7 仕舞い込まれた昨日の喧騒


楽しそうな、それは、それは、楽しそうな声を発した彼女の声で水樹の意識は揺り戻される。



「『いやぁ、いやぁ、君、見るに気の強いというか芯の強い女の子に弱いタチでしょう。女難の相が出てますよ。私、そーいうのは見えないですけど、多分くっきりと!』」

元々この場で彼女へと返せる言葉はないのだが、もしそうでなくとも、返せる言葉を思いつけなかった。きゅっと口元を窄めて眉を下げた変な顔を晒した水樹を、ありがたいことに他の誰も見ていなかったようだ。

正確には香とばっちり、目があったが彼は基本的に美津以外に興味がない。つまり見られていないのと同意なので気にしない。


「んァー、煙草吸いてェ……」

苛立ちを吐き出し、水樹たちを眺め、安堵したからなのか口寂しくなったらしい美津のぼやきに目を吊り上げたのは葵とアジューガだ。10は有に超えたひしゃげた吸い殻が押しつけられた灰皿を指差し、大して怖くもない膨らませた顔で凄む。


「ダメですよ、今日はこんなに吸ってるんですから。おしまいですっ。」

「そぉスよ。幾らナンでも、吸いすぎです。」

「わァッてるわ!ちょォッと、言ッちゃッただけだろ!」

耳にタコが2匹はできると自分の失言に過剰反応する2人に対して「あー、あー、あー」などと意味のない叫びを上げながら耳を塞ぐ。一瞬のうちにどこかへ行って、またすぐに戻ってきた香の手には棒付きの飴。

今日会ったばかりの時に美津が口にしていた棒と、同じものだろう。老齢の執事ばりの仕草で、既に開封済みの差し出したそれを美津は特に躊躇もなく口にはむ。


「ほらァ、飴で我慢してッからァ!」

「当然です!」

水樹がアジューガに寄越したようなタイプの飴ではなく、棒付きのものである訳はその方が落ち着くから、らしかった。悪癖としてすぐに飴を噛み砕いてしまう美津は何度か棒を噛み潰すことでタバコ欲求を落ち着かせんとした。


水樹以外が美津に注目している内に、鞄から取り出したそれを扉近くの戸棚の、影になっている場所へと隠し置く。


彼女が語ったそれは、救命医療のトリアージに近い。糸を根絶させるか、否か。


緊急性が低ければ切る方が遥かに手短で、手間も少ない。彼女はひとでなしではあるが絶対万能で無限に何でもできる訳ではない、そうであるならば、ふるいわけをする意味がない。

だから、彼女は選別をした。

アジューガだけの糸を根絶し、他の、美津と葵と香は、切るだけだと。

切るだけならば、必ず、意識さえされれば再び糸は千切り結ばれる。少年の幸福たる全ての即時解放が保障されはしない。


それを理解していて、それでも、それでも、その手をとったのは水樹だ。


同情したのだろうか、元からそのつもりだったのだろか、もしくは、それもまた効率がいいからと思ったのだろうか。どちらにしても、彼女が予備案として投げたものは水樹にとってひどく都合のいいものだった。



