10 なんでもいいから静かなやつにしてくれ

 アーガマで働き始めて数か月が経った頃に、ジョーが一人で店にやって来た。

「珍しいな」俺はカクテルグラスを磨きながら言った。

 手が込んだカクテルを頼む客はこの店にはいない。つまり単なる時間つぶしに過ぎない。

「お前が働く姿をじっくりと見てやろうと思ってな」

「身元引受人みたいだな」俺はハートランドの瓶とグラスを差し出した。

 ジョーはこれまでに数回だけ松愛興業の先輩たちとアーガマに来たことがある。ジョーはあまり店に寄り着かず、わりと長いことすれ違いのような日々が続いていた。

「慣れたか?」ジョーは俺に尋ねた。

「慣れが必要なほど、たいそうな仕事じゃない」俺は灰皿を差し出した。「なあ、ムー?」

「そうだよ。いるだけでいいんだから」

 ムーは本当に店にいるだけのようなものだった。一応は仕込みの時間から、それなりに忙しければ閉店まで店にいるが、なにをするでもないことがほとんどだった。

「気になってたんだけど、俺が働き始める前、ムーはいったいどうやって店を回していたんだ?」

「客に手伝ってもらってた」ムーはおもむろに足を組み替えた。

「俺、よく手伝わされていたよ」とジョーは言い、もったりと紫煙を宙に泳がせた。

「ジョーはよく手伝ってくれた」

「カウンターの中に入ってよくドリンカーをやってたよ。手探りで」

「同情するぜ」

 ザ・ローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』をかけていたが、ジョーの顔を見てなんとなく音楽を変えることにした。

「ナンバーガールじゃん」ぼんやりとビールを飲んでいたジョーが顔をあげた。

「ああ。『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD状態』だ」俺は頷いた。

「知らない」ムーはまるで興味がなさそうに言った。

「よくカラオケで歌ったんだ。二人で。今でも歌っている」ジョーは目を細め、マールボロ・ライト・メンソールの煙を吐き出しながら言った。


 俺たちはしばらく黙って音楽を聴いた。ジョーの他に客はいなくて、俺もムーもカウンターの中の椅子に腰をかけて足を組んでいた。

「よくわかんない」ムーが口を開いた。「こんな曲、本当に歌うの? そもそも歌なの? これ」

「歌うよ」俺は足を組み替えながら言った。「本当に」

「全然よくわかんない」

「今度三人でカラオケ行こう」ジョーは言った。

「悪くないね」

「ねえ」ムーはグラスを出してビールを注ぎ、静かに一口飲んだ。「三人でいると、中学のときのこと思い出すね」

 すでにお決まりとなっている思い出話は広がりに欠けるし、解像度がどんどん粗くなっていく。話されるエピソードは同じでも、内容が少しずつ変わってきているような気がしないでもないが、はっきりとはわからない。それでも、反復、反射、習慣によってなにかをたしかめ合い、どこへもゆかない。


 店はしばらく俺たち三人だけだったが、『透明少女』が流れ始めたときに客が一人やって来た。アール先輩だった。

「珍しいじゃねえか」アール先輩はジョーを一瞥して言った。「この店でお前を見るのは」

「そうですね」ジョーは立ち上がり、アール先輩に頭を下げた。

 アール先輩はジョーの隣のカウンター席に腰をかけた。俺はアール先輩に生ビールと灰皿を差し出した。アール先輩は勢いよくジョッキを掴んで持ち上げ、ふちに唇を押し付けるようにしてビールを飲んだ。

「たまんないね」アール先輩はジョッキから唇を離すと、深く息を吐き出すようにして言った。

「今日は日射しが強かったですからね」俺は言った。「仕事も大変だったんじゃないですか?」

「暑かったな、今日は久々に」アール先輩はラッキーストライクに火をつけながら言った。「仕事は全然大したことないけど」

「そうなんですか?」俺は小首を傾げるように言った。「型枠解体は色んな段取りがあると思いますし、一歩間違ったら怪我をする危険だってあると思います。なかなか大変な仕事だと思うんですが」

「全部慣れさ。なあ?」アール先輩はジョーを向いた。

「ええ……」ジョーは曖昧な苦笑いを浮かべて頷いた。

「人並みの体力さえあれば、若いうちはできるよな? 頭を使うことなんてないし」

「解体の手順だったり、資材を移動させる順番だったり、頭の中で組み立てるのは大変じゃないですか?」

「そんなの、先輩のやり方を見よう見まねで真似すればいいだけさ。特に教わるまでもなく、だいたいできるようになる。できなきゃ殴られるしな」

「いやあ、アール先輩のお話を聞いている限り、そんなに簡単そうな仕事には思えませんけどね」俺はつくり笑いを浮かべて言った。「アール先輩、おかわり飲まれますか?」

「ああ、頼む」アール先輩はラッキーストライクの火を灰皿でもみ消した。「あと、BGMを変えてくれないか? なんでもいいから静かなやつにしてくれ」


 俺はBGMをザ・ローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』に変えた。それからしばらく、アール先輩もジョーも静かにビールを飲んでいた。ムーはカウンターの中で椅子に座り、うつらうつらとしていた。

「なあ」アール先輩はジョーに言った。「ちょっと付き合えよ」

 アール先輩とジョーは残りのビールを一息に飲み終えると、会計をしてアーガマを出て行った。それから俺はBGMを再びナンバーガールに戻した。

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