんだろう。いやあ、バージョンアップしたもんだ。何でも数年前に、グループ企業の会議のために改装したんだそうだ。二人っきりで占領してわるかったかな。でも、いいよね、今夜くらいさ」

「ありがとうございます」

 二人でメニューを見て、「特選イタリアンコース」に決めた。そして、辛口のスプマンテで乾杯した。

「あのう、森さんのことや、この一号店のこともひと通り読ませていただきました」

 すると高見沢は一瞬動きを止め、つぶやいた。

「気を遣ってくれてありがとう、でもその話題はやめよう。胸がいっぱいになって、味がわからなくなっちゃうからね」

「す、すいません」

「それより、今日のその洋服なかなか似合うじゃない。この部屋にマッチしてるよ。おしゃれな魔女みたいだね」

「そんなこと言われたの、初めてです。ありがとうございます」

「せっかくのごちそうだ。楽しくいこうよ。深海さんのこと、いろいろ聞いちゃおうかな」

 高見沢は饒舌にしゃべりはじめた。やがて、生ハムを使った前菜や、自家製パンチェッタの料理などが運ばれてきた。

「どこにでもあるような高級イタリアンってかんじだなあ。でも、不思議においしいのは、君と食べてるからかな」

「まあ、お上手」

 深海もいつの間にか、とてもいい笑顔になっていた。

「じゃあ、花のように美しい君に、これをプレゼントだ」

 高見沢は持っていた紙袋の中から、小さな花束を取り出した。

「いやあ、何がすごいかって、これ、おれがやってる畑や農園で採れた朝摘みの花なんだぜ」

「すごい! とてもきれい」

「どうぞ。お受け取りください。本当にいつもお世話になってます。なんちゃってね」

「うれしい。ありがとうございます」

「あれ、おっとっと…」

 その拍子に紙袋から何かがボロボロとこぼれた。なぜかチョコレートや、キャンディーだ。

「いやあ、興奮してへたこいた。ちょっと足元を失礼。おーい、キャンディーちゃんに、ショコラちゃん、帰って来ておくれ」

 高見沢はおどけてテーブルの下に一瞬身を沈めた。

「おいらが甘いもの好きだってことは秘密だよーん」

 深海は、おかしくってずっと笑っていた。

 やがて秋の新作と銘打ったモーリア風リゾットが運ばれてきた。その瞬間、高見沢の目の色がかわった。

「やはりそうか…。畜生…」

 いったい何が畜生なのかわからなかった。深海が食べると、それはそれは、おいしいリゾットだった。

 でも、創業からの味・大人気スープという家庭料理が出てきたときは、高見沢は、隠しもせず涙を流した。

「自分で言っておいてごめんね。でも、気にしないで」

 きっと死んだ森さんとの思い出のスープなのだろう。この人は、こんなつらい思いまでして、それでもこの店に来るんだ。何のために? 私のため、いいえ、きっと緻密な犯罪計画の一部なんだろう。深海ゆうきの心は複雑だった。

