第7話 パニック・ガイ

 鑑識の藤巻が例のアルテミスの石像をもって、分析結果の説明に来た。

「犯人は、かなり慎重なやつらしく、台座の取り外しも完璧、指紋なども一切残っていません。アイスピックのような針を飛ばしたのは非常に単純なバネの仕掛けで、ストッパーがはずれれば撃ちだすようになっていました。問題なのは、ストッパーを作動させたセンサーです。電池で動く時計に取り付けられていたんですが、何に反応してストッパーを外したのかがはっきりしません」

 柴田がつぶやいた。

「そうですよね。ぼくはてっきり時計についていたから時間で針を飛ばしたのかと思っていたのですが、時間でちょうど心臓を狙うなんて難しいですよね。その時刻に、社長が確かにその椅子に座っていなければならないわけだから…」

 丸亀が藤巻に尋ねた。

「その、センサーというのは何に反応するのかね」

「それが、音なんです。でも、普通の人間の声や、ドアの音、引き出しや書類を動かす音、パソコンの操作音や電子音にも反応しないんですよ。かなり高い周波数に設定されていて、一体社長のどこからそんな音が出たのかわからないわけです。それで、現場にいた皆さんにもういちど当時の状況を確認しようと思いまして…」

「はい、わかりました。ええっと、社長室の中はですね…」

「あれ、白峰君はどこに行ったのかね」

 話の途中で、白峰はいつの間にか部屋を出て行き、それっきりだ。すると柴田が当たり前のように答えた。

「先輩が急にいなくなるときは、手帳か携帯を置き忘れた時です。一日何回かあるけど、すぐに戻ってきますよ」

 などと言っているうちに、白峰が駆け込んできた。

「めんご、めんご。また携帯置き忘れちゃってさ。さっき交通課の若い子に、これを見せてたのよね。片桐社長のところのビンゴでもらったんだけどさ、色もカラフルだし、かわいいでしょう」

 それは、ビンゴ大会の参加賞のUSBフラッシュメモリー付の携帯ストラップだった。柴田が声をかけた。

「見せびらかすのもいいですけれど、それ、かなり性能のいいメモリーだから、仕事に使うといいですよ」

 すると、藤巻も興味を示してきた。

「え、フラッシュメモリー? ちょっと見せてもらってもいいですか」

「あらやだ、藤巻さんも、かわいいの好きなんだ」

「ええっと、これ、柴田さんのノートパソコンですか? ちょっと借りますよ。みなさん静かにお願いします」

 いったいどういうことなのだろう? 静まり返った部屋の中で、鑑識の藤巻がパソコンを立ち上げ、そこにあの携帯のメモリーを差し込んだ。

 それと同時に、メモリーがピカっと光り、かすかな電子音がした。その途端アルテミスの像の中から、カチッという音が聞こえた。

「ストッパーが外れました。そうか、社長が椅子に座って、メモリーを差し込んだ時に、高い周波数の電子音がここから出て、事故に遭ったんだ。すると、このメモリーもアルテミスの像も犯人の計画の一部だったわけだ。いやあ、さすが、白峰刑事、お手柄ですね」

「まさか、全員配布の参加賞ごと計画の一部になっていたとは。おそろしい犯人だ」

 そこにもう一人の鑑識、サイバーテロ専門の武田が駆け込んできた。

「ダウンした社長室のパソコンの分析が終わりました。そ、それが…」

「え、そ、そんな!」

 パソコンには何も異常がなく、どうも偶然電源が切れたらしい。白峰は奇跡的な確率でシステムをダウンさせてしまったらしい。だが、その結果中を調べたところ、社長専用のフォルダーの中から、とんでもないメールが発見されていたのだ。

「そういえば社長は送り元がわからない嫌がらせメールに悩まされ、犯人の出所を調べたと言っていましたが…」

「半分は嘘ですね。そのようなメールはありませんでした。代わりに何通か見つかったのが昔の秘密を漏らすなという脅迫まがいのメールです。しかも社長のアドレスは、仲間内の重要な連絡用のアドレスで、他の少数の仲間のメールと一緒に送りつけられていたんです。昔の秘密を洩らしたら命はない、気をつけろとね…」

「昔の秘密? ま、まさか」

 柴田がそっとつぶやいた。

「こうは考えられませんか。十年前の騒動の時に、人が一人死んでますよね。ところが最近、仲間の誰かが昔のことを洩らしてしまい、まずいことが起きた。リーダーの荒谷が仲間に秘密のメールアドレスでこれ以上の秘密を洩らさないように脅していた? でも、そうなると一連の殺人未遂は、荒谷の影響下にあるのかもしれない。だから、荒谷の名前だけが事件のリストにない…。と、いうことでしょうか」

 丸亀も低くつぶやいた。

「わしも一つ違和感を持っていた。一連の事件がすべて殺人事件でなく、未遂であること。今回のアルテミスの矢だって、心臓に確かに当たる確率はそれほど高いとは思えない。殺すことは成功しなかったが、脅しとしては完璧だ。殺してしまえば、ややこしいことになるが、未遂だけなら、ますますメンバーの口が重たくなる」

 柴田の顔が輝いてきた。

「ようし、一歩近付いたぞ。それにしても、メモリーをビンゴでもらって来たり、サーバーをダウンさせて貴重な証拠を手にするなんて、さすが先輩ですね」

「ふふ、すべては計画通りね」

 すべては偶然だった。というより彼女がとんでもない天然…、というか、普通の刑事と行動パターンが大きく異なるのだ。

だが、カップ酒事件といい、アルテミスの矢の事件といい、チーム白峰は連敗続きだ。そして、リストの最後の東条の犯行予定日も迫っている。

「さっそく、東条に会いに行きましょう。今度はだんまりは通用しませんよ。ね、先輩」

「ええ、その通り。チーム白峰の真の力を見せてあげる。今度こそ卑劣な犯人の思い通りにはさせない。そうそう、それからタマラファイルにあった高見沢にも会わないとね」

 鑑識の二人が帰り、証拠の再確認が行われた。だが、話が盛り上がったところに、部長の大橋がやってきた。

「特別勤務の辞令だ。白峰流石刑事は、これより一週間、アメリカペンタゴンとの合同警護任務に就くこととする。事例コードは「;p・g」、極秘任務だ。悪いがもう、今日の午後から、任地に向かってもらう。以上。ご苦労だな。あとは柴田たちに任せろ。いいな。」

