第8話 勇気がなくとも

 物々しい雰囲気で目覚めたフェリシアは、窓の外の眩しさに思わず目を細めた。

 一面に積もった白銀に光が反射する。昨日ちらついた雪は一度止んだものの、夜半から今度はもう少し真面目に降ったようだ。朝の光に溶け始める程度の深さしかないが、冷え込みはさすがに厳しくなっていた。

 この寒さにも負けず、シリウスは出て行ったのだろう。


「風邪などひかれませぬよう」


 誰にも聞かれないようにこっそりと祈りを窓の外へと逃がす。

 何も知らない振りをしてノアに呼ばれて執務室へ行くと、酷く狼狽したカラスとシギがいた。シリウスが居なくなったことだろうと思っていたフェリシアは、マグノリアまで姿が見えないと聞いて口も目も丸くした。


「朝起きたら、殿下とマグノリアの書の姿が無くなっていたんです」

「しかもマグノリアの書の寝室には何かが這いずり回ったような跡があって。とにかく様子を見ていただけませんか」


 二人に付いて南東の棟へ急ぐと、確かにマグノリアの寝起きしていた部屋には長いものが這いずった跡が無数についていた。痕跡の幅は大人一抱えほどもある。それが床だけではなく、壁から天井から全ての面という面に付いていた。


「これは、蛇の這った跡……?」


 少し青臭い臭気も残っていて、なぎ倒されたり押し潰されたりした家具に爪痕などの痕跡はない。

 続いてシリウスが使っていた寝間も覗いたが、こちらは整っていて何の痕跡も無かった。きっちりと荷物が無くなっていて、明らかに彼の意思で出ていったことが見て取れる。


「いったい、どこへ行かれたのだ!」


 ノアは頭を抱えて荒れ果てた部屋を歩き回る。事前に話を聞いていたフェリシアは、シリウスの行方は見当がついた。しかしマグノリアの行方は皆目見当がつかず、部屋の入口で立ち尽くした。

 荒れた部屋、口縄の跡、青臭い匂い。不思議と既視感を覚え、そんなことはないと頭を横に振る。


「殿下は隣国に亡命なさると、昨日聞きしました」

「何だって⁉」

「お止めしましたが、黙っているように言われて……それで、その」


 偽りはないが胸が痛む。ノアはすぐさま衛兵に国境の関へ確認に向かわせた。

 その衛兵たちが戻ってきたのが昼前のこと。ところが昨日今日で関を越えた者はいないという。


「どういうことだ? 殿下は本当に亡命されると言ったのか?」

「そなたもどうかと誘われたのでお断りしました。でも、どうしてマグノリア様まで……」

「そうだ、マグノリア殿が殿下の亡命を許すはずなどない。それにあの蛇の足跡も奇怪すぎる」


 関を騙して通る以外に国境を超えるには、山を越えるしかない。ソレルの峰は一日で越えられるほどの高さしかないが、人が登りやすい場所は限られている。その最たる場所に街道を敷いて関を設けた訳で、それ以外の場所は融けかけているとはいえ今日は雪だ。足元がぬかるんで踏破は難しい。

 しかも都育ちの皇子ともなれば、登れる場所などたかが知れている。手の空いている者は総出で山へ向かい、峰へと至る道を手あたり次第捜索するようにノアは指示を飛ばした。

 フェリシアはそのやり取りを悄然と眺めている。頭の中には、早く国境を越えて向こう側へ去ってくれという気持ちと、マグノリアをどうやって連れて行ったのかという謎が残った。

 だがあのシリウスが二度も念押しするほど、マグノリアは譲らないと言ったのだ。マグノリアの価値が分かっていれば、手放すはずがない。なによりも皇子のシリウスが御物であるマグノリアを連れ去ることは、皇帝の対面に傷を付ける意義も大きい。


「あなたはどんな手を使ってでも、おじい様に一泡吹かせたいのね。やり方はともかく、勇気だけは称賛してするわ」


 フェリシアは誰もいない執務室で一人地図と睨めっこしながら、彼らの辿った道を想像しようとした。

 捜索隊はまずは先日山を登った際に使ったルートを探すだろう。関のある街道沿い以外では、あそこが一番登りやすい。しかしそれでは真っ先に見つかるのはシリウスも分かっているはずなので他のルートを選ぶはずだ。

 何らかの方法でマグノリアを連れ、しかも小柄なシリウスを連れ、そんな一行の山越えを先導する。そんな難しいことをしたがる者など想像できない。


「そうよ、こんな訳ありご一行を誰が道案内するっていうの?」


 山の向こうにすぐ街があるわけでもないのだ。まかり間違えば自分の命も危うい山の案内なんて、いくら金を詰まれたって誰もやりたがらないだろう。

 と、大勢の足音と言い争う声が、ばたばたと執務室へ向かってくるのが聞こえて顔を上げた。もしや見つかったのかと席を立つ。

 ところが、バンと音を立てて執務室に転がり込んできたのは、あの老婆の精霊師セロンを筆頭に数人の精霊師たちだった。


「貴様のせいだ! 貴様が生贄にならなかったせいで、また山から災いが降りて来よる!」


 唾を飛ばしながら魔よけの杉の葉の飾りでフェリシアを叩きにかかる。他の老人たちも皆一様に飾りを持ってフェリシアに襲い掛かった。


「何するの、やめて!」


 手で払いながら、老婆たちを止めようと入ってきた衛兵に助けを求める。騒ぎを聞きつけて戻ってきたノアの陰に隠れて、杉の葉で叩かれた頬を拭った。


「いったい今度は何の騒ぎだ!」


 てんやわんやの大騒ぎに、ノアも折れた肋骨の痛みを忘れて騒動の中心にいる老婆に詰め寄った。


「その娘が生贄にならなかったから、蛇神様がお怒りになったんじゃ!」

「雨は止んだ、しかも生贄は関係なかったんだぞ?」


 ノアの言葉は彼らの耳には届いても納得させることはできない。喧々囂々けんけんごうごう非難するだけの口がやかましく騒ぎ立て、いったい誰が何を言わんとしているのかさっぱり分からなかった。