『ユイキリショップチャンネルのお時間です〜!』



パチパチパチパチ…!とクルクル回って拍手をしながら突然言い出した彼女の茶番じみた奇行に、水樹は出会ったばかりでありながら慣れはじめた昨日の真夜中のこと。


『Oh、Mr.SUN。』

『どうしたんだMr.moon!』

どこからか取り出したのか太陽の頭のパペットと三日月型の瞳のパペットを両手に嵌めた彼女は、海外のひと昔前のテレビショッピングのノリでひとり二役を始めた。


『宿主の奴に近づかれちまってね、見てくれよこのサブイボ。』

『なんてこった、こりゃ鳥肌モンだな!唐揚げになっちまいそうだぜ。』

これ、いつ突っ込んでいいのかな。

水樹は取り敢えず、傍観することを選んだ。ここで口を挟むと、余計に長くなるだろうなと学んだからだ。


『BUT…でも糸を根絶すんのは難しいだろ?なんせ俺ぁ、まだ一度バットを空ぶっちまった程度だからな。』

『なんだそんなことかよ!知らないのか?これ見ろよ!』

ぽい、っとふたつのパペットを外して放り投げる。

地面に落ちる前に、瞬きの間にパペットはなくなっていたので紙芝居とかそういうのと同じ、彼女の不思議な力由来のものかな、と流す。

ご丁寧に声色を低くさせて芝居をしていた彼女は、先ほどまでの声色をすぐに元に戻し、今度は夕焼け色の五弁花と複雑に絡んだ蔦が刺繍された丸っこいそれを取り出した。短めの吊るし紐も結われたそれは彼女の帽子の花飾りに似ていて、お守りのようにも、ストラップのようにも見えた。


『そんなお悩みを持つあなたにお勧めなのがユイキリ印の御守り!ただの可愛いだけのストラップみたいだって?はい、はい、わかります、確かに一見ただの可愛いだけの、旅館のお土産屋さんに売ってるようなお守りと銘打っただけのただのストラップに見えるでしょうとも!しかし侮るなかれっ』

この人外、ノリノリである。

片手の指に引っ掛けたお守りを、もう片方の指先を揃えた手で指して、まるで番組を任されたプロの販売人の貫禄まで滲み出していた。リズムに乗ってと、と、と、と足を軽く弾ませて謎解き中の探偵よろしく歩きながら、説明を続ける。


『なんと、このお守り…チギリギリが嫌がる成分が配合されているのですっ!しかも無香料無農薬、天然成分しか入ってないから態と口に入れちゃってもその人の人間性以外安心!』

なんだってー!、と叫ぶことは何とか抑えたものの気が付けば水樹も目を見開いて彼女の語りに呑み込まれていた。

顧客のニーズに応える、それが、プロフェッショナルってもんですよ…。彼女は内心でこの勝負、勝った、とガッツポーズ、何の勝負をしていたかは本人も知らない。


『私のもうひとつの特性である拒絶の力をひとはり、ひとはり、縫い込んだ特別性のこのお守りは確かに、残念ながら糸を根絶させるほどの効果はありません…しかしこのお守りを置くことによって、チギリギリ、そしてその宿主が嫌悪する空間を作り出すことができるのです!例えると……真夏、窓にかける虫が来なくなるぜ的なやつ!』

虫に喩えるあたりが、彼女にとってのチギリギリと宿主を表していると言っても過言ではない。


『今ならこのお守りが“何が出るかな?みらくるきゃんでぃ”おひとつで購入できるという破格の価格!しかもなんと!このお守りをひとつ購入していただいた方に10個追加でプレゼントー!お電話の際にユイキリショッピングを見たとお伝えください!』

『か、買ったーーーーー!』

反射的に、袋ごと彼女へと投げつけた。

感情が昂りすぎたせいだと水樹は後程供述した。


顔面スレスレで飴の大袋をキャッチした彼女は水樹の反応に満足そうにうん、うん、と頷いた。


『素晴らしい反応でした…まさか君がノってくれるなんて、感動です。師匠は涙で前が見えません。もう名許皆伝です、卒業です、元気にこのまま茶番劇を極めるんですよ。』

『ちょっと何言ってるかわかんねっすね。』

自分のついさっきの反応を水に流しなかったことにしようとする水樹は、そっと、顔を横にそらし視線を下げた。また乗せられた…と項垂れるが、そういう水樹の反応が、おそらく悪かった。

話を引き戻そうと、声を弾けさせる。


『と、ころで!そのお守りは…』

話の切り返しが乱暴だったことは否めなかったが、彼女はちゃんと流されてくれるらしい。緩く目を細めた彼女は縋り付く水樹の視線にひとつの頷きで返した。


彼女の手のひらにちょこんと乗せられたその、お守りを凝視する。まるでそんな“ふう”には見えないが、それを思えば、彼女だってひとでなしらしくて、らしくないので今更でもあった。


