闇の商議人

ケンテイシケン

第1話

プロローグ


{ここはクルミの心の中}



色褪せた世界はどこだったか?


王室といった世界が

私達には小さな園であり、

その中の私なんかは

カゴの中の見映えの良い

ムシなのだろうか?


今、カゴのフタがポカッと空いても

きっとムシカゴのムシのような私は

なにも出来ずに日々過ごすのだろう


だから、ムシといったものに近い集団の

種族にいながら、惰性で生きているこの私は

ムシ本来の集団意識に関心が湧き、

その集団でいる意識の意味を尊重する

人々の発想に今現在では興味を持ち始めた。


そういったムシのような意識からなっている

意識とはなんなのか?


集団の意識下の自分でありたいので

その気持ちとして、日々のルールを

考えた時に夢の中で感じられた

気持ちを文章の表現で書き起こした。


それを、語り部としてプロローグに

述べようと思う。


~~~~~~~~~~~~~~~~


『地球を護る者の声』


個人の常識とは

閃きや個人の経験上の

浅い知恵から出来ている。


誰に言われなくても

集団としての常識は

個人の常識を越えた

ところになければならない


集団の常識とは

長い歴史の文明や

多くの人の経験により

成り立つからだ。



私は心の健康に拘りを持っている。


だけれど、いつまでも心に拘りすぎると、

判断する必要の無い範囲まで

判断しようとする気持ちが育まれ易い。


それは人間にとっては危険な発想とも言える。


行きすぎた判断力は、集団より個人を尊重

しすぎて、その個人を認めすぎる為である

価値観のように生じるからである。


『個人主義』


それは主体的にはなるのだが

平凡な一番バランスの良い、

個人の理性が砕かれてしまう。


平和への危険因子の発想にもなりかねない。


個人の価値観は絶対に

全体の価値観にはなってはならない。


個人の価値を全体の価値とすり替えると

独善的なものや世界になってしまう。


あくまで個人、あくまで集団

といった混ぜる事は出来るけど

それが実際に起きた場合

世界は歪み始める。


心の健康とは闇雲に心の本質を

みない事で落ち着きや安定感等を

生じさせるのだから

主体的にはなりすぎずに

物事の常識を決断する時に

独壇場の一人の発想に

片寄りすぎてはならない。


個人の心を基調にしないムシのようになる

事で、人間としては、その心に生じた

団体としての感覚を養うこと。


そうする事で一人の半人前の個性より

全体の常識を伴った引き締まりができる

社会が成立する。


集団意識を認める事は、知識の可能性に

分からないを取り入れる事である。

分からないが常識になり、

不安といった事を認める所作につながる。


その個人に生じる不安感といったものは

常識の心として認める事で個人個人にも

全体からのゆとりといった

恩恵をも生じさせる。


個人では全体のバランスは

絶対に捉える事は出来ない。


理由は全体とは予測不能な

事態に備えて

あるべきものだから、

個人の個性が邪魔になるからだ。


全体を捉える事が出来ない理由は

常識を伴った感覚や思考が

今現在、個人の常識として

欠けているからである。


個人の価値を集団の価値として

すり替えてはならない。


私としても一人では一般的な

人生の中で心の寿命のルールに

抗う事など出来ずに

生きているのだ


だから集団の意識では勘に頼るが

精神性では個人ではなく

昆虫等のあたかも機械化されたような

物理法則に近いイメージを集団として

持つ事が人類としては未来志向の基調に

必須なのである。


仕組みを重要視した人間の存続に

価値観を見いだす。



ーーといった声である。


~~~~~~~~~~~~~~~~



そんな私だって四大苦を知る事で

皆と同じように生きている。


冷えた心もあるし、

暖かい心もあるけれど



だから......


