第9話 春を行く

 水が引くまでの悠久とも思える時間を、フェリシアとオパールは崩れた城壁の上で身を寄せ合った。ただひたすら耐えていた。暗闇に圧倒的な土の臭気が立ち昇る。そこに雪が沁み込み、泥と石と流木にまみれた街をあっという間に凍り付かせた。

 夜半ごろにようやく水量が落ち着き、様子を見に来た衛兵に発見された。保護された二人は寒さに凍えながら高台の野営地に入ることができた。

 無事を確認したノアは泣き崩れたが、マグノリアが濁流に消えたことを聞くと声を失って天幕から外に出ていった。

 もう一人、マグノリアの行方を聞いて声もなく崩れたのはシリウスだった。用意された小さな天幕で、話を聞くなり項垂れて人払いをした。フェリシアが天幕から出ると絶叫が響いて、シギとカラスが彼を押さえつけるような音が聞こえた。

 人々は火を絶やさぬように細々と薪をくべ、山の斜面の高いところに点々と明かりが並んだ。いくつかの場所に散った街の住民たちの、息を潜めた灯りにフェリシアは白い息を吹きかける。


「まるで星空だ」


 灯りが消えるわけは無かったが、これからあれら全てを養っていくことを考えるとため息しか出てこなかった。

 夜が明け、数人とともに街に戻ると、予想以上の光景が待ち構えていた。

 崩れた城壁を見上げる。石畳には分厚く土砂が堆積し、なぎ倒された家々には流木と岩が引っかかって異様な影を作り出す。そこに雪が白く淡い色付けをして、踏み出すたびにサクサクと軽い音を立てて崩れた。


「これは、申し訳ないけど、一から作り直した方が早そう」


 泣き崩れる者すらいる中で、思わず零れ落ちた呟きは幸いにも風に飛ばされていった。

 この冬をどう乗り越えるか、今はそれを考えるしかない。領都のほぼ全ての民が家を失い、最低限の家財しか持たぬ状態では、下手をすれば明日にでも死者が出かねない。

 フェリシアは踵を返して野営地へ戻る。悲嘆に暮れている暇はない。無事な人を動かして、どうにか今日を過ごせる場所を確保しなければならなかった。

 半月ほどで天幕頼みの生活から、いくつか掘っ立て小屋が立ち並ぶようになっていた。一軒を執務と寝起きに使い、折れた肋骨にひいひい言いながらもノアは住民たちの嘆願を聞いては采配をしていた。

 住民たちのうち、他の場所に伝手がある者は早々に出ていった。他に移る当てのない者だけが必死に自分たちの居場所を確保して、少ない山の実りをかじかむ手で採ってくる。

 街では土砂を取り除いて岩を退かし、流木を片付けて更地にする段取りが進んでいた。掘り起こした中から使える建材を選び出して川の水で洗う。冷たい水に歯を食いしばり、大人も子供も作業する手を止めようとはしない。目の前の仕事を必死で行うことで、気持ちが暗がりに囚われないよう抗っていた。

 未だフェリシアを責める声はあったが、大方の住民たちは納得していた。というよりも納得せざるを得なかった。

 避難していなければ、あの土石流に巻き込まれていたと脅されれば、誰も彼女のことを一辺倒に非難はできない。それでも忌々しそうな目でじっとりと睨む人は少なくない。嫌な視線を感じながら、フェリシアはひたすら目の前の仕事に精を出していた。

 そこへ誰かが呼びに来る。慌てた様子で、しかしどこか嬉しそうな顔をしていた。


「お嬢様! 都からの使者がこっちへ向かってるそうですよ!」


 泥だらけのまま掘っ立て小屋に戻ると、見事な仕立ての馬車が今にも坂道を登ってくるところだった。


「ようやくお迎えが来たのね」

「そのようだ。……あまり帰りたくないな」

「無理言わないで」

「ごめん……」


 馬車も馬も流されて都へ帰る術を失ったシリウスは、どさくさ紛れにしばらく領民に混ざって働いていた。しばらくは掘っ立て小屋から出てこなかったが、数日経つとようやく出てきて、慣れないながらも片付けを手伝うようになった。彼なりに、何か思うところがあったとみえる。

 金髪碧眼の線の細い少年に最初は周囲もおどおど接していたが、次第に慣れて今では同じ年頃の少年たちと群れている。慣れるにもほどがあると、ノアなどは顔を青くしていたが、カラスもシギもついているのでフェリシアは放っておいた。