 そこへ駆け込んできた衛兵が大声を出す。


「申し上げます! 山腹に先日の崖崩れできたと思われる巨大な堰止湖が発見されました! あれはいつ壊れてもおかしくありません、至急避難を!」


 堰止湖と聞いて、その場にいた全員が言葉を失った。

 川の水が増えれば誰もが警戒をするが、減る方が問題視されることはあまりない。だが、堰止湖なら話は別だ。

 一時的に川の水かさは減るものの、決壊したら下流には山津波が押し寄せる。ただの増水やがけ崩れを遥かに上回る災害になる。

 雨が上がったお祭り騒ぎのうえに、崩れた屋敷の片づけ手伝い、急なボンの摘み取り作業などで、街中が総出で仕事をしていた。誰も雨の止んだ山を気にしていなかった。いつも山を見ているはずの精霊師たちでさえ、雨上がりの短い時間を使って冬支度をしていた。

 結果見過ごされてきた堰止湖は、決壊すれば街など簡単に飲み込まれる大きさにまでなっていた。


「ほれみたことか、これは蛇神様の怒りじゃ! その娘が生贄にならんかったから、罰が当たったんじゃ、もうこの街はおしまいだよ!」


 セロンのしわがれた叫び声が、フェリシアの胸に死の宣告を突き付ける。

 その瞬間、仲間の老精霊師たちはもちろん、報告に駆け込んできた衛兵も、さらにノアまでもがフェリシアを見た。

 何の罪もない彼女に、ほんの一瞬だけ全ての人の視線が集まる。


「――ッ!」


 恐怖で声が出なかった。

 何か反論をと口を開いてみても、集まった人々の視線を跳ね返す言葉が欠片も出て来ない。たとえ責める意味ではなかったとしても、その瞬間に全ての人から向けられた目という目が恐ろしくてフェリシアは逃げた。

 風のように廊下伝いに走り、周囲の目も追いかける声も振り切って部屋に立てこもる。古い姿見で扉を押さえつけた。

 ひと段落すると腹の底に酷い怒りがあることを知って、フェリシアは自嘲気味に笑った。


「どう足掻いたって、こうなるんじゃない」


 セロン達の言は傍から見れば突拍子もない言いがかりだった。それに乗っかって覗き込む人も、咄嗟に言い返せない自分にも腹が立ってくる。

 おっつけノアが来たが、毛布にくるまって全ての人が諦めて去るのをひたすら待った。

 窓の外には堰止湖の噂を聞きつけて、街の人々が屋敷の門前に詰めかけている。閉じた窓の外で声は聞こえなかったが、どうしたら助かるのかと口々に言い合っている様が手に取るように分かった。

 あれらのほとんどが無意識に自分を虐げていた者たちだと思うと、自分の代わりに土石流の一撫でが全てを薙ぎ払ってくれる方がいっそ胸がすっとする気がした。悪い考えにもほどがあるが、それでもフェリシアは涙ぐみながらにっこり笑う。


「私の代わりに誰かがやってくれるなら、勇気なんて無くても十分だわ」


 おおざっぱに片付けられた部屋は、オパールに家探しされた時に散らかしたものがいまだに壁際に積み上げられている。ベッドの上にうつぶせになり、手近なところに積んであった本を上から一冊取った。


「やっぱり最初に戻っちゃったね」


 窓の外に逃がした小さな飛び蜘蛛が、また窓の桟にくっついていた。


「そのうち濁流がくるけど、それまで何しようか?」


 ぱらりと開いた本は随分と昔に読んで、ベッドの下の奥の方に隠した本だった。炎の精霊が描かれた赤い表紙が印象的な、精霊の本だ。表紙に見覚えがあるので間違いなくフェリシアの蔵書ではあったが、果たして内容は思い出せなくて首を傾げる。

 厚手の革の表紙をめくると分厚い赤紫色の見返しの紙がある。丁寧な装丁の見返しをめくった裏側、扉の反対側に珍しく印刷があった。

 詩のような短い文だ。書かれた文字をなぞりながら文を読み解く。


「勇敢でなくとも、考えることはできる……?」


 紙面に近づけていた顔を上げて眉をひそめた。寝そべっていた体を起こし、得心のいかない顔のままページをめくる。そこには精霊が群れの中でどのような行動をするのかという、丁寧な観察記録が記されていた。


「ちょっと、この著者って」


 流し見た勢いであとがきのページを探した。そこには約五十年前発行の日付とノーラ・ヘクスタットという名前があった。

 そして締めに一言。


『人間と精霊だけが、想像力を持っている生き物なのです』


 慌てて閉じた本をぐるりと回転させて装丁を確かめる。さほど分厚くないわりにしっかり綴じられた本で、革張りの表紙の四隅に飾り鋲が打ってある。金のかかり方が尋常ではない。ノーラという名にはもちろん聞き覚えがあった。

 五十年前にただの女性が、こんな博物学に足を踏み込んだ書籍を出版できるわけがない。現代ですら女性が学会に入り込むことは容易ではないとノアは言っていた。

 加えてヘクスタットとは天体を観測する六分儀のことを指した。


「六って……ほとんど名前そのままじゃないですか」


 膝を抱えて笑うしかない。

 今ここに姿のない彼女が、言葉の手を差し伸べる。たおやかな手を取るにはいささか踏ん切りがつかず、フェリシアは二の足を踏んだ。かといって彼女の文章が引っかかって飲み下せず、棄て去ることができない。

