2 観客のままで十分です


それから。






凡そ一年ほどの月日が流れた。




「どうしような」


「いやだな」


「きもちわるいな」


「いたいな」


「いたい、な」


「まだずっとずっといたいんだけど、な」




「もう、むり、かも」








_____そこで目が覚めた。



上半身を起こしてはねた髪をがしがしと手で雑にとく。いつもは晴れた日の雪化粧もにた淡い薄青の髪は心なしか曇っていて、ところどころに色の抜けたような枝毛が見え隠れした。


「……あー…?」


未だ夢との境目がはっきりとせず、ぼんやりと思考を巡らせる。落ち着いた静けさが支配する電気の消えた部屋、窓から差し込む人工的な電灯の光と仄かな夜空の星灯だけが部屋の中の輪郭をかたどった。

意味もなく視線を彷徨わせるとくしゃくしゃに捩れたシーツと押し込まれて丸まった枕、さみしく床に転がった時計には6月15日の23時16分のアナログ数字がちかちかと光っていた。


「…………あー……寝てたのか…」


2度めの特に意味のない喃語のようなそれのあと、ようやくと記憶を遡ったらしい水樹はそこで息を吐いた。ぐ、ぐ、と腕を上に伸ばし上半身を伸ばせば小さくぱき、ばき、と解れた音がしたがどうも根底にある倦怠感は解消されない。


この日水樹は学校帰りに怪結隊へと立ち寄った。


国家直属秘密組織などと大層な名がついた怪結隊だが、学生の年齢で所属するものは多くはないが存在する。学生である以上その本分は学生であると、怪結隊の隊長たちの総意により彼らは平日大半の任務を免除されてはいる辺りが“国家直属”らしい。


ただ、任務が免除されているとはいえ隊舎に顔を出してはいけないというルールはない。

学生でありながら怪結隊に所属する子供たちはほとんどが“傷”持ち故に、必然的に放課後は隊舎に集まることが多かった。


それは彼らにとって、普通の学生たちがするような放課後の寄り道や部活の感覚に近かった。

特別な期間や長期休みといった日々を除けば平日は隊舎で課題や訓練をして、土日祝は任務に明け暮れてと、そういう毎日を過ごしていた。

それが不幸であるかと問われれば、水樹にとっては不幸ではなかった。


不幸ではなかった。

ただひとつだけの汚点さえなければ、水樹の日々は確かに薄汚れた幸福と言って然るに、愛すべき喧騒に浸っていたと断言できる。

それこそ“少年漫画”のコミックヒーローのように、と。



『ねぇ水樹』



ぞわりと背筋に冷たく鋭い刃物が伝ったような感覚が走る。鈴を転がしたような軽く弾んだ声が、絡みつく様な甘ったるい香りが脳裏をよぎって恐怖をうたう。


『ふふ、だってあなたは、いちばんただしくなければね?』


作り物のようなほど透き通った絹のような白い髪が光を呑み込んで揺れる。


『どうしてそんな顔するのかしら?』


今にも蕩けてしまいそうな蜜色の瞳が柔く薄められる。



『わたしのこと_____』



ドールのような黄金比、神様にいっとう愛されたお姫様という言葉が似合う、過言なんかじゃない造形美。

肩に手を置いて後ろから囁くうつくしい女_____




「_____っうるせぇ!」




気がつけば枕を引っ掴んで床へと投げつけていた。机に当たってコップが倒れてガシャんと軽い音が静かな部屋に響き渡る、幸いにも何も注いではいなかったコップはコロコロと転がるだけ。顔の輪郭を伝った透明の液体は、汗なのか涙なのかわからなかった。

荒い水樹の息継ぎは酷くしゃくり上がって、その顔は泣きそうな迷子にも似ていて、途方に暮れる。


「うるせぇ…だまってろ…さわんな、くそ……!」


静かな孤独が耐えきれなくなって、投げてしまった枕と同じようにベットの端に追いやられていたテレビのリモコンの電源ボタンを押し込んだ。電気も点けていない部屋にぼんやりとテレビの蛍光が灯り、水樹の表情とは正反対の顔をした芸人や観客が箱の中で賑やかな声を上げる。


