8 青白く、冷ややかな宇宙船

「かけな」逆光の中からユゲ先輩は静かに言った。抑揚がなく、低くて太い声だった。応接室のドアを後ろ手で閉め、白い光から出てきた。

「お忙しいところありがとうございます」ユゲ先輩がソファに座るのを待ってから、俺も腰をかけた。

 ユゲ先輩を見るのは何年ぶりだろうか? はっきりとは思い出せないが、最後に見かけたときからおそらく五年は経っていると思う。頭のサイドが鋭く刈り上げられ、ジェルで後ろに撫でつけられたオールバックと、もみあげから薄く繋がるように手入れされた髭が目についた。

 第二ボタンまで開けられた白いシャツは、あつらえられたように身体のラインにフィットしていて、シャツの上から見ても筋肉が隆起していることがわかる。

 金運にご利益がありそうな種類の大ぶりなパワーストーンと、金無垢のロレックス・デイデイトが左手首でじゃらじゃらと音をたてる。

 何を考えているのか読み取ることができない、昆虫めいた一対の目の挙動は最後に見たときから変化がない。


「ジョーから聞いたよ。仕事を探してるんだって?」

「はい」

「どんな仕事か聞いてる?」

「解体、とだけ聞いています」

「そうか」ユゲ先輩は鈍器のようなガラスの灰皿を手繰り寄せた。「解体と言っても、建物を壊しているわけじゃない」

 てっきり建物の解体を行っているのだと思っていたが、口角が微動だにしないユゲ先輩に合わせるように静かに頷いた。

「型枠解体と言って、コンクリートが固まってからバールとかを使って型枠を取り外す仕事だ」

 漠然としかイメージできなかったが、曖昧に頷いた。

「つくるために壊す仕事だ。誰にでもできる。体力さえあればな」

 ジョーがバールを使ってコンクリートの型枠を取り外している姿をイメージしてみた。あまりしっくりこなかった。

「何となくはイメージできました」


 ユゲ先輩は、金色に鈍く光るデュポンのガスライターをポケットから取り出し、蓋を指で弾いて開いた。甲高く、どこまでも冷やかな金属音がその場に長く反響した。パーラメントを口にくわえて火をつけ、息を深く吸い込み、濃い紫煙を宙に泳がせた。

 それからユゲ先輩は言った。「なあ、別の仕事をしないか? お前を型枠解体にあてるのはもったいない気がしている」

 少々面食らった。「別の仕事、と言いますと?」

「このビルの一階に飲み屋があっただろ。あそこで働かないか?」

「飲み屋ですか」飲み屋のくたびれたドアを思い出しながら俺は言った。「あの店はユゲ先輩がオーナーなんですか?」

「そうだ。元々後輩に店長をやらせてたんだけど、店の金に手をつけて飛んじまってな。もちろんきっちりと詰めたが、次の店長が見つかってないんだ」

 ユゲ先輩に詰められた後輩の末路を思うと、脇と背中にねっとりと重たい汗が滲んだ気がした。

「どうだ? きっとお前に向いてると思うぜ。お前は余計なことを言わなさそうだし、それなりに相手に合わせられるだろ? そういう奴って、俺の後輩にはあまりいないんだ。給料はジョーから伝えている型枠解体の十五パーセント増しでどうだ?」

 型枠解体と場末の飲み屋の店長を天秤にかけた。どちらも将来性がある仕事には思えなかったが、飲み屋の店長の方が気楽でマシな仕事に思えた。居酒屋でバイトをしていたから、新しいことを覚える必要もあまりなさそうだ。おまけに給料も型枠解体より高いときている。

「わかりました。やらせてください」俺は頭を下げた。

「決まりだな。今日これから予定ある?」

「ありません」

「じゃあ店に移動するか」

 ユゲ先輩はソファから立ち上がった。俺も立ち上がり、歩き出したユゲ先輩の後ろに続いた。

 ユゲ先輩はテーパードがきいたグレーのトラウザーズを穿いていた。どんな角度から見てもきれいなシルエットで、インコテックスのパンツなのかもしれないと思った。

 靴は見るからに上質な黒い革靴で、曇り一つないほど手入れが行き届いていた。華麗なメダリオンがジョン・ロブのストーウェイに見えた。腰に巻かれたクロコダイルの型押しベルトが威圧的に光った。


 飲み屋のドアの横には、ぱっとしない書体で『アーガマ』と書かれた安っぽい看板がかかっていた。紫煙を吹きかけたように赤茶けてくすんだドアを開けると、薄暗く青白い空間が広がっていた。