 白い雪はただ日陰に残るだけになったが、気泡だらけの薄いガラスの向こう側には見た目にも冷たい風が吹いていた。フェリシアは窓ガラスに息を吹きかけて、曇ったところになだれ込む土石流の幻想を指で描いた。

 街には高い建物はなく、一番背が高い城壁よりもバタイモ畑の方が高い位置にあるぐらいだ。堰止湖の場所と、土砂がなだれ込む谷の位置を頭の中で何度も思い描く。飲み込まれる場所と残る場所、その光景がすっかり頭の中で描き上がったとき、フェリシアは悲しい笑顔で穏やかに肩を落とした。


「想像力なんてものは、実にくそったれですよ。でも私にはこれしかないんだ」


 本を脇に置く。小さな飛び蜘蛛がびっくりしてぴょんと跳ねたので、両手で捕まえて窓から出してやった。

 扉を抑えていた姿見を退かして扉を開けた。扉の脇には若い女中が一人壁に寄りかかっていて、出てきたフェリシアにびっくりして壁から身を起こす。


「ごめん、みんなを集めて」

「あ、あの、お嬢様?」

「衛兵と街の顔役と、あと精霊師も全部。お願いね」


 困惑する女中を置き去りに、フェリシアは再び走り始めた。

 飛び込んだノアの執務室で、大きな机に地図に飛びついた。


「フェリシア!」

「叔父様、今から民に被害を出さずにどうにかする方法をお伝えします。堰止湖の正確な位置を教えてください」


 速やかに堰止湖の出来ている場所に印が入れられる。決壊した際にどの範囲に土砂が流れ込むのか、おおよその場所が書き記させた。

 その間に部屋に集められたのは、都市の守備隊長、街の各地区の長、それから精霊師の幾人か。いずれも表情は暗く、そのうちの何人かはフェリシアのことをあからさまに睨んでいる。

 彼らを前にしてフェリシアは深呼吸を一つして、口を開いた。


「堰止湖を今日の日の入りと同時に決壊させます」


 部屋が騒然となった。

 ノアは肋骨の痛みが激しいのか額にうっすらと脂汗をかいている。その顔がフェリシアの言葉を聞くなり、青いのを通り越して真っ白になった。

 地区の代表者はいずれも声を荒げて小さな彼女に迫る。中には『生贄が』とか『蛇の呪いが』などという言葉も混じっていたが、フェリシアはそれをじっとこらえて全員が落ち着くのを待った。


「フェリシア、一体何を急に言い出すのかと思えば」

「先に全員を安全なところに避難させておいて、それから壊すんです。いつ起こるか分からない山津波より、自分たちの都合に合わせた方がよっぽど対策は講じやすいでしょ?」


 守備隊長に目配せをして、安全な高台の位置を書き込むように指示する。さらに肩で息するほど怒っていた地区の代表者に、避難の段取りをお願いする、と頭を下げた。


「誰も殺さないためにはこの方法しかないの。でもことは一刻を争う、分かってほしい」


 喧騒から一転、沈んだ部屋の中で鼻をすする音が幾重にも重なる。いい年をした大人たちが目頭を押さえていた。すぐに回答が出るとは思っていないフェリシアは、地図上に目を戻して堰止湖の最下流の部分を気にする。


「この、崩れた部分の差し渡しはどれぐらいですか」

「差し渡し十メートルほど。幅はさほど大きくはありません、湖が細長いのです」

「分かりました、ありがとう」


 腕組みをしているフェリシアの横で、守備隊長が眉間にしわを寄せながら手を挙げた。


「恐れながら、理屈は分かりましたが誰が崩すのですか。我々兵士に死ねと、お嬢様はおっしゃるのですか」


 堰止湖を壊すと、口で言うのは簡単なことだ。子供の砂遊び程度ならばちょんと突いてやればいい。

 だが実際に幅十メートルの崖を崩して意図的に鉄砲水を発生させるのは、一瞬にしてとんでもない量の水がとてつもない勢いで溢れ出させることになる。そんな場所で生身の人間が作業をすれば、当然人死にが出る。

 死ねと言われれば死ぬのが兵士の役目だと教わっていても、そう簡単には腹は括れないだろう。納得できない様子でいる守備隊長に、フェリシアは首をはっきりと横に振った。


「いいえ。それを蛇神様にお願いしに行きます」


 その言葉を聞いて次に殺気立ったのは、やはり精霊師たちだった。

 蛇神様をなんと心得るのかと、不信心だとか、あらん限りの罵倒が飛んでくる。特に元締めのセロンは白く濁った眼が飛び出るほど前のめりに、声を頼りにフェリシアに詰め寄った。


「貴様がしっかり生贄を果たさなかったことが、元はといえば原因であろうに、本分をわきまえよ、生贄の分際で調子に乗るでない!」


 相変わらずの魔よけの杉の葉の飾りをフェリシアの顔に何度も叩きつけ、セロンは唾を飛ばす。だがフェリシアは隠れなかった。もはやノアの後ろにもマグノリアの影にも逃げない。

 叩きつける飾りを自らの手で振り払った。


「この堰止湖はユキワリのがけ崩れでできたもので、蛇神様は関係ない。いい加減、生贄だの呪いだのという話から離れて」


 咄嗟に答えた自分の言葉にフェリシア自身、息を飲んだ。睨み合うセロンとしばらく無言のやり取りをする。

 もし、蛇神の協力が取り付けられなければ、フェリシアの作戦は詰む。爆薬を仕掛けて吹き飛ばすことも考えたが、先の崖崩れで武器庫が埋まってしまい、ほとんどの火薬は濡れて使い物にならなくなっていた。

 フェリシアの予想に反して蛇神が協力を拒めば、もう彼女の居場所はどこにもなくなる。


「安心して、もし対価を求められたらその時こそ私が食われてやるから。その代わり、そうなったときには叔父様に若くていい嫁を紹介すること。あなたたちなら出来るでしょ?」


