11 美しく燃える家

 基本的にアーガマはそこまで忙しくない。だからムーは閉店を待たずに帰っていくことが多い。

 ぽつりぽつりと客が途切れず、それでいて客がはけるのが遅い日だった。アーガマの閉店時間は曖昧で、客がいればダラダラと店を開け続けることもある。なりゆきで生きている人間が集い、なんとなく営業をしているような店だ。のらりくらりと営業を続け、ムーと二人でのろのろと閉店作業を行った。

「ほんと気持ち悪い」ムーは鋭く淡を吐き捨てるように言った。「あの客」

「工場の?」

「そう」

「よく来るよね。毎日のように」

「グラスを差し出すと、必ず指に触れてこようとするの。そっと撫でるように」ムーは両腕を胸の前で震わせながら言った。

「ムーって、昔から変な男に言い寄られることが多くないか?」

「そうかも」ムーは顎に手を当てて考え込んだ。「いっそのこと、ユーちゃんの名前を出してみようかな」

 ユゲ先輩がムーからユーちゃんと呼ばれている姿を頭に浮かべようとしたが、うまく想像することができなかった。


 店を閉めてから、ムーと二人で国道を歩いた。俺は原付バイクを店に置いて帰ることにした。

 後方から、トラックや乗用車が地鳴りのような音を立てて追い抜いていった。歩いているはずなのに、その場に留まっているような感覚を覚えた。車のヘッドライトに照らされた俺らの薄い影が、乾いたアスファルトに細長く伸びた。

 ムーは黒いシングルライダースを羽織っていた。しっかりとした厚みのある牛革が重たそうだ。小柄な身体のせいで尚そう見えるのかもしれない。ライダースの下は白い無地のカットソーを着ていて、カットソーの裾をスカートの中に無造作にしまっている。スカートはマキシ丈で濃紺だった。英国調のグレンチェック柄で、ムーの白い肌によく馴染んでいる。

 ムーの足取りは実に軽やかで、黒い革製のショートブーツが街灯に照らされ鈍く光り、歩道を打つ軽快な音が響いた。小ぶりな革製のグレーのショルダーバッグが、歩くリズムに合わせて小気味よく左右に揺れている。

 俺たちを照らす月はまん丸で、やはり青白かった。俺の肌もムーの肌も、引きこもりの子どもの肌のように透き通って見えた。

 この街の月はなぜか青白い。物心ついた頃から黄檗色きはだいろの月なんて見たことがない。月光はいつも血の気が引いたように、ひやりとしている。いつか時代が変わっても、もし仮に第三次世界大戦が起こったとしても、あるいはこの街がなぎ倒され、消し飛んだとしても、ここから見える月の青さは変わらないはずだ。

「ティーティーって覚えてる?」不意にムーが口を開いた。突然降り出した予報外れの通り雨のようにはっとした。

「覚えてるよ」

「ティーティーが隣り街の豆腐屋で働いていたらしいよ」

「そうなんだ」

「朝早くから」

「ティーティーはよく、いじめられてたな」

 今になって思えば、ティーティーはなにかしら人と異なるものを抱えていた。子どもと大人の狭間の季節は、そういったことへの嗅覚が最も発達している。

 ある時期特有の揺れ動く残酷さを以て、爪の間にきりを突き立てられるようにして彼は虐げられていた。心無い言葉を投げつけられ、トイレでは頭から水を浴びせられ、教室では一本背負いで投げ飛ばされて机に叩きつけられるのが彼の日常だった。

「なんにしても」少し先を歩くムーが振り返った。「生きててよかったって思ったよ」

 東の夜空に、ゴミ焼却施設の煙突のライトが点灯しているのが見えた。一定のリズムで点滅する赤い光は、俺たちになにかを伝える暗号のように思えた。けれど、どんなメッセージも受け取ることができなかった。

 国道を西に曲がり、中学校の横を通り過ぎようとしたときにムーが振り返った。

「ねえ」親の目を盗んで深夜にこっそりと家を抜け出す、子どものような顔でムーは言った。「中学校に入ってみようよ」


 古びた住宅の合間を縫う細い脇道から中学校に侵入した。敷地に入るとすぐ目の前に、旧校舎と増築された新校舎の隙間にできた小さな三角地帯があった。ジョーがいじめられていたときに二人でよく過ごした場所だ。

 俺たちは三角地帯の狭い空間に入り、なぜそこにあるのかわからない不自然なコンクリートの段差に並んで腰をかけた。

「ここにはよく来たんだ」

「知ってるよ」ムーは髪の毛先をいじりながら隣りに座る俺を向いた。「ジョーとずっと二人でいた時期でしょ? 上の窓からよく二人を見てた」

 俺は反芻はんすうするように頷いてからムーの目を覗き込んだ。常に眠たそうに見える大きなつり目に浮かぶ、やや茶色みを帯びた虹彩こうさいが夜の光を反射して煌めいた。前髪は左から右に綺麗に流され、細く、小さく整えられた眉の上を通っていた。輪郭を覆うように左右の髪は緩やかなカーブを描き、鎖骨の辺りで毛先が軽く遊んでいる。風が吹き、艶やかな黄金色の髪が稲穂のように揺らいだ。

 いつの日か、ジョーが頭上に投げたソフトテニスボールの軌道を追うように俺は空を見上げた。校舎と校舎の合間からほんのわずかに空が見えた。空は雲に覆われ、月は隠れていた。ジョーが投げたボールが落ちてきたときの軌道を思い出しながら目線を落とした。

「わたし、小学生のとき家に火をつけられたんだ。放火されたの」出し抜けにムーは言った。

「知ってるよ。近所だし」俺は頷いた。「燃え上がるムーの家は今でも目に焼き付いている」

「見たんだ。どうだった?」

「どうだろうな」俺は少し考え込んだ。「とにかく火の勢いがすごくて、空まで赤く燃えていた。火の粉がたくさん宙を舞っていて、冬なのにいやに熱く感じた。ムーの家は電気がついていなかったし、駐車場に車もなかったから、きっとムーは家族と出かけているんだろうと思った。だけどもし、家の中にムーがいたらと思うと、恐ろしかった」

「そっか」背筋を伸ばして、真っすぐに目の前の一点を見つめていたムーは視線を落とした。「ねえ、わたし、小学生のときにお父さんが死んじゃったんだ。突然」

「それも知ってる」

「知ってたんだ」

 薄い静寂が降りた。

「放火があった日は、家族みんなで出かけてたの。お父さんが運転する車で水族館に。帰りに事故にあって、それでお父さんだけ死んじゃったの」ムーは顔をあげてこちらを向いた。「事故にあわなければ、放火されて家が燃え上がったときには、家で寝てたはずなの」

 どんな言葉も出てこなかった。

「お父さんが死んで、家族みんなが助かった」ムーは言った。

 隣りに座るムーの手を握りしめた。ふと空を見上げると、空を厚く覆っていた雲はどこかにゆき、三角地帯上部の隙間から丸く青白い月が俺たちを見下ろしていた。月明かりでできた俺とムーの鈍色にびいろの陰法師が、熱くも冷たくもないコンクリートに映し出された。肩、それから頭が弱々しく微かに震え、近づいたかと思うと影は一塊になった。

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