9 ローデッド

 俺はアーガマで働き始めた。ムーはろくに仕事を教えてくれず、ほとんどいつもぼーっと椅子に座っているだけだった。だから俺は学生時代に居酒屋でアルバイトをしていた要領で、なんとなく働いた。

 十六時くらいに店に入り、仕込みをして開店準備をする。仕込みと言っても店で出している料理はほとんどが冷凍食品だった。冷凍食品にチューブからひねり出したマヨネーズを付け合わせれば、客はありがたがってうまそうに食べた。なので仕込みと言っても、実質的にはお通しのセットと、ハイボールやちょっとしたカクテルで使うフルーツのカットくらいのものだ。

 規則正しいニワトリのように、毎日十七時に店を開けた。開店と同時に病的に青白い照明をつけて音楽をかける。俺はザ・ローリング・ストーンズやプリンスなどの古い音楽を好んでかけた。

 しかし、アーガマの客は音楽なんてまるっきり聴いていない。人生に音楽を必要としていないかった。彼らにあるのは、過ぎ去った思い出や、あるいは眉唾物の武勇伝、ぱっとしない人生への嘆きと諦観、週末のささやかな楽しみについて。これらを口角泡を飛ばし、何度も繰り返し言葉にすることが彼らのすべてだ。つまり自分が体験したことが人生のすべてであり、彼らには想像力というものが欠如していた。

 かける音楽はあくまでも自分のためのバックグラウンド・ミュージックでしかない。ムーは、自分の趣味ではないと文句を言っていた。


 十七時半から十八時にかけて客が入り始めることが多かった。客は松愛興業の従業員が多いが、近隣の工場など他の会社で働く従業員の客もそれなりにいた。

 松愛興業の従業員も、それ以外の客もぱっと見ではほとんど見分けがつかなかった。不思議と同じような人間がアーガマにつどった。裸電球に羽虫が集うように。


「ユゲ先輩が、近所の会社にも車通勤を禁止させてるんだよ」

 松愛興業の従業員がそう教えてくれた。

 金曜日を除いてほとんどの客は翌日が早く、平日は二十三時くらいに閉店することが多かった。金曜日は金曜日で、街の中心にあるキャバクラやフィリピンパブに行くために二十三時頃には帰る客が多い。客のほとんどは、週末にそういう店に通うことを何よりも楽しみにして一週間の労働をやり過ごしていた。

 閉店後に店の片付けをしてから発注作業をして、だいたい二十四時頃に仕事を終える日々を送った。


「離婚した」

 青白く下品な照明の下で、アーガマのカウンターに座った中学の先輩――アール先輩――は言った。アール先輩は俺よりも一歳だけ年上で、松愛興業で働いていた。俺はそれを知らなかった。

「突然ですね」

「前々からうまくいってなかった」アール先輩は喉を鳴らし、勢いよく生ビールを飲んだ。「俺が子どもを置いてパチンコとか、競艇とかに行くのをずっとぐちぐち言っていた」

「お子さんはおいくつなんですか?」

「三歳」

 プライマル・スクリームのローデッドが流れていた。ねっとりとしたビートに意識がたゆたう。梅干を見て唾液が溢れるように、けばけばしい赤、黄、青、三色の染みみたいなスリーマデリカのジャケットが条件反射で脳裏に浮かぶ。脈絡がないことを考えながら、俺はかける言葉を探した。

「可愛い盛りですね」

 言うべきことがないのに、ワイドショーで何かを言わなければならない滑稽なコメンテーター。好きでやっているわけじゃないんだ、という自己弁護が浮かんでは消える。

「そうさ。子どもは可愛いさ」

 アール先輩は青いBicのライターでラッキーストライクに火をつけた。炎が霞むくらい、ライターは真っ青だった。スクリーマデリカのジャケットの色彩が再び脳裏にちらついた。