 「おおい」とノアが情けない声を上げたが、それよりもセロンの野太い笑い声が部屋に鳴り響いた。耳まで裂けそうな口に数えるほどしか残っていない歯が見えた。

 ひとしきり笑うと、魔女のような老婆は「よかろう」と席に腰を落ち着けた。


「で、蛇神様にどうやって会うんだ。山に登っていては今日の夕刻には間に合わんぞ」


 あの案内人もノアに呼ばれたのか壁際に寄りかかっていて、この時初めて存在感をあらわした。

 暖炉には火が入るほど気温が低くなっている。雨と同じかそれ以上に、雪の山はたちが悪い。冷え込みの厳しくなった今日あたり、山頂付近はどうなっているのか想像もつかない。

 だがフェリシアは、もちろんそれについても答えを用意していた。


「おそらく蛇神様は、どこかの坑道の先に、さらに穴を掘っているはずです」


 セロンを睨みつけながら、続ける言葉に淀みは一切ない。


「だから教えて、先の戦争の時に軍隊が掘った穴の中で、隣国に一番近いところへ通じているのはどこ? あなたたち精霊師なら坑道の位置も長さも、どこへ通じているのかもほとんど知っているのでしょう?」


 山頂へ至る道程で通った坑道にはいくつもの分かれ道があった。その中を地図も無しに、迷いなく案内人は歩を進めていた。彼ら精霊師の頭の中には、山の地図が入っている。書庫を漁れば戦時中に掘った坑道の記録もあるかもしれないが、今それらを探す時間はなかった。

 セロンはしばらく黙していたが、部屋中からの圧に耐えかねて大きく息を落とす。


「ガキどもが遊びに入って帰ってこないって話は本当だからね。生き埋めになっても助けはないと思いな」


 目の見えている他の精霊師を顎で使って、地図のある一点を指し示した。

 坑道はセロンの住まいである小屋からさほど遠くない崖下にあった。間口は以前通った坑道よりも数倍広く取られ、床面の土が付き固められて歩きやすくなっている。


「本気で山の向こう側に、兵隊をいっぱい送ろうとしたのねぇ」


 坑道の入り口には巨大なブナの木が立ち塞がっていた。太さが大人の背丈ほどもあり、瘤のある根元は五つに分かれている。おかげで遠目からは、そこに坑道があるとは分からないようになっていて、確かに子供が隠れて遊びたがる光景が目に浮かんだ。

 フェリシアに付いてきたのは案内人と、カラスとシギだ。ノアには避難の全般を任せている。


「マグノリア様は恐らくこの奥に居ます」


 入口に立つと、外気よりも微かに温かな風が奥から流れてきて、フェリシアの赤い前髪を揺らした。


「外は雪、さすがに蛇の化身だからこの気温では上手く動けないと思うんです。でも蛇神様は山に不慣れな素人を連れて国境を越えなければならない。沢沿いに人間を連れては上がれないし、となると温かい地中ぐらいしか通る場所はありません。幸いにも蛇は穴を掘るのも得意らしいですし」


 すぐ後ろに付いてくる案内人を伺ったが、反応は無かった。

 カラスとシギは避難に関する采配をしている間も、二人だけで方々を飛び回ってシリウスとマグノリアの姿を探していたが手掛かりはほとんど見つけられていなかった。

 唯一、街の宿屋に都から来た糸目の男が宿泊していたことを知り、シリウスの同伴者が居たことを掴んだぐらいだ。どうやらその同伴者も、一緒に亡命したいと考えている貴族の令息の一人らしい。


「しかしどうしてあの蛇の精霊が、殿下とマグノリアの書を連れているとお考えなのですか?」


 カラスがカンテラをかざしながら先頭を注意深く歩いていく。足元は乾いていたが、生き物の臭気がうっすらと感じられた。

 フェリシアにはその青臭い匂いに覚えがあった。蛇の臭いだ。


「マグノリア様の部屋に一面に残っていた跡は間違いなく蛇です。しかもあの大きさはただの蛇じゃない」

「それは確かにその通りでしょうけれど……」

「おそらく利害が一致したんです」


 フェリシアも手に持つカンテラを少し持ち上げ壁の様子を伺った。広く照らされた壁にはノミを入れた跡が続く。ここが人の手によって掘られた場所である証だ。

 外よりも空気は明らかに温く、野外では見かけなくなった羽虫がカンテラ目掛けて体当たりをしてきた。


「蛇神様はたぶん私を助けるつもりなんだと思います。私が領の外に出るのを臆したから、外に連れ出そうとするマグノリア様を敵だと勘違いしたんですね。それでマグノリア様を連れて亡命したかった殿下に話を持ち掛けた……順序は分からないけどおそらくそんな感じ」

「なぜ蛇神様が自分を助けると思うんだ?」


 フェリシアの後ろを歩いていた案内人がふいに言葉を発した。あまり口数の多い男ではなかったが、初めてフェリシアに対して興味が湧いたのかまじまじと傷のある顔を見る。

 逃げ場のない視線から顔を逸らし、フェリシアは今度はカンテラで足元を照らした。


「表現が合っているか分かりませんけど三歳で生贄に失敗したとき、私は蛇神様に取り憑かれたんです、たぶん」

「自分に蛇神様の気配が付いていることは知っていたのか」

「いえ、知りませんでした。……ただ、マグノリア様に雨の匂いがするって言われたし、あと蛇神様は私のことをبڪوٽوって呼んでました。あれって『かわいい』とか『子供』って意味だと思うんです」


 殊の外、坑道の高い天井に声が響いた。

 その残響が収まるまで案内人は黙って、フェリシアの方を観察していた。注意深く進む足音だけが響くようになり、ようやく彼は重たい口を開く。


「三歳のお前が一人で帰ってきたとき、精霊師の間では意見は真っ二つに割れた。蛇の気配を体にまとわせて帰ってきた生贄を、ある者は呪いと言い、ある者は加護と言ったな」

「どっちもどっちだけど、ちなみにあなたは?」

「分からなかった……だが蛇神様が脱皮の手伝いにお嬢さんだけを指名したのを見て、そこで加護だと確信した。だからこうして手伝うことにしたんだ。今回はノア様に雇われたからじゃないぞ」


