第7話 彼女の価値は

 巨大なユキワリを包む炎は、日が落ちる頃になっても一向に勢いが衰える様子がなかった。


「少し燃料を投下しすぎたかしら……」


 甘いものを摂取して元の柔和な性格になったマグノリアだったが、燃え盛る様子を見ながら周囲を不安に陥れるように微笑んだ。

 グローライトには未だガス灯の設備がない。明りの無い街から火柱は煌々と輝いて見え、住民たちは不安そうに領主の館近くへと詰めかけた。月より明るい炎の気配に、もしや山が火を噴いたのではと、街から逃げ出そうとした人もいたぐらいだ。

 そういった者たちをフェリシアは捕まえて、土砂崩れを起こした場所の復旧作業肉分るようにとお願いをして回った。燃え続けるユキワリの巨体を横目に、彼女本人も埋まっている人を探す作業が続ける。

 だが見つかるのは土砂に潰されたうえに、血を搾り取られた、見るに堪えない遺体ばかりだった。命が助かったのは、先に掘り出されたノアを含む八名だけで、手足を失うことになる者も多かった。

 疲れた体に鞭打ってスコップを手に、フェリシアは嫌でも土砂の中の未だ見つからない二人を捜索した。いっそのこと見つからなければいいのにとさえ頭をよぎり、慌てて頭を振って可笑しな考えを追い出す。

 そんな事を繰り返していた未明ごろ、大部屋の最奥の岩を退かしたところで、フェリシアはようやく実父と実兄に再会を果たした。正直二人がどんな格好をしていたかほとんど記憶に留めていなかったが、見た瞬間に分かった。


「本当に、死んでしまったんだ」


 あっけないという気持ちは浮かんで来るのに、悲しみは不思議と感じなかった。自由になったという実感も無ければ、良かったと思うわけでもない。家族の死を悲しいとは思えないのに、かといって喜ぶこともできず、単純に一区切りついたという感覚しかない。

 一方で運び出された遺体を前にしてオパールは号泣してみせた。

 その見事な妻振りに、フェリシアは心からこの義姉を尊敬し、危うく間違った労い方をしそうになった。要らぬことを言わないように口を噤む間に、オパールは侍女に両脇を支えられて去っていった。

 そんなことをしながら一区切りついたころ、南の空に向かう月に雲がかかり始めた。

 雲はあっという間に夜空を隠してしまい、前触れなく落ちてきた大粒の雨が夜通し働いていた人々の肩を叩く。

 折からの雨に打たれた火柱は次第に火勢を失い、独特な燃えカスの臭いが辺りに充満した。薪を燃やしたのとは違う、硫黄を混ぜた嫌な臭気が風に乗って街に立ちこめる。

 強まる雨のなか、マグノリアはうず高く山になった燃えカスを中心部まで鋤で突き崩し、内部まで全て灰になっていることを自ら確かめる。最後まで付き従ったフェリシアも、その目で一欠けらも白い精霊が生きていないことを確認して、ようやく安堵のため息をついた。


「終わりましたね」

「……はい、ようやく」

「フェリシア殿、良く辛抱なされた」

 

 背を押されるがまま、フェリシアは迎賓用の建物へと行った。思えば自室はオパールに荒らされて使い物にならない。

 整えられた部屋で、気後れしながら限界まで水を吸って重たくなった髪を解き、マントを脱いだ。汗と泥と灰にまみれた体をお湯とタオルで拭いて一旦体を休める。ひと眠りしたら、また土砂を掻き出す作業に戻らなければならない。

 先々を思えばまだ何も終わっていないも同然だが、一息つきながらフェリシアは窓の外を覗いた。

 外は闇夜に激しい雨だ。

 長雨続きだったにもかかわらず、叩きつけるような雨足は久しぶりのことで、しかもこれほどありがたいと思える雨も本当に久々だった。

 その雨音の中に聞き覚えのある蛇の声を見つけ、フェリシアは髪を拭く手を止める。


「喜びと、悲しみと両方混ぜたような……なんて言ってるんだろう」


 耳を澄ませるとかすかな山鳴りのように精霊の声が聞こえた。と言っても、以前のような頭を抱えるほど恐ろしいものではない。遠くに細くたなびく雲のようにつかみどころがない言葉だった。