 でも、それでも思いがけず楽しい時間が持てて本当にうれしかった。

「今日、いろいろ悩んだんですけれど。来てよかったです」

「本当にそう思ってくれるの? よおし、うれしいからジャカジャカ食べちゃおうかな」

「ふふ、あ、この料理もおいしいです」

 カニのフリッターや合鴨のステーキを食べ、最後はジェラードとコーヒーだ。

「大きい声じゃ言えないけれど、コーヒーは、君の毎日いれてくれる方が十倍うまいね。本当さ。」

「うれしいです。また、あ、そうでしたね」

 そう、今日が最後かもしれないのだ。

 すると高見沢は紙袋の中から、封筒を取り出した。

「俺に何かあったら、これをすぐ警察に渡してくれ。犯行の計画と、真の狙いが書いてある。もちろん、受け取るのを拒否するのも君の自由だ」

「わかりました…。確かに」

 深海ゆうきは手紙を受け取るとバッグの中にそれを入れた。

 そして最後の晩餐は終わりを告げた。

「じゃあね。楽しかったよ」

 高見沢は店の前で、深海と別れた。サッと振り向き、夜の街に歩き出した。なんだろう、この感じは。この人は、何か大きな覚悟をしている…。最後に何かをやろうとしている。

「待ってください。行かないで!」

 深海ゆうきは追いかけると、高見沢の腕をつかんだ。でも、高見沢はその手をやさしく振りほどくと、ニコッと笑って、歩き去った。

 立ち尽くす深海…。

 高見沢は、夜の雑踏の中に消えて行った。


 次の日の朝、荒谷の会社、もとは高見沢が経営者だったタベルナホールディングスに、一人の来客があった。

「高見沢と申します」

「お待ちしておりました。社長がお会いになるそうです。こちらにどうぞ」

 高速エレベーターに案内され、明るいホールに出る。

 ガラスを多用した、モダンな応接室に通される。長身で強面の反町という、荒谷の手飼いの部下が迎える。

 少し遅れて荒谷が姿を現す。

「やあ、高見沢さん、お久しぶり。すっかり元気になられたようで、今日は顔色もいいですね。どんな用件でしょうか」

 腹にいくつも含むものがあっても、顔は平気でニコニコしている。荒谷はそんな男だ。声を荒げているのは見たことがない。だが、やることはえげつない。

「今日、夜にグループ会議があるとききましてね。その前に一度お話がしたかったんです」

「そうですか。それはよかった。実は、最近グループ企業のメンバーが軒並み襲われたり、脅迫メールを送りつけられたりといろいろありましてね。こちらも確かめたいことがでてきましてね」

 それを聞いた高見沢は、ふてぶてしく切り込んだ。

「私が犯人かもしれませんよ」

 これから探りを入れようとしていたことを先に言われて、荒谷も驚いた。

「はい? 何をおっしゃってるんですか」

 傍らに立つ反町がギロッと睨む。

 しかし高見沢ときたら、顔色一つ変えず、落ち着いて続けた。

「でも、証拠もなにもない。はは、冗談ですよ」

 なんだ、この男は…。荒谷は気を取り直して、作り笑いを向けた。

「おどかしっこはなしですよ。ははは」

 すると高見沢は一冊のファイルを出して荒谷に見せた。

「これはインターネットのサイトやパンフレットから集めた、ここ五年間のタベルナ・ソレオとタベルナ・ドレモのメニューと料理の写真です。間違いありませんね」

「ほう、よくまとめてありますね。ええ、間違いありません。それがなにか」

「五年前から、一年に数回ずつ新作メニューが出て好評のようですね」

「はは、この業界、絶えず経営努力を重ねていきませんとなかなかたいへんでね…」

 高見沢は実にテキパキと解説していく。この男は何が言いたいんだと思いながらも、荒谷はそれでも笑顔を崩さない。

「一つ教えていただきたいんですが、新作料理の中にいくつもモーリア風という料理があるんですよ。最初はイタリアのどこかの地方名か何かと思っていたんですが、いくら探しても該当するものがない。そこでこの会社の広報の方に何度か電話したんです、モーリア風ってどういう意味なんですかってね。すると広報ではわからない。じゃあ、料理名を最終的に決めているのは誰かということになったんです」

「ははあ、なるほど…」

「広報の話では、社長がお決めになったということだったので、今、お聞きします。モーリア風とは、どういう意味なのですか」

「ええっと、確か…」

そう来たか。へたなことは言えないな。まさかあのことに気が付いているはずは…。それでも荒谷の笑顔は崩れない。

「ええっと、いや失礼。最近度忘れが多くてどうも」

「じゃあ、これをみて下さい。タベルナ・ドレモの立ち上げ時のメニューです。ここに、同じモーリア風の料理が載っています。これは実際には使われなかったメニューなんですが、ほら、ちゃんとこちらの新作料理と同じ料理名が並んでいますよね」

「ふうん、どれどれ…」

「しっかりみて下さい、死んだ森のフルネームを知っていますか? 森アキラですよ。彼はこの古いメニューを見ればわかりますが、自分で開発したオリジナル料理にモリアキラ風と最初は表記していた。それが略されてモリア風になり、さらにあいつの独特のセンスで、モーリア風に落ち着いたんです。ほら、ここに全部載っているでしょ」

