第3話 スペースオペラの夜

 その日、郊外にある天山スタジアムのすぐ上に、惑星型の気球が一つ、また一つと上がっていった。小さな流星型のアドバルーンやシュールな宇宙船の舞台装置もクレーンで動き出した。もちろん、サッカーや野球の試合ではない、ロックバンドエスピオのスペースオペラのための舞台装置である。やがて近くの駅から、数えきれないファンたちが詰めかけて来るに違いない。

 高見沢はスタジアムに出入りの弁当屋を装い、スタッフ専用の駐車場に紛れ込んでいた。そっと駐車場を出て、表通りに出ると、顔なじみの主婦が数人駆け寄ってくる。

「チーフお待たせしました。今月の奉仕活動にに参りました」

「みなさん、出張奉仕活動ご苦労様。買い物の品とレシートを出してくだされば、この場で現金払いいたします。同時に奉仕活動ポイントのシールを渡しますから、お忘れなく」

 主婦たちは、ニコニコしながら経費とシールを受け取って帰って行く。高見沢は、手に入れた品物を持つと、車に戻った。後ろの荷台部分に入れば、外からは見えない。中で品物を開ける。紳士物の上着やジーンズ、スニーカー、なぜかカップ酒もある。どこでも手に入る大量生産されたものばかりだ。これは、持ち物から身元が割れないように考えてのこと。自分で買い物に行ったわけでも、ネットで集めたわけでもないから顔がわれることも、住所が特定されることもない。かなり危険は低い。その上に、別に用意したエスピオの大きなロゴのついた帽子を深めにかぶる。

「よし、三十四才、エスピオファンのフリーターの感性だ」

 そして、仕掛けの入ったリュックを背負うと、こっそり、スタジアムの裏へと回って行った。

 やがて日が傾きはじめ、スタジアムの周りにイベントショップがオープンし、駅の方から波のように人々が、しかも派手なコスプレをしたノリのいい若者たちが大挙して押し寄せてきた。

「スタジアムの中に入らなければ、警備も、監視カメラも心配はいらないな。さてと、もうすぐ約束の時間だ。錦織は、東側のイベントショップの裏あたりだと言っていたな。なるほど、あそこは死角だ。違法な取引をするにはもってこいだ」

 高見沢は、カップ酒をリュックから取り出し、何やら始めたのだった。


 やがて、宵闇が辺りを包み、高い空に星々が輝きだした時、スタジアムにライトが乱れ飛び、浮かび上がる巨大な惑星、大音響とともに、舞台が輝きだす。

 ここは宇宙の楽園、聖なる星、セイラ・ミューズ。今、百年に一度の平和の儀式が行われようとしている。聖なる姫役の、6オクターヴの音域をもつメインボーカルの歌姫、トゥインクルグルグルタマコがスタジアムの上の巨大な惑星から、光り輝きながら降臨だ。流星が飛び交い、きらめく星屑、聖なる姫の歌声に、宇宙が応え、光り輝くダンスユニットがはじけるように踊りだす。惑星や、銀河をまとったようなド派手な衣装をものともしないスキャパレリ・ヨーコ率いるダンスユニット、マーズストームだ。

 だが、そこに鳴り響く不気味なファンファーレ、突如として現れる、黄金の軍隊、黄金帝国軍だ。連れ去られる聖なる姫、舞台は一転して真っ暗となり、不気味な黄金帝国軍の破壊のロックだ。きらめく金管、鳴り響くパーカッション、マッチョの金管ユニット、ダイヤモンドリングガイズのメンバーだ。長いマントを振り回し、ニヒルな総統が唸り声を上げる。この奇怪なコスチュームのデザイナーでもあるキーボード担当の、パルサー・オメガ・月岡だ。総統の巨大な鎧に、キーボードが合体してある。なんと自分の体を叩きながらの演奏だ。演奏とともにヨロイから閃光が走り、破壊を行う。だが、姫の聖なる歌声は、時空を超え、辺境の惑星の勇者に届くのだった。

 勇者役のバンドのリーダー、アンドロメダ・メテオ・大門は、なんと小型飛行船に宙づりになって、スタジアムの上空を飛び回り、シャウトする、命知らずだ。

 やたらに大がかりで、度胆をぬく演出、宇宙的なセンス、奇妙なモダン感覚のスペースオペラならではのコスチューム、でも、ストーリーはきちんと王道を踏まえてどっしりと…。これが、エスピオのステージだ。