その女は美しかった。

ともすれば、別の世界から来たのではないかと疑ってしまうほど、誰もが目を惹かれるほど確かに美しい女。

そしてそれと同じくらい、女はひどく恐ろしく怖ろしく悪阻ろしい女。



『私が愛されることは正しくて、そうしないのは正しくないのよ。だって、正しいことが正しいのでしょう?』



何処かの国の宗教画に描かれた光輪携えた女神様みたいな風貌で、女は花が咲き誇った笑顔でそう、言った。

女にとってただひとつの絶対ルール。馬鹿馬鹿しいほどに、いっそ痛々しくなるほどの狂った妄言。


そう、鼻で笑ってやれればよかった。

よかったのに、できないから馬鹿馬鹿しくて痛々しくて狂ったほど恐ろしい。


吐くばかりで空気がぬるくなって、ベットの上でうずくまった体勢で「ひっ、ひっ」と漏れた音をあげながら必死に吸った。呼吸というにはおぼつかないそれに、けれど水樹には有効だったらしくようやっとまともに息を吸って、吐く。



怪結隊には女がいる。

否、正しく訂正すると、怪結隊には“ばけもの”の女がいる。



どんな奴かと問われれば一言では説明しかねる女だった。

ただ断言できることが確定事項としてふたつ。


怪結隊にいながら怪結隊に蛇蝎よりも嫌われていること。

不確定不可思議未智無双的“ばけもの”の力を宿していること。


例にもよらず水樹もその女を、ひどくひどく美しいその女を、心の底から嫌悪した。




それが、理由のない突然的な嫌悪であったならば呪いやそういう類の精神操作に等しかっただろう。いっそ差別と後ろ指刺されるような事態の方がまだマシだった。

けれど確かに女は、それこそ一部からは殺してしまわれそうなほどに疎まれるだけの理由を持って、それでも、怪結隊にいる。


果たして、女とは“ナニモノ”なのか?


そんなもの、正体がわかるのならとっくに水樹や彼らが突き止めていた。


『水樹、お前今日は帰れ。……クマひでェンだよ、今日はまだ…寝れンだろ』


色濃く染み付いた真っ黒なクマを親指でなぞって顔を歪めた美津の言葉通り、健康優良児だったはずの水樹はすっかり寝不足と睡眠不良の友達だったが今日は悪夢で飛び起きるまで草臥れたように眠りにつけた。

酷いのは女にあった日だ。


体内を這いずり回るような不快感。

背筋を伝う鋭い刃物で引っ掻いたような悍ましさ。

腹の中に手を入れて引きずられたような恐ろしさ。

触れられたところは跡がついてしまったようにその感触が消えず、耳から侵食されていくようにからみつく言葉が心臓まで握りしめる。


ひとりになってしまえば、もうだめだった。


ベットに寝転んで頭まで掛け布団をかぶって、目を瞑って、イヤホンからうるさいくらいの音楽を流して、それでもひどく芯まで冷えてしまった心地が消えなくて消えなくて耐えられない。


気持ちが悪いとか。嫌だとか。いっそう通り越して、ただ恐ろしかった。


どこかしかの琴線に引っ掛かってしまったらしい水樹は特に女に執着されていたせいもあった。絡みつくツタみたいな細腕をいっそ払って押し退けることができたのならば良かったのに、触れられたところから悍ましさがぞ、ぞ、ぞ、と伝染していく。


果たして女のなにが、どれが、“ばけもの”なのかと問われれば、これもまた、ひと言では説明がむずかしかった。


未知、不可解、理解不能、そして、無双で無敵?そうあれかしと望んで手に入れたかのごとく、女の言葉を裏付けるように、女は絶対ムテキ的であった。


拳も、刀も、銃も、大砲も、毒も、多分それからミサイルに爆弾なんかも、女の前ではおもちゃに等しいのだからたまったものではない。


『人形遊びがお好きなオヒメサマの飯事に付き合わされてンの、マジ、殺してェ』


かつて美津が吐き捨てた言葉にあぁ、あぁ、と納得した。女の水樹たちに対する態度は、確かに人形遊びと飯事の延長線に他ならないのだ。


女にとって大切な事はただひとつ、女のことを愛しているかどうかだけであり、そこに他の要素は不要である、ということ。そういう馬鹿馬鹿しくて痛々しい願望を現実を捻じ曲げてまで事実にせんとするばけものが、女だった。