「ええ、よりによって今日からですか」

 部長はぺこりと頭を下げて帰って行った。

「なんなんすか、これからっていうときに先輩が一週間も特別勤務だなんて」

 あんなに元気の良かった流石が黙り込んでしまった。

 すると突然丸亀が立ち上がった。

「今日まで、君たちを騙していて悪かった」

「え、丸亀さんまで何を言うんですか」

 すると丸亀は名刺を取り出した。そういえば丸亀の名刺は初めて見る。

「官房長官付の内閣機密調査室室長、それが今の私の肩書だ。全部嘘を言っていたわけじゃない。昔は刑事もやっていて、大橋たちとチームを組んでいたこともある」

「それがなぜ、指導官としてここに…」

「実は、白峰流石は国家の存亡にかかわる重要人物との深いつながりがあるのだ。信じたくはないが、彼女がいないと、日本やアメリカがとんでもないことになるのだよ。その彼女が警察をクビになるかもしれないと聞き、官房長官から指令が下ったというわけだ。詳しいことは後で説明する。白峰君は立派な刑事だ。一緒にいて、それがよくわかった。自信をもって頑張りなさい。昼過ぎには、郊外のヘリポートにヘリコプターが付く。そこから東京湾に来た、原子力空母に直接着陸だ。いいかな」

「うひゃああ、なんだかすごいことになっちゃった。でも先輩、この柴田、先輩に恥ずかしくないように頑張りますから、あとはお任せください」

「うう、柴田、頼んだから、すぐ帰ってくるから…。しかし、東条の予告日にもいないなんて、本当にごめんなさい」

 その頃、原子力空母から発進した大型の軍用ヘリが、ヘリポートに向かって飛んでいた。

 身支度を整えた流石はみんなに見送られ、一人ヘリポートに向かった。


それから一時間後、やる気に燃える柴田は、丸亀をともなって、東条の事務所に来ていた。リーダー不在だが、だからこそ、これ以上の負けは許されない。

 でも、東条リテーリングの社長は今までにない手ごわい相手だった。

 そこは、「タベルナグループ」の不動産部門を一手に担う大きな会社だった。柴田たちは住宅や店舗の明るいショールームに通された。

 東条は威圧感のある強面の男で、秘書と部下の数人を引き連れて乗り込んできた。

 そして東条は用件を聞くなり、柴田の話を頭から否定してきた。

「あなたたちの言ってることは、単なる思い付きの推測の域を出ていない。十年前のことなんかすべてでたらめのでっち上げですよ。いいがかりもはなはだしい」

「まあ、犯人はまだはっきりしませんが、あなたの名前がリストに上がっているんです」

「その事件だっておかしいじゃありませんか、新聞で読みましたよ。第一、犯人はみんな別々のやつだって言うじゃないですか。手口だってまるっきり違うし…。第一、私と荒谷は兄弟のように仲がいい、昨日だって二人で酒を飲みましたよ。あなた方の言うことが本当なら、毒殺されているかもしれないじゃないですか」

「それはそうですが…。実際に、あなたの昔の仲間がもう四人も凶行を受けている。あなたが襲われない理由はないのです」

「とにかく、予告殺人などというばかげたことは私は信じません。警備なんて必要ない。こっちはいつも命がけで仕事してるんだから! 自分の身は自分で守るよ」

 とりつくしまがない。ああいえばこういう、とにかく強気な男だった。

「それから脅迫メールが届いていないかぜひ…。」

「まったくありません。届いておりません。私には関係ないことです」

「そうですか。それでは念のために、犯行予定日の東条社長の一日の動向をお伺いしたい」

「しつこいですね。ちょっと待ってくださいね」

 東条は、秘書と何か確認をとった。

「…。まちがいありません。その日は、休業日です」

「と、いいますと…」

「うちはその日は、ファミリー企業も含めて休みです」

「ですから、社長は…」

「たぶん一日自宅で寝ているでしょうね」

 本当に食えない男だ。だが、別れた後、丸亀がつぶやいた。

「ありゃあ、何かを隠そうとこちらの話に乗らないように警戒している…そんな感じだな。」

「じゃあ、東条のところにも脅迫メールとかも来ているんでしょうかね」

「たぶんな。でも、今のままでは確認の取りようがない。作戦を立て直そうか」

 二人はそういいながら、ショールームを離れて行った。

 そして二人は駅前の公民館にさしかかった。

「この公民館の中に、高見沢の立ち上げた買い物ネットワークの事務所があるそうです」

 受付で高見沢のことを聞くと、高見沢の評判はすこぶるよい。地域のお年寄りや主婦たちにとても喜ばれている活動なのだという。事務所といっても、公民館の資料室だった小部屋でアルバイトの女の子がいるだけだった。