「精霊の独り言を人の言葉に直すことはひどく難しいことです。フェリシア殿が精霊の言葉を理解できるのは、蛇神様のご加護かもしれませんね」

「これが加護ですか? 呪いではなく?」

「近くに置きたい者と言葉を共有したいと思うのは、精霊も人も同じことではないかしら」


 白い髪から水を滴らせ、髪を拭く手を止めたマグノリアも窓の外を覗く。音に聞く限りでは相当な雨足だが、夜の空に広がる雨雲の姿は暗闇にいる黒猫と大差がない。


「おかげでこっちは散々な目にあったのに、なんだかな」


 文句の一つでも言いたくなり、外の様子を伺ったが何も見えない。フェリシアは燭台の揺れる室内に視線を戻した。

 整えられたベッドの縁に腰を下ろすマグノリアを、頭のてっぺんからつま先まで注意深く観察する。傷は跡形も無くなっていた。傷が治った跡さえない。

 やはり彼女は、存在すらおとぎ話になるような人型の書籍なのである。本物だ。

 その彼女が、どうしてこんな辺境の相続争いに介入したのか、フェリシアはずっと考えていた。

 確かにこの一件で帝室は、新しいグロー家に多大なる恩を売ったことになる。要求が無くても、今後見つかる燃石の何割かは帝室に献上することになるだろう。

 しかしそのためだけに、唯一無二の御物と言われる人体書籍本人がグロー領を訪れるのは少し大げさな気もした。他にも恩を売るなら方法はいくらでもある。


「あの、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「わたくしが答えられることならば」


 ふっくりと微笑んだ白く見目麗しい美女が、こんな国土の片隅で精霊と相対する不思議を、フェリシアはなぜかずっと横で見ていた。

 より正確に表現するのなら、間近で見させられていた。

 今考えると、全てマグノリアが周囲を説得することで、フェリシアがその場に居合わせることが叶っていた。おかげで危険な目にもあったが、それも全て彼女の手によって救われている。


「どうして崖崩れが起こったとき、私の方を庇ったんですか?」


 マグノリアの間近にいたのはフェリシアとノア、あとは数人の若い氏族の男たちだった。

 ところがマグノリアが庇ったのは、何かが来ると混乱して叫ぶフェリシアだった。おかげで彼女はかすり傷で済んだが、近くにいたノアは肋骨を折る大怪我を負った。医者からは良く生きていたと驚かれ、今は絶対安静を言い渡されている。

 でも物事を順序立てて考えるなら、庇われるべきはノアの方だったはずだ。


「帝室が燃石に関する優先権の獲得が目的なら、重要なのは叔父様の方で、私ではありません。でもあの時マグノリア様は私を庇った。あれはなぜですか?」


 一見すると朗らかでおっとりとしている彼女だが、目端は利くので偶然とは思えない。ならば彼女は、新しい領主ではなく意図的にその養女を取った。

 そのことに気が付いてからというもの、理由がずっと分からないフェリシアは悶々と考えていた。


「聞きたいですか」


 マグノリアは悪戯っぽい笑みを浮かべる。ただ、いつぞや見たのと同じで、瞳の奥には全く光が無い。底知れない赤紫色の瞳と、弓なりに笑む唇に温度は無かった。

 わざとこういう表情ができるという、それだけでも背筋が寒くなる。しかしあの時と違い、フェリシアは怯えて引き返すことはなくはっきりと頷いた。


「ではお話ししましょう。ただし他言無用ですよ」


 一本指を立てて唇にそっと当て、手招きされた。彼女の隣に身を寄せるように、フェリシアもベッドの縁に腰を下ろす。


「実は、陛下がフェリシア殿を皇妃にと望まれております」


 吹き出した。げほげほとむせる。

 背をマグノリアの手が優しくさすられたが、フェリシアは壊れた人形のように頭をブンブン振った。口をぽっかりと開けて彼女を見上げる。


「なっ、な、なんて?」

「ご安心くださいね、もちろんお相手はシリウス殿下ですよ。ダバラン陛下とアークツルス皇太子殿下のご意向です」

「いや、そうじゃなくて、えっと、え、はっ、なんで⁉」

「あら、嬉しくないのですか。ノア殿は大層お喜びだったのに」


 事も無げに話を進めるマグノリアを穴が開くほど見返したが、からかっている様子は全くない。あれよあれよという間に熱くなった顔を伏せた。

 額から頬にかけて伸びる傷に痛みはないが、確実に羞恥心がある。顔に大きな傷がある娘が嫁に行ける現実などない。しかも帝国の皇妃などと、冗談でしたと言ってくれた方がまだましだ。

 だがフェリシアの垂れた頭の上に、厳かな声が降ってきた。


「後戻りはできませんよ」


 俯いたまま傷跡に指を当てる。いまさら隠したところで、相手方も娘が傷物であることぐらい調べているだろう。その程度のことも知らずに孫の結婚相手を選ぶとは思えない。

 当然、何か取引があったと予想が付いた。

 ノアの性格をからすると、単純に爵位と領地を得るために養女を売り飛ばしたとは考えにくい。だが何の見返りもなく帝室がフェリシアを皇妃に選ぶこともあり得ない。フェリシアの幸福とノアの目的と帝室の思惑、この三つが全て合致した結果だろう。