『君への協力要請は総じてふたつ。まずひとつは、根絶すべきいきものから願いの言葉を引き摺り出すこと。』

彼女の根絶の力は願われなければ叶わない。

ひとりひとつずつ水樹のように、姿を表して、説明して、願われて、そんな手間もかかる上に秘匿を撒き散らすような真似、出来ないし、したくないのだろう。

そもそも、水樹へぺらぺら喋ったすべては水樹を巻き込むためのものだ。


『ふは、新手の新興宗教にハマったみたいなことになんないように、お気をつけくださいね?君の話術に期待してます。』

ウィンクひとつ、茶目っ気たっぷりに随分と重要なことを背負わせてきた彼女に水樹は逆に気が抜けた。


『そうしてもうひとつ、この遠ざけのお守りを適当に散らしてもらうことですね。私が置き回ってもいいですけど…』

『…つーか、あんた…ユイキリさん、は。』

そこで初めて。

水樹は彼女を、ちゃんと呼んだ。

二人称で完結するだろうと思っていた彼女は少し意外な顔をしたが、嬉しそうに『なんですか?』と首を傾げた。


『その、どういう場所にいるんです?…んぁー、えーと、なんていえばいいのかな…そうじゃなくて、怪みたいな、かんじなのか…』

『あぁ。そうですね、場所、でいうと。君たちとは違う場所っていう表現になりますかね。同じ場所にあると見せかけて、テクスチャが違う、みたいな。横から見たX軸とY軸みたいな……紙にかいた絵と立体のマスコットを並んだ状態で撮った写真が世界みたいな?』

水樹が言いたいことが何か、彼女は理解して答えようとして、そうしてわかりやすいようにと簡単な表現にしようとして、失敗したのか、ぐるぐると無意味に指で空中に円を描いて口元をモニョモニョとさせる。


『んー、まぁ、とにかく、同じ場所に見えてるだけの違うひとでなしってふわふわした感じでいいです。要するに、君は私が君以外にどうやって見えるのかって話をしたいんでしょう?』

怪を視るのは霊力が、なれば、ユイキリを視るのは何が。チギリギリあのかみさまのように現れれば視えるのか、それとも願えばなのか。


『簡潔に言うと私の任意ですね、私が見せようと思えば、見えます。残念なことにチギリギリと宿主に対してはその任意が効きませんけど。』

『んじゃ、俺に視せようってしてるから俺は見えてんの?』

にこりと貼り付けた表情的な笑顔の後、コマ落ちしたアバターのように彼女の姿も、声も、全てがそこから消えた。




呆気に取られて、呆然と、ただ漏れただけの『え』の一言だけが寂しく部屋に響く。

急に寒くなった気がした、あんなにあんなに、賑やかだったはずなのに。


『このように?……っわ、わ、急に消えたらそりゃびっくりしますよね、ごめんね。』

ぱっ、と水樹の真横に現れてその顔を覗き込んだ彼女は、水樹の顔を見るなりあわあわと手を無意味に動かして慌てた声を上げた。

眉を下げて嵌め込んだだけの瞳から光がうっすらと潤んで、少しだけ開いた口から漏れる密やかな息。手に持っていた風船が空に飛んでいった子供の顔に、よく似ている。


『あぁ、もう、きみ。私が悪かったんですから、そんな泣きそうな顔しないの。』

『泣いてねぇよ!』

現れて、願いを請うた時もそうだったが、彼女は殊更に泣き顔、というよりも泣きそうな顔に弱かったらしかった。

ぐず、と鼻を鳴らして誤魔化すために下唇にぎゅうっと歯を立てる。視線だけで話の続きを促す水樹に、また少し、水樹から離れてひらひらと肩の位置くらいまで両手をあげた。わかりました、のポーズだ。


『まぁ、なので。私の任意なので。視えない私があちこちにコレ、置いてもいんですけど、ていうか最初はそうするつもりでしたし。でも、まぁ、君の方が対象たちの事知ってるでしょうし。君に置いてもらって、ってしたほうが、私もこれ作ったり準備したり、別のことできてRTAに近づきますし。』

