第6話 不可逆なるもの

 フェリシアの意識が戻ったとき、辺りは真っ暗だった。鼻につく刺激臭と土と水の臭いが肺に充満する。息が苦しくて腕を動かそうともがいた。


「よかった、気が付きましたか」


 妙なことに崖崩れに巻き込まれたにもかかわらず、フェリシアは柔らかい人の体に挟まれている感覚があった。声はマグノリアのもので間違いない。


「どう、なったん、ですか?」

「顔を伏せて、岩が動かせそうなので」


 マグノリアらしい体の持ち主がもぞもぞと動き出すのが分かった。

 しばらくしてゴリゴリと岩を動かす音がして、上から泥が落ちてくる。そむけた横顔に冷たい泥を浴びることしばし、一筋の光が束になり頭の上が大きく開いた。新鮮な空気が流れ込んでくると、真上に崩れた建物と流れる雲が見えた。


「上の岩が小さくて助かりました。しかし何と、派手に崩れたことか」


 先に隙間から抜け出したマグノリアが右手を差し伸べてくれたが、その指先から赤い液体が滴っていた。


「マグノリア様、腕が!」

「あらま」


 差し伸べたのとは逆の左腕は力なく垂れさがっていた。マグノリアは言われて初めて気が付いたのか、差し伸べた手を一度引っ込めて自分の肩口に刺さった木を引き抜く。鮮血が噴き出したが、一顧だにせずに微笑んでいた。


「この程度、たいしたことはありませんよ」


 フェリシアは自分の頭からつま先までの感覚を全て把握し、擦り傷以外にはさしたる痛みが無いことを確認する。彼女の手には頼らずに隙間からはい出た。


「早く手当てを!」


 マグノリアの傷を確認しようと触れた途端、彼女の腕の骨が音を立てて動いた。流れる血も急速に量を減らしていく。

 呆気にとられている間に、潰れかけていた腕に力が戻り、マグノリアは左腕を持ち上げて手を開いたり閉じたりして見せた。


「埒外の者だと申し上げたでしょう。この程度では大した傷とは言えないのです」


 彼女が腕まくりして見せたのは、傷口がうごめきながら塞がっていくところだった。まるで体から傷を追い出すかのように、肉や皮がミチミチと音を立てて繋がっていく。

 言葉を失くしたフェリシアは、その傷が消えるまでうまく焦点を合わせることができなかった。

 人体書籍、それはアルミラ帝室が有する本の精霊、魔法世界の住人、人ならざる者。彼女はつまり――。


「ほん、もの……?」

「まさかこんな形で知られるとは思いませんでした。どれだけ生きても思い寄らぬことが起こるものですね、これだから人生は楽しい」


 フェリシアが腰を抜かすよりも、彼女の腕が支える方が早かった。青ざめたまま見上げると、マグノリアは少し悲しそうに微笑んでいた。


「しっかりなさいませ。息のある者たちを助けましょう」


 諭されて周囲に目を向けると、そこはすでに議場などではなかった。振り向いて初めて、フェリシアは自分が辛うじて岩と岩の間にできたわずかな隙間に入っていたことを知った。

 マグノリアは集まってきた使用人たちに指示をしながら、自身も周囲の岩や石をどけ始めた。泥を掻くスコップを振るいながら、見える範囲で生きている者から掘り出していく。

 フェリシアもようやく足腰に力が入ると、自分の近くに埋まっていたノアを掘り起こす使用人に手を貸した。彼は辛うじて生きていた。意識はなかったが息はあるのを確認し、ほっと一息つく。