「ははは、違いますよ。いいがかりはやめてくださいな。すべては、森さんの死後に自社開発したメニューばかりですから」

「じゃあ、もう一度聞きます。モーリア風ってなんですか」

「それは…」

「だから、いい加減に認めてくださいよ。森の新作レシピを書いたノートを無断で使用していると…」

 すると荒谷は落ち着いて笑顔で尋ねてきた。

「なるほど、高見沢さんは何がお望みなんですか?」

 高見沢は真正面に荒谷を見据えて言葉を発した。

「私は、本当のことを話してもらいたいだけなんです。…本当のことを…荒谷さん、もう、いいじゃありませんか」

 さすがの荒谷もしばらく黙り込んだ。だが、そこはしたたかな男だ。さっと笑顔になるとわかりきっていることをつぶやいた。

「ああ、モーリアというのは、思い出した、イタリアのアドバイスシェフの名前ですよ。まちがいない」

 もちろん、口からでまかせだった。

 高見沢はあきれて大きく息をついた。

「わかりました。荒谷さんのお考えは十分に伝わりました。仕方ありません。私も最後の手段に訴えるだけです」

「最後の手段とは?」

 高見沢はニコッと笑ってそれには答えなかった。

「今日はこれで引き取らさせてもらいます」

「そうですか。お引止めはしません。ありがとうございました」

 高見沢は静かに帰って行った。荒谷は、あの大柄な反町に何か合図をした。

 反町は大きくうなずいて急いで部屋を出て行った。


 その頃、チーム白峰は三人で連れ立って天山署を出た。

 柴田の表情は重い。

「高見沢が、森の交通事故の再捜査について何度も警察に働きかけたり、グループ企業にねじ込んだりしたのは間違いないと思いますが、、それだけでひっぱって、逮捕できるでしょうか」

 丸亀が冷静につぶやく。

「もし、仮に彼が犯人だとしたら、犯行の一部にパソコンが使われているし、脅迫メールの例もある。自宅と勤め先のパソコンを調べれば何かが出てくるだろう」

「なんか出てくるでしょうかね。そうだといいんですが…。それとも、荒谷の方に先に行ったほうがいいんですかね」

 すると流石がぽつりと言った。

「荒谷のところには朝、話を聞きたいと電話を入れたわ。でも、今日だか、明日の午前中だかにグループの総会があるので、今はどうしても勘弁してくれと断られたわ」

「荒谷の方も特に証拠があるわけじゃないですから、強行は難しいですね」

だが先頭を切って歩いていく流石は落ち着いて言った。

「まずは、高見沢に会うわ。行ってみなければわからないけど、とにかく会ってみれば、何かがわかると思うのよ」

柴田がハッと思い当たった。

「そうか、先輩の脅威の観察眼があった。あの夜、先輩は犯人に会っているんですよね…」

 とにかくどうなるかわからない、チーム白峰は、高見沢の勤めている公民館のそばまでやってきたのだ。

 すると、公民館の横の十字路をトコトコ歩き出す人影があった。荒谷のところから帰ってきた、高見沢その人だった。柴田も丸亀も気づくはずはない距離だったが、流石には遠くからはっきりわかった。あの銀縁のメガネ、どこかやるせない知的な瞳…あの夜の、あの人だ。