 それも今日で終わりのようだ。

 だが迎えの馬車が到着するというのに、シリウスはほとんど何の身支度もしていない。泥のついた顔のままで鍬を片手にのんびりと構えていた。

 ところが御者が扉を開けるなり、不服そうに顔を歪める。


「ジジイ……」


 馬車の中から姿を現したのは、白い髭を蓄えた大柄な老人だった。


「ジジイって」

「私の祖父、といえば分かるか」

「……ひぃ」


 膝を付こうとしたフェリシアを、その老人は大きな手で立たせた。指を一本口に当てて、しーっと目配せをする。

 小さく頷いたが、フェリシアの背中には嫌な汗が噴き出していた。


「内緒じゃよ、内緒。そなたがノアの養女じゃな?」


 安楽椅子の老人というより、老獪な武将のように見える。その人は名乗らないまま、フェリシアの赤い髪と傷のある顔を見止め、目を細めて笑った。


「はい。フェリシア・グローと申します」

「なるほど、聞きしに勝るよい顔つきじゃ。随分と孫が世話になったようだな、礼を言うよ」


 老人はゆっくりと周囲を見渡し、疲労困憊した民の姿に難しい顔をした。

 場所を移し、今度はノアがぶっ倒れそうになったのをフェリシアが支え、一服の白湯が振舞われた。砂糖もヤギの乳もない、それどころかお茶ですらない。それでも老人は温かい一杯をひとしきり楽しんでいた。


「あの」


 なんと呼べばいいのかも分からず、フェリシアはおずおずと目の前の老人に声をかける。その人はやはり名乗りもせず、穏やかに笑っているだけだった。

 なんとも欲にまみれた婚姻を計画したのが目の前の人物だと頭では分かっていても、いざ目の前にしてみると思っていたのとは様子が違った。フェリシアの問いかけには、好々爺然として終始応じる。


「なにかな」

「その、どうしてこちらに? わざわざシリウス……殿下のお迎え、ですか?」


 皇子一人の迎えぐらいならば彼の侍従が来れば済む話だ。間違っても皇帝本人が来るような仕事ではない。ノアと顔を見合わせる。

 もしや今のグローライトの惨状を見て、何か罰が下されるのかと身構えた。領地を適切に管理できていない責めを受けるのかと、あるいはその場で処断されてもおかしくはない。

 だが素早くシリウスが口を開いた。


「ジジイはさぼりが好きだからな。宰相殿に仕事を押し付けるいい口実だと思ったんだろ」

「ま、当たらずとも遠からずじゃ。さすが我が孫」


 にいっと悪戯小僧のように笑う老人に、シリウスはフンと鼻を鳴らした。

 そんなやり取りから、すっと顔をフェリシアの方へ戻し、老人は真面目な面持ちになった。


「此度の災難、誠に不幸であった。近隣の天領には救援を出すように、道中ですでに指示を出してある。あと数日もすれば援助物資が到着するであろう。それまで何としても持ちこたえよ」


 力強い言葉に、ノアとフェリシアは頭を下げて礼を述べた。

 これから冬を迎えるにあたって、当面の問題は物資だった。何よりも食べ物が足りていない。それが他領から持ち込まれるのは何ともありがたい話だった。

 だがフェリシアは顔を上げてまっすぐに老人を見つめる。


「恐れながら、救援物資以外に援助をお願いしてもよろしいでしょうか」


 ノアが隣から「こら」と膝を叩く。それをフェリシアは平然と無視を決め込んだ。それどころか老獪なその人に向かって、挑みかかるように顔を見つめる。


「なに、言うだけなら只じゃ。何が欲しいか申してみよ」


 シリウスと同じ薄氷のような瞳が面白そうに笑う。だが少年と違うのは、薄氷の奥に何かが底知れぬ物があることだ。

 恐れをなして逃げるのは容易いが、フェリシアは震える喉を無理にでも押さえつけて言葉を絞り出した。


「街を再建する資金をいくらか用立ててはいただけないでしょうか」

「ふむ。よもや、只とは言うまいな」

「燃石の採掘権の半分でいかがでしょうか。炭鉱夫の住居や採掘後の処理、運搬など、燃石の採掘に適した街に作り替えます。そのための資金を援助していただけませんか」


 その言葉は土砂に埋もれた街を見た瞬間から、ずっと彼女頭の片隅で渦巻いていたものだった。

 ただ、伝える相手が現れるのはまさに予想外で、腹を括る暇なく勢いで吐き出す。ノアはびっくりした様子で、フェリシアの真摯な横顔を見ていた。

 一方でシリウスは顔を明らかにしかめた。が、しかめるだけで何も言わない。

 大の化学産業嫌いである孫が反論せずに大人しくしている様子を、老人は興味深そうに眺めた。しばし間があって、フェリシアの方に視線を戻と、老人はいじわるそうに右の口の端を持ち上げた。


「半分とは大きく出たが、大丈夫かな?」

「私が嫁せば、いくら持っていかれようと同じことです。いずれ全て取り返します」


 ノアが口をぽっかりと開ける。

 老人も目を丸くして一瞬固まったが、フェリシアの肩が少し震えているのを見て呵々と笑った。


「わしも気に入ったぞ、この娘。よかろう。望みのままくれてやる!」


 ひとしきり笑うと老人は懐から手紙を一つ取り出した。差し出された手紙を、フェリシアは整えた両手で受け取る。黄ばんだその紙は、皇帝が使うには品質が悪い。蝋封も何もなかった。


