第5話 黄金のパスタ
「高見沢チーフ、お疲れ様でした。明日もよろしく…」
「はい、ご苦労様。また明日」
手伝いの主婦や事務の女の子が早々と帰って行く。
ここは、駅前の公民館の一角を借りて活動しているNPO法人「買い物ネットワーク かけ橋」の事務所だ。
この天山地区でも高齢化が進み、特に西部の団地地区では深刻な買い物難民問題が発生している。昔からの商店街やスーパーの撤退が深刻なことになっているのだ。そこで、一回百円から五百円払うと、代わりに遠くまで好きなものや食料を買ってきてくれるサービスを行っている。買いに行くのは近所の主婦たち、ネットに登録しておくと、近所のお年寄りからの依頼が入り、自分で買い物をするついでに買い足して届ければ、ちょっとした小遣いになり喜ばれるのだ。中には自動車でいくつもの買い物を運び、週に数万円も稼いでいるつわもの主婦もいる。
高見沢の買い物ネットワークは、ネットや電話で主婦とお年寄りの仲介となり、サイト運営、電話の応対、時々はお年寄りの家庭訪問などを行っている。仲介料は一切取らないが、登録した主婦には、月に二度の1時間程度の奉仕活動が義務付けられる。市から借り受けた農地を使って、大規模な花づくりや野菜づくり、リサイクル活動やバザーなどを奉仕活動として手伝ってもらっているのだ。参加する主婦の数も年々増え、去年からは収益も上がって、事務の若い子を雇えるようにもなった。
奉仕活動をするとポイントがたまり、公共施設の無料券などがもらえる仕組みになっている。特に市民プールと市民ホールの無料券が大人気だ。
高見沢は一人暮らしのマンションを出ると、朝、必ず畑を見回り、平日は四時過ぎまでこの事務所にいて、忙しく働いている。
今日は、秋の収穫が近付き、作物づくりの指導をお願いしている農家のおじさんと話が長引き、時間ぎりぎりになった。高見沢は帰りは必ず、飲食店街がある雑居ビルで素早く用事や買い物を済ませ、裏口からそっと抜け出て、「ヘカテ」のある高層ビルに消えていく。
彼の裏の顔は誰も知らない…。
「高見沢さま、おかえりなさいませ。まず、連絡事項からよろしいでしょうか」
深海ゆうきの完璧な仕事は、毎回新鮮な驚きだ。
「…、それから、予定通り美術品のお届け物が到着いたしました。いかがいたしましょう」
「ああ、アルテミスだね。うん、悪いが、この机の横に運んでおいておくれ。これから一時間は、ここでこつこつ作業に入るよ。例の工具セットも出しておいてくれ」
「かしこまりました。ほかに何か御用事はありますか」
そういえば、今日はネットカフェに寄ってきたけど、何も食べてなかった。
「君の業務内容と違うかもしれないけれど、何か腹に入れる物が用意できるかな。今日、まだ食べてないんでね。」
「簡単なものでよければ、7階のキッチンで料理が可能です。ご用意できます。おまかせください」
「悪いね、じゃあ、きっちり一時間後に頼むよ」
高見沢はまた秘密のファイルを開いた。
「次のターゲットは、ネットサービスのベンチャー企業の社長の片桐か。あいつは錦織と違って人がいいから、脅しようによっては真相がわかるかもしれない。ええと、今度の犯人は二十代のメカオタク、ネットがらみの怨恨が動機だったな。犯行予定日は会社の十周年記念のパーティーの日だ。変更がないかどうか、もう一度探りを入れるか…。」
高見沢は、今度の犯人像に基づき、犯行の動機、手口、行動パターン、凶器、年齢、服装などを、この間の犯人と重複しないように練り上げていった。今までもそうだったが、犯行地域もわざと離すことによって、担当する警察署が違う、だから怪しまれることも少ない。
高見沢は次に、、届いたアルテミスの像をいじり始めた。四十センチほどの狩りの女神の置物で、台座に時計と温湿度計がついている。
「お、思った通り、弓と矢がはずれるぞ。これなら仕掛けは簡単だ」
それから丁寧に台座をはずして、いろいろと改造を始めた。
「よし、予定通りだ。あとは包装を元に戻して…と」