 だがその時、十字路の向こうから、黒い車がもうスピードで近付いてきた。

「えっ!」

 車はまったくスピードを落とさない、高見沢はそれに気づかない。

 走り出す流石。

「高見沢さん、危ない!」

「え…」

 気が付いた時は遅かった。高見沢の体が空中に舞い上がっていた。

「柴田君、あの車を手配しろ。俺が救急車を呼ぶ」

 車はスピードを上げ、その場を走り去った。流石が高見沢に駆け寄った。

 高見沢は歩道に転がって、苦しそうに息をしていた。

「今すぐ救急車が来ますから…。高見沢さん、あの夜であったのはやはりあなただったんですね」

「あなたは、確かあの夜の…いったいどういうお方なんですか…」

「刑事です。白峰流石と申します」

「そういうことだったのか… そうか、はは、そういうことだったのか…」

 高見沢は今回の計画がどの辺から崩れて行ったのかがわかったような気がした。

「今の車に心当たりはありますか?」

「わかりません。でも、これはきっと神の罰なんです。当然の結果なんです」

「高見沢さん…」

「知っているでしょう。私が犯人です…私」

 高見沢はそのまま意識を失い、救急車で搬送されていった。重体だった。

 犯行に使われた車は、街はずれに乗り捨ててあり、盗難車だった。実行犯の痕跡はなにもなかった。

「何が正しくて、何を追い詰めればいいの…」

 流石は悲壮な表情で、救急車のサイレンを聞いた。


 この日の夜、臨時休業になったタベルナ・ソレオの一号店にメンバーが集まってきた。

 錦織がマフィアのボス風にスーツを決め、色つきのメガネで凄みを効かせて入ってきた。

 中では強面の東条が部下に機械を持たせて何か怒鳴っている。

「なんだい、こりゃ」

「ここのところ物騒だから、盗聴、盗撮の電波が出てないか検査させているのさ。ああ、そうだ。今日は何かあったらしくボスも遅れて来るそうだ」

「ボスが遅れるって? めずらしいな。それで、電波は出てなかったのか」

「ははは、出てねえよ。完璧にオーケーだ。安心して会議に集中できるぜ」

 そこに穏健派の二人が連れ立ってやってきた。太った友田と包帯姿が痛々しい片桐であった。片桐は、ドンペリを二本取り出して東条に渡した。

「よう、東条、今年はお前が幹事だったな。これ十周年記念のドンペリだ。乾杯に使ってくれ」

「そりゃ、すごいな。赤の方はワイン屋の安川が持ってくることになっているからちょうどよかったよ。ははは、片桐と飲むといい酒がいつも飲めるからうれしいぜ」

「おいおい、おれも半分金を持ってるんだ。忘れないでくれよ」

 太った友田が小さな声で、おどけてニヤッと笑った。

 個室のテーブルの上には、新作の料理やらワインやらが並べられ、ふたやラップがかけられて、用意終了。従業員たちは次々と帰って行った。

 そこに遅れて、ワイン輸入会社の社長、長身の安川がやってきた。

「遅れてすまん。ほら、これが約束のシャトー・ラトゥールだ。ボルドーの特級だ。ビンテージもかなりいいぞ」

ワインの輸入をやっている安川は、シックで上品なソムリエ風の男で、ほほ笑みながらワインの用意をする。

 荒谷が遅くなったので、みんな、個室に入ったり、客室で時間をつぶしたり、好き勝手に動いていた。予定より二十五分遅れて、荒谷がやってきた。なぜかかなり疲れて、元気がなく見える。

 全員が個室に集まり、荒谷が話し始めた。

「今日はいつにもまして重要な話し合いがある。ええっと、人払いは平気だろうな」

 すると幹事の東条がサッと立ち上がって、周りのドアを開け放った。

「もう、部下は全員帰りました。盗聴器も隠しカメラも電波は一切出ておりません」

「よろしい。ではまず、来年度のグループ計画からだ」

 油絵を映していた大型モニターに、決められた原稿やグラフが映し出され、来年の計画が発表されていた。中には、錦織が元の会社に復帰する旨も決定されていた。ほくそえむ錦織。ひと通り終わると、荒谷が声を静めて話しはじめた。

「ここのところ、脅迫メールや命を狙われるなど、不穏な動きがある。一部で私が関わっているという噂があり、非常に迷惑している。冗談ではすまされないことだからだ。ここで、一人一人が思うところを言い合ってもらって、誤解を解き、場合によっては外部の犯人を割り出そうと思う。いかがかな。じゃあ、友田君から思うことを述べていただきたい」

 すると堰を切ったように友田がしゃべりだした。

「やあ、堤防で数人の同世代の人たちと釣りをしてたら、突然、波の高い海の中に落とされたんだ。もう死ぬかと思って、やっとのことで戻ってきたら、金だけ抜かれていてさ。ひどいもんだよ。最初、俺が落ちたのを誰も気が付かなくってね…」

 どうも、不満を持っている部下たちのガス抜きをするらしい。みんなそれぞれに、ひどい目に遭ったことや、不満に思っていることをぶちまけた。

 安川は深夜おやじ狩りのような自転車に付きまとわれ、ナイフで切り付けられた恐怖と、脅迫メールの謎を述べた。

 そして、錦織がスタジアムでの恐怖体験を話した後、片桐がついに核心に触れる発言をしたのだった。

「…というわけで、激痛が走り、精神的にも凄いストレスを受けました。しかもその時届いたメールは、『これ以上秘密を漏らすな』ですよ。私は、森をここに呼びつけたことも、ましてだまして強い酒を飲ましたことも、ブレーキに仕掛けをしておいたことも何一つ漏らしてはいません。何も漏らしていないのに、なぜこんな理不尽な脅しを受けるのかと、本当に悩みました」