 それでもフェリシアは傷を隠した。


「せっかくですから最後までお話を聞いてくださいませ」


 膝を優しく叩かれたので、フェリシアは無言で頷く。そうでもなければ裸足で逃げ出すところだった。


「山の猟師小屋でわたくし自身について、少しお話したのを覚えていらっしゃいますね」


 少しだけ顔を上げて、フェリシアは首を縦に振った。

 それを見て、マグノリアは軽く頷いた。


「アルファルド帝の変事の際、わたくしども人体書籍のうち何冊かが失われたお話をしましたが、そのうちの一冊、工学の人体書籍が処刑されたことが、今思えば発端です」


 マグノリアは記憶の本を開くことも無く、顔はフェリシアの方へしっかり向けられていた。その見据えた具合がやけに真摯で、フェリシアは渋々顔を少しだけ上げる。


「第五巻・工学書、名をギィ・エル・ナデシコと申しますが、彼女一番有名な発明は銃だと言われております。あれほど人を殺した道具、これからも殺す道具は無いだろうと、当の本人も常々申しておりました。ですが工学ナデシコの本来の役割は人の役に立つ道具を発明すること。その彼女が変事の際に失われてしまったのです。すると何が起こったでしょうか」


 問いかけは裏を返せばフェリシアを試しているということでもあった。

 将来の皇妃にふさわしいだけの思考力があるのか、調べられていると思うとぞっとしない。わざと間違えようかと悪い考えが頭をよぎったが、平静さを失っている今の状態では上手く外した答えが見つからなかった。

 仕方がなく小声でフェリシアは考えたままを口にする。


「発明が、遅れることですか」

「さらに」

「さらに? さらに……、うーん……」


 間違いではないようだが正解には少し足りないようだった。そのわずかな差に悔しさを覚えて、フェリシアはさらに先へと思考の手を伸ばす。


――発明が遅れるとどうなるか。私なら……自分でやるな、ああそうか。


 今度こそと思って、しっかりと顔を上げて口を開く。


「工学の人体書籍に発明を頼れなくなった人たちが、独自に自分たちの欲しいものを作り始めたのでは? しかもそれが、一人や二人じゃなかった、とか」

「よろしい」


 マグノリアは生徒を褒めるように手を叩いて賞賛してくれた。だが素直に喜べもせず、複雑な思いを抱えながらフェリシアはさらに思考の駒をさらに先へ、奥へと進める。


――でも問題は、独自に発明を始める人間が帝国各地に現れ始めた後、どうなったのかってことか。


 色々な物が頭の中を駆け抜けていく。オパールと一緒に欲しがった脱穀機に大型の焙煎機、最新式の農機具、様々な発明品を欲しては、値段の高さにため息を吐いてきた。

 農機具一機でどれほどのコゾ麦が買えるかとディオンに叱責されるのが目に見えて、言う前から諦めた機械は数多くあった。先行投資と言うものを知らないディオンもマティスも、ボン茶の輸出拡大を夢見ることはあっても実際には何もしていなかったのだ。

 かと言って、機械そのものは非常に複雑で、オパールと額をつき合わせて仕様書を見てもどうやって作るのか全く分からなかった。ならば技術を持っている誰かにやらせようと思っても、今度は頼むだけの金がない。

 開発と言うのは基本的に金と時間によるところが大きい。何もかもが足りないもどかしさを、それでも笑ってオパールとどうにかしようとしていた日々が走馬灯のように蘇った。


「……そうか。新しい技術はそれ自体がお金になるし、逆に発明するのにもお金が必要になる。つまり帝室がこれまで人体書籍の力によって独占していた工学分野の優位性が無くなって、他の貴族たちも投資とお金儲けができるようになってしまったと?」

「すばらしいですわ」


 再びマグノリアの透き通るような声に褒められると、試されているとはいえ、さすがに悪い気はしなかった。フェリシアは少しだけはにかむように笑い返す。

 さて、と言葉を区切って、そこからは先生役のマグノリアが続けた。


「アルファルド帝以前は道具や発明品の作成と販売は、ほとんど帝室が出資したところが行っていました。これは帝室の権限を強固にする狙いもありました。ところが変事の後、各地で同時多発的に様々な産業が興ったのです。それは中央からの技術、物品の供給が無くなったことに対する、地方の正常な反応でした。もちろんその背景には地方貴族たちの資本や土地の提供がありましたが」

「地方貴族の台頭……インデラのような?」

「独自ルートでの交易に着手した者もおりましたね。競争原理が働くので良いのではと、わたくしなどは思うのですけれども、やはり国を治めるというのは難しいものです」


 フェリシアは何度も頷いた。

 歴史として認識していたのは上辺の薄い部分だけで、実際の歴史を生きてきたマグノリアは史実の皮を二枚も三枚もめくった奥の実情を知っている。その真実は紙の上で知るよりもずっと生暖かい。いっそ生々しいとさえ思うようなことも、実際はあったのだろう。


「そして近年非常に大きな発明があって、また一つ産業が立ち上がりました。……科学産業です」

「あ、ああ、……なるほど」


 フェリシアはその言葉で、話のおおよその全体像を把握した。

 オパールが好きでもない田舎貴族のマティスに嫁いできたこと。インデラ領秘蔵のボンの木まで持ってきたこと。義姉と自分が対立する理由。傷物の自分がどうして将来の皇妃に望まれるのか。

