6 そういう競技

 俺とジョーは働き始めてからも、時間をつくって時折一緒に酒を飲んだ。

 ある金曜日にジョーはいつものように言った。「もう一軒行こうぜ」

 俺は首を横に振った。「悪いけど今日は遠慮させてもらうよ。明日が早いんだ」

「休みじゃないのか?」

「休みだよ」ため息が漏れ出た。「ただ、有志で朝八時から会社の近所でゴミ拾いをするんだ。それから、夜までみっちりと勉強会だ」

 ジョーは鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目をぱちくりとさせた。

「それって給料は出るのか?」

「出ると思うか?」俺は伝票に手を伸ばして立ち上がった。「なんせ、休みなんだからな」

「心底同情するぜ」


 改札を足早に駆け抜けて駅を出ると、長い上り坂を走って、走った。雲一つなく、ガリガリ君・ソーダを切り取ったように青い空は、いつの日かジョーのマンションの屋上から眺めた空と同じに見えた。そんなことをいちいち覚えている。

 目に痛い青空が例えようもなく不愉快で、土曜の早朝からスーツ姿で時間に追われていることがひどく情けなく、惨めに思えた。


「何回目? 遅刻」上司は言った。

「すみません。三回目です」

「どうする?」

「十五分前には必ず到着するようにします」

「どうやって?」

「スケジュールに動き出す時間を書き出して、アラームをセットして十五分前行動を徹底します」

 その後も何度か問答があった。


 社名が入ったたすきを斜めにかけて、ゴミばさみとゴミ袋を携えて会社の周りを練り歩いた。すれ違う人がいればできるだけ大げさに挨拶をしてみせた。

 一時間くらい経った頃に集合がかかった。ゴミ拾いに参加していた十名ほどで上司を囲んだ。

「これから僕は、取引先の社長の庭を掃除しに行ってきます」上司はさも誇らしげに言った。戦地におもむく兵士はもしかしたらこんな表情を浮かべるのかもしれない。

 上司は襷をはずし颯爽と去っていった。


 オフィスに戻ると勉強会が始まった。テレアポ、飛び込み、アプローチ、プレゼン、クロージング、ありとあらゆるシチュエーションのロールプレイを延々と行った。

 その光景は録画され、映像を見かえしながら「応酬がスクリプト通りにできていない」とか、「クロージングに入るとペンを回す癖がある」だとか、そんなことを夜まで続けた。


 たまに従業員の前に出てきて熱弁をふるう社長は教祖めいて見えた。決まってストライプの主張がうるさく、押しが強そうなスリーピース・スーツを着ている。幅が太いピークド・ラペルで、肩は鉄筋から入念に組み込んで構築したビルディングのように威圧的だった。たぶんトム・フォードのスーツ、ウィンザーだ。

 大げさで力強く一切の迷いが感じられない身振り手振りと、ときにはお涙を織り交ぜて熱っぽく語るのが彼の常だった。白いポケットチーフがやはり心に残る。

 己の人生のビジョンはなにかと問う。自ら答えを見出し、成すべきことを毎秒やり抜けと言う。寝ていてもビジョンの達成について考えろと言う。それがあるべき経営者の姿であり、人類みな自分の人生の経営者なのだそうだ。自らの人生すら思うように経営できない者が、人の心を動かすことなど決してあり得ない。

 まるで興味がない金曜ロードショーが始まって終わるほどの時間をかけて、そういう旨の主張をいつも延々と何度も何度も繰り返す。

 

 俺は俺のペースを守り、ゲーム感覚で仕事に臨んだ。営業成績というスコアを競う、そういう競技だと思うことにして日々を過ごした。やっていることはファウルプレーであっても、ホイッスルさえ鳴らなければ正当なプレーであり、むしろ誇るべきことだということにした。

 白か黒かのカードを切ることを求められれば、まずはグレーのカードを差し出して様子を伺った。そうでもしなければ、調律が狂ったピアノのように自分がおかしくなってゆくのが目に見えていた。

 俺はそれなりに腕を振るった。可能な限り嘘はつかずに、それでいて本当のことも言わないことをいつも心がけた。強引にいくべきところでは感情というものを脇に置いてしつこく粘り、引くべきところでは音もなく退却した。

 押しては引いてと攻守が目まぐるしく入れ替わる日々の中で、どこまでできるのだろうかと不安になることが増えた。


 ある日突然、上司が会社に来なくなった。

「知ってるか? 自爆営業をしてたんだってよ」喫煙室で同僚が言った。

「自爆営業?」

「自腹で契約して売上をあげること」同僚は煙を吐き出しながら、唇に挟んだタバコを外して言った。「ずっと前からキャッシングまでしてやってたらしいぜ。で、借金で首が回らなくなって、にっちもさっちもいかずに行き詰って、病んじまったんだとさ」

 思い返せば、上司あてに社名を名乗らない怪しい電話がたびたび会社にかかってきていた。何度か上司に取り次ごうとしたが、決まっていつも奥行きのない目で「いないって言って」と言っていた。あれは借金の取り立てだったのだ。

 馬鹿な奴だな、と思った。自尊心を保つために後先考えずに身を削って人の負担を引き受けるなんて、正気ではないと思った。前々から上司は偏執的な奴だと思っていたが、あいつはやはり狂っていたのだ。

 俺は人の負担は引き受けない。俺の負担はできるだけ人に押し付けてやる。そう思った。


 とうとうホイッスルが鳴った。

「君に契約とキャッシングを強要されたと言っている。そして、もう支払えないし、返金してほしいと」

 狭苦しい会議室は取調室のようだった。通りに面した壁はほとんどガラス張りで、真昼間の白い陽光が差し込んでいる。にも関わらず部屋は灰色に見えた。

「強要した事実はありません」

「なんて言って勧誘したの?」

「個人事業主なのに、リスクをとらずしてリターンはあり得ませんよ、ということを言いました」嘘ではないが本当でもない。

「録音データがあるんだよ」

 鼓動が一気に速くなった。視界がぼやけて、端からぐにゃりと歪んだような気がした。

「こいつは強迫と言わざるを得ないな」三人目の上司は顎をさすった。「どうする?」

「まずは先方に連絡をとって話を伺います。なんとかします」


 なんともならなかった。

 結局どうなったのか俺は知らない。会社に行かなくなったからだ。退職の手続きは郵送で済ませた。あっけないものだった。

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