『水樹くん』『ねぇ』『みぃずきくん』『どこいくの』『こっちおいで』『私』『水樹くん』『私のことすき?』『いいよ』『水樹くん』『正しいことをしようね』『うふふ』『水樹くん』『みーずーきーくーん』『愛してる』『どうして?』『あい』『水樹くん』『されるのが』『水樹』『くん』『ただしいの』



心臓を握りつぶされそうな悪寒、“自分”という輪郭が剥がれていく様な恐怖。心の中ではどんな言葉を吐いてやれるのに、いざ、いざ、と女に対峙すれば引き攣った喉から漏れるのは悲鳴の鳴り損ないたちだけ。

恐ろしくて、怖ろしくて、おそろしかった。


俯いていたせいか、耳にかけていた曇り空の雪に似た髪がだらりと垂れる。まるで落武者幽鬼の風貌だ。


(隊長)


格好良かった。

何よりも、ただ、それだけだった。


『よし、よし、よォし。餓鬼ィ、よォく逃げたなァ、頑張ったなァ』


どうしようもなく、憧れた。

口の悪いヘビースモーカーなあの人に、水樹は確かに救われた。



水樹は知らない。

騒々しい喧騒に満ちたあの隊室以上に安堵できる場所を、初めて与えられた幸福以上の幸福を、水樹は知らない。

知らないから縋った。



ぱちりと瞬きひとつ、青い瞳が窓の外を見る。

帰ってきたばかりの時は夕焼けが空を赤紫に染めていたというのに、今は塗りつぶされたように真っ黒で、月すら隠れてしまっていた。

場違いに明るいテレビの向こう側で見たことのある芸能人が縁切り神社に訪れては、自分の昔話を語っている。

思考回路すらおぼつかないまま、ぼうっと、流れていくテレビを眺めていて、ふと思った。


「……縁切り、してぇ、なぁ」


特に、深い意味は持っていなかった呟きが口から漏れた。


水樹にとって。

怪と呼ばれる感情の残滓から生まれた人ならざるものを視る水樹にとっては、神様も結局はただの“ひとならざるもの”でしかなかった。

だって何からも守ってくれるような、そんな、神様がいてくれたならば。


水樹の両親は、不幸な事故なんてもので死ななかった。


きっと信仰心の強い人からは不信心に不躾と蔑まれてしまうだろうけれど、縋った神は両親を大きな鉄の塊の下敷きにしたまま救ってはくれなかった。

助けてと願ったとき、神様なんかじゃない口の悪いヘビースモーカーしか現れてくれなかった。

だから水樹にとって神社やお寺で祀られている神様は力が強くて多くの人間から感情を向けられているというだけの“怪”でしかない。


奇跡も運もあり得るものであろうけれど、誰彼にも蜘蛛の糸を垂らしてくれるような慈悲深い仏様は存在し得ない。

するのであれば、この世はもっと楽園に近い場所だったし、もっと早くに崩壊していたし、人間なんてものが出来上がらなかった。



「かみさま」



だから、多分、気がおかしくなっていたのだと思う。もしくはそういう、救世的偶像でなければ太刀打ちできないと考えていたのだと、そう、思う。



「かみさまじゃなくても、いいや」



かみさまでも天使でも悪魔でも仏様でも妖精さんでも魔法使いでもばけものでも妖怪でもおばけでもねこでもいぬでもなんでもよかった。


「なんでもいいいよ、なんでもいいからさ。あのクソッタレな女と、俺の間に縁の糸があるんなら、さ。……はらいたまえ、きよたまえ、もうすものときこしめせ。」


とってつけた、どこかで聞いた祝詞の真似事。

ぼそぼそと口の中で籠った水樹の願いの台詞に帰ってきたのは、テレビ越しにネタを披露した芸人にたいする笑い声だけ。

真っ暗な部屋で蛍光色の光だけが相変わらず明るくて、その影に飲み込まれていた水樹は、唐突に輪郭を取り戻したようにその笑い声に釣られて笑った。


「はは、あははははは………」


馬鹿馬鹿しくなったのだ。何を自分はこんな素っ頓狂に真面目に、たったひとりで、「厨二病かよ」と、失笑した。今まで石造のようにベットの上で座り込んでいた水樹はそこでようやく、のそりと立ち上がると氷った青色の瞳が冷たく光を反射した。