 それら全てが、黒い鉱物で一本の道に繋がった。

 その流れをフェリシアは注意深く辿る。マグノリアを片手で制し、手を静かに顎にあてた。頭の中に浮かんだ考えを慎重に繋げ始める。


「つまり、急速にこれから発展していく科学産業に欠かせない燃料の燃石が、みんな喉から手が出るほど欲しくなったんですね。つまりお義姉様のご実家のインデラ卿が秘蔵のボンの苗木まで付けて娘を僻地の貧乏貴族に嫁がせたのは、将来この地で見つかるであろう燃石の鉱脈を独占するため……」


 山向こうの国がここ数年急速に蓄えを増やしたという話も、あながち嘘ではなく理由は燃石だと予想がついた。山の向こうで出るならば、こちらに出てもおかしくはない、そう考えた人が多くいたのだろう。その最先鋒がインデラ卿だったというわけだ。

 つまりオパールは下心を隠したインデラからの貢物であり、同時に間者でもあった。そうでもなければ対して顔も頭もよろしくない、だだっ広いだけで山ばかりの貧しい辺境領の息子を結婚相手に選ぶ理由がない。才色兼備の彼女には、もっと条件の良い結婚相手はごまんといたはずだ。

 結婚相手の候補にすら入れない有象無象の中からマティスはわざわざ拾い上げられ、それのみか選ばれた。グロー辺境領に眠る未知の鉱脈の存在に、インデラ卿は娘一人分以上の価値を見出した結果だった。

 ところが今回の件で、インデラ側の目論見は大きく崩されることになった。

 グロー辺境伯の座はオパールの夫を飛び越えて、ノアとフェリシアに転がり込んだ。この背後で糸を引いていたのは帝室だ。

 これで彼女が発狂しないわけがない。


「でもお義姉様のご実家と同じく、帝室も燃石の採掘地が欲しかった。そのために幾度となくお父様に領内の地質調査を命じられていたのですね」

「加えて、他の地方貴族に燃石資源の採掘権や安価な入手経路が確保されてしまうと、帝国内でのバランスが崩れてしまうことも、陛下は恐れていました。昔と違って帝室の権威もたかが知れておりますからね」

「ところがグロー辺境領の領主であったお父様はそのことを全く理解していなかった。どうにかしてグローに眠る燃石を確保したい陛下は叔父様と取引をして、マグノリア様を送り込んだ……。ついでに将来的には私がグロー伯爵位を継いで帝室に入れば、何もしないで採掘権が全て帝室に転がり込む、と」


 実に上手くできた仕組みに、フェリシアは両手で頭を抱えた。


「フェリシア殿とシリウス殿下のご成婚を以って、帝室は他貴族に引けを取らない燃料採掘地を得る。しかもグロー家は国土回復戦争以来の軍閥貴族、その長女たる貴女が皇妃となれば北辺の民たちは帝室に味方するでしょう。裕福な南の貴族たちの台頭を抑えることもできます。ゆくゆくは、シリウス殿下は皇帝になられる方ですから、そこまで見越してのご判断です」

「一体、何年先の話ですかそれ?」


 もうその先は言葉にならなかった。

 シリウスは確か十三だったと記憶している。フェリシアは十五。結婚と言ってもまだあと数年後の話だろうし、帝位だって彼の父である皇太子が控えている。さらに付け加えると、現皇帝陛下はお年を召してはいるが健勝だ。


「こんなの無茶苦茶ですよ。そんな大役、私には無理です」


 断るのが難しいのは分かっていたが、当然のようにフェリシアは無理の言葉を吐き出した。幼い頃から厳しい教育を受けて磨き上げられた令嬢でさえ悲鳴を上げるような立場、それが皇妃だということぐらいは知っていた。

 それを、傷を理由に今まで何もしたことがない自分が全うできるはずもないと、彼女は乱暴に首を振る。無理、天地がひっくり返っても不可能だと、フェリシアは身を固くする。

 ところがマグノリアは怖気づく彼女の眼の奥を覗き込んだ。


「でもこの話を受ければ、貴女は堂々と勉学ができます。皇妃になるなら嫌でも世界を学ばなければなりません。学ぶ力の無い者、想像力のない者を、わたくしは皇妃に推し立てませんし、こんな話もいたしません」


 その言葉に、フェリシアは喉を鳴らしてつばを飲み込む。

 はたから見れば実父と実兄を亡くした可哀そうな娘だが、彼女は今、人生でほとんど初めて抑圧が無くなっている。フェリシアは虐げていた者たちから解放された。

 それは彼女が本来望んだ世界を見られるという意味でもある。すでに雨の檻は無くなり、彼女は外へ出る機会を差し出されていた。

 はなから諦めていた夢が、まさに叶おうとしている。


「お好きでしょう」


 駄目押しに言われると、渋々とでも認めるしかない。

 嫁にやる先がないから芸事は一切禁じられ、学も必要ないから全てを取り上げられ、苛立ちのはけ口に殴られる毎日だった。叔父に隠れてもらう本と義姉との密談だけが安らぎの日陰暮らしを強いられていた。

