5 小さな森

「おめでとう」ジョーは手元のグラスをこちらに突き出した。

 俺もグラスで応じた。グラスがぶつかる音はバーの喧騒にかき消された。バーはアメリカンスタイルで、使い込まれた木製のカウンター席も、川のように敷き詰められた細長いテーブル席も、電線に集まるカラスのように多くの若者がつめていた。公害のような大音量でエアロスミスの『ウォーク・ディス・ウェイ』が鳴り響いている。


 ジョーは一息にグラス半分ほどのビールを飲み干した。「心から祝福するよ」

「ありがとう」俺は肩をすぼめた。

「お前はきっと、街から出てもうまくやれるよ」ジョーはそう言い、勢いよく口にポップコーンを放り込んだ。

「どうだろうな。全然ピンとこない」

「どんな仕事をする予定なんだ?」

「能力開発プランの提案営業」

 言葉にすると、ひどくインチキくさい仕事に思えた。人材コンサルティングとうたっているが、高額な自己啓発セミナーだとかを一件でも多く販売すること、俺の仕事はとどのつまり、おそらくそんなところだ。

「何次選考まであったんだ?」

「五次選考かな」

 自信がなかった。なぜだかジョーと飲んだ翌日が毎回選考で、つねに意識が混濁していた。選考を受ける自分をいつも遠巻きに眺めているようなものだった。

「すごいな。俺には絶対にできない」とジョーは残りのビールを一気に飲み干した。「応援するよ」

「ありがとう」俺はセブンスターに火をつけた。

 ジョーもマールボロ・ライト・メンソールに火をつけ、あたりに紫煙を泳がせた。

 

 例によってカラオケボックスに場所を移し、三時間くらい節操なく飲みながら歌った。帰りに俺の家の向かいにある、狭くて細長い公園にジョーと寄った。

 すでに日付は変わっていて、いくつかの星が見えた。住宅街はしんと静まり返っていた。明りがついている窓はほとんどなく、行き交う車もなかった。こんな静かな夜をどうやったら乗り越えられるのか、想像もつかないくらいに沈み込んだ夜だった。

 勝手に朝日が昇るなんてまるっきり嘘みたいだと思った。この街の地底には体育館くらいの広さの強制労働施設があって、一面に敷き詰められた自転車発電機を稼働させて朝日を呼び寄せているに違いない。そんな気がした。

 数百人の奴隷が自転車発電機を休みなくこぎ続けて――一晩中だ――、何十人かぶっ倒れた頃にようやく朝日が昇るのだ。その光景がありありと目に浮かんだ。


 公園のブランコを揺らすと、数年ぶりに起き上がった老人の関節が軋むような音が響いた。

「覚えているか? 中学のときのこと」ジョーは言った。

「覚えているよ」俺はジョーの顔を見た。

「帰り道、たまに寄ったよな。この公園。ソフトテニスボールを持って」ジョーはブランコを揺らして天を仰いだ。星を眺めたのかもしれないし、あるいはどこか遠くへ行きたい気分になっているのかもしれない。

「テニスボールと時間だけは有り余っていたな」今ここにテニスボールがあればいいのにと思った。

 ジョーはまだ内定を得ていなかった。


 ジョーとは別々の高校と大学に進学したが、関係は途切れなかった。平均すると月に二回くらいのペースで俺らは会っていたように思う。お互いに高校では部活が、大学ではアルバイトが忙しかったが、合間を縫うように俺たちは遊んだ。

 遊び方のバリエーションは片手で数えるほどしかなかった。ジョーの部屋で漫画を読んだり音楽を聴くか、カラオケに行くかか、もしくは買い物に行くか。そんなところだ。大学生になってからは居酒屋かバーに飲みに行くことがほとんどになった。


 いつだって金がなく、それでいて時間は排水溝につまった髪の毛くらい余っていた。

 ある夏の日に、ジョーの部屋で何度も繰り返し読んだ名探偵コナンのページをぺらぺらとめくっていた。いい加減飽きると、二人で街に出てみた。

 俺らはあてもなく歩いた。夕飯の買い物をする主婦や、部活帰りの学生が街を右往左往していた。じりじりと焼ける炎天下の中で将棋を指す老人の群れを通り過ぎて、大きな川の堤防へと辿り着いた。


 堤防に登ると、土手滑りをしている家族が何組か見えた。堤防の上に敷かれた道路から土手を下り、河川敷の原っぱに立った。

「幼稚園で土手滑りにきたのを思い出す」俺は言った。

「俺はこなかったな」ジョーは言った。「中学で毎年ハイキングにきたことを思い出すよ」

 原っぱの向こうの川べりあたりに木々が生い茂っているのが見えた。青みがかった深緑をしていて、猫の額ほどの小さな森だった。森は東山魁夷ひがしやまかいりの絵画みたいに静謐な空気を纏っていて、ある種の幻のようだった。


 俺たちは森に入った。大きな川から枝分かれしてできた、か細く弱々しい分流が森の中を流れていて、長い間人々に忘れられているような、ささやかな木の橋がその上に架かっていた。

 橋の木はからからに乾ききり、ところどころがひび割れ、ぱっとしない茶色をしていた。なぜこんなところに橋が架かっているのだろうと疑問に思いながら、俺たちは橋を渡って青々とした森の奥に進んでいった。

 外から見るよりも木々の背丈は高く、鬱蒼と茂っていた。熱気が身体にまとわりついて離れない一日だったが、森の中は冷やりとしていて、火照った身体を冷ましてくれた。日の光が届かない場所だった。


 俺たちは森の中でしゃがみこんだ。

「川に入りたいな」ジョーは川に向かって石を投げた。

「汚いぞ」俺は目を細めた。「川が綺麗だったらな」

「綺麗な川なんてあるのか?」

 森の中から大きな川の流れを眺めた。水面は穏やかで、本当に川の水は流れているのか、それとも留まっているだけなのかよくわからなかった。

 泥が溶けだしたように川の水は茶色がかって濁っていた。ルアーフィッシングをしている男が見えたが、どう見ても釣果はいまいちだった。


 俺たちは長く無言で過ごした。やがて日が暮れ始めた。木々の隙間から見える彼方の空が赤く燃え、次第に青みを帯びていった。俺はわけもなく悲しくなった。ジョーが一緒にいてくれてよかったと思った。

「こうしていると思い出すよ」ジョーは暮れゆく街を眺めてつぶやいた。「中学のとき、お前がいつも一緒にいてくれたことを」


 しばらく経ってからジョーも内定を獲得した。この街の会社だった。

「小さな会社だし将来性はない。給料も安いし、おまけに肉体労働だ」と、いかにも不満足そうに、自嘲気味に語った。

 それでも俺はほっとした。

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