 すると荒谷は、悲しそうな顔をして、言った。

「それは、本当に大変だったね。犯人の狙いはわからないが、それはつらかったろう…」

 と、一緒になって悩みを聞いてくれた…。

 他のみんなも十年前の事件についていろいろしゃべりだしたが、誰一人秘密を漏らしてはいないと言う。

「私がもし事務所に行っていたら、車が突っ込んで、今頃ここにはいなかったでしょうね…。あの原因不明の渋滞に助けられましたよ」

 強面の東条も自分を誘い出したメールのことなどを詳しく話した。

 やはり一人一人、いろいろな不満を持ち、爆発寸前の者もいた。だが、荒谷がじっくり聞いて話し合ったことで、かなりみんな落ち着いてきたようだった。

「みんなもわかってくれたようだね。断言しよう、私は、陰で人の命を狙うような姑息なことはしない。さあ、新しい出発に向けて乾杯しようじゃないか」

 みんな陰では、荒谷がこの事件を起こしているのかとか、次は自分が本当に消されるのではとか疑っていたようだった。

 ドンペリが開けられ、みんなワイングラスを掲げた。

「乾杯!」

 まあでも落ち着いてよかったと思った時、すごいタイミングでとんでもない奴が乗り込んできたのだ。

 そう、ここから先は真犯人の高見沢さえ思いもしなかった展開がおきるのだ。

「コン、コン」

「え?」

 どういうことだ。誰がノックしているのだ。

「コン、コン」

「誰か来ているのか?。」

「コン、コン」

 その時、荒谷がつい口走った。

「おかしい、高見沢はもう、来られないはずだが」

 その瞬間、ドアがバタンと開いた。

「そう、高見沢さんは、もうここに来ません。なぜ知っているのですか。彼は今日の昼過ぎ、ひき逃げされて意識不明の重体になりました。今も救急病院で、気を失ったままです。誰かに消されかけたんです。よくご存知でしたね。荒谷さん」

「何を言っている。お前は誰だ」

「天山署、捜査一係、白峰流石、刑事です」

「私は、知らんぞ。だいたい、今日の夜は会議で忙しいから話を聞くなら明日の午前中にするという話だったろうが…」

 その瞬間、流石は心の中で叫んだ。またやっちまった、今日の夜と明日の午前中、どっちがどっちだかわかんなくなって、とりあえずやって来たけど、間違ったなんて言えないし。

 流石は男どもに向かって叫んだ。

「人が一人、死にかけてるんです。ここにいるあなた方と深い関わりのある男がね。わかりました、今日は引き上げます。でも、ここにいる方は明日全員集まってもらいます。追って全員に連絡しますので、そのつもりでいてください」

 すると、みんな黙ってしまった。流石は、とりあえずごまかせたとほくそ笑む。

「では失礼します。お邪魔様でした」

 だが、五人の男たちは複雑だった。あの高見沢がひき逃げされた? 命を狙われた? さっき荒谷さん、そんなことはしないと言ってたけど…。それに高見沢のことで妙なことを口走っていたよな。今日、遅れて来たしな。これは、やばい。やっぱり荒谷さんは笑いながら人を殺っちまってる…。やっぱり、俺たちもやばいかもしれない…。この五人の中に秘密を漏らしている奴がいて、そいつがわかるまであぶり出しが続くんじゃないのか…? これで警察に呼び出されたんじゃ、さらに秘密のばれる可能性もある。たまったもんじゃない。

 みんな蒼ざめて黙ってしまったのだ…。

 その時、片桐と友田が一瞬目配せをした。安川は何かを決断したように大きくうなずいた。錦織は何を思っているのか顔をひくつかせ、東条はこぶしを強く握りしめていた。


 流石は個室を後にすると、客室で携帯を出し、これから帰ると丸亀に連絡した。

「ええ、やっぱり非常にあやしい。荒谷は高見沢が襲われたのをすでに知っているようでした。ええ、そうです。はい、わかりました。では…天山署のそばまで行ったら、すぐ連絡します」

 それから、他の店で待ち合わせしていたウタポンに今日は無理そうだと連絡すると、店を後にした。


 女刑事は帰って行ったが、祝宴は盛り上がらなかった。せっかくのシャンパンも、ボルドーの特級も味気なかった。

 荒谷は、何かとうるさい高見沢をこっそり消し、罪を全部奴にきせて、事件そのものをうやむやにするつもりだった。今日もその後始末のために遅れてきたのに、あの刑事のせいですべてが逆効果だ。

「おい、友田、ちょっといいかな」

 荒谷は友田に頼んで、資料用に持ってきたイタリアの世界遺産というDVDを流した。壮大な建築や素晴らしい自然、そして優雅な音楽が流れだした。少しだけ雰囲気がよくなってきたと思ったら、もう誰かが動き出す。