 それがもう逃げも隠れもせず、日向の道を歩くことが許される。どれほどの幸福なことかは火を見るより明らかだ。

 それでもフェリシアには踏ん切りがつかなかった。


「マグノリア様の大切な用事って、このことだったんですね」


 正直長雨はどうでもよいと言い放った彼女の本当の目的がまさか自分だったとは、フェリシアも予想だにしていなかった。だがそれ以上に、彼女が目的を明かしてもらったはずなのに、素直に喜べない自分が悲しかった。


「落胆しましたか」


 直截な言葉に思わず頷きそうになるが、胸が痛んで「少し」と小声で答える。フェリシアは気落ちの正体を彼女の中に見出して、ベッドの縁で肩を落とした。


「私、マグノリア様みたいになりたかったんです。誰に媚びることなく生きて、外の世界を見てみたかった」


 突然現れた銀髪美女の奔放な振る舞いに、フェリシアは当初はハラハラしっぱなしだった。だが間近にその姿を見続ければ、あこがれはおのずと強くなる。

 そのためにどうしたらよいのか、彼女のように強く生きるにはどうしたらよいのか、ずっと考えていた。学びが必要なこともうっすらとは分かっていた。

 しかし、いざその可能性が手中に転がり込もうとしてみると、やはり彼女のそれとは明らかに何かが違う。


「確かに皇妃のお話をお受けすれば、外の世界を見ることは十分出来ると思います。でもそれは単純に私の所有者が父からシリウス殿下になるだけではありませんか? ……私は皇族の後ろ盾が欲しいんじゃない、自分の力だけで生きていきたいんです」


 人が人らしく生きるためには後ろ盾など必要ないとマグノリアは語った。だがその彼女が提示してきたのが、まさに後ろ盾だ。

 皇族の、しかもいずれは皇帝となるべき少年という、最強の後ろ盾を得る機会を与えようと言われている。

 そうではないと、フェリシアは首を振った。


「それとも、ただの人間には無理なことだと、おっしゃいますか」


 マグノリアは人間ではなく、フェリシアが人間だから。

 やはり人体書籍という特別でもない限り、彼女のように生きていくことはできないのだろうか。

 聞いておきながらフェリシアは答えを聞きたくなくて、迂闊な自分を責めた。その横で、マグノリアは暗い天井を見上げる。


「フェリシア殿は、シリウスのことをどのように見ましたか」


 タオルを綺麗に畳んで脇によけ、彼女は袖口からカーバンクルを呼び出して毛並みを撫でた。温かい風がふんわりと体を包み込む。隣にいたフェリシアの赤い髪も一緒になって揺れた。

 フェリシアは温かい風と共に揺れる小麦色の毛並みについ手を伸ばそうとしたが、やはりカーバンクルは身をよじって逃げる。威嚇まではしないが、露骨に嫌な顔をしてマグノリアを挟んで向こう側へ逃げた。


「えっと、特にこれと言っては……。何と言うか、皇族なのに思っていたよりも普通の男の子だなって」

「その考えを持てるご自身が稀であることを、貴女は自覚なされた方が良い。普通は無理にでも誉めそやすものですよ」


 きっと社交界などではそういうものなのだろう。仮にも皇族なのだから、持ち上げるのが世の理なのだ。

 まるで社交を知らないフェリシアは、これが社交界の本番でなくてよかったと胸を撫でおろした。すると彼女はふふっと笑ってから、まなじりを下げる。それは愛情と呼ぶにふさわしい表情だった


「実は貴女と同じで、あの子は幼い頃に母を失っているのです。そのため陛下と皇太子殿下のご命令で、我ら書籍一同が殿下の養育してまいりました。それで今回は無理を言って、殿下のお相手候補の貴女に直接会う機会を設けていただいたのです」


 なるほど、とフェリシアは頷いた。

 それでマグノリアは皇子であるシリウスにとても気安いのだ。逆に彼の方が人体書籍に愛着する理由も、そのあたりにあると見える。愛称で呼ぶのが何よりもの証拠だろう。

 ただ、シリウスの養育に何人もの書籍がかかわっていると聞いて、フェリシアは少し苦笑いした。きっといずれ劣らぬ切れ者の美女たちが、たった一人の幼い皇子を育てたとなれば、つまり彼のあの性格は彼女らの影響ということになる。

 するとマグノリアは珍しく気まずそうに、コホンと小さく咳ばらいをした。


「少々甘やかした自覚はございます……」

「あるんですね」

「書籍の本分は担当分野の知識の供与であって、子育ては全員が専門外ですもの。子育ての人体書籍など、寡聞にして存じませんわ」


 昨今では子供の躾に関する本もあるらしい。そんな話を第一子妊娠中のオパールから聞いていたフェリシアは、おとぎ話の住人にも十全ではない事柄があると分かって少しほっとした。