 その手に噛みついたものがあった。


「いたっ」


 フェリシアは咄嗟に手を振って、その何かを振り払う。

 まるで虫のように、気が付くと周りには白い不定形の小さな精霊が群れを成して這っていた。あちこちから悲鳴が上がる。


「なにこれ」


 目を凝らすと猟師小屋で見かけたキノコの精霊だった。なだれ込んだ泥の中から這い出して、顔も無いのに辺りにいる人に手あたり次第噛みついている。


「なに、なんなの? 気持ち悪い……」


 立ち上がり、手の甲で口を覆ってたじろぐ。精霊はその場にいる人の剥き出しの肌目掛けて。無差別に襲い掛かかっていた。まるで蛆の群れが獲物を狙うかのようだ。

 意識なく寝かされていたノアも、すでに無数の精霊に群がられている。


「怪我人を早く外へ運び出して、泥から遠ざけなきゃ」


 裾で手を包み、フェリシアはノアから白い精霊を叩き落す。すると精霊の噛み傷から血が流れた。


「こいつ血を吸ってるんだ!」


 苛立って踏みつけても靴を退かした途端に動き出す。際限なく土中から湧き出す白い精霊に手をこまねいていると、彼らは近くの個体と互いに手を取り合い、体が溶け合って一つになった。見る間に一回り、二回りと体を大きくしていく。


「マグノリア様、これは一体何ですか⁈」


 泥と岩と折れた木、うめき声と叫び声、鼻腔の奥に突き抜ける腐臭に近い土の臭い。雨が止んで全て解決したはずなのに、目の前に広がる光景は日常には程遠い。フェリシアは白い精霊を踏みつけ、時に手で払いながら頼みの綱を振り返る。

 そのマグノリアは荒れ果てた部屋の中央で、こめかみに指を当てて立ち尽くしていた。

 左の袖からはカーバンクルが胴体のほとんどを出して威嚇している。おかげで小さな白い精霊は彼女に取り付けないでいたが、それも劣勢だった。


「マグノリア様!」

「ノーラ!」


 怒声響く現場に、甲高い少年の声が響いた。それでようやくマグノリアが反応する。


「なぜあなたがここに」


 宿泊している南東の棟で、シギと共に待機していたはずのスズメが駆けてくる。後ろを慌てた様子のシギが付き従っていた。

 少年は律儀にも小さな白い精霊たちを踏まないように足を運び、彼女の元へと駆け寄る。


「土砂崩れはこの精霊たちが原因か?」

「ここは危険です。シギ、外にお連れしなさい」

「今回はどのように助けるのだ、彼らは何を欲している?」


 緊迫した中で少年は嬉々としていたが、マグノリアは残念そうに首を横に振った。


「恐れながら、もはやこの精霊は真っ当ではありません。殺す以外に手立てがございません」

「そんな、そんなことはないだろう? ノーラなら救えるだろう?」

「残念ですが殿下、例え精霊学の書籍と言えども、不可能はございます」


 殿下と呼ばれた少年は酷い落胆を越して、軽い絶望の表情をしていた。

 だがフェリシアは耳を疑った。


――殿下、ですって?!


 殿下と敬称で呼ばれる人は、この国には数えるほどしかいない。しかし間違いなく少年はそう呼ばれ、しかも否定しなかった。

 フェリシアが答えを求めてカラスとシギを見ると、二人は顔を見合わせる。ややあってから、カラスの方が口を開いた。


「こちらは今上帝ダバラン陛下のご皇孫、シリウス・キャニス・アル・マヨリス・アルミラ殿下でございます」


 フェリシアは自分の頭のてっぺんから、血の気が引いていくのが分かった。彼と何を話したのか記憶が真っ白になり、ともかく嫌われていることだけが鮮明に思い出される。

 その少年が今、緊迫した土砂崩れの現場で猛烈に駄々をこねていた。


「頼むノーラ、精霊を殺さないでくれ」


 決して命令ではなく、声色は懇願に近い。しかし頑としてマグノリアは首を縦に振らなかった。

 フェリシアは衝撃から立ち返り、視線を泳がせる。周囲で蠢く白っぽい精霊が泥水をかき集めながら、徐々に集合して一塊になろうとしていた。

 彼ら精霊は、人間とは違う生き物という意味で、人間の尺度で推し量ればどれも真っ当ではない。小山ほどある喋る蛇も真っ当ではないし、のたうち回る白いカビのような精霊も当然ながら真っ当な生き物には見えない。