 歩調を合わせながら案内人はフェリシアの後ろをついてくる。雨が上がって屋敷に戻ってきたと、ノアが案内人と何か話していたのを思い出してフェリシアは後ろをちらりと見た。


「やっぱり。叔父様と結託していたんだ」

「俺は黒くて苦いお茶が嫌いなだけさ」

「お砂糖高いですもんね」


 落ちていた岩をよけながら、フェリシアの妙に乾いた明るい声が続く。


「実は、雨の期間を調べろと命じられた時に、ついでに以前行われた生贄の年について、季節巡りや天候も一通り調べたんです。何か手掛かりがあるかもしれないと思って」


 記録は九十有余年あったが、本来の目的さえ果たしてしまえば、ディオンたちはフェリシアが何をしていようとあまり気にしていなかった。それを良いことに彼女は長いこと書庫に籠り、ほぼ全期間の記録を漁っていた。


「面白いことに大体二十年ぐらいに一度、温かい冬が来るんです。それがちょうど生贄の年に当たっていました」

「それは、知らなかったな……、しかしそれが?」

「ええっとつまり、蛇の冬眠って寒くないとできませんよね。それは精霊でも同じなのではないかと思うんです。冬眠できないとお腹がすく、でも寒いから体は上手く動かないから餌が獲れない。もしかしたら、そういう年に捧げられていた何かが、生贄の風習になったのかなって」


 淡々と答えながら振り向くと、案内人の引きつった顔がカンテラの明かりに揺れていた。


「それが分かっていて……?」


 その顔を見て、フェリシアは不覚にも破顔した。

 案内人の言葉にひどく安堵して前を向き直る。こんな風に言ってくれる人が、案外身近にいることに驚きもしたし、単純に嬉しかった。進む足取りにも力が入る。


「これがもし正解でも、みんなの欲しがる答えではないから」

「だから黙ってたのか?!」


 コクンと頷くと、案内人は呆れ声を響かせた。

 あくまでも人々が求めていたのは長雨が止むことで、別に方法は問われていなかった。その証拠に、フェリシアが生きて山から戻ってきても、雨さえ止めば手放しに喜ばれた。

 何が正解だろうが間違いだろうが、構わなかったのだ。それなのに彼女は怖くて黙っていた。何かを口に出して、折檻されることの方を恐れて言葉を隠したのだ。

 勇気があれば言えたかもしれない。そうしたら何かが変わっていたかもしれない。ただ、無いなりに考えれば、他にも手立てはあったかもしれない。

 いまさらではあったが、ようやく話が出来た心は、殊の外軽かった。


「たまたま星の巡りとやらが外れて、寒い年なのに生贄に選ばれたのが私だったんです。だから運よく生き残れたうえに、なぜか気に入られたんだと思います。でもそれをどう説明したらみんなが納得して、生贄を止めてくれるのか分からなかったし、言ってぶたれたら怖いから黙ってた。そんな私の背を押してくれたのがマグノリア様なんです。だから私は、少なくともあの方だけは助けたい」