 スタジアムから、さほど遠くない天山署にも、大音響が伝わってくる。パトロールから帰ってきた流石にもひしひしと伝わってくる。

「『太陽風をぶっちぎれ』の曲が終わったわ。あれ、今始まったのは、確か、『ギャラクシーシャワー』…。このバラード、しみるのよね。ああ、本当は私もスタジアムにいるはずだったのに…」

 その時、部長刑事の机上の電話が鳴った。事件か? ダンディな大橋部長の目が光る。

「おい、白峰、柴田、すぐに天山スタジアムに向かえ。強盗殺人未遂だ。急げ」

「了解」

 そう、事件は起こってしまったのだ…。


「ええっと、被害者は、錦織康則、三十九才。無職とは思えない、ちょい悪親父風のしゃれたな上着や、高級腕時計をしていましたね。どうやらネットの裏サイトで違法なダフ屋まがいの行為を行っているようです。今日もそのためにここにたむろしていたようで…。あ、ちょっとお待ちくださいね」

 被害者の錦織は、意識不明の重体になり、今さっき救急車で搬送されていった。現場に先に駆けつけた近くの交番の巡査長が、スタジアムの整理係を連れてきた。

「白峰刑事、この会場の整理係の黒田さんが、第一発見者であります」

「お話をお聞かせいただけますか」

 二十代半ばのまじめな体育系の青年である。

「エスピオの公演が始まって、七、八分した頃でしょうか、私たちで、会場周辺のゴミ拾いとパトロールをしていたんです。そしたら、ここの物陰に男の人がカップ酒を持ったまま倒れていたんです。最初は酔っ払いだと思って、声をかけたら、あの時、被害者のおっさん、まだ意識が少しだけあって、俺に話しかけてきたんです」

「まだ意識があったんですね。言ったことを正確に教えてください」

「…毒だ、だまされて毒入りのカップ酒を飲まされたんだ。助けてくれ、やつは金を出さずに、アリーナのチケットだけひったくっていきやがった。ジーパンはいた白いシャツと帽子の若造だ。うう、苦しいよ、苦しいんだよ…。そう言ってました。おっさんは、そのうち、動かなくなったんで通報したんです」

 柴田刑事が、証拠品のカップ酒を取り出して見せた。

「これ、底にわずかだけど溶け残りの錠剤が確認できます。若者の間で流行っているドラッグの一種ですね。こんなのを酒にたくさん溶かして飲んだら、場合によっては即死ですよ。すぐに鑑識に出して、分析してもらいましょう」

 白峰は、すぐに応援部隊に連絡を取った。

「ジーパンに白いシャツ、帽子をかぶった若い男です。ええ、そうです。犯人はまだスタジアム内で、ステージを見ている可能性が高いです」

 きっと犯人は、ステージが終わるとともに、この人波に紛れて逃げるつもりなのだろう。スタジアムはスポーツ公園内にあり、まわりはフェンスに囲まれている。スタジアムの裏側は小さな公園口とスタッフの搬入口があるだけ、もう警官を配置して押さえてある。あとは急いで人々が繰り出す駅方向に非常線を張って先手を打つ。人数は多いが、監視カメラや増員部隊は何とかなりそうだ。

「え? 私ですか。スタジアム周りは柴田に任せて、ステージの方に向かいます。開演直前にアリーナ席に飛び込んだ若い男を、できる限り特定してみます」

 白峰は、柴田刑事と入念な打ち合わせを行い、スタジアムのゲートに飛び込んだ。そして警察手帳をかざして大声であたりにアピールした。

「天山署の捜査一係の白峰刑事です。今、お聞きの通りスタジアムのわきで強盗及び殺人未遂の事件が起きています。犯人はまだこのスタジアム内にいると思われます。捜査の許可、並びに協力をお願いいたします」

 いざとなるとはったりがきき、抜群の行動力を見せる流石。数人の会場警備係を引き連れて、今まさにクライマックスのエスピオのスペースオペラ会場へと飛び込んでいった。


「す、すごい、これがエスピオのステージなの? 魂が持って行かれそうだわ!」

 アリーナ席に直前に飛び込んだ男性は、わずか数名、会場係と連携すれば、もしかしたら特定できるかもしれないという。狭い通路を、携帯を片手に飛び回る流石。

 だが、その頃ステージはいよいよクライマックス、クレーンでつられたシュールな宇宙船の上でヒーローと悪の総統の一騎打ちだ。シャウトがぶつかり合い、ダンスが炸裂し、レーザーや特殊なライトが空中を走る。総統のキーボードライトニング攻撃か、ヒーローのギターソードが上か!

