12 せめてジャミロクワイだったら

 その翌日にアール先輩が消えた。蒸発したらしい。

「会社の金に手をつけたんだよ」アール先輩の二歳年上の先輩はカウンター席から言った。「会社には現金を入れておく金庫があるんだ。手渡しで給料を受け取ってる従業員がいるからな」

「わざわざ現金でですか?」俺は洗ったジョッキを布巾で拭きながら言った。

「なかには銀行口座をつくれない奴もいるんだよ。自分の口座を売ったことがあったりするとな」先輩はカシューナッツを無造作に口に放りこみ、かみ砕きながら言った。「そういう奴らの受け皿でもあるんだよ。松愛興行しょうあいこうぎょうは」

 俺はなるほど、というように大きく二回頷いてみせた。

「金庫番はジョーがやっててな」と先輩は言ってからビールを喉に流し込んだ。

「経理じゃなくてですか?」

「金勘定をするのは経理さ。現金を金庫に出し入れするのがジョーの役割。ひょっとしたら、引き落としや振り込みもジョーがやってるのかもな。ジョーが入社する前は、ユゲ社長自らやってたんだ」先輩はジョッキをコースターの上に戻した。「アールはジョーに、金庫を開けるように迫ったんだ。金を二人で山分けしようってな。でもジョーは首を縦に振らなかった。それで痛い目に合わせたみたいなんだけど、それでもジョーの答えはノーだった。結局、ジョーがユゲ社長に一部始終を報告して、アールはジ・エンドだ」

 先輩がそこまで言った瞬間、目の前にジョーがいることに気がついた。ジョーは頭を下げてから、先輩の隣のカウンター席に座った。

 居たたまれない沈黙が流れた。ブラン・ニュー・ヘヴィーズの『ユー・アー・ザ・ユニヴァース』が調子外れに響いた。BGMがせめてジャミロクワイだったら、まだもう少し決まりが良かったんじゃないかと思えた。そんなことを考えている間に先輩はスツールから立ちあがった。俺は胸を撫で下ろし、会計をした。


「アール先輩は金に困ってたんだ」ジョーは出し抜けに言った。

「じゃなきゃ、ユゲ先輩の金に手をつけようとはしないよな」

「俺に何ができた?」ジョーは俺の目を見た。「一体、他にどんな道があったっていうんだ? 教えてくれよ。俺はどうやって生きていけばいい?」

 ジョーはハートランドの瓶に口をつけ、勢いよく傾けた。口角から溢れ出たビールは頬を伝い、首筋を流れ、ジョーが着ている霜降りグレーのフットボールTシャツに暗い道をつくった。

「俺がジョーでも、きっとそうするよ」俺はジョーの前にハートランドの新しい瓶を置いた。「アール先輩はどうなったんだ?」

「わからない」ジョーはハートランドをグラスに注ぎながら言った。「考えたくもない」


 次の日、ユゲ先輩が初めてアーガマに一人でやって来た。

「お一人でアーガマにいらっしゃるのは初めてですね」

「そうだな。あんまり俺が一人で来ると、従業員が近寄りにくくなるだろ」

 俺は曖昧に頷いた。

「ライ・ウイスキー。ロックで」

 ユゲ先輩のいつものオーダーだ。銘柄の指定はない。俺はノブクリーク・ライを差し出した。同時にパーラメントに手を伸ばす気配を感じ、灰皿も添えるようにしてカウンターに置いた。

「あらためてだけど、お前いい動きしてるよな」

「恐れ入ります」

「普段からよく客の動きをよく見てるのがわかるし、出しゃばった感じがしないのがいい」ユゲ先輩は紫煙を吐き出して左目を細めた。「俺のイメージ通り」

 戸惑いながら俺は言った。「ありがとうございます」

「ウータン・クランじゃん」

 その日はウータン・クランをリピートしていた。『プロテクト・ヤ・ネック』が店内に流れている。

「ヒップホップがお好きなんですか?」俺は訊いた。

「昔ラップをやってたんだよ」

「意外ですね。似合いますけど」

「とあるパーティーでフリースタイルを挑まれたんだけどさ、俺、全然ラップうまくなくて。超見かけ倒し」ユゲ先輩は灰皿にパーラメントの灰を落とした。それから人差し指と親指でをタバコを挟み、口元に戻しながら言った。「そういうのいいから、表で殴り合おうぜって言って、外に出て。その辺に置いてあったブロック塀で頭をかち割ってやった」

 アーガマの青白い照明に照らされたユゲ先輩の球結膜は、降り積もった初雪のようにどこまでも白く冷やかに見えた。

「ちなみにですけど、どうしてラップを始めたんですか?」

「モテたかったんだよ」


 その日のアーガマは珍しく小忙しかった。

 松愛興業の従業員グループと、近所の工場などで働いている人たちのグループが数組ずつ、大声を張り上げて盛り上がっていた。勢いよく弾き出されたピンボールのように、ムーはあちらこちらの卓を行ったり来たりして、不承不承ながら働いていた。

 店に来るグループはほとんどいつも同じようなメンバーだ。馴染みのメンバーで同じような話しを繰り返し、すべてを忘却したように飽きもせずまた店にやって来る。散歩ルートを一つしかもたない、哀れな野良犬のようなものだ。

 彼らはろくに洗浄していないサーバーからひねり出される生ビールや、何の工夫もない焼酎の緑茶割りや、気の抜けたハイボールをありがたがって飲む。せめて生ビールではなく、瓶ビールをオーダーすることをおすすめしたいところだ。


「ウータン・クランはなかなか悪くないな。普段、音楽はまったく聴かないが」ユゲ先輩が再び口を開いた。「他になんかおすすめはあるか?」

「ウータン・クランがお好きでしたら、例えばですけどプリンスもいけると思いますよ。ヒップホップではありませんが」

「プリンスってエイズで死んだ人?」

「それはフレディ・マーキュリーですね」

「おすすめは?」

 俺は一瞬考えた。「『プリンス』ってアルバムですかね」

「プリンスの『プリンス』?」

「そうです。自身やグループの名前を冠したアルバムって、特別だと思いませんか?」

「ニトロの『ニトロ』とか?」

「そうですね。ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンドの『ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンド』みたいな感じです」

「悪くなさそうだな」

 書き入れ時の蜜蜂のように動き回っていたムーが、よたよたとバーカウンターの中に戻ってきて一息ついた。戻ってきたムーと入れ替わるようにユゲ先輩はスツールから立ち上がった。

「また来るわ」

 カウンターの中で生ビールを絞り出している俺に向かってユゲ先輩は言った。無機質な照明に照らされ、一対の瞳が青白く冷やかに、鈍い光を発している。虹彩こうさいは奥行きがなく平板だった。

 ユゲ先輩はプリンスを聴いてみるとは言わなかった。ユゲ先輩がアーガマでプリンスを耳にすることはなかった。俺が知る限りでは。

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