「いやあ、めずらしく酔っぱらっちゃったみたいで、ちょっとタクシーを呼びます」

 酒に強いはずのソムリエ男、安川が携帯を持って隣の部屋に行く。どう見ても酔っぱらっていない…あやしい。

 すると、他のメンバーも、俺も俺もと一人ずつ部屋を出て、帰りの連絡を始めた。

「おいおい、みんな、まだ終了予定時間まで、かなりあるぞ。ごちそうもあまり手がついてないし、もっと楽しもう」

 荒谷の言葉が虚しく響いた。

「荒谷社長宛に、十周年のお祝いが届いていましたよ」

 部屋に戻ってきた安川は、祝い、創業社員一同と書かれた、しゃれた贈答用の箱を持ってきた。

「じゃあ、すみません。お先に失礼します」

「おいおい、まだいいじゃないか、私はまだまだ楽しむよ」

 だが、その時、荒谷のすぐ横の壁についている大画面が、急に消えた。イタリアの世界遺産がブチッと切れたのである。

 盛り上がらないことこの上ない…。おいおいなんだこりゃ。

 包帯の片桐が、太った友田に言った。

「あれ、どうした、おまえ、機械に詳しかっただろ。。友田、ちょっと見てくれよ」

「ああ、電源だろ。すぐ直るよ。片桐もちょっと手伝ってくれ」

 なるほど、友田はお手のものだ、パソコン会社の片桐も機械に明るいようだ。

「ああ、わかった。」

 二人で、何かごそごそ始めた。調べたらモニター画面は間違ってタイマーがかかっていただけだと判明、でも、シャンデリアをつっているワイヤーが近くにぶら下がっているのがよくないということで、片桐が直していた。すっかり直ると、友田も、片桐もお先にと帰り支度を始めた。

「おいおい、帰るのなら、途中まで、俺もタクシーに乗せて行ってくれよ。まだ失業中なんだ」

 錦織もそわそわしだした。やがて、店の前にタクシーがやってくる。

 なんだか盛り上げようとしているのは荒谷だけ、一人減り、二人減り、やがて最後までいた、幹事の東条まで携帯を持って立ち上がった。

「すいません、会社から連絡が入ったので、ちょっと出てきます。すぐに戻りますのでご心配なく」

 あっと言う間に、荒谷一人になった。なんてことだ、予定の終了時刻まで小一時間ある。まあいい、せっかくの高い酒もある。一人でゆっくり作戦を立て直すか。

 一人になった荒谷は、新作メニューに関する秘密の書類をそっと取り出し眺めていた。あの死んだ森の夢のレシピを書いたノートは、あの事故の日に盗まれ、荒谷の手元に確かにあった。業界の新作競争に勝とうと数十種類の夢のレシピから、一部を何年かに分けて、試しに新作として出した。すると、森の死後、会社で開発したオリジナル料理と比べて、格段に売れ行きがいいのだ。そこで、来年度はこの夢のレシピをふんだんにすべて使い、攻勢をかけようという計画だった。本当は、そのことについて打ち合わせをしようと思っていたのだが、これではしょうがない。


 その頃、店を一足先に出たはずの錦織は駅前でタクシーを降してもらうと、チンピラがたむろするバーに入って行った。少しして、若者の一群がそこから出て来ると、街はずれに向かって歩き出した。いつの間にか全員、目出し帽や覆面で顔を隠し、数人はバットや鉄パイプのようなものを持っている、中にはナイフを持った危ないやつもいる…。錦織はタバコをふかし、色眼鏡の奥から、そっとそれを見送った。

 東条は近くの工事現場に来ていた。

「ここは、うちの工事現場だから、盗まれたってことにして、適当なトラックかなんかに乗って行っていい。西側の出窓のあたりだ。俺と同じ恐怖を味わうがいい…」

 すると、呼び出された部下の一人が、工事現場の暗闇の中に走って行った。

「さあてと、きちんとアリバイを作っておかないとな」

 東条は部下の車に乗るとそのままタベルナ・ソレオから離れて行った。


 なぜか流石がとぼとぼと夜道を戻っていた。

 ああ、見つかったらなんて言い訳しよう。やっちまった。かっこ悪いな。さっきは、あんなにかっこよくタンカ切って去ったのに…。確か店の中で、丸亀さんとこと、ウタポンのところに電話したのがいけなかったんだよな。どこに置いたかな、私の携帯…。ササッと行って、見つからずにとってこなくちゃ…。柴田に車出してもらってもよかったんだけど、また懲罰委員会騒ぎになると困るし…。

 やっと店が見えてきた。なんか静かな感じ、もう終わったのかしら。

 店の外のドアは開いている。ソーッと中に入ると…おかしい、まったく話し声がしない。BGMのような小さな音が個室から聞こえるだけだ。でも電気もついてるし、なんだろう。流石は先ほど電話をしていたテーブルのあたりにそっと近づいた。携帯、携帯っと。