 ところが当のマグノリアは、その美しい面立ちに影を落とす。


「ですが甘えは結果であって、わたくしたちの心配は、あの子に手の施しようのない心の傷があることです」

「傷?」


 傷と聞いて、フェリシアはまず先に自分の顔の傷を思い出して触れた。だがシリウスには一見するとそれらしい傷はない。心の傷とは見えないものだが、だとしたら一体誰にどんな傷を負わされたというのだろうか。

 マグノリアは、一旦は言い淀んだ。だが丹念に筋道を辿り、小さく区切りながら丁寧に言葉を紡いでいった。


「あの子のおじい様、つまり今の陛下は若くして国土回復戦争後の国内復興を行い、崩御してもいないのに賢帝との呼び名が高い。さらに父君は戦争相手国と国交回復に尽力され、こちらも帝位につく以前より名君の資質十分と言われております。このままいくとシリウスに帝位が回ってくる頃には国は十分大きく、安定してことでしょう」

「それは良いことなのでは?」

「民にとってはもちろんそうです。しかし為政者の側にとっては、平和の維持ほど地味で難しく、民から関心や称賛を得られないことはないのです」


 我知らず、フェリシアは「ああ」と声を出した。

 確かにそうだ。民が声を上げるのはたいていが不満がある時だ。満足していれば何も言わない。損失からの回復は褒めたたえるが、それを維持継続する過程は当たり前だとして関心すら寄越さない。

 だとしたら、シリウスの治世はただ平らなだけの、酷いいばら道になる。


「それこそ再び戦争でも起こして勝利でもしない限り、シリウスは祖父や父に並ぶ賢帝と呼ばれることはないでしょう。この劣等感を心の傷などと言ったら、フェリシア殿には怒られるかもしれません。ですがこれはある種の傷なのです。――あの子は生まれながらに勝ち目のない戦いを強いられているのです」


 常人には想像は難しかった。だが持って生まれた己の資質を呪う気持ちだけはフェリシアにも分った。

 いくら耳を塞いでも届く精霊の声に、足掻くだけ無駄と諦めていた。窓辺でマグノリアを待っていたあの雨の日を思い出す。あの時はまだ、自分の将来は生贄以外、考えられなかった。


「あの子の歳に似つかわしい、勤勉で賢く、美しいご令嬢はいくらでもいました」

「それでは駄目なのですか?」

「彼女たちならあの子の傷を慰めることはできるでしょう。しかし痛みを知らぬ者では、いずれ共倒れになります」


 もし何かの拍子に心が傾けば、いっそのこと暗愚に自ら落ちていく可能性すらある。危うい存在だ。

 それが一国の主ともなれば、影響は計り知れない。

 フェリシアはじっと床を見ながら、顔の傷を撫で、次いで胸の辺りを撫でる。そのまま手はゆっくりと膝の上で握りこぶしを作った。顔の傷も、心の傷も、彼女にしてみればどちらも痛いことに大差はなかった。あるいはそれらの傷をつけた者たちの顔がふと頭をよぎる。


「あらゆる感情を飲み込んで、それでも誠実に立ち向かえる者はなかなかおりません。貴女はどれほど自分を虐げた相手でも誠実に応えようとした。そうでもなければあんな丁寧な報告書など作りますまい。ですからわたくしは、フェリシア殿を推すと決めたのです」


 一瞬勢いを増した雨が窓に当たり、ざんと音が大きくなった。

 彼女から笑みが消える。


「シリウスを臆さずに接してくれる貴女を探していました、フェリシア」


 膝の上で握られたフェリシアの手に、マグノリアの物静かな手が重ねられた。冷たくなった拳を両手で持ち上げて、彼女は静かに膝を寄せる。


「シリウスは貴女の後ろ盾にはなりません。むしろ貴女のその強さを、いずれ来るであろうシリウスの御世でお借りしたいのです」


 マグノリアはいつも顔を飾っている笑みを取っ払って、ただ実直にそこに居た。

 だが痛いほどの視線からフェリシアは顔をそむける。


「マグノリア様、それは私じゃありません」


 手を押し返し、立ち上がる。


「私にだってやり返したい気持ちはいっぱいあるんですよ。父や兄を殴ってやりたい気持ちは私にだってずっとありました。でも、出来ないんです。ただ出来なかっただけなんです」

「フェリシア?」

「だってそんなことしたら、倍、三倍になって返って来るんじゃないかって思ったら怖くて、だから素直に従っていただけ。本当は誠実なんじゃない、強くもない、私ただの臆病者なんです!」