「はい、チーフは今、農家の高村さんと談話室で打ち合わせ中でして…すぐ来ると思います。」

 女の子の話では、今年は野菜も花も豊作で、ここのところ毎日のように収穫の打ち合わせをしているのだという。

 みんなのために一生懸命な高見沢の姿が伝わってくる。

 やがて農家のおじさんと高見沢が戻ってくる。農家のおじさんはニコニコで、心からの笑顔で高見沢にお辞儀をして去っていく。

「失礼します。高見沢さんですね。天山署の柴田と申します」

「はい、そうですが…なにか?」

 高見沢はまさかと思ったが、とりあえず平静を装って話を聞くことにした。

 柴田は、探りを入れる意味で細かい情報は隠したまま、昨日の事件のことを尋ねた。

「…という事件がありまして、片桐さんの交友関係を調べております。片桐グルメネットの片桐さんをご存じですか」

「はい、十年前ほど昔ですが、同じ会社におりました」

「それから、最近はお会いになっていますか」

「はは、それがいろいろ会社でごたごたがありまして、片桐さんは温厚な方なんですが、そのう、当時の仲間には会いたくないというか、そういうわけで、まったく顔をを合わせてもないですね。」

「そうですか…。ちなみに昨日の昼ごろは何をなさっていましたか」

 すると、高見沢はアルバイトの女の子に確認した。

「昼ごろ何をしてたっけ」

「手伝いの主婦の人たちと畑を見に行ってたじゃないですか。三時ごろ皆さんでお帰りになりましたよね。」

「だそうです。ははは」

「わかりました。なるほど」

 高見沢は、ちょっとあせった。畑に車で主婦たちと出かけた。途中でみんなのお弁当を買いに行くと言って、大きなバッグをさげて車を降り、片桐の会社に仕掛けに行ったのだ。その間わずか七、八分。お弁当は別の主婦に届けさせ、受け取って、空になったバッグにつめて、車に戻った…。日中、しかも勤務中の時間帯なのでかなり綿密な計画だった。

「ありがとうございました。では、これで失礼します」

 二人の刑事は笑顔で帰って行った。

 高見沢は周りから気づかれないようにしていたが、まさかの警察との遭遇に、すごく驚いていた。

 大きなへまは何もないはずなのに、なんで刑事が片桐のことで真っ先に自分のところにくるのか。

 警察に気付かれないように、すべての事件は県境の別々の地域で行い、犯人像から手口、小物まで一回一回すべて変更し、買い物ネットワークの主婦たちの手を借りて、犯行の準備や証拠隠滅も完璧を期したのに…、どこから洩れたんだ。やつらが、警察にたれこんだのか。でもそんなことをしたら、自分たちが危うくなるから、それは無いはず…。


 黄昏時、高見沢はまた「ヘカテ」を訪れた。

 この日は以前撮っておいたデジカメのデータを深海の前で、編集していた。それは今度の犯行現場になるであろう、東条のショールーム周辺の画像だった。でもショールームは見通しが良すぎるから、やはり事務所がいいかなと考えていた。

 珍しく深海が質問してきた。

「きれいな、ショールームですね。なんか大きなシステムキッチンがありますね。すごい使いやすそう」

「はは、ここは店舗用のプロ仕様のキッチンなんかも置いてあるからね。いやあ、俺、昔小さなイタリアンレストランやっててさあ。いやあ、楽しかったな。いろいろあって、手放しちゃったけど…」

 親友の森と二人でやっていた小さなイタリアン「タベルナ・ソレオ」、本当に夢のような店だった。でも死神は、偽りの幸福に隠れて近づいて来た…。

 あの夜、経営コンサルタントとかいう、荒谷が乗り込んできた。

 チェーン店化しませんかと、おいしい話を持ってきた。森は相手にしなかったが、何回も来るのでつい話を聞いてしまった。だが、チェーン店化は当初、大成功、二号店三号店とどれも大評判で、さらに大きな話も舞い込んできた。だんだんお金の渦から逃れられなくなってきていた。

 既存の低価格イタリアン「タベルナ・ソレオ」を強化しさらに、女性のためのヘルシーイタリアンの店「タベルナ・ドレモ」、おいしいスイーツが豊富な店「タベルナ・ココデ」もたちあげることになった。

 新しいメニューや店のコンセプトを考えるのは楽しかったが、急に忙しくなり、無理を続けているうちに、この俺、高見沢が入院。その頃から、荒谷がおかしな動きを起こし始めた。入院中の俺を補佐するために、いつの間にか専務取締役に収まり、グループ会社の再編成だとか言って、見たこともない五人の男たちを重役に雇い入れた。

 入院中の俺のところに、森が忙しいさなか、一度お見舞いにきてくれたんだっけ。その時、森は何冊ものノートを持ってきてベッドの俺に見せてくれた。

「チェーン店は、わずらわしいからそのうち全部整理して、また二人で店を始めよう。体に無理してまでやることじゃない。見ろよ、これ、おれの考えた夢のレシピだ。なあ、はやく体治せよ。また二人でのんびり始めようぜ…。」

 ノートには何年も研究した森の夢のレシピがぎっしり書いてあった。

 森はいたずらっぽく笑うと、いろんな夢を語ってくれたっけ…。

 俺は、少し良くなったところでチェーン店の本部会議に出席した。緊急の事案があるというのだ。それは、グループ企業の再編成というなんでもない話し合いだと思っていたら、驚いた。長期入院の私は、新体制のどこにも名前がなく、森でさえ、単なる料理コンサルタントという名目だけで、実際の組織からはずされていたのだ。

 創業者の負担を減らすとかなんとか言っていたが、単なる会社の乗っ取りだった。俺と森で魂をかけて立ち上げたイタリアンの店は、どこの誰とも知れないやつらの手にそのまま持って行かれてしまう。

 俺はその夜再び倒れ、かなりの長期入院となる。その間に、会社は完全に荒谷と五人の男たちのものとなり、しかも、信じられない悲劇が起こる。

 荒谷のところに出向いた森が、その帰りに交通事故で還らぬ人となる。飲酒したうえでの居眠り運転だと言われたが、仕事中は一切酒を飲まない森に限って、そんなことはありえないと思った。しかも、遺品のどこを探しても、あの夢のレシピを書いたノートがないのだ…。チェーン店はますます栄え、今もあちこちで評判になっている。荒谷はグループ企業のトップに収まり、五人の仲間はしこたま金を儲け、関連企業の社長や重役に収まっている。