勝ち誇る総統、巨大な落雷とともにヒーローが宇宙船から墜落! スタジアム全体が悲鳴に包まれる。あわや事故かと思うと、ワイヤーでつられたヒーローが決死の生還だ。だが、危機一髪に変わりはない。とどめを刺しにかかる総統。だがその時、流れ星に乗った聖なる姫の歌声が聞こえ、奇跡が起こる。

 輝きだしたヒーローの光の剣が総統を貫き、解放軍の戦艦が、黄金帝国を打ち破る!

駆け寄る姫、光の中に歩み出すヒーロー。舞台に光が満ち、いよいよフィナーレだ。

「く、もうすぐ観客が動き出す。時間が足りないわ。こうなったら…」

 白峰刑事は、アリーナ席を離れると、ステージ方向に向かって走り出した。そしてステージのそばで、一人の人物を捕まえると、そのままステージ裏へと飛び込んでいったのだった。


 その頃、高見沢はトイレで元の弁当屋の作業服に着替え、スタジアムの裏に潜んでいた。ステージがすべて終わり、スタッフが動き出すのを見計らってから、舞台の搬入口から堂々と逃げるつもりだった。

「犯人はきっと熱狂的なファンだと思われて、今頃観客席の方が大変なことになってるだろうな。だが、俺はステージなんか見ちゃいない。ステージが盛り上がれば盛り上がるほど、こっちは安全っていうわけだ」

 高見沢は手に入れたチケットを小さく破り、ゴミ箱にこなごなに捨て去った。彼にとって、これは壮大な復讐劇のほんの一場面にしか過ぎない。あとは、証拠を残さないように駐車場に戻るだけだ。真の目的はずっと先にある。

「ふふ、アンコールが始まったな。もうすぐ終わりだ。さてと…」

 高見沢は弁当屋の帽子を深くかぶり、動き出した。


 アンコールがすべて終わり、観客が動きだし、ステージの裏で、エスピオのメンバーとスタッフが円陣を組んで成功を祝っているところに、ぶしつけに一人の女が割り込んできた。

「ちょっと、あなたなんですか? ここをどこだと思っているんですか」

 だが白峰流石は少しも動じることなく、警察手帳をかざして叫んだ。

「天山署の捜査一係、白峰刑事です。お疲れのところ失礼いたしますが、今コンサート中に、このスタジアムの敷地内で殺人未遂、強盗傷害事件が起きました。犯人はまだこのスタジアム付近に潜伏している模様です。短い時間で結構です。ご協力をお願いいたします」

 一瞬の沈黙の後、ざわめきが起こった。

「えー、凶悪犯がまだこの辺にいるのかよ。そりゃ、やばいぜ」

「犯人はエスピオの熱烈なファンの可能性が高いので、皆さんも十分お気を付け下さい」

 ステージマネージャーと事務所の担当が飛び出してきた。

「刑事さん、一体どうしたら…」

「搬入口と裏の公園口にはもう警官を付けてありますので、スタッフの出入りと作業は進めていただいてけっこうです。エスピオのメンバーはしばらく、安全が確保できるまでステージ付近に待機、あやしい人影を見なかったかどうか、急いで事情聴取を行います」

 白峰は、みんなに事件の概要と犯人の服装を説明し、一人一人に質問を始めた。

「熱烈なファンの犯人は、出演者に接近した可能性もあります。なんでもけっこうです。気が付いたことがあれば、教えてください…」

 リーダーのアンドロメダ・メテオ・大門が答えた。

「ジーパンに白いシャツ、エスピオの帽子をかぶった奴? それって一番多そうな服装だね。うん、数百人以上いたんじゃないかな」

「いやあ、おれたち命がけのステージで、観客まではちょっと、わからないな…」

「あたしらが出入りしていた控室や楽屋の辺りには、怪しい奴はいなかったと思うわ…」

 みんないいやつばかりで、けっこう協力的なのだが、埒があかない。流石は次にメインボーカルのトゥインクルグルグルタマコの前に立った。クールビューティーで知的なまなざし、本当なら心臓が飛び出すほどの感激なのだが、もちろん死ぬほど好きです、大ファンなんですなんて言えるはずもない。

