7 昆虫じみた無機質な嗜虐性

 それからというもの、俺はジョーを誘ってよく飲みに行った。それまではどちらかというと誘われることの方が多かったが、俺が誘う一方になっていった。なぜなら、俺はまったくの無職で時間を持て余していたからだ。

 そうして三か月くらいが過ぎていった。


「仕事を辞めたんだって?」俺とジョーの共通の知り合いが言った。中学時代にジョーと同じ部活だった男だ。

「ああ、逃げるようにして辞めたよ」俺はセブンスターの濃い煙を吐き出しながら言った。

 ジョーとその男と三人で、学生客で賑わうチェーンの居酒屋――わたみん家――で飲んでいた。学生のころ、俺が長くバイトをしていた店だ。

 この店に来るのはずいぶんと久しぶりに感じたが、今の俺らはそのときとなんら変わっていないように思えて不思議な気分だった。時間だけが旅に出てしまったようなものだ。

「大変なんだな、社会人ってのは」

 男は大学を中退して何だかよくわからない専門学校に入り直し、未だに学生だった。鍼灸師の資格を取ると言っていたような気がするが、思い違いかもしれない。

「ジョーは最近どうなんだ?」と男は言ってクール・ライトに火をつけ、紫煙をくゆらせた。

「何ら変わりない。驚きも感動もない。それなりの疲労とストレスがある」

「ああ、俺、一生学生でいたいな」男は軟骨の唐揚げにレモンを搾り、テンポよく口に放り込んだ。「遊んで暮らしたい」

「これからどうするんだ?」ジョーは俺に訊いた。「そろそろ何か考えているのか?」

「わからない。何の展望も計画もない。バイトすらする気にならない」

「ジョー、こいつにユゲ先輩を紹介してやったらどうだ?」男は軟骨の唐揚げを噛み砕きながら言った。

 ジョーは眉をひそめた。「おすすめはできない」

 俺は記憶を辿った。「ユゲ先輩って、ジョーの家の近所に住んでたユゲ先輩のこと? あの恐ろしい」

「恐ろしいどころじゃないぜ」男は箸を置いてレモンサワーのジョッキを持ち上げた。「この街を支配していると言っても過言ではない」

 街を支配するということについて俺は考えてみた。いったいどうやったらそんなことができるのか、想像も及ばない。

「そんなおっかない先輩を何で?」俺は話がさっぱりわからなかった。ジョーは口をつぐんでいた。

「ユゲ先輩は会社をやってるんだよ。解体屋を。で、ジョーはその会社で働いてんの」

 初耳だった。

 ジョーは決まりが悪そうに、顔の前で左手を払った。「言っとくけど、一度関わり合いになったら簡単には抜け出せない。ずっとこの街の上下関係に縛られて生きていくことになるぜ」ジョーはマールボロ・ライト・メンソールに火をつけ、短く紫煙を吐き出して目を細めた。「沈むことがわかりきっている船に閉じ込められるようなもんだ。先がない」

「かといって、いつまでも無職ってわけにもいかないだろ?」男は俺を見た。

 俺は考えた。たしかにいつまでも無職でいるわけにはいかない。しかし、ユゲ先輩を紹介してもらうのはどうにも気が進まなかった。

 直接的にユゲ先輩と関わりがあったわけではないが、昆虫のように無機質な目をしていたことと、底知れない嗜虐性を思い出した。

 荒っぽいことはこの街の日常だ。ただしそこにはほとんどの場合、予定調和というものがある。明文化されていないものの、普通は超えることがない一線が引かれている。

 ユゲ先輩は予定調和に一切迎合しなかった。眉一つ動かさずに人の眼球にタクティカルペンを突き立てられる、一握りの人種だった。

「少し考えさせてもらえるかな。ありがたい話だけど」


 実際は考えるまでもなかった。無職であることに対して焦りのようなものはあるが、これといった意思はなく、スプーンひと匙のプライドもない。自ら流れを生み出せない者は、流れに身を任せるしかないのだ。


「ユゲ先輩を紹介してくれるか?」

 一瞬の沈黙があった。

「本当にいいのか?」受話口から聞こえるジョーの声はいつもよりざらついていた。「お前なら、この街に頼らなくてもきっと生きていける」

「そう言ってもらえると何だか嬉しいな」思わず鼻をさすった。「ただ、やっぱりこの街のやり方の方がしっくりくるんだ。外で働いてわかったよ。この街の傾向みたいなものが身体の芯にしみついているってな」

 ジョーは大きな通りにいるのだろうか、近くを大型トラックが通り過ぎたような音が聞こえた。

「わかった。ユゲ先輩を紹介するよ」


 指定された雑居ビルは、街の中心から少し外れた国道の裏路地にあった。子どものころから何度も目の前を通ったことがある場所だが、気に留めたこともなかった。そこにユゲ先輩の会社があるなんて知りもしなかった。

 ビルの外壁はモルタルで、くすんだクリーム色の上にいくつかのクラックが走っている。階段や廊下、バルコニーの壁面を、もやがかかったようにぼやけた橙色だいだいいろが縁取っている。壁にはところどころ雨だれの跡と錆びのグラデーションがかかっていて、かすれたストライプのようだ。築三十年くらいだろうか。


 ビルにはエントランスというものがなかった。本来、エントランスがあってもおかしくなさそうな正面には、くたびれた飲み屋のドアがあった。

 二階へとのぼる階段の踊り場と地面の間にできた、高さ一メートルほどの空間に切り裂かれた緑糸のネットが張ってある。どう見てもゴミ捨て場だが、ゴミ捨て場のネットに必要な機能性は損なわれていて、野良猫やカラスに荒らされたのであろう生ゴミが地面にへばりついている。酸っぱく重たい匂いが風にのって鼻孔をついた。

 ビルの脇にある階段の入り口に回ると、二階の廊下と地面の間にも青いネットが張ってあった。こちらのネットは破れていない。ネットの中に飲み屋の勝手口らしきドアが見えた。飲み屋のゴミ置き場だろう。俺は階段をのぼった。ゴムボールをついたような妙な足音が反響した。


 表札には有限会社松愛興業しょうあいこうぎょうと書かれている。この街にふさわしい、ぞっとしない社名だ。ドアチャイムを押すと、ビープ音のようにブザーが鳴った。最近ではあまり聞かない種類のドアチャイムだ。

 しばらく待つとドアが開き、何歳くらいなのか見当もつかない薄い顔の女が出てきた。二十代かもしれないし、四十代なのかもしれない。口紅を塗られた唇に、干ばつでひび割れた大地のような亀裂が走っていて猟奇的だった。

 ユゲ先輩との約束で来たことを伝えると、女は一回だけ頷いた。焦点が定まらない目をしていた。


 事務所の中にはクリーム色をしたパーテーションが何枚か設置されていて、灰色のデスクと古ぼけたオフィスチェアがいくつか置いてあった。事務方らしき従業員が何人か見えたが、皆一様に俯いていた。


 応接室にはブラックコーヒーのような色をした木製のローテーブルと、黒い革張りのソファが置いてあった。重量感があるガラスの灰皿がローテーブルの中央に置いてある以外は物らしき物が見当たらず、灰色の壁がやけに目についた。壁にはカレンダーも時計も掛かっていなかった。

 ほどなくしてドアノブが回る音がして、応接室の薄い木製のドアが開く気配がした。振り向くと逆光の中にユゲ先輩が立っていた。

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