マ、でも、こっちは別に。と締めくくった。

彼女にとっての本題はあくまで“偶像商法”のほうなのだ。


『…つーか、その、願いの方。そっちもさ、俺に協力して、とか言ってたけど。元々暗躍するつもりだったんだろ?なんかこう…もっと、さぁ』

ひとでなしの、“らしい”方法はないのかと、訴えかける水樹に罰の悪い顔で無意味に手のひらを擦り合わせたりしたあと、彼女は『いや、まぁ、その?』と言い訳を口にするみたいに話し始めた。


『“らしく”って、言いますけど、私元々攻撃型の力宿してないですし…正直行き当たりばったりの予定でしたし……ユイキリとして、ちょーっと認識弄ったりはできますけど、この世界ってそっち系の系統ぼろぼろでちょっと弄っただけで崩れかねないですし…』

『…俺の記憶無くせるぜ的なこと言ってませんでした…?』

『いきものひとりくらいの記憶差し替えなら、それくらいは、まぁ…あっ、引いてる、そもそも最初の行き当たりばったりの辺りから引かれてたのわかってたけど引かれてます!』

世界の命運ひとつ握っていると言う割に、無計画な彼女にじとりとした目を向ける。『だから、言いたくなかったんですよ!』彼女ワッ…、と叫んだ。

彼女からしてみれば顕現する時点で予想外の出来事に見舞われたので、と言い訳するが、それでも元々無計画だったことに変わりはない。


いじけた様子の彼女に、あぁ、しまった、と。

元々の“それ”は兎も角として、それでも、彼女の本来予定していたルートを叩き潰したのは水樹本人だ。慌てて彼女のお守りに目をつけて、思いついた事を口にした。


素直なのが水樹のいいところで、悪いところだ。


『で、でも!これで、あの女が近寄らなくなんなら、すごいな!』

な、なっ、にぱにぱととっておきの武器を手に入れた顔で同意を求める水樹に、いじけたフリをしていた彼女は肩をすくめた。


『正確には嫌がるから近寄んない、ですけどね。鼻を摘んで我慢すれば、別に、行こうとすれば?って感じですかね。でもそれを成すほど、酷い言葉を使いますけど、君たち全ての個々を“愛して”る訳じゃないでしょうから。』

酷い言葉、と彼女は言ったが水樹からすれば今更だった。


敬愛すべき水樹の隊長が、飯事と称したように、お人形遊びと吐き捨てたように。あの女にとっての世界は、ひどく歪でシンプルだ、自愛主義と称すにふさわしい。


あの女を愛すること=絶対正義で、それ以外は不必要かつ“悪”であり、許されはしないということ。その絶対ルールこそが女の楽園の全てを構成し、免罪符であり、望みだ。


幻嗅と現れた爛れた果実に似た甘ったるい、鼻につく香りがひどく疎ましかった。


糸を切るだけにとどめられるであろう、多分は、美津や、葵や、香が。あの悍ましさから遠ざけることができるのであればそれだけでも十分だった。

皮肉にも、水樹、それから水樹ほどと言わずともアジューガこそがあの女の執着であったのだから。彼女から宣告されるよりも最初から、そうなるだろうと思っていた。


水樹たちがあの女を飾るための舞台装置であるならば、美津や、葵たちは、もっとひどい。

備品とか、そう言う扱いに他ならなかった。

あるから認識するし、使うし、けれど、無くなっても気づかない。


まるで、まるで、そう。

養分タンク、みたいな。


腹の中が不快などろどろで埋め尽くされる。



ぱちん!と大きな音が響いた。手のひらを叩いた彼女は『あっ』と今、たった今思い出したかのようにわざとらしい大声を上げた。


『そう、そう。なので明日…一応、今日ですかね?から、私は君についていくので、君にしか視えない姿のままで?偶像商法、がんばってきましょ〜!』

『えっ!』

わぁ、わぁ、とまた騒いだひとつのひとでなしと、ひとりのいきものの様子を陰った月だけが見つめていた。








ミッションは総じて3段階。


1.千切り結ばれているいきものたちを観察、ラベリング、タグ付け

2.根絶すべきいきものに接触、水樹が何とか頑張って願いの言葉を引き出し、彼女が糸を根絶する。

またそうまでもないいきものたちは糸を切るのみとし、拒絶のお守りをあちこちに点在させることで代用とする。

3.大まかな力を削れれば、本体を討伐。


(2、の俺の負担、でかいと思うんだけどな…)