「これは?」

「なに、見れば分かる」


 思い当たる節も無く、首を傾げながら開けた。

 中から出てきた手紙も、やはりさほど質の良い紙ではなく、粗い木屑の引っかかりがあった。だがそこには、紙の品質におよそ似つかわしくない優美な文字が連なっていた。


『都にて再び会えることを楽しみにお待ち申し上げる。 ラァ・エル・マグノリア』


 言葉を失くしてフェリシアが文面と対していると、声を上げて笑う老人に背を叩かれた。


「ここへ来る途中の下流の街で、珍しい銀の髪の乙女が傷だらけで流されてきて、療養しているという話を聞いてな。思い当たる節も過分にあったことだし、立ち寄ったら案の定生きておったわ」

「マグノリア様が、ご無事なんですか……?」

「しっかり首と胴が繋がっておったぞ。そろそろアーミラリィに着く頃であろうよ」


 見開いた目から音もなく涙が零れ落ちる。訳も分からずフェリシアは自分の涙を掬っては不思議に眺めた。

 その横で血相を変えたシリウスが、彼女の手から手紙をもぎ取る。食い入るように読んで、同様に彼もまた目に涙を浮かべていた。

 二人して顔を見合わせて破顔すると、さらに涙がこぼれる。笑いながら泣く二人に、老人はあきれ顔でため息をついた。


「あれが殺して死ぬようなタマであれば、この国はとうの昔に滅んでいるだろうな」


 老人はその日のうちにシリウスを連れて帰っていった。

 入れ替わるように食料と物資が届き始める。人々は次第に活気を取り戻し、冬の間はか細い山の恵みと都から届く支援物資でどうにか食い繋いだ。そうしてなぜだか、感謝の言葉をフェリシアに言う。人々の強かで無遠慮な様を、彼女は苦笑いして少し遠巻きに眺めていた。

 春になり、新しい街づくりが始まり、ひと夏を超える頃には山に飲まれた元の街の面影は消えていった。春の間に峰のボンの木を刈り取り、次の秋にはいつも通りの長雨に戻った。元に戻った部分と、急激に姿を変えた部分と、フェリシアはただ黙って責務を果たしながら変化を見つめ続けた。

 二度目の冬、真新しい暖炉に太い薪を入れながら、フェリシアはぼろぼろになった手紙を開く。一字一句覚えているほど読み返したそれを、もう一度開く。粗っぽい紙の向こう側で木が爆ぜた。


「もうそろそろ、行ってもいいかな」


 街には炭鉱夫たちが集まり始め、活気というよりも喧噪に近い。新しく拓かれた炭鉱に引き寄せられるように、様々な人がグローライトに集まってきていた。

 方や、オパールは里帰りをしたままグロー領には戻ってこなかった。夫が爵位の無いまま未亡人になった彼女の行方をフェリシアは知らない。インデラ領宛てに出した手紙はついぞ返事が無かった。

 周囲にいる人間が様変わりし、フェリシアの生活もどんどん変わっていく。

 それでも忘れられないのはあの白い人だった。

 雪が薄くなり、空気が温んだころ、フェリシアは新しくなった門のところに立っていた。大きな旅行鞄を使用人から受け取り、羽のついた帽子をまだ冷たい風に取られないよう手で押さえる。

 他領へ商売に向かう荷馬車がのんびりと待っていて、見送りに来た人の山を遠巻きにしていた。


「すまないフェリシア。伯爵家の娘なのに馬車の一つも準備できないなんて、本当に情けないよ」

「私の馬車なぞより、燃石を運ぶ荷馬車を一台でも多く買えばよいのです。気になさらないでください」


 終始肩を落とし続けるノアにフェリシアは苦笑する。養父のことをお願いするように、背後に集まる使用人たちに目配せをした。使用人たちは心得たとばかりに、頷いて見せたので安心して馬車の荷台に乗り込む。一回り大きく作り直した新しい城門が見えなくなるまで手を振り続けた。

 ひと段落すると例の手紙を取り出してまた文面を指でなぞる。流れる優美な文字はフェリシアを見知らぬ土地へ誘う道しるべだ。

 振り返り、遠ざかる青い山並みに一礼した。


「ありがとうございます、行ってまいります」


 返事はない。

 静かな道行きに安堵して、荷台の壁に背を預けた。目を閉じると見たこともない都の光景が瞼の裏に浮かんできて、ひとりでに頬が緩む。

 こうして生贄だった娘は外へと飛び出した。

 それはある晴れた春の日のことだった。

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近代精霊奇譚 鳴海てんこ @tenco_narumi

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