「立ち入ったことをお聞きするようですが、何か離婚のきっかけのようなことがあったんですか?」

「殴ったんだ。嫁を」

 言うべきことは未だ見当たらない。

「ギャンブルについて色々言われてさ。たしかに嫁の給料までつぎ込んでたのは悪いよ。そりゃ悪い」

「アール先輩、昔から腕っぷしが強いですけど、女にも手をあげるんですか?」

「あげるよ。舐められてるって思ったら容赦なくやるよ。俺はそういうふうに生きてる」アール先輩は深く息を吸い込み、濃い紫煙を吐き出した。俺の顔に煙がかかった。「自分でもひどいとは思ってる。一応、ひどいと。結構」

 俺は肩を丸めた。

「腹が立つことばかりだ。俺、背中から腰にがっつり刺青が入ってて、スーパー銭湯で店員に見つかると追い出されるんだよ」

「よく聞く話ですね」

「ほんと腹立つわ。だから、身体も洗わずにいきなりサウナに直行するんだ、俺は。サウナと水風呂を三セットやったら、いつ追い出されても構わないからな」

 そう言うアール先輩の顔は赤黒かった。現場仕事特有の日焼けだろうが、垢に覆われているみたいに、ひどく不潔に見えた。見るからに乾燥した粗い皮膚は、青白い照明を押しのけていた。

「ほんと、腹立つことばっかりだ。ほとんど」


 その日は客が少ない日だったので、ムーは途中で仕事をあがった。俺は一人で店を閉めた。業務用冷蔵庫のコンプレッサーが鳴らす鈍い振動音が時折響いた。誰もいない青ざめた店内は、宇宙船の抜け殻ようだった。

 ジョーから勧められて昔観たZガンダムのことを考えた。地球の重力を振り切り、大気圏外へ飛び立つアーガマ――宇宙船だ――を頭に浮かべた。Zガンダムにそういったシーンがあったのかは思い出せないが、ありそうなシーンに思えた。物語に宇宙船が出てきたら、その宇宙船は宇宙に飛び立つべきなのだ。

 逃れられない引力のようなものを振り切り、この店に来る客とムーと一緒に、どこか遠くに飛び立つところを想像しようとした。うまくいかなかった。たぶんエンジンがいかれている。あるいは最初からエンジンなんて搭載されていないし、推進剤だってずっと前に切れているはずだ。


 店の鍵を締めて、夜に沈んだ街を原付バイクで走り出した。俺は原付バイクでの通勤を特別に許可されていた。俺がアーガマで金を使うことはないからだろう。丸く大きく、でっぷりとした青白い月が俺を照らしていた。店の照明と大差ない冷たい光だ。

 排気ガスの匂いを嗅ぎながら、大型車が地響きを鳴らして走る国道を南に走り、西に折れた。通っていた中学校の脇の急な坂を下って住宅街に入ったとき、女が男にハンドバッグをひったくられているのが目についた。

 女は履いていたハイヒールを脱ぎ、走って逃げる男を追いかけようとした。しかし追いつけないとすぐに悟り、その場で腕を振り回して気が狂ったように何かをわめき散らした。意味がある言葉を発しているのか、若干怪しく思えた。俺に向かって何か叫んでいるのかもしれないが、よくわからない。

 女からハンドバッグをひったくった男は、二十代後半か三十代くらいに見えた。顔は見えなかったが、なぜだかそんな気がした。全体的に痩せこけていて、腹だけは一丁前に醜く突き出ている。きっとそんな感じだ。

 俺は原付バイクの速度を落とさずに、そのまま女の横を通り過ぎた。サイドミラーに映る女は取りつかれたように、依然としてすごい剣幕で何かを叫び続けていた。

 あたりの家々はすでに事切れ、冷たい沈黙に沈んでいた。女の叫び声がむなしく響くだけで、明りがつく部屋はなかった。もし仮に事態を察知した人がいたとしても、この程度のことでこの街の人間が手を差し伸べることなどあり得ない。

 代わり映えのしない一日を終えて、俺は帰宅した。

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