 言いながらに、フェリシアの心臓は早鐘を打っていた。こんなことですら、マグノリアが相手ですら、言うことが恐怖でしかなかった。

 シリウス相手に仕返ししないなどとは言ってみても、外からは見えないだけで確かに汚濁はあった。それが分かって、悔しくて、フェリシアは涙を零す。

 しかしマグノリアは長い白銀のまつ毛を伏せてしばし考え込んだ後で、微かに首を傾げた。


「勇気がないから、貴女は考え続けていたのではないのですか。どうしたら外に出られるか、何度も何度も想像力を働かせて、考え続けたのではないですか?」

「だとしても心の薄汚れた臆病者に変わりはないんですよ!」


 言葉を置き去りにして、逃げた。

 マグノリアの寝室から続きの部屋へ、駆けこむと音を立てて扉を閉める。急いでベッドにもぐりこむと、真新しい毛布を頭から被った。

 やけに柔らかい毛布で、いっこうに安心感が得られずにもぞもぞと動きまわる。軟弱な手触りと洗い立ての香りに包まれながら、フェリシアはいつも使っていたごわごわの毛布を思い出した。


「明日は何としても自分の部屋に戻ろう」


 その晩は、浅い眠りと居心地の悪い夢に挟まれ、何度も暗い天井を見た。一向に寝た気がしないまま、気が付くと朝になっていた。

 長雨の原因、がけ崩れと火事の処理、そして辺境伯家の断絶と当主とその息子の死亡、さらに新しい伯爵家の創設。準備万端整えていたノアの手によって、次の日から全てのことが当然のように歯車が回り始めた。

 もはやフェリシアにはノアの手伝いを少しばかりする程度で、何をしなくても勝手に整えられていく。いきなり変わった周囲の反応に、馴染む努力以外にやることがない。

 部屋の片づけと雑務にひと段落して、まとまらない頭を抱えながら、敷地の中をぶらぶらと歩く。物は試しにとシシラ川を見に行くと、見慣れた水量よりもかなり水かさが少ないことに驚いた。


「少ないなら、まぁいいのかな?」


 土砂の掻き出しを手伝おうとすれば使用人たちから「危ないから結構です」と避けられ、すれ違いざまには深々と頭を下げられる。行き交う人々は、誰が主なのかをすでに認めて、フェリシアを見かけるたびに道を開けた。たった一日で全て手の平返しだ。それがまた何ともやりきれない。

 物思いにふけりながら逃げ歩き、気が付くとユキワリが燃え死んだ辺りに立っていた。狭い谷間にいくつもの建物が並ぶ敷地内で、ちょうどそこだけは建物がない。聞けば、マグノリアがユキワリを燃やすために、開けた場所に誘導したのだという。

 それはちょうど、フェリシアの母が崖崩れに巻き込まれて死んだ裏庭があった場所だった。


「偶然とはいえ、出来過ぎじゃないかしら」


 灰は崖の下で黒い小山になっていた。あれほど猛威を振るった巨体も、炎の前には無力だった。


「ユキワリも苦しかったのかな」


 灰の山の近くにしゃがみ、顔の中央から斜めに走る傷を指でなぞる。傷は彼女の心を苛む一つの象徴だったが、あくまで象徴でしかない。


「考えるのって、こんなに辛かったっけ」


 抱え込んだ膝の中に顔を埋めた。

 崖崩れがあった裏庭は、あのあとディオンの手によって取り潰されて空き地になっていた。フェリシアもあの時の裏庭の光景をほとんど覚えていない。記憶にあるのは父の激怒した顔と、黒い二つの目だ。

 二つの黒い、まるで黒曜石のような目。


「……そうか、あれって蛇の目だ」


 脱皮を手伝って覗き込んだ蛇の瞳は黒曜石のように柔らかな黒い光を放っていた。それをどこかで見たとずっと思い出そうとしていたが、ここへきてふと思い出す。

 三歳で生贄失敗と言われ、九歳で人殺しと言われ、傷物と蔑まれ、十五で今度は二回目の生贄失敗。やはり呪いか祝福かと問われれば、フェリシアには呪いとしか思えなかった。


「これのどこが皇妃にふさわしいって言うのよ」

「話を聞いたのか」


 全く足音が無く突然声が投げかけられた。

 驚いて立ち上がり、振り返るとシリウスが立っていた。薄氷のような瞳がこちらを見つめている。不思議といつもの嫌悪感を剥き出しにした表情ではなかった。


「知らなかったのは私だけみたいですね。通りで嫌われているわけですよ」

「知ってはいたが、お前を嫌うのは婚約者候補だからではない。燃石の姫だからだ。私は科学産業が好かん」


 シリウスは転がっていた黒っぽい石を蹴り飛ばした。それは燃やすには少々混ざり物が多そうではあったが、どう見ても燃石を含んでいる。べったりした黒が目に焼き付いた。


「私はこの国に殺されたくない」


 彼の告白は唐突だった。

 蹴り飛ばした石を睨み、静かに顔を歪めている。まるで天敵を見るような目つきだった。


「母上に似て私の肺は弱い。それに拍車をかけているのが都の近郊にできた科学産業の工場から出る排気の煙だ。あれが私を苦しめる。撤廃してくれるように頼んでも父上もお爺様も産業大事で聞く耳など持たぬ。だからそなたとの婚姻が嫌なのだ」