 高見沢は、二年の闘病生活の後、持っていたチェーン店の株式を整理し、その資金をもとに、この県境ののんびりした地域に溶け込み、こんな毎日を過ごしていた。

 親友森の死の真相を突き止め、二人の夢のノートを取り戻すために、辛く虚しい毎日を、来る日も来る日も続けていたのだ。

 高見沢は小さくため息をつき、思わずつぶやいた。

「…。そのうち、なにもかも自由になったら、また小さな店でも始めようかな」

 すると深海がサッと明るく微笑んだ。

「その時はぜひ、私を雇ってくださいませんか」

 何気なく、でもその瞬間、本気で深海は、高見沢に心を投げていた。

「ああ、こっちから頭を下げて頼みたいくらいだよ。でも、君は優秀だから、給料高そうだな…ははは」

 本気なのか、冗談なのかわからなかった。でも深海は、明るい顔で部屋を去って行った。そして、ドアの外で死にそうに、大きく息をついた。小さな一言だったが、深海にとって、その一言は大きな始まりであった。サイは投げられた。


 爆音が青い空に響き渡った。流石が、アメリカのペンタゴンの、軍用ヘリに守られて、巨大な原子力空母エイブラハムリンカーンに着いたのは、、その日の夕刻だった。丸亀の部下だという、内閣機密調査室の松平という厳めしい人に付き添われ、空母の奥に進んでいった。

「ここから先が、P・g専用のレベル五のセキュリティゾーンになります。足元に注意してください」

 そこから先は、床にも壁にも柔らかいラバーのようなものが貼ってあった。慣れると、すべりにくくて歩きやすいが、どこもかしこもラバーシートに覆われていて、不思議な光景だ。

 さらに進むとやはりすべて滑りにくくて柔らかい特殊なラバーシートに覆われた家具や家電が見えて来る。そこに一人ゆったり座っている人こそ、流石の叔父、白峰壮一郎だった。コードネームP・g、国家機密扱いの世界的物理学者だ。

「やあ、流石ちゃん。お久しぶり、もう、五年ぶりか。いい女になったねえ」

「おじさんこそ、元気そうで安心したわ。とりあえずよかった」

 早くに両親を亡くした流石には、たった一人の肉親だ。流石は懐かしそうに微笑んで近付いて行った。


「いったいその叔父さんという人は、どういう人なんですか?」

 天山署に帰ってきた柴田が丸亀にきいた。柴田の問いに、丸亀が物理学の著書を渡した。

「世界的な物理学者だ。私にも難しくてよくわからない。その本を読んでみてくれ」

 柴田が、ちょっとだけドヤ顔をした。

「え、物理学? 実は私は、大学で物理を専攻していまして、ちょっと興味があるなあ。なになに…、わかりやすいようにまとめてみますか…」

 それから猛スピードで、、柴田のまとめた壮一郎のカタストロフ理論は次のようだった。

世界の構造

「この世界は、宇宙レベルから細胞レベル、素粒子レベルに至るまで、ピラミッドのようにいろいろなレベルが階層化し、さらに部分と全体が有機的に絡み合い、周囲の環境と相互に支え合って存在している」

不安定な個体

「だが一つ一つのの要素は、バランスを失えばすぐに破極を迎える不安定さの中にあり、いつも破壊と創造のはざまに置かれている」

「我々は、支え合ういくつもの要素を有機的に数多く持つことにより、絶え間ない破壊の確立から、守られている」

破極の芽生え

「ピラミッド階層化構造は、下のレベルで破壊が起こることにより、その上のすべてのレベルが崩壊されることがある」

破極の芽生えと共振性

「さらに、すべての物事は支え合っていると同時に共振性を持ち、それが負に働くとき、負の共振性が発動し、破壊が関係し合うもの同士の中で連続して起こることがある」

カタストロフ連鎖

「ピラミッドの崩壊と、負の共振性が同時に起こる時、カタストロフポテンシャルが飛躍的に高まる。それが、発動する時、それをカタストロフ連鎖といい、破壊が関係しあって連続して、爆発的に進む」

「普通にはこの二つが重なる確率は非常に低い。実際には、四次元座表上に、カタストロフポテンシャルの高いポイントがランダムに存在し、そこで連続して小さな崩壊が起こることにより、場のカタストロフィ係数が高まり、破極が近付き、限度を超えれば、カタストロフ連鎖が始まる」

「だが、普通の時間の流れでは、まず出会うはずのないカタストロフポイントがかなり高い確率で引き合うことがある。これは四次元座標上のポイントに流れ込む別の三次元を超えた時間の流れがあると想定できる。この時間の流れのメカニズムを解明できれば、世界中の予期せぬ災害、特に大災害につながる人災を軽減できる」

「…なんとか、理論はわかったような気もするのですが、これと国家存亡の危機は、どのように関係しているのですか」

 すると丸亀が、まじめな顔をして付け加えた。

「長年の理論の構築の結果、時空を超えた不合理が起きたという。本人は一人一人に流れている時間が少しずつ異なるように、自分の時間が四次元方向にずれていると表現している。なぜか、信じがたいことではあるが、壮一郎の周囲では、カタストロフ係数が常に高まり、破壊の連鎖が非常に高い確率で起こる」

「そんな、まさか…。四次元にランダムに存在するカタストロフポイントを発動させることは簡単には…」

「彼は、四次元軸上のカタストロフポイントを次から次に偶然発動させてしまう体質なのだそうだ」

 これがもっと解明されれば、世界中の大惨事が大幅に軽減される可能性があるという。でも現在、彼のそばに、爆発物、崩れやすいもの、とがったもの、滑りやすいもの、パイやケーキ、特にバナナの皮等を近づけると超危険。