「ええっと、次に、トゥインクルグルグルタマコさんでしたね…」

「あら、いやだ刑事さん、タマチャンって呼んで!」

「はい?」

 意外な展開、だが、しゃべりだしたタマコは暴走し始める。

「いやあ、こんなのテレビでしか見たことないわ。女刑事って、かっこええわあ。警察手帳かざして叫んではるところなんか、見てるだけでもうキュンキュンしてもうて…」

 怪しい関西弁で、その上思ったことをなんでも口に出してしまう。しかもニコニコしながら、白峰流石のスーツをツンツン突っついたりし始めている。このメインボーカルは、クールビューティーの外見とは真逆の、場の空気を読めない、とんでもない天然ボケ娘だったのだ!

 その時、会話の止まった白峰の後ろからもう一人の人影が近付いた。

「犯人は、早くからこの会場周辺に潜伏していた可能性もあるんです。開演前でも結構です。あやしい人影を見かけませんでしたか」

 トゥインクルグルグルタマコの熱烈なファンがもう一人割り込んできた、ウタポンだった。流石は一人でステージに突入するのが心細くて、途中で見かけたウタポンをひっつかまえて連れて来ていたのだ。

「え、ビジーン! あなたも刑事さんなの?」

「こちらは、捜査協力者の一人で、有栖川ウタさんです。観客側から捜査に協力してもらっていて…」

「あれ、有名な料理研究家のウタポンさんだ…、知ってる知ってる、この間テレビで見た…いやあ、かわいいなあ…」などとざわめきが起こる。

 すると、突然、タマチャンが素っ頓狂な声を上げた。

「そうや、あやしい人影や。きっとそうに違いないわ」

 白峰流石の目が光った。

「…うちらいつもバスに乗ってメンバー全員で移動してるんやけど、なんや、今日、昼間にスタッフ専用の駐車場に着いたらな、そこにうちらのコンサートでは絶対見かけんような主婦がやって来て、誰かを探してるようやった。主婦やで、それも三人もいたんや。なんやスーパーのレジ袋をいくつも持ってフラフラしていたんや。これって怪しいやろ。どうや、刑事はん」

 スタジアムがあるのはスポーツ公園で、昼間は子供連れの主婦の姿も多い。近くにスーパーもある。別に珍しいことではなかった。まあ、その三人は高見沢が呼び寄せた買い物ネットワークの三人に違いはなかったのだが…。

 だが、超有名なロックバンドのメインボーカルの貴重な意見をないがしろにすることは、大ファンの流石にも、ウタポンにもできるはずはなかったのだ。

 流石はニコッと笑って、タマコと握手をした。

「すばらしい観察眼です。きっとその三人は事件に関係あります。すぐに手配しましょう。」

「さすが、タマコさんですわ。言うことが違いますこと」

「ええー、それってマジ凄い! もしかして私の証言で、犯人が捕まったりしたら、ああ、想像しただけで目がクラクラしてくるようだわ。ああ、爆発しそうよ。だれか助けて!」

 なんだかわからないが、すごいもりあがりだ。白峰は、さらに詳しい話を聞きだすと、柴田に電話を入れた。

「もしもし、そっちはどうなの? うんうん、コンサートが終わるまで、駅方向に怪しい人影は確認できずね。こっちは、裏のスタッフ専用駐車場に大きな手掛かりがありそうなの。うん、詳しくは言えないけれど、そっちが片付いたら、車を回してくれる? うん、駐車場で会いましょう」

 電話している間も、タマチャンは、わくわくしながら流石を見ている。もう、自分が女刑事になったノリだ。

「刑事さん、何かわかったら、すぐにタマコに連絡してくれはりますやろか、また協力しますから、ね、これ、私の携帯番号だから…、お願いしますわ」

「わかりました。では、これで事情聴取は終わります」

 事情聴取が終わり、やっと緊張がほどけると、何人かが腹減ったなあ、とか言い出した。するとウタポンが進み出て、リュックを開けた。

「ちょうどよかった。あとで楽屋に差し入れしようと持ってきたんですよ」

 それは手作りのミートパイ、ちゃんとメンバーの人数分、小袋に詰めてあった。

「なんや、これ、こんなおいしいパイ、初めてや」

「チョーうめえ、プロ以上だ。」

「このリッチな肉、サクサクの歯ごたえ…うう、たまらん」

 みんなの笑顔を見て、ウタポンも満足げだ。みんなすっかり仲良しだ。

 やがて、警護の警察官が来て、メンバーの移動が始まった。流石は、わけもわからず、夜の駐車場に向かって走り出したのだった。


 スタジアムの裏側、スポーツ公園には、たくさんの警官が配置され、ものものしい限りだった。こちらには、観客は一人もいなかった。みんな、駅方向に移動を始めているようだ。