 話しながら進むとあるところで突き当りになった。少し開けた広場のようになっていて、奥は崩れた岩が先を塞いでいる。

 その片隅に明かりが揺れていた。明りの元には二つの影がある。


「フェリシア?」


 シリウスともう一人の若い男がカンテラを掲げ、足元には布にくるまれた何かが転がっている。

 あたりの壁に反響して声は幾重にも反響した。


「マグノリア様を返してください」

「……裏切ったのか」

「ええ、色々と考えた結果です」


 その瞬間、ゴリゴリと嫌な音を立てて地面が揺れた。危うくフェリシアはたたらを踏む。

 地鳴りは大きく、小さく、しばらく空洞に響いた。山の奥底深くに響く振動は、崩落こそなかったが、天井から欠片を降らせる。


「……掘ってる」


 蛇だ。こんなことが出来るのは、ソレル山の頂上でとぐろを巻いていた巨大な蛇神以外には考えられない。だがその蛇の姿はない。

 見通しの利かない暗闇のいずこかに、蛇が掘った新しい穴があるはずだ。だが、それが見つかる前に、男の冷めた声がした。


「全員動くな」


 シリウスの連れの男の手に、銀色に光る小さな銃が握られていた。糸目の彼が周囲を油断なく狙っている。

 彼の服装や装飾付きの短銃を見ても、シリウスと遜色ない地位のやんごとない立場であるのは明らかと見えた。


「ポルクス」

「殿下、こうなったら当初の予定通り、自力で山越えをしましょう。やはり蛇が穴を待つのは無理です。荷物は僕が持ちます、銃を代わってください」


 ポルクスと呼ばれた若い男は、手元も見ずに銃をシリウスの方へと差し出す。反対の手は足元に転がされている布の塊へと伸ばし、剣を構えるカラスとシギを警戒していた。

 だが、その手から銃がスっと抜かれる。


「ポルクス、もう止めよう」


 シリウスは無警戒の手から銃を奪うと、迷いなく対峙する二人の足元にそれを投げた。シギの軍靴が銃を捉え、ガツっと硬い音で踏みつける。


「いまさら帰るって言うんですか!」

「どうやら賭けに負けたらしい」

「賭け!?」


 言って、シリウスは諸手を上げる。視線はフェリシアの方を向いていて、昨日話をしていた時よりも、心なしか穏やかに見えた。

 だが白刃がひらめく。


「僕は、諦めませんよ!」


 ポルクスの手元には手の平ほどの小剣があった。それがシリウスの首元に宛がわれ、上げた諸手を乱暴に掴む。


「道を開けろ! こうなったら人質にしてでも山を越えてやる!」


 カラスとシギが色めき立つ。小柄なシリウスの喉元に刃を当てて、ポルクスは一歩前へ、洞窟の外へと歩みを進めようとした。ところがその顔に、小さな袋が飛んで当たった。

 ぽふっと跳ねてちょうどポルクスの顔の辺りに白い粉が舞う。途端、ポルクスは大きくむせて糸目をこすった。


「な、なんだこれはっ」

「切々草を挽いたもんだよ」


 慌てふためく彼の背後に、ぬっと大きな案内人の影が立ちはだかる。その隙にシリウスが前に転がり出ると、カラスとシギが間合いを詰めてポルクスを組み敷いた。

 涙と鼻水を垂らしながら彼は、岩の陰から出てきた案内人を睨む。だが案内人はポルクスには振り向きもせず、投げた小袋を大事そうに拾い直した。


「沁みるだろ、切々草は沁みるほどよく効くんだ。いまは高値だから金取りてぇぐらいだぞ」


 案内人は腰のポーチから縛る縄を出して投げ、後ろに転がされた大きな荷物に向かう。乱闘には全く手も足も出なかったフェリシアも慌てて駆け寄ろうとしたとき、広場の隅から大きな頭がぬっと持ち上がった。


「下がって!」


 フェリシアが叫ぶより早く一番近くにいたシギが悲鳴と共に壁際に吹き飛ばされる。その場にいた誰もが距離を置いて巨体の登場に身構えた。

 脱皮したてに見た淡い群青の柔肌は固く色も濃くなり、鱗は明るい鋼色に青い燐光を放つ。胴回りは大人の一抱えほどもあり、口を開けばフェリシアよりも大きい。

 その蛇は来訪者の気配をする場所をゆっくり見回す。胴体から尻尾までを掘り進んでいた穴から引き抜くと、崩れた岩肌の前いっぱいに体が広がった。


「まって、私の話を聞いてください!」


 蛇神はしゅるりと赤い舌を出してはしまい、思ったよりも素早い動きでぐるりと体を回す。


「赤い髪の乙女。どうした。万難は我が、排す。心配ない。お前、守る。礼、する」


 蛇の口腔からは本来発音できないはずの人語がたどたどしくも一途に零れ出る。その言葉は人外なのに温かくフェリシアの心に響いた。

 だとしたら呪いではない、やはりこれは加護なのだ。

 ごくりと唾を飲み、フェリシアは震える足で進み出る。その周りを太い胴体があっという間に取り囲んだ。

 その拍子にカンテラを取り落として灯りが消え、他の者たちの姿も視界から消えた。目の前には黒く優しい双眸だけが輝く。


――やっぱりこの目、ずっと見ててくれたんだ。


 蛇神は自分だけを彼女の視界に入れ、黒曜石の瞳で大事な少女を見つめている。

 その目をひるむことなく見返して、フェリシアは本当の望みを口に出した。


「私、外の世界に出てみたいんです」


 その声に反応して尾の先が土の壁を打った。バチンと大きな音がして石くれが降り注ぐ。

 咄嗟に頭を覆ったが、それよりも早く蛇神は自分の頭と首で彼女を守った。


「外、行きたい、か?」

「……はい」

「どう、しても?」

「ごめんなさい。今まで守っていただいて、本当にありがとうございました」


 鱗は固く鋭利な鋼のような感触をしていたが、雨に濡れていない巨体はほんのりと温かい。大きな鱗に両手で触れ、フェリシアは額を擦りつけた。


「بڪوٽوや、いな、く、なるな、ら、食ろうて、しま、おう、か?」


 フェリシアの頭の上で蛇神が赤い口を開く。見上げると真っ白な牙が二本、滴る唾液が筋になって彼女の頭を濡らした。

 自分を飲み込むには大きすぎる口を、フェリシアは直視し続けた。


「私を食らうなら、代わりに民をお救いください。山の中腹に大きな堰止湖ができています。夕刻までに高台に民を逃がすので、日が沈むと同時に水を流してもらえませんか」

「我に、関係のない」

「外に行けないのならば、それが願いです」


 拒否の言葉よりも早く、間髪入れずに畳みかける。これで無理ならばフェリシアは、一人で少量なりとも爆薬を抱え込んで自ら決壊させに行くしかない。

 しばらく睨み合っていた蛇神はふっと口を閉じて、目を細めた。低く短く、息を吐き出す音はまるで笑い声のように狭い空間の中に響く。


「すすんで敵、たすく、か。そなたも、脱皮、したのか?」


 フェリシアの返事を待たず、蛇神は巻き付いていた彼女の足元から体を滑らせて退いていく。


「願い、聞いた。山津波のこと、夕刻。く、行け」


 蛇神は暗い壁面に体を押し当てた。青黒く輝く体が半透明になり、壁の奥に吸い込まれるように消えていく。

 残されたのは唾液にまみれたフェリシアと、カンテラを掲げて壁際に立ち尽くした面々だ。


「案外、どうにかなるもんですね」


 冷や汗なのか唾液なのか、分からない液体をこすりながら、フェリシアは背後に笑いかける。背後の人々は度肝を抜かれて立ち尽くしていた。

 取り落としたカンテラを拾い、火を入れ直して高く掲げ周囲を伺う。うっすらと青臭い蛇の匂いだけが残るだけで、掻き消えた巨体の気配はどこにもなかった。

 フェリシアは蛇神の消えた壁に向かって、自然に頭を下げていた。



 フェリシアが街の西側の高台にあるバタイモ畑にたどり着いた時、日は橙色に輝いてほとんど西に傾いていた。あと少しで斜陽は山の端に消え入り、高台から見下ろす街が濁流の底に沈む。