やがて時間になり、ノックの音とともに、深海ゆうきが入ってきた。
「簡単なパスタですが、心をこめて作らせていただきました。どうぞ」
「え、おい、こ、これは…」
そのシンプルなパスタを見た途端、高見沢は顔を押さえて、体を震わせた。
「以前、高見沢さまがイタリアにご旅行に行かれた時、素朴でおいしいパスタを食べたんだと、楽しそうにお話してくれたのを思い出して作ってみました。失礼しました」
「なんだよ、あいつ。事務仕事しかできないような顔してるから、何が出て来るのかと思っていたら。突然、こんなもの持ってくるなんて…」
高見沢は、今は訳あって封印しているが、もとはといえばイタリアンの料理人であった。だから、料理下手が適当に作ったものか、一流の腕前が心をこめて作ったものかは一目でわかった。
皿は適温に温めてあった。時間ピッタリに茹で上げて、この二十六階にアツアツの状態で持って来るだけで大変な苦労だろう。麺はプリプリで、イタリアの質のいい乾麺を見事に茹で上げている。味付けは、オリーブオイルと、イタリアのハム、岩塩とそして卵の黄身粉チーズだけのシンプルなもの。だから、一切ごまかしがきかない。
「くそー、なんでこんなに…。あの時の味が…。いったいあの女、何者なんだよ…。でも、旨い、心にしみるよ。この味だよ…この味なんだ」
涙が止まらなかった。さまざまな思いが一口ごとに体を突き抜けて行った。もう、十数年前になるだろうか。貧乏学生だった高見沢は、志を同じくする親友の森と一緒に、ヨーロッパの放浪旅行に出た。ひどいもんだった。野宿したり、途中で金がなくなったり、でも、楽しかった、苦労しても、一度だって喧嘩なんかしなかった。
確かイタリアの山道で道に迷い、食料もすっからかんになり、困り果てていた時、農家のおばちゃんが、昼飯をごちそうしてくれたんだっけ。そのおばちゃんが自分で搾ったというオリーブオイルと岩塩、残り物のハムの切れ端と、庭の鶏が産んだ卵の黄身だけで作ってくれた素朴なパスタが、なんでこんなに旨いのかというぐらいに腹にしみた。新鮮な黄身が黄金色に輝き、、俺たちはその黄金の眩い海の中にすべてを忘れた。
「…黄金のパスタだな」
「ああ、高見沢、俺たち日本に帰ったら料理、やってみないか」
あの時二人で誓い合った、日本でもこんなに心のこもったおいしいものを出すんだと…。
俺たちはそのままイタリアで料理の武者修行に励み、日本に帰って数年後にイタリア料理の小さな店を開いた。
あくまで低価格で、心のこもったおいしいものを出したい。イタリア語で食堂を意味する「タベルナ」ということばをもじって、森が「タベルナ・ソレオ」というおかしな店名をつけた。ファーストフードよりは高いが、ファミレスよりはリーズナブルに、イタリアの温かい家庭料理が食べれるとなって大評判になった。
アイデアマンの森は次々に低価格のおいしいイタリアンを開発し、細かい仕事が得意な俺が店を切り盛りした。夢のような数年が過ぎ去り、当初の借金もきれいに返し、順風満帆だった。
でも、森のあのいたずらっぽい笑顔は二度と帰ってこない。いったいどこから間違ってしまったのだろうか。
「…ごちそうさま…」
あまりにいろいろな思いが去来して、高見沢は一言しか言葉を返せなかった。すると無口な深海が食後のコーヒーを出しながら、珍しく訪ねてきた。
「あの…、お口に合いましたでしょうか」
高見沢は真顔で、まっすぐに深海の目を見て答えた。
「ああ、あれは、おれが昔食べた黄金のパスタに間違いなかった。旨かったよ。俺の専属のシェフを頼もうかと思ったくらいさ」
「おたわむれを…」
今日はまだ時間が早いのか、西の空に金色の雲が輝いていた。眼下に広がる街並みがまばゆい光の中にやさしく佇んでいた。高見沢と深海は、ただその金色の雲が暮れなずんでいくのを静かに眺めていた。
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