正直な感想を言えば、そうだった。

けれど水樹が決めたこと、巻き込まれると、そのためにひとでなしに協力する使われることを。


再びの葵の発言に、また空中でけらげら笑う彼女を盗み見してひらひら揺れる黒い服に、ふとした違和感を覚える。と言っても、彼女とその服一式は最初からそうあったかのようにぴったりと似合っていた。


違和感は、そういう違和感では無くて。


(なんか……あの服、どっかで似たの見た、ような…怪結隊の隊服って、軍服っぽいから、そのせい、か…?)

これはきっと、デジャヴと呼ばれるものだろう。気のせいだろう、彼女の服も、あのテレビショッピングのような茶番のノリの既視感も。


(……まぁいいか。)

それを考えても仕方がないだろうと、適当に考えを放棄した。

この時の水樹にとっては確かに、どうでもよかったことだった。


たったひとつだけ。

あの女を、どれほど執着している相手でも、目の前で死んでもその骸を道にして足蹴にするあの女を。非難されれば当然の顔で、無辜の死体を踏みつけたままに『私のために使われることの何がいけないの』と言いのける、あの女を。


“斃す”ためだけにきたのだと、たしかに、言ったから。

水樹にとってはそれだけでよかった。


(ユイキリさ、…あ、そういや、ユイキリさんってのも、違うんだっけ)

心の中で訂正する。

彼女が夜中の最後になんてことないことを口にするように、そういえば、と付け加えたセリフ。


『いちおう私だけがきみの名前、知ってるってのも不公平ですし。私のユイキリさんっての、所謂種族名みたいなのなんですよね。』

『…えっ、名前じゃなかったのか?』

『君、猫がみんなねこって名前と思ってるんですかぁ?』




『銘は宵花、名はツヅラ。そうですねぇ、ツヅラさん、でいいですよ。』




そうして改めて自分を名乗った彼女は綻んだ、悪戯っ子みたいなはしゃいだ顔で笑った。



何故だか、音にならないように口の中で転がした彼女の名前は確かに違和感なく思えたのに、言葉にするにはほんの少しだけ、目の前で笑う彼女を示しているように思えなかった。ほんの少し。ほんの少しだけだったからその疑問もすぐに、三津から声をかけられてあぶくとなってしまったけれど。
















夢を見る。

あの日の光景を。


夢を見る。

夕暮れの中に置き去りにされた昨日を。


夢を見る。

落下し砕けた柘榴になった今日を。


夢を見る。

動いた足で掴んだ明日を。




君が。

君が、夕焼け色の美しくて綻んだ悪戯っ子のような笑顔がかわいらしくて、お姉ちゃんぶった末っ子の。


そんな、君が。

自分が壊して砕いてめちゃくちゃに、取り返せない、君との全てと共に。



俺の隣にいる、夢を見る。



どうか、どうか、と願いは陰る。

君が残してもくれなかった残滓を、君の最後の憎悪だけに縋り付く。空いた穴の喪失感を自己満足の紙屑で埋めて、馬鹿のひとつ覚えのように今日を呪って明日に背を向けた。

ぐるぐる捻れて、渦巻いて、引っ掻いて、詰めて、丸めて、歪んで、とっくに原型を失ったそれはとうとう底の方に居着いた。



それだけ、それだけ。

それだけしか残っていなかった。




寂しい静寂の部屋で音にもならず、口の中で転がった彼女の名前は当然のように誰も返事はしなかった。

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