「……あー、俺、何やってんだろ…」


そこで夕方に帰宅してからいまのいままで何も口にしていなかったことを思い出して、唐突に喉が渇いた。目を覚ましてからぼんやりと考えを巡らせていたが、それほど、それなりに、時間が経っていたらしく時刻は23時27分になったばかり。

飲み物を取りに行こうと一歩踏み出した時、外で強い風が吹いたのか窓がガタと鳴った。



_____とん




その音に紛れて、小さな、小さな、音が鳴った。

ちょうどテレビがCMとの境目で一瞬静かになっていたからかろうじて聞き取れたほどの小さな音は、それでも、確かに水樹でも自然の音でもなく、ふってわいたなにかが起こした音。


何かが落ちたとかそういう類に似た、そう、降り立ったような重さを感じるのに軽やかな音。




勢いよく振り返れば、そこには、ひとりの女がいた。


彼女はなんとも不思議な格好をしていた。

夜に溶けてしまいそうな黒色の様相を纏った彼女。黒い水兵服、といえばいいのだろうか、格好としてはそれが一番近かった。

セーラー帽にあしらわれた五弁花と蔓の飾りが、彼女の動きに合わせてしゃらりとゆれる。

袖の広がった少しオーバーサイズのセーラー服の裾には蔦模様の刺繍が施されていて、襟から覗く赤紫色のスカーフは器用に結ばれていた。

上着同様黒の、こちらもふわりと裾が広がっているハーフパンツからすらりと伸びた足は肌色を覗かせたかと思えば、すぐに蝶々結びがあしらわれたブーツに覆われている。


ほんの少しだけ、どこか、既視感を覚える格好。


瞳を瞑っていた彼女はゆっくりと、その瞼をあげた。

そこにあったのは左右違った色をした瞳で、左はエメラルドみたいな碧、右はアメジストみたいな紫、宝石を嵌め込んだようなそれはとても綺麗なのにどうしてか、ほんの少し、作り物にも見えた。メッシュというよりかは、白色と黒色が互い違いに混ざって肩ほどまで伸びている髪は空気を含んでふわりと揺れる。


警戒も驚愕も、どうしてか水樹の頭からはすっぽり抜けてしまってただ、呆然と彼女の姿を見つめた。水樹の間抜けに口を開いていた姿になのか、警戒させない様にかはわからないが、彼女の口元にはうっすらと笑みが浮かんだ。


「ぢぁいちょうぉう、おーつふちーん、っやぅヰヰいぇんもぢっくぁいあち。じっくぁたてざぢや。へんぉんでぁいもいぃぞもよでっぢょぅ。ぃやいもぃふぉうえおぁいぢ………………ぢづいぇずいょうまぢ。ぉーふぉ“___”ぃふぉうぁんちょうぢざぢや。」


小さく開かれた唇から紡がれたのはなんとも意味をなさない音の羅列のようで、途端に警戒心を思い出した水樹の困惑した表情に彼女は切り替えるようなぱちくりとした瞬きをひとつ。それから思い出したように自分の喉を何度かさすって、それほど広くない部屋、近い距離にいる水樹ですら聞こえないほど口の中で籠った何かを呟いてから、首を傾げてとってつけたようなへらへらした笑顔を見せた。


「a,a、ぁー、………あ、あ。んん……はぁじ、めましてっ」


ようやく聞き取れた言葉は、寝起きの寝ぼけた声に似ていて本人もそう思ったのだろう、少し眉を下げて顔を顰めた。


「んんむ……えーと、んぁー………よっし、まずは自己紹介から始めましょう!」


ぱちん!と空気ごと弾いた手を鳴らす音。

左右違った色の瞳が柔らかく緩められて、目尻が下がる、今度は自然な、優しげな笑顔。



「呼ばれて飛び出てじゃーじゃじゃじゃーん!縁を切ったり結んだりすることで定評のユイキリさんとうじょーう、でーす!」



少しふざけたように 敬礼のポーズをとった領域外の人外は、当たり前の顔をして矛盾的に降り立った。



これが幕開け、扨___

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