「あった」

 なぜか、テーブルの上から落ち、床の上にあった。見るとウタポンや丸亀からいくつも着信があり、バイブの振動で落ちたようだ。

「よかった」

 つい、うれしくて大きな声を出す。すると個室のドアの向こうから荒谷が叫んだ。

「誰だ。東条か?」

 やばい、すぐに挨拶に行こう、警察でも呼ばれたら恥ずかしい。流石はすぐに個室のドアを開け、言い訳を考えながら荒谷の方を向いた。

「荒谷さん、すいませ…え!」

 その時、荒谷が座っている出窓側に、強いライトが差し掛かった。

「荒谷さん、危ない、逃げて!」

「え?!」

 驚いて立ち上がる荒谷。強力な光はトラックのライトだった。ガシャーンと大きな音がすると、出窓がつぶれ、衝撃で飾り棚のワインや小物が崩れ落ちた。荒谷が座っていた椅子が粉々になった。どこかショートしたらしく、一瞬で明かりがすべて消え、音楽も何も聞こえなくなった。だが、トラックは、流石の姿を確認すると、そのまま急にバックし、道路を猛スピードで逃げ去って行った。

 荒谷は腰が抜けたようになって、床に転がっていた。

「ええ、ナンバーは以上です。前の通りを駅方向に逃亡しました。すぐ手配願います」

「これはいったい?」

「トラックが飛び込んだんです。たぶんあなたの命を狙って」

「そんなばかな」

「とにかく、ここは危険です。すぐに避難しましょう。暗いから壁をつたって、右側から行きましょうか」

 パニクった流石は、またも右と左をまちがえている。でも荒谷も、今は仕方なく、流石に従い、左の壁を触りながら歩き出す。真っ暗になった部屋の中を歩き出す二人。

 だがその時、さっき片桐が触っていたシャンデリアが突然ギロチンのように上から落下した。

「ヒイ!」

 荒谷の鼻先をかすってテーブルの上に落ちた。危なかった。

 無数にぶら下げられたクリスタルガラスがものすごい勢いで四方八方にきらめきながら飛び散った。今は壁側にいたから良かったが、それはちょうど荒谷が座っていた場所のほぼ真上だった…。

「今の衝撃で、あちこちガタがきてます。気を付けて」

 そうなのだろうか? それともこれも命を狙った仕掛けなのでは…。

「あれ? 何か変な音がしませんか」

 さっきまでは世界遺産の音楽があったので気付かなかったが、どこからかコチコチ音がしているのだ。。

「この箱だわ。荒谷さん何が入っているんですか」

 それは、最初に安川が持ってきた記念の贈り物だった。

「わかりません。なぜ音がするのかもわかりません」

「まさか!」

 流石は、壊れた出窓の外に向かって、その箱を思いっきり投げた。

 ドッカーン! 爆発音が響き渡り、駐車場にガレキが飛び散った。二人の顔から血の気が引いて行った。まさかの爆弾だった。

 そう、今なら自分が消される前にやるしかない。高見沢に罪をきせてどうにでもなる、みんなそう思ったのかもしれない。

 二人とも恐ろしさに無言で隣の客室に移った。やっと生きた心地がしてきたかと思うと、恐怖で背筋が凍りつく。窓の外に、鉄パイプやらナイフやらを持った覆面姿の若者の一群がズラリと並び、こちらを見ているのだ。