「白峰刑事、ご苦労様です」

「スタッフ専用の駐車場に行きます。出入りをしっかり見張ってね」

「了解」

 搬入口から道路をわたり、駐車場に抜けていく。

 スタッフ専用の駐車場には、まだ何台も自動車が停まっていた。暗い駐車場にもちろん主婦などはいるはずもなく、スタッフが忙しそうに片付け作業や運搬作業をしている。

「おかしいなあ、主婦はいないみたいだなあ。はずれか…。でもいちおう、怪しいものがないかどうか見まわっておくか」

 流石は、スタッフに聞き込みをしながら、夜の駐車場を一回りした。

 すると、意外にも、昼間に確かに三人の主婦が何回も目撃されていたのだ。駐車場の入り口で、確かに楽しそうにおしゃべりしていたという。

「いやあね、スポーツ公園側ならわかるんですけどね、大型の作業車も出入りするこちらの駐車場側に立っていたんで、気になっていたんですよ」

「特徴ですか? どこにでもいるような三十代くらいの主婦三人組としか記憶にないですね。いくつもレジ袋を持っていたのは間違いないんですけれど」

 なぜ主婦なのか、チケットを奪った男とは関係なさそうだが、何かが起こっていたらしい。

「あれ、この車…?」

 機械音痴で電車が苦手な流石は、車にも疎かった。いくら見ても車種はわからない。デザインはまったく頭に入らない。車の色ぐらいしかわからないのだ。

「この車の色、たしかいつも乗せてもらっている柴田のだよね。あ、そうか、車つけてくれって言っておいたから来てくれたんだわ。おーい、柴田」

 助手席のドアを開けるとちゃんと開く、中には誰もいない。エンジンは静かにかかっている、ちょっとその辺にでかけているっていう感じだ。まあいい、待っていればそのうち戻ってくるだろう。

 運転席に車の持ち主が戻ってくるまで、ほんの十秒ぐらいだった。流石は、運転席に何気なく置かれたファイルをなんとなく手に取り、中をパラパラと見ていた。

「あれ、七月二十五日友田浩太、八月九日安川恭介、九月十五日錦織康則、ええっと、十月…」

 他にも二人の名が書かれていた。何か気になる日付と名前が目についた。

 だがその時、運転席に車の持ち主が戻ってきた。車を出す前に、自動販売機でコーヒーを買ってきたのだ。

「おう、柴田、悪かったな。あれ?」

 入ってきた作業服の男は、銀縁のめがねで、こちらをじっと見つめていた。あきらかに柴田ではなかった。

「あのう、どちら様ですか」

 あちゃー、またやっちまった。よくあるんだよね、人の車に乗っちまうことが。この間なんか、気が付かなくて、隣町まで走ってから、警察の捜査ですとかごまかして逃げてきたんだよね。どうしよう、どの手でごまかそうか。

「あのう、お名前は? 柴田さんじゃ、なかったですか」

 男は、どうもこの女が天然だと気付いたようで、静かに答えた。

「残念ながら、柴田ではないんです。出入りの弁当屋です。車をお間違えですね…」

 流石は、作り笑いを浮かべながらうなずいた。

「…ですね」

 流石は軽くお辞儀をすると、ファイルを元の場所に戻し、静かに車を降りた。耳の先まで真っ赤になっていた。

「うう、ここまで絶好調だったのに…、最後にへたこいた、やっちまったよ…」

 へたなんかこいてなかった。ばっちり的中したのだ。そう、流石は得意の天然で、真犯人の高見沢の車に乗り込んでいたのだ。もちろん、二人とも、刑事とも犯人ともまったく気づかないまま別れて行った。

 車は、滑りだすように駐車場を出て行った。高見沢は、今の出来事をかみしめながら帰路についた。

「今の女は、いったい、なんだったのか?」

 捜査は続き、夜半まで非常警戒が張られたが、犯人を捕まえることはできなかった。

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