 最初、そんなことはないと馬鹿にしていたペンタゴンの司令官が、バナナの皮で一回転するほど見事に転び、鼻を骨折し、パニック状態になり、その結果ミサイルの誤射騒ぎが、みんなの見ている前で起きたという。

 まわりで人が意味なくコケたりするのは普通、ぶちまけたり、衝突したり、ひっくりかえしたり、押し間違えたり、アクセルとブレーキを間違えたり、管制官が舌を噛んで言い間違えたり、玉突き交通事故、爆発・誘爆、墜落、火災、パニック、ミサイルの誤射、台風のありえない進路変更まで、さまざまなことがどんどん起きるのである。

 連鎖が起こると、場所や状況によっては国家の存亡にかかわるので、壮一郎はいつも隔離され、ラバーシートなどに覆われた高度のセキュリティの中にいる。

 コードネームp・gというのは、「パニック・ガイ」の略である。今まで都市の消滅に関わるようなパニックを何回もおこしている。

 しかし、学会の報告のため、来日することがある。今回もその一環だ。だが、なぜか、唯一の肉親、流石がそばにいると破壊は起こらない。流石の存在価値はまさにそこなのだ。

「そんな…。でもそういわれれば、先輩の持っている時間感覚や空間感覚は常人と違う。感性や行動が大きくずれている。あれは、天然なのではなく、四次元的方向だったのか。だから、おじさんの体質を中和してしまうのかもしれない…」


 次の日、厳重な警護のもと、白峰壮一郎は、都内の高級ホテルに場所を移した。

 ここから平日は毎日近くの大学に出向き、学会や会議に出席する。その間肉親である白峰流石は、二十四時間体制で警護に当たる。具体的には、絶えず五メートル以内にいてカタストロフ連鎖の発動を押さえる。

「悪いね、流石ちゃん、こんなおじさんの世話なんてつまらないだろうに…」

 朝のスクランブルエッグをパンにのせてかじりながら壮一郎が言った。

「いいえ、おじさん、頭ものすごくいいし、話面白いし、ダンディだし、まあたった一人の肉親だし、一緒にいて、ぜんぜんストレスたまりませんよ」

「ううん、模範的な解答だ。君もおとなになったねえ」

 すると、部屋の隅にいたセキュリティポリスの斉藤が言った。

「教授、そろそろお時間です」

 この男は無口だが、どこか優しそうで、頼りがいのある男だ。

「斉藤さんって、すごく体が大きいけど、なにか武術でもやっていらっしゃるの?」

「はい、自分は、天外流合気柔術を少々、でも丸亀室長の足元にも及びませんがね…」

「えー、あの太ったおじさん、失礼、丸亀さん、あんなにプヨッとしていて強いの?」

「いやあ、脱いだらもう凄い筋肉で…」

 真面目な斉藤は、汗を拭き拭き答えていた。

 でも、本当に不思議で、流石がそばにいるだけで、何も起こらない。平和な朝食である。もちろんラバーシートも何も必要ないのだ。

「じゃあ、そろそろ出発だ」

 身支度を整えて、壮一郎は大学に向かう。

 細身の長身、姿勢がよく、どこかに底知れぬオーラを感じさせる。知的でダンディなパニック・ガイ、とても研ぎ澄まされた危険な香りのする中年だ。

 セキュリティポリスの車での移動中に、壮一郎が言った。

「ああ、そうだ、流石ちゃんに頼みたいんだが、実は最終日が午前中で終了するらしいんだ。」

「あ、聞きました。もう十時の閉会セレモニーで終了だと言ってましたね」

「君、小さい頃からかなりの食いしん坊だったから、そこから推測して、おいしい店を知ってるんじゃないかと思ってね。連れて行ってほしいんだ。午後は近くで買い物かなんかして、日本の最後の夜はおいしい店で締めくくろうかなと思ってね。」

「ふふふ、おまかせください。どのガイドブックにも載っていないけど、死ぬほどおいしい店を何軒も知ってますから」

「ガイドブックにのっていない? いいね。じゃあ、よろしく頼むよ。今日、正式に許可は取っておくから」

 しかしこの頼みごとが、とんでもない事態を起こすことになるとは…。


 その日、深海ゆうきは、虚ろな目をして高見沢を待っていた。

 やってはいけないことをやってしまった。もしそれが雇い主にしれれば、無条件で解雇されてしまうようなことだった。でも、深海は高見沢のすべてが知りたくなった。その結果が悲劇を招くことはわかりきっていた。でも、愛してしまった。どうしようのなく…。

「ヘカテ」で、毎日命を削るように仕事をする高見沢が、すべてが愛おしかった。

 きっかけは新聞の片隅にのった殺人未遂事件の記事だった。アルテミスの像が少しだけ載っていた。その時、高見沢がいじっていたあのアルテミスの像に違いないと直感した。

 そして数日の間悩み続け、ついに今日、昼間の誰もいない時間にあの秘密のハードディスクを、秘密のファイルをのぞいてしまった。

 綿密な犯行計画をのぞいてしまった。入院中の日記から、死んだ森に対する思いもひしひしと伝わった。すべてを知って、自分はどうしよう。どうしたらいいのだろう。少なくてもこんなに心が揺れていては、高見沢に今までと同じように会うことさえできるのだろうか。

 やがて、夕方になり高見沢がやってきた。いつも通り打ち合わせをして、事務仕事を終わらせ、何事もなく部屋を出ていく。このまま何もなかったことにできるのだろうか。

 高見沢は、次のターゲット、東条の犯行計画の最後の詰めを行っていた。東条は、今ではタベルナグループの不動産を取り仕切っている。悪く言えば傾いたファミレスなどの物件を安く買い叩き、地上げのようなこともやっている。五人の中では一番のやり手で気も強い。