死というものを忘れてしまえるように

生きる事に溺れていたいのだろう


そういった本能的な半面

健康に期待しながらの

王室の生活は、これからも

一人では出来ない事もあるだろうし

途中で折れる事も度々あるのだろう


心の見える時間は長くなくて良い

長すぎると麻薬のような

依存の精神が生まれてしまう。


心を見すぎたもの達には

まったく謝る必要もないし

ありがとうの言葉も掛ける必要が無い。


それは理性的な判断と言いつつ

人の心を見る事を堪能している

欲望のカタマリの存在だから。


心の寿命は人それぞれだが

身体の寿命は決まっている。


だから、身体の寿命を延ばす欲望には

そこに住む皆が認めてくれるような

足枷が必要だと私は思う


今の日々はそういった足枷を決める事に

心を動かす事ばかりだとも思えている


それが本来の人間のあり方だと思える


王室といった聖なる心をつくる

箱庭の養成生活


四大苦はいずれ内容を変化させても

人類の足枷は幸せの源になるだろう


山中教授からの

きたるニュースといった手紙は

社会で筋の通らない一般の哲学者達に

御礼を言っていた


私の生活は誰も知る良しもない


生きているような

死んでいるような

私の若い心地よさは

欲から始まり理性を受け止めた

欲に終わりを迎える


それは社会基準では

ないのかもしれないけれど


私としては平凡な生活が

寿命といった聖なるものを延ばした後でも

まとまる心、健康的な身体を維持する

事が大事だと思える。


健康的な体を維持するだけではいけない

しっかりした教養も頭にいれてこその

本当の人間だ。


それは書物を読む事だったり

創作物を作ったりする事でもある。


私の生活空間は囲いはあるけれど

創作物の内容と言ったものは

作者の心を表している。


だからその人の創作物には

その人の完成させた心の

本質が垣間見える


その人の創作物に触れると

その人の心に再会する事も出来る


学ぶといった事は見えない

心を安定させる事である。


現実的な欲望には

終わりはないから


終わらない欲望には

立体的な答えばかりだから


だから欲を

学ぶ事も必要不可欠である


学ぶ事によって

人間はバランスの良い心を持てる。


学ぶといった事は損もするけれど

誰かの心を理解するといった事では

得もある生き方だ。


造形物というものはどこかで

弱音の出る脆弱な想いでも

あるのかもしれない


その事を忘れていたかったのか


だってそれが私の答えと

合ってるか分からないから



赤子の頃から生命の心を操っている

危険な存在はどこかで心の見えない事に

恐怖して、その恐怖を越える為に

麻薬のようにいつまでも心を見ることに

依存している。


今生きている小さな世界で

もっと大きな世界に対して

暖かみのある心を維持する

といった事はとても

エネルギーのいる事だ


誰だってそう

心は心で見る事ではない


言葉を交わしてこそ

本質的に心は健康が保たれる。


それを現実では心の片隅に

置いておき自分の人生を生きる事は

本当の強さを持たないと出来ない


だからいとも簡単に誰かの

生きる事への弱い心は

軽はずみに触れてはならない

と思える。


書物としてでさえそうなのかもしれない


本から得た優しい言葉は

心にとどめることで

実りあるものに変える方がいい


立体的な欲を平面の書物として

改めてとらえ現実と向き合う


心を見ることは凶悪犯罪と

同義である。


心は見えない方が幸せだ。

もし見えたりした場合

見えたことで幸せと

思わざるを得ない現状が出来る。


もし心を見る事に

依存するものがいた場合

そのもの達はドーム場の建築物に

投獄する事がきわめて相応しい。


認めたくなくても

天国や現世とは

心が見えない方が

幸せでしょう。


もし心が見えてしまって

そこに依存してしまったなら

全ての堕落の始まりである。


もし幻が無かった場合、

その人生が幸せだっただろうな

と思えたら、それは本当に

それを知っている人々達の

幸せな人生です。


春までもう少し生きてようか


真実に似せた作り尽くせぬ

この世界の心地よさも

今の社会にはあるわけだし


dy キング·スモーキング&クルミ


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