 店内に客はいなかった。カウンターの中に女が一人立っていた。

「こいつが新しい店長」ユゲ先輩は女に俺を紹介した。それから俺に「俺の女。店を手伝わせているんだ」と女を紹介した。

 俺は女に見覚えがあった。「ムー?」中学のときのクラスメイトだ。

「え、久しぶり。えー、びっくり」ムーは鼻にかかる蠱惑こわく的な声でささやくように言った。かつてよく聞いた声だ。

「なんだ、知り合いか?」ユゲ先輩は俺とムーの顔を交互に見た。「そうか、ムーはジョーの同級生か」

「うん、小学校と中学校で同じクラスだった」

 俺とユゲ先輩はカウンター席に腰をかけた。ステンレススチール製のスツールは青白い照明を受けて下品に光り、ひやりと冷たく感じた。

 ムーは瓶のハートランドをグラスにそそいで出してくれた。ムーの手つきは頼りなく、見るからに覚えたてというおぼつかない感じで目が離せなかった。ネイビーとゴールドのツートンカラーのネイルが青い照明に照らされて煌めいた。

「見入っちゃうだろ?」ユゲ先輩の低い声が響いた。「こいつ」

「すみません」ユゲ先輩が『自分の女』と言っていたことを思い出した。

「謝ることはない。ただ、こいつ一人を店に立たせるのは心配だ」ユゲ先輩はグラスをかかげた。「飲もう」

「いただきます」

 グラスが控えめに衝突してくぐもった音が鳴った。頭の中で『兄弟の盃と思っていいですか?』と言ってみた。とても自然なセリフに思えたが、もちろん口にはしなかった。真っ平ごめんだ。


「この店には松愛興業の方もよく来るのですか?」

「かなり来る」ユゲ先輩はパーラメントに火をつけた。デュポンのガスライターの蓋を閉じると鞭を打ちつけたように乾いた音が響いた。音に合わせるように、ムーがステンレススチール製の薄っぺらい灰皿を差し出した。「そもそも、この店は松愛興業の連中に使わせることが目的だ」

「福利厚生みたいなものですか?」

「違う」ソリッドな響きだ。「奴らの給料を回収することが目的だ」

 俺は背中を丸め、首を傾げるようにして頷いた。

「ここは街の中心から離れているだろ? にも関わらず車通勤は禁止しているんだ。飲酒運転をする奴がいるから、という理由でな」ユゲ先輩はもったりと煙を吐き出しながら言った。「本当の理由は、仕事終わりにこの店で飲ませるためさ」

「そうなんですね」

「どうせムーから色々と聞くだろうから言っとくが」ユゲ先輩は目を細めた。「俺は後輩をこの街にしばりつけて支配し、搾り取っている。そういうことだ」感情は読み取れないが、罪悪感のようなものを持ち合わせていないことはわかった。

「松愛興業と、この店の他にも事業をやってらっしゃるのですか?」俺は訊いた。

「やっている。まあ、松愛興業がメイン事業だな」

 ユゲ先輩を中心とした経済圏を把握しておいたほうがいいように思えたが、それ以上の情報は引き出せなかった。

「いつから松愛興業を始めたのですか?」

「始めたのは親父さ。三十年位前かな? ただ、五年前に実刑をくらってな。暴行やら恐喝やらで。それで俺が継いだんだ」

「お父様は刑務所からもう出てきていらっしゃるんですか?」

「ああ。ただし、戻らなかった。行方不明だ」ユゲ先輩の目は、曇りガラスのように濁って見えた。


「なあ、こいつはどんな感じだったんだ? クラスメイトだったとき」ユゲ先輩はムーに訊いた。

「うーん、やんちゃではなかったよね」ムーは何をするでもなく、カウンターの中で座って作業台に肘をついていた。ぼけ防止のために店番をする老人のように。「でも、絶対に勝てるわけがない相手に盾突いたりしてたよね。ジョーと一緒に」

「ああ。ジョーから聞いたことあるよ。小学生の頃だろ?」

「はい」

「ジョーとはガキの頃から家族ぐるみの付き合いなんだ」ユゲ先輩はパーラメントの火を灰皿でもみ消した。「俺は昔から、お前に感謝してたんだぜ」

「どういうことでしょう?」

「ジョーがいじめられたことがあっただろ?」ユゲ先輩は再びパーラメントに火をつけた。「お前がずっと一緒にいてくれたことを知っている」

「そんなこともありましたね。四六時中ジョーと一緒にいて、それはそれで楽しかったです。今になって思えばですが」

「俺はジョーに、いじめている奴らを追い込んでやろうか? って訊いたんだ。そしたらあいつは、お前がいるから大丈夫ですって言ったんだ」

「そんなことがあったんですか」俺はグラスのビールを静かに飲んだ。「ユゲ先輩、ところで気になっていたのですが」

「何だ?」

「アーガマって店名は、Zガンダムの宇宙船からとったんですか?」

「そうだ」ユゲ先輩は微かに笑った。「Zガンダムが好きなんだ。とくに終盤がな」

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