「今度は、商売敵が嫌がらせの結果、事故を起こすという設定だったな…。」

 やり手の東条は商売上の敵が多く、嫌がらせ事件が過去にもあった。高見沢はそれを利用することとした。裏サイトで、東条の事務所にトラックを突っ込む実行犯を募集した。なんでもいいから休業日に盗難車のトラックで事務所に突っ込んで逃げて来るだけで、大金が振り込まれるのである。

 だが、その時刻に東条を事務所に呼び出し、入口のそばに立たせておいたらどうなるだろう…。

 今度も、確実に命を奪うことは難しいかもしれない。だが、それが狙いだ。決行日は事務所は休みだ。だから被害は東条だけで済む。実行犯と盗難車の手配を行い、着実に計画は進んでいく…。

 やがて時間が来て深海がコーヒーを持って入ってくる

「あれ、深海さん、今日はいつもよりきれいじゃないの?」

 意外すぎる高見沢の声に、深海は我を忘れてしまった。

「ありがとうございます。でも、私、今日、してはいけないことをしてしまったんです」

 高見沢はサッと深海の方に向き直った。

「ま、まさか」

「ハードディスクの中のファイルを見てしまいました。すみませんでした」

 深海は大きくお辞儀をしてそのまま動かなくなってしまった。黄昏の淡い光があたりを包んでいる。すると高見沢はニコッと笑った。

「…君でよかった」

「はい?」

 深海ゆうきは、驚いて顔を上げた。

「こんなばかげた復讐劇はいつか必ずばれると思っていたんだ。早かれ、遅かれ警察につかまるってね。もし、そうなるんだったら、君にばれるのが一番自然かな、いや、君に、僕の復讐劇を止めてほしかったのかもしれない。君に言われたら、やり直せるような気がするんだ。」

 すると深海ゆうきは、大きく首を振った。

「ごめんなさい。でもわたしにもわからないんです。少なくても、あなたのことを警察に知らせることは私にはとてもできない…」

 高見沢は急に優しい目になって、そっと告げた。

「君にまで、つらい思いはさせたくない…すまない。早く、楽にさせてくれ…」

 二人の間に沈黙がひろがり、しばしの間見つめ合っていた。

「今日はこれで…。また明日お待ちしています…」

 深海はそう言い残して、逃げるように去っていった。高見沢は、たそがれの都会の街並みを見ながら深海のいれてくれたコーヒーを飲んだ。

 うまかった…。心にしみた…。

 そして、東条への犯行日はもう、すぐ目と鼻の先に迫っていた。


 学会の中日に、レセプションと立食パーティーがあった。流石は白峰壮一郎の姪にしてアシスタントということで、どこに行くにも付き添っていたが、この日は壮一郎が声をかけてくれた。

「そうだ、食いしん坊の刑事さん、今日はパーティーの間、羽を伸ばすといい。好きなものを食べておいで」

「ありがと、おじさん。ちょっと向こうに行ってみようかな。でも、安心してね。決して離れすぎないようにするからね」

 パーティー会場の隅には一流ホテルのバイキングコーナーがあり、肉料理やシチューがグラグラと温まって、いい匂いを立てている。

 あちこちで自由に食べ歩く流石。だが、担当のセキュリティポリスの斉藤は気が気でない。一応はなるべく五メートル以内ということになっているが、これだけ人があっちこっちを歩いていると、だんだん距離も遠くなり、目の届くところにいるとはいっても安全だという確証はない。

 流石はすっかり料理に夢中になり、斉藤の心配など感知せぬといった感じだ。

 だが、しばらくした時、料理の補充のために、一人のコックがたくさんの皿と料理を持ってきた。それを大きな器に補充して、さあ、仕事も終わった。近くにいた壮一郎にちょこんとお辞儀をしたその瞬間であった。

 コックの肘が、テーブルの上の胡椒に当たり、胡椒の瓶が倒れた。マンガのように噴き出した胡椒、それを吸い込んでくしゃみをする世界的な学者たち、その口から噴き出したウインナ、それを避けて、身を伏せたウエイターのお盆の上から一枚の皿が空中に飛び出していく。

「おお、あぶない、そっちにはガスがある!」

 やはり、壮一郎と流石の距離が遠すぎたらしい。皿は大きく弧を描き、皿の落下していった先は、大きな調理器で肉料理やシチューがグラグラいっている。そう、ガスの配管の真上だった。あわやガス爆発か! 斉藤の顔に汗が光った。

「流石さん」

「え、なあに?」

 落下地点のそばにいた流石が振り返り、皿をキャッチした。そしてそのまま何事もなかったように、壮一郎の元に戻ってきた。

「ああ、驚いた。皿が飛んでくるんだもの。いったいどうしたの」

「いやなに、二人の距離はかなり微妙なものらしい。ちょっと気を抜いたら危なかった。君がキャッチしてくれなかったら。大惨事だったかもね」

「ごめんなさい。料理に夢中になっちゃって、どんどん離れていっちゃったみたいね。ちょっと羽を伸ばしすぎたかも…」

 斉藤はこの時、壮一郎の恐ろしさと、流石の天然ぶりを思い知ったのであった。


 そして、ついに東条の犯行予告日になった。

 柴田と丸亀は、東条の大きな自宅の前に詰めていた。東条はますます非協力的になり、今日も自宅に入ることさえ拒否されている。

「困りましたね」

「でも、黙って見ているわけにもいかんだろう」

 二人は大きなその屋敷を見上げた。中は静まり返っているようだった。


「そうですね。しばらくここで見張りましょうか」

 二人の長い一日が始まった。


 その頃、閉会セレモニーが終わり、軽く昼食をとった白峰流石と叔父の壮一郎はセキュリティポリスの斉藤と、もう一人佐々木をつれて、天山署のそばの繁華街に繰り出していた。流石は、とにかく壮一郎から離れないように、そして斉藤たちは二人を離さないように、最後のオフの日を乗り切ろうと頑張っていた。