 シリウスの独白を聞きながら寒さ震えて立ち上がると、空から白いものが舞い降りてきた。手をかざすと触れたところから溶けていく。

 ここで死んだユキワリも元は同じぐらい白くてきれいなキノコの精霊だったはずなのだ。せめて死に場所を綺麗に化粧しようというのか、冬の使者が静か舞い降りてきていた。


「随分と早いではないか……」


 シリウスは曇天を見上げながら曇る息を吐き出した。山の北に向かって指を指し示す。


「あの向こうの国から私の母上は参られた。アルミラ帝国と関係を保つために帝室に投げ入れられた人質だ。だが母上は二度と国を見ずに亡くなられた。……私は母上の故郷へ行く」

「それって、つまり」

「亡命するつもりだ」


 初めてシリウスがフェリシアに笑いかけた。あまりにも悲しそうに笑うので、フェリシアは首を大きく横に何度も振った。

 すでに彼は、崩れかけている。


「国を捨てちゃ駄目です」

「そうではない、お爺様と父上の国が私を切り捨てたのだ」

「それでも駄目です。またいつか戦争になりでもしたら」

「落ち着けフェリシア、戦になどならん。それにこの話はそなたにとっても美味い話のはずだ。婚約相手がいなくなる、この意味が分からぬそなたでもあるまい」


 雪を見上げながらシリウスはユキワリの燃えカスの周りを歩き始めた。

 彼の存在がこの国から無くなればフェリシアの価値は一変する。帝室が手に入れたいのはグロー領に眠る燃石の鉱脈であって、彼女自身ではない。フェリシアそのものの資質を重視しているのはマグノリアぐらいだ。

 フェリシアの存在は、帝室にとってはただ産業発展のためのトリガーに過ぎない。


「私の仲間が今日、グローライトに入った。明朝、関所を超えるつもりだ。……もしこの際だから、一緒にどうだ?」

「……え?」


 一瞬、何を言われているのか分からず、咄嗟に差し伸べられた手をまじまじと見た。


「なんと?」

「一緒に行かないかって、誘ってるんだ」


 再度同じことを言われても、フェリシアの頭には理解が追いつかなかった。

 シリウスの言っていること自体は分かる。自国を見限って他国に亡命するにあたり、一緒に行かないかと言っている。

 しかしながら、理由は一切分からなかった。

 何なら先日直接嫌いだと言われたばかりだ。フェリシアの方からも嫌いだと言ってある。

 それがどうしてそうなった。

 彼女は自分の頭が可笑しくなったのかと、一度は頬をつねってみた。だが夢から覚める気配もなく、もちろん思考に可笑しな点が見つかることもない。


「何を馬鹿なことをおっしゃって……?」

「そうだな、我ながら変だとは思う。だがそなたとは何となくうまくやれそうな気がするんだ」

「私、殿下のこと嫌いって言った人間ですよ?!」

「大丈夫だ、私も未だにそなたのことは気に食わない。だが共闘するのは別だろう?」


 憑き物が取れたみたいにさっぱりとした笑顔を向けられて、フェリシアはたじろいだ。


「フェリシア、一緒に外の世界を一緒に見に行かないか?」


 差し伸べられた手が、もう一度ぐいと前に出た。思わずその手から数歩逃げ、フェリシアは顔を歪めて首を横に振る。

 二人の間を凍える風がすり抜けて行った。


「私はいずれ、自分の意思でここを出ます」

「本当にそれは、外か?」

「そんなの出てみなきゃ分からないでしょう」


 パンと軽い音で、手を弾き飛ばす。叫び声は雪に遮られて遠くまでは響かなかった。焼け跡で拒絶がむなしくくぐもる。

 シリウスは弾かれた手をさすりながら、不満そうにため息を吐いた。


「残念だが、では黙っていることだけは約束してくれ。婚約話が無くなれば、そなたを縛るものは今度こそなくなるはずだ。私たちは互いに、己の正しいと思う道を進めばいい」


 目を合わさずに彼はフェリシアとすれ違い、火事の跡地から歩いて去っていく。握りしめた手に雪が絡みついていた。

 最後にフェリシアの背中へ言葉が投げつけられる。


「それでも、マグノリアは譲らぬぞ」


 言葉には黙して、フェリシアは答えなかった。

 周囲には他に誰の姿もなかったが、それでも押し黙って全てが過ぎ去るのを待った。

 あとは彼が勝手に亡命をして婚約話は無くなるのを待てばいい。シリウスはマグノリアを連れて行こうとするだろうが、彼女自身は毒でも盛らない限りは動かないだろう。彼女を連れていけるかどうかはシリウス次第、フェリシアの知るところではない。

 ノアの落胆は容易に想像できたが、他方では領地の立て直しに本腰を入れられるようになる。きっと悪いことばかりではない。

 ここ数日のことは全ておとぎ話だったのだ。そう思うことで、すっぱり忘れようとその日は早めにベッドの中に潜りこんだ。

 翌日、シリウスと共にマグノリアの姿も忽然と消えた。

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