「なに、あいつら」

「け、刑事さん」

 その時、ドアを蹴破って、数人のチンピラが中に入ってきた。

「うひひひ、いたぜ。こいつらをボコボコにするだけでウン万円だぜ」

 でもこういう時のはったりだけは、流石はだれにも負けない。さっと警察手帳をつきだし、大声をあげる。

「天山署捜査一係白峰流石、刑事よ。運が悪かったわね。ちょうど私が見回りに来ていたところに来るなんて。ここにいる奴は全員逮捕よ」

 さすがのチンピラたちも一瞬ビビった。

「しかも今トラックの飛び込み事故があったばかりだから、すぐに警察が大挙してやってくるわよ。ほらおとなしくしなさい」

 すると、リーダーらしい男が叫んだ。

「ようし、わかった。五分だ、五分以内にボコボコにしてずらかるぞ」

「オオー!」

 それをきっかけに十人以上が襲い掛かってきた。流石は近くのテーブルをひっくり返し、ひるんだところを隣の個室に荒谷と駆け込み、鍵をかけた。

 とてもじゃないが、このままではやられる。

「オラオラオラ、出て来ねえと大変なことになるぜ」

 ドアを蹴ったり、鉄パイプで叩いたりし始めた。

 でも、まだ事故が起きたばかりだから、ここに応援部隊が到着するまでまだ数分はかかる。でも、数秒で来てもらわないと危ない…。

「け、刑事さん、あそこ…」

 荒谷がつぶれた出窓の方を指差した。外にいたチンピラの一人が、出窓に大きな穴が開いているのを見つけ、やってきたのだ。

「へへ、金は全部おれがもらっちまうよ」

 手にナイフを持った目出し帽の男ががれきを乗り越え、こっちにやってきたのだ。

「私は刑事です。拳銃も持ってるわ。おとなしくしなさい」

「へへ、おもしれえ、撃てるもんなら、撃ってみな」

 電気が消えた部屋の奥に、ナイフの男が迫ってくる。味わったことのない恐怖であった。

「うわっ!」

 ところが、男があの友田が最後までいじっていた大型モニターの前を通ったとき、突然あの大きなモニターが壁から外れ、男の上に落下してきたのだ。

 男は一撃で気を失い、床に崩れ落ちた。

「偶然が起きて良かったですね」

「偶然だろうか…?」

 さっき、右と左を間違えないで、シャンデリアの前を通らないでモニターの前を歩いていたらどうなったのだろう…。鳥肌が立ってくる。

 その時、ドアの向こうで悲鳴が聞こえ、どたばたと大きな音と怒声が聞こえてきた。

「え、いったいどうしたの…」

 扉を開けると、チンピラたちは倒れ、あるいは外に逃げ出し始めていた。そこにいたのは、大吾とサリーお姉さま、そしてアルティメットミューズのオカマ軍団、エスピオのダンサーやタマコちゃんたちもいる。筋肉モリモリの美女軍団が、チンピラをボコボコニしているではないか。マーズストームのダンサーたちも華麗に踊りながら、チンピラを一歩も近づけさせない。

「コノヤロー!」

 鉄パイプを持った男が殴りかかる。それを簡単にかわし、すごいスピードでワンツーパンチを決めるサリーお姉さま。しかも鉄パイプを落とした男に、ファッショナブルなロングドレスを着たまま華麗な回し蹴りでとどめだ。

 大吾はバッドを持っている男にゆっくり近づく。殴りかかったバットをなんでもなく受け止めると、その場で鋭い膝蹴り、真っ二つににへし折って見せた。チンピラは、あわてて窓の外に逃げ出す。

 だが、一人残ったリーダーのような男が大きなサバイバルナイフを出して叫んだ。

「畜生、こうなったら相打ちだ。一緒に地獄に連れて行ってやるぜ」

 だが、その時ドアに太った影が現れた。

「その男は危険だ。警察に任せるんだ」

 いきり立つサリーお姉さまを、大吾が止める。

 丸亀だった。

「なんでこんなに早くここに来られるの?」

 流石は不思議がったが、丸亀にしても、筋肉軍団にしても、流石が中途半端な電話をここからかけ、そのあと携帯を忘れたおかげで音信不通となり、心配して駆けつけたのだ。

 そう、流石の天然が、みんなをここに呼んだのだ。

 丸亀がさっと近付く。ナイフを振り回してもなぜかこの太い体にかすりもしない、そのうち何か所か関節を触ったかなと思っただけで、ナイフは床に落ち、リーダーは何もできずに、へなへなと座り込んだ。関節が痛み、自由に動き回れない状況だった。

「あいててて、なんだよ、このおっさん」

 みんなの後ろからウタポンとタマコちゃんが飛び出して。流石に飛びついた。

「無事で良かった。夜の会には絶対来る流石が、突然キャンセルしてそのうち電話にも出なくなったから、みんなで心配してたのよ」

「そしたらこんなことになっていて。来てよかったわ。どこにもけがはありまへんか?ああ、よかった、無事でいてくれはって、本当に良かった!」

 柴田が丸亀の後ろから駆け込んできた。

「いったいこれはどういうことなんですか」

「何者かによって荒谷が、命を狙われたのよ。何度もしつこくね…」

「犯人は?」

 流石は振り返り個室にいる荒谷を指差した。

「本人が一番よくわかってるみたいよ」

 柴田が個室に行くと、荒谷が、ガレキを見つめ、立ち尽くしていた。トラックが飛び込み、シャンデリアが落ち、爆弾、チンピラの群れ、そして、モニター画面まで落下してきた。

 まさかみんなによってたかって襲われるなんて…。

 やがて、応援部隊が何台も到着、事件はけが人もなく終わりを迎えた。チンピラの関係から、すぐに錦織が逮捕され、流石の早い時点でのナンバー手配で、トラックの実行犯も逮捕された。チーム白峰は、流石の日にち間違えと携帯忘れによって、大きく事件の真相に近付いたのだった。

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