 先に大型ショッピングモールにより、それから流石おすすめのおいしい店に行くという段取りだった。

「おお、すごい、大きな店だね。何年ぶりかなあ、いやあ流石と一緒だと普通の場所に来られて感激だね。ほう、三階にデジカメやパソコンコーナーがあるのか…。一階を見たら、ぜひ上にも行ってみよう」

「はい」

「中国の富裕層が大挙して日本にやって来ているって言うけれど、その実態も知りたいし、韓国の性能のいい家電品が、どのくらい安く売られているのかとか、スイスフランが高いのに、どうしてスイスの時計が売れているのかとか、今日は、そういうことを肌で感じて帰りたいねえ」

 買い物好きな流石は、ニコニコして先頭に立って壮一郎を案内する。

 だが、巨大な一階の食品売り場をひと通り見た後で、さっそく事件は起こった。

「あ、エレベーターが来てるわ。おじさん、こっちよ」

 上の階に行くエレベーターの前で、流石が走り出た。何のことはなく、エレベーターに間に合い、先に乗り込んだ。

「オーケー。今『開ける』を押したから、おじさんゆっくり来て」

 だがニコニコ笑う流石の前で、エレベーターのドアはゆっくり閉まって行った。斉藤が叫んだ。

「流石さん、まずいです、ドアを開けてください」

「オーケー」

 流石はさらに強くボタンを押した。だが気が付いた時はエレベーターは動き出していた。

「どういうこと?あ、『開ける』と『閉じる』を間違えて押してた…」

 こういう場合は、すぐに携帯で確認したうえで、元の場所に戻るというのが打ち合わせであった。斉藤から早速電話があった。

「エレベーターの調子が悪いみたいで…。うん、すぐ下に降りるから、その場で待っていてください」

 斉藤はすごく悪い予感がしたが、すぐにエレベーターホールの真向かいにあるテーブルコーナーに退避した。通路に立っていることはかなりの危険があるからだ。

 それにしても短い時間が、すごく長く感じる。いつカタストロフ連鎖が起こっても不思議ではない。斉藤は一応本部に連絡を取り、指示を仰いだ。

 とにかくそこに待機して、流石を早く確保せよということだった。だが、流石からおかしな連絡が入った。

「ちょっと斉藤さん、さっきの場所にいないじゃないの。せっかく戻ってきたのに」

「ああ、エレベーターホールの向かいのテーブルコーナーです。見えないですか?」

「わかった、すぐ行くわ」

 おかしい、ここに着いたなら、すぐわかるはずなんだが。

「ちょっとテーブルコーナーなんてないじゃない。どうなってるのよ」

「あのう、すいません、そこは何階ですか」

「二階に決まっているでしょ! あ、間違えてた」

「ここは一階です、あわてないでエレベーターにもう一度乗ってください。階段の右ですよ」

「あれ、エレベーターの場所がわからなくなっちゃった。ええっと…。あれ、右って左だったっけ?」

 そう、しかも流石はあせると、右と左を平気で間違えるのだ。

 斉藤の体中から血の気が引いていった。まずい、このままでは大変なことが起きる。

「流石さん、近くの人にすぐエレベーターの場所を確かめてください」

「はい、すぐに聞いてみます。急ぎます」

 さらに斉藤は、部下の佐々木を呼び付けた。

「佐々木、ここは俺が何とかする。流石さんを確保してくるんだ」

「了解」

 とんでもないことになってきた…。


 その頃、東条の家でも動きがあった

「白峰先輩も今日で最終日だそうで、今日はこのそばに、おじさんを連れてきているそうですよ。あれ、誰か出て来た」

 駐車場の方で人の動きがある。自動のゲートが開いて、滑り出てきたのは、誰でもない、東条その人だった。柴田が窓にへばりつく、仕方なくスピードを落とす東条。

「東条さん、どこに行かれるんですか。寝ているんじゃなかったんですか」

「どこに行こうと、俺の勝手だろう」

「そういうわけにはいきません。行き先だけ教えてください」

「あんたもしつこいね。忘れ物をしたから職場に取りに行くだけだ。嘘じゃないよ」

 そこまで言うと、東条はスピードを上げて、柴田を振り切った。

「くそ、危ないところだった。強引なやつだなあ」

「柴田君、平気かね」

「ああ、何ともないです。忘れ物を取りに職場に行くと言ってました。どうします」

「追いかけるしかあるまい。万が一に備えて、応援を頼んでおこう」

 だがその頃、車上の東条は険しい顔でハンドルを握っていた。

 正体不明の相手から、脅迫メールは届いていた。しかも昨日届いたものは特別だった

『明日の午後三時に事務所の受け付けの前に来い。一人で来ればいいことを教えてやる』

「どういうことだ、教えてやるとは犯人が来ると言うわけか。面白い、相手になってやる」

 念のために、会社に五分で行ける場所に屈強な部下を数人、呼んである。いざとなったら逆にとっつかまえてやる。

 警察につけられていることを半ば知りながら、東条はスピードを上げた。だが、その先には予想外の出来事が待っていたのだ。


 二階に行った佐々木から連絡が来た。

「只今二階に着きました、ええと、エレベーターホールにもその付近にも流石さんはいません。」

「探せ、どんなことがあっても探して連れて来るんだ」

 その時、静かに座る壮一郎の隣のテーブルに、親子連れがやってきた。幼稚園児の男の子が、ソフトクリームをなめている。周りを見ないで、その辺を駆け回る。注意する母親。もし、あの子供が白峰教授にぶつかるようなことがあったら、カタストロフ連鎖が発動するかもしれない。