 思い描くだけでも背筋の凍ることだが、腹を括らねばもっと酷いことになる。フェリシアはすすり泣く人をかき分けて、地面にへたり込むノアの元へと向かった。


「大丈夫ですか叔父様」

「大丈夫そうだが、そっちは?」

「こっちも大丈夫です。蛇神様があとは任せるようにとおっしゃってくださいました」

「そうか、よかった……」


 歓喜が一瞬湧きたったが消え、街が山津波に飲まれる事実が確定したことを誰もが認めて項垂れる。

 フェリシアは眼下に広がる街並みが、古い城壁の影に沈む様子を眺めた。あれが丸ごと消える。


――大丈夫、問題ない。大丈夫のはずだ。


 何度も言い聞かせる傍らに、いつの間にかシリウスが立っていた。


「何に賭けてたんです?」


 彼に同伴していたポルクス、どうやら彼の従兄弟にあたる糸目の男は、未だ拘束されている。一方のシリウスはシギに付き添われてはいたが、縄はすでに解かれていた。割と自由に動き回っている。

 消え入る西日に目を細めながら、シリウスはうーんと首を傾げた。


「マグノリアをこの国から、おじい様の手元から連れ出そうとする試みがうまくいくかどうか、だな。今まで様々な人間が試みてきたが、不思議な力でも働くのか、なぜか上手くいかなかった」

「私があそこへ行ったのは、別に不思議でも何でも……」

「それだ。そなたがまさか、踏み出すとは思わなかった」


 咄嗟にフェリシアが心外そうに顔をしかめると、シリウスは悪戯っぽく笑って天幕の方へと歩き始めた。付き従うようにしてフェリシアもついて行く。

 天幕の中ではマグノリアが綺麗な顔を歪ませて悲鳴をこらえていた。


「やはり人体書籍は、この国に在らねばならん何かがあるのだろうな」


 簀巻きにされた中身は、やはりマグノリアだった。

 体は蛇に散々巻き付かれたのか腕も足も、首まで変な方向に曲がっていて、普通の人間ならば死に至るほど歪曲していた。だが彼女は生きていた。

 うっすらと目を開けてシリウスのことは睨みつつ、フェリシアに向かっては自嘲気味に笑う。ゴリゴリといびつな音を立てて骨が正常な位置へと戻ろうとするたびに、奥歯がぎりりと噛み締める音がした。


「度し難いとは、まさにこのこと、ですね」


 その口にフェリシアは無言で角砂糖を押し込んだ。さくっと軽い音がしてマグノリアの口の中で砂糖がほどけてなくなっていく。


「ノーラ・ヘクスタットの著書に助けられました」

「……ふふ、どちらさまかしら」


 うっすらと頷くと彼女は瞼を閉じた。

 これでようやく待つだけと、フェリシアは背筋を伸ばす。天幕を出て、日が消え入りそうになる瞬間をシリウスと共に待った。

 ところが酷く大きいざわめきに振り返る。オパールの侍女が家財を抱えた人々をかき分けて駆けてくるのが見えた。


「お願いです、若奥様をお助けください!」


 着の身着のまま、二人の侍女は何も持たずに膝をつく。フェリシアが目を見開いて侍女を見下ろすと、二人は涙ながらに嘆願する。


「若奥様が残るとおっしゃられて、母屋から動かれないのです!」


 フェリシアははじけ飛ぶように走り出した。気丈なオパールが言い張る姿がすぐに思い浮かんだ。


『全ての努力が無に帰すならば、死を』


 直接聞かずとも、彼女が鋭い口調で言い放つ姿が簡単に予想できた。歯を食いしばり、街目掛けて全力で足を動かす。


「フェリシア、乗っていけ!」


 遠くからシリウスの声と馬蹄の轟く音がして、すぐさま隣に立派な手綱の馬が並走していた。マグノリアの馬車をひいていた馬のうちの一頭だった。

 屋敷で世話されていたディオンの馬よりも遥かに毛並みがよく、足取りも確かで速い。フェリシアが走りながら手を伸ばすと、足並みをそろえて飛び乗るのを許してくれた。鞍に這い上がると腹を強く蹴る。馬は一直線に下り道を駆けだした。

 背中には叫ぶノアの声が響き、夕日が差し込む。

 蛇神との約束の時間はもうすぐそこまで迫ってきていた。


――お義姉様の、馬鹿っ!


 右手に見える山の端には、まだ明るい橙色の光が残っている。わずかな猶予を横目で確認し、急な斜面を駆け下った。

 めいっぱい馬を急かして開け放たれた城門をくぐると、蹄が石畳を叩く音ががらんどうの街にこだましている。どの家々からも人の気配はせず、吹き抜ける白い風が不気味な音を立てていた。

 中央の通りを駆け抜けて街の一番北へ、屋敷の門を潜り抜ける。馬に乗ったまま中庭を突っ切った。ボンの梢を揺らして母屋に駆けこむと、一階の居間にオパールはいた。


「何をしているの。早く避難をして!」


 窓際の安楽椅子に背を預け、優雅に窓の外を眺める亜麻色の髪の彼女は、肩で息をする義妹の姿に目を丸くしていた。

 大きなお腹をさする手を止め、震え声を出す。


「フェリシア、何をしているの?」

「それはこっちのセリフよ!」


 フェリシアはオパールの蒼白な手を取り、力強く引っ張る。だがオパールも動くまいと、負けじと体をよじって椅子に身体を押し付けた。

 周りには誰もいない、二人の娘がその場で綱引きをする。

 勢いオパールは手を振り払い、肩を震わせていた。


「お父様の元に戻されて生き恥を晒すぐらいなら、ここで死んだ方がましというものよ」


 瞳にはぎらつくほどの狂気を宿し、彼女は目の前のフェリシアを睨みつける。怨念を身にまとい、彼女は自分の死をもって生き様を見せつけようとしていた。少し前のフェリシアと同じように、周囲を恐れてかかずらう。