「坊や、走ると危ないよ」

 柄にもなくやさしい言葉で注意する斉藤。

「すいません、兼人、お座りしましょうね」

「はーい」

 男の子は素直にテーブルに戻って行った。

「えらいねえ、坊や…。ってうそだろ」

 テーブルに着こうとした坊やのソフトクリームが、溶けて床にポトッと落ちた。ちょうどそんな時に限って、大きな荷物を積んだカートを押して店員が通りかかる。

「うわ!」

 狙い澄ましたようにソフトクリームを踏み、ひっくり返る店員。凄い勢いで走り出すカート。

「誰か、誰か、止めてくれ」

 店員の悲鳴に飛び出した斉藤だったが、間に合わなかった。ボーリングのストライクのごとく、高く積まれたセールの缶詰の山が砕け散り、あたりにコロコロと丸い缶詰が転がって行く。

「うわあ、た、助けてくれ!」

 ほんの数秒の出来事だった。コロコロ転がる缶詰を踏んで、あちこちで人がひっくり返り始めた。まず生野菜の陳列棚がひっくり返り、野菜が飛びかった。高い棚に商品の箱を上げようとした店員に、滑ったお客がぶつかって倒れる棚、その棚によってさらに倒れる棚、まさかの棚のドミノ倒し状態だ。大きな音がして棚の間にいた人が駆け出して逃げ始める。どこかで煙が立ち上る。火災発生か?

「白峰教授、カタストロフ連鎖の発現のようです。いかがしましょう」

「まだ、パニック度は低い。早く流石を呼ぶんだ。私が動くと連鎖がどんどん広がることになる」

 広がる? それは困る。佐々木は何をしているのだ。っていうか流石さんはいったいどこに?

 飛び散る野菜、今度はワインコーナーで瓶の大量に割れる音が響く、なぜか、餃子とハンバーグが湯気を上げた状態で飛んでくる。もちろん、逃げる人の顔にジャストミートする。もうドリフターズ的展開が目の前でみるみる広がって行く。外に逃げた人々は広い駐車場に押しかけ、クラクションが鳴り響く。

 あわてて道路に飛び出した車が玉突き衝突! 突然の渋滞騒ぎだ。

 だが、さすがにこれ以上続くとけが人が出ると思われたその時、冷静な壮一郎がサッと立ち上がった。

「流石、こっちだ。急げ」

 斉藤には、崩れゆく店内の大騒ぎの他は、流石の姿など何も見えなかった。しかし、壮一郎は、今までジーッとしていたのが嘘のように、しゃれた帽子を深くかぶると、スーツ姿のまま、ひらりとテーブルを飛び越えたのだった。そして一直線に、エレベーターと全く違う方向に走り出した。躍動する、細身の長身! 崩れる棚を、瞬時に潜り抜け、暴走するカートを飛んでかわし、一分の隙もなく、獲物を狙う鷹のように、鋭く、しかもあくまでスタイリッシュに走り出したのだ。空中を飛び交う、ハンバーグもキャベツも卵もケーキも何一つかすりもしない。

 するとエレベーターと反対の方向から流石が走ってきて、壮一郎に抱きついた。

 その瞬間何かが終わった。棚の倒れる音も静まり、ふと静けさが広まった。

「ごめんなさい、エレベーターの場所を聞こうと思って、間違えてエスカレーターを教えてもらっちゃって、もう何がなんだか…」

 後ろからげっそりした佐々木が追いついてきた。お手柄だ。斉藤はヘナヘナと椅子に座りこんだ。

「いちおう、契約で、被害が出た場合は日本国とアメリカ国防総省で折半して保障することになってはいるんだが」

 大けがや死人は出なかったのでそれはよかった。だが、被害総額は数千万円になるに違いない…。


 その頃、東条リテイリングのショールーム付近に、不穏な車が近付いていた。予定通り近くの工事現場からトラックを持ち出し、高見沢に闇サイトで雇われた男が時計を見ていた。

「契約はきっかり三時だ。だれもいない事務所に突っ込むだけであれだけもらえれば、御の字さ」

 今日は休みとあって、近くに人影もない。突っ込んだ後で、事務所の裏から逃げれば誰にも見つからないだろう。

 いよいよ三時の鐘が鳴り響く。男はアクセルを踏んだ。

 ガチャーン! 凄い音とともにガラス戸や中の壁が吹っ飛んだ。受付の机が粉々になり、車は停まった。男は誰もいないのを確認し、そっと逃げて行った。

 すぐに、腕っ節の強い東条の部下や、丸亀に手配された警察が滑り込んだ。実行犯の男が捕まるのは時間の問題だろう。

「社長、社長!」

 部下が呼んだが返事はなかった。

「やはり、車もないし、社長は来ていないようだぞ」

 部下の一人がすぐに東条に電話した。いらついた感じの東条の声が返ってきた。

「ええっ、事務所の受付が粉々になった! ふう、行かないでよかったよ。え、こっちは謎の大渋滞が起きて、さっきから止まっちまってるよ。何でもショッピングモールのそばで何かあったらしい。玉突き事故の後片付けもあるとか言ってたな。とにかく、この状態じゃ、いつそちらに着けるんだか自宅に帰れるんだかわからねえよ。なんだかすごいパニック状態なんだ。」

 そうだったのだ。白峰流石は、事件現場に行かずして、その天然ぶりを発揮して、パニック・ガイの力を発現させた。そして、その結果、被害者の車を止め、事件を未然に防いでしまったのだ…。

「そうですか、実行犯は逮捕されましたか。で、真犯人は? え、闇サイトで仕事を引き受けたのでまったくわからない? ふう、しかし、定休日の事務所にトラックを突っ込むだけを頼まれたって? また今度も殺人ではなく、殺人未遂を狙ったんですかね…。真犯人の狙いがますますわからなくなってきた。いったいなんのために、何をしようというのだ? そうですか。いいえ、こちらの渋滞は全くいつ終わるのかわかりません。え、先輩が関係してるんですか…!」

 柴田は唖然とした。柴田は渋滞に巻き込まれたまま報告を聞いた。残念ながら、壮一郎は大騒ぎの後、そのまま原子力空母に直行となり、おいしい店は次の機会となった。

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