 でも今のフェリシアには、それがたまらなく憎い。

 ダンと足を踏み鳴らして一歩踏み込むとオパールの頬を叩いた。


「お義姉様の犠牲ごときで後悔する相手なら、私たちもこんな思いはしないでしょうよ!」


 怒りが声を揺らし、フェリシアの口から思いの丈がごろりと飛び出した。


「私は、私を虐げたり生贄にしようとしたお父様やお兄様や、それを止めなかった人たちを許さない。裏でほくそ笑んでいたお義姉様も許さない。でも許さないからって相手を見殺しにするわけにはいかないの、だって祟りに出て来られたら恐ろしくてたまったもんじゃないもの!」


 乱暴に手を掴んで引っ張ると、呆けたオパールは案外すんなりと立ち上がった。そのまま手を引き、母屋の入口へ駆け出す。


「お義姉様なんて嫌いよ、でもお義姉様をこんな風に追い詰めた人たちはもっと嫌い! だからこんなところで死ぬなんて許さない、お義姉様は間違ったことなんかしてないんだから考えて! その想像力を使っていつか、どうにか、見返してやってよ!」


 建物から飛び出すと、夕日がちょうど稜線に差し掛かろうとしていた。あの明るい楕円がすっぽりと山の陰に隠れた瞬間、上流で蛇神は堰止湖の崖を崩す。

 その瞬間、人間の足では抗いようのない土と石と木の波がこの場所へと達する。もはや一刻の猶予も無かった。


――もう街の外まで逃げる時間はない。


 待っていた馬にオパールを押し上げ、フェリシアは手綱を引いて駆け出した。凹凸の激しい石畳に足を取られながら街を囲う高い城壁へと走る。

 グローライトで一番高く、頑丈に作られていたのは他でもない城壁だった。九十年前は隣国からの攻めに耐え、いつぞやの冬は度重なる雪崩にも耐えたという。街を見守り続けた石組みの城壁は高さ二十メートルにも及ぶ。今、たどり着ける範囲で一番高いのは城壁だった。

 遠い高台へ逃げる時間は無い。他に選択肢はなく、フェリシアはひたすら街の南へと急いだ。

 あと一つ、小路を越えたら隔壁の中へと続く階段にたどり着く。そんなところで、西日の鮮烈な光がすっと消えた。

 振り返ると山が溢れていた。

 少し遅れてドンと地鳴りがする。

 茶色く濁った水とも岩とも言えない、絶壁が立ち上がり、崩れ、また立ち上がる。山津波がのたうち回りながら斜面を駆け下り始めた。

 息が止まった。

 あれが動き出したのでは、もはや人の足はおろか、馬の脚でも逃げようがない。目に焼き付いた背後の光景に足も動かない。

 その時、声が聞こえた。


「そのまま走れ!」


 開いた門をくぐり、馬で駆け込んでくる人の姿があった。その人は白い髪を振り乱す。


「マグノリア様?!」


 歯を食いしばりながら走りくる彼女は、痛みに顔を歪めていた。

 無様に目の前で馬から転げ落ちると、両脇にオパールとフェリシアを抱えて腹に力を籠める。


「掴まって、駆け上がる!」


 数歩の助走の後、マグノリアの右足がごりっと嫌な音を立てながら石畳を蹴った。同時に体の周りには風が逆巻いて、城門の中段にある飾り石まで一気に体が持ち上がる。


「――いッ!」


 声にならない痛みに歯を食いしばりながら、マグノリアは先ほどとは逆、左足を壁から突き出た石の縁に掛ける。再度、骨の砕ける音がして、急加速しながら跳躍した。

 左の袖口からはカーバンクルが顔を覗かせ、額の赤い宝石が見事に輝く。小さな精霊も毛を逆立てて天を向き、歯を剥き出しにしていた。体の周囲を覆う風が耳元できりきりと音を立てる。

 足元には真っ黒に崩れた山が達していた。

 大地を打ち返す音を響かせて城壁に当たっては砕ける。フェリシアは本で読んだ海の嵐を思い出した。嵐の夜、風雨に荒れ狂う真っ黒い海がまさに今、眼下に広がっている。

 城壁は大きくヒビが入ったが持ちこたえていた。開け放たれた門にどうどうと音を立てて水が流れ込んでいたが、どうにか隔壁自体は形を保っている。その上に三人は落ちた。

 落ちるときに受け身を取り損ねたフェリシアは、痛みに一瞬息を忘れた。星が飛び、目の前が真っ暗になる。咳込みながら立ち上がると、体が斜めに傾くのを感じ慌てて足を踏ん張った。


「わ、崩れる!」


 慌てて見回すと、オパールは胸壁につかまって立ち上がっていたが、マグノリアは少し離れたところに転がっていた。

 後から後から流れ下る水と押し出されてくる巨岩と流木が、何度も城壁に当たり、押し抉るように足元を揺らす。その度に強固に積み上げられた石組みがばらけ、砕けて押し流されていく。


「フェリシア、こっち!」


 オパールは、水の逃げ道になっている城門の真上の見張りに、体を寄せて大きく手招きをした。しかし離れたところ、斜めになった歩廊の上に横たわるマグノリアの体はピクリとも動かない。

 亀裂は大きくなり、彼女の体が次第に歩廊からずり落ちていく。フェリシアが手を伸ばしても、彼女の所まで手が届かない。


「いいから逃げなさい」


 辛うじて聞こえた彼女の声が力なく水に流されていく。フェリシアは傾く胸壁の出っ張りに爪を立てながら目いっぱい手を伸ばした。


「嫌、絶対だめ!」

「及第点どころじゃないわね、上出来だわ。合格よ」


 彼女は優雅に手を振る。

 次の瞬間、茶色に濁った水がマグノリアの白い姿を奪っていった。

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