 だがあの蛇を殺さず、この小さな白い精霊は殺さねばならないと彼女が言う理由が、フェリシアには全く分からなかった。


「殺しても大丈夫なんですか……?」


 フェリシアの疑問に対して、マグノリアが答えるよりも早くにシリウスが叫んだ。


「大丈夫なわけがあるか! これは人間の身勝手が悪なのだ、口を慎め馬鹿者!」


 張りのある罵倒にフェリシアの方はただ目を丸くする。だが結局、何の理解も進まない。

 無言で取り乱していると、シリウスをたしなめたマグノリアが続けた。


「雨が止めば元通りになると思いたいところですが、そうはいかないのが自然の摂理です」

「なんで、ですか?」


 病のように、原因を取り除けば治るものだと考えていた。周囲の人々も同じく首を縦に振っている。雨が止めば全てが順調な季節の巡りに戻ると思っていたフェリシアは、理解が追い付かずに表情を硬くする。

 なぜという言葉が頭いっぱいに埋め尽くしていると、マグノリアは憂いを帯びた眼差しで大きくなりつつある白い精霊を見た。


「長らく降っていた雨水はどうなっていたと思いますか。期間で見積もっても例年の三倍の量の降雨です」

「それは、川へ流れるのでは」

「街中を流れていた川の水量はそこまで多くもありませんでしたし、濁りもありませんでした。つまり山のどこかに水が溜まっているか、あるいは誰かが山から水が溢れ出ないように、保っていたということです」


 キノコは湿気が多いと生えてくる。事実、足元で蠢く彼らの白い肌はしっとりと濡れていたし、土砂から染み出る水分を必死でかき集める様子は健気なほどだった。

 小さな精霊一柱が蓄えられる水量はわずかでしかない。しかしこれら全てから水を搾り取ったら、いったいどれほどの量になるのか、全く想像がつかない。


「まさか、この小精霊たちが?」


 フェリシアの見える範囲だけでも、小精霊は両手に抱えられないほどいた。にもかかわらず、精霊を気味悪がる声はさらに遠くからも聞こえ、収まる気配はない。崩れた土砂に乗って膨大な数の精霊がなだれ込んできたのだ。

 それらは元々全て、山に居た精霊たちだった。


「当人たちはそんなつもりはなかったとしても、本能に従って大量の雨水を蓄えていたのでしょう。それが結果的に山が崩れないよう、川が氾濫しないように支えていたということです」

「でも雨は止みましたよ?!」

「フェリシア殿、残念ながら逆なのです」


 背後では白いキノコの精霊たちが、互いに手を取り合って、大きく形を変えようとしている。なのにマグノリアの声は至って静かだ。


「いきなり雨が止んでしまったから、増えるだけ増えた彼らが生きるのに必要な量の水が足りなくなってしまった。……皮袋がいったん伸びきってしまうと、もう元には戻れないのと同じです」


 巨大な白い塊がうごめきながら、徐々にその全貌が明らかになる。

 のっぺりとした顔らしきところに二つの穴が開いていて、逃げ惑う人間たちを捉えた。


「この子たちはいきなり止んだ雨で失った分の水を求め、山を崩して這い出してきてしまった。しかもここには、折よく水分が埋まっています」

「埋まって……?」

「お分かりになりませんか。人間の体は半分以上が水分でできておりますのよ」


 フェリシアが息を飲んだ瞬間、大きな塊になった白い精霊が体から何本もの根を伸ばした。

 その先端が地面に突き刺さり、じわじわと赤く染まっていく。木々が水を吸い上げるように、精霊は赤いものを吸い上げ始める。


「血の味を覚えた精霊はもう戻れません。我々も血を吸われぬように逃げなければ」

「埋まっている人はどうなるのですか!」


 必死の訴えにもマグノリアは首を横に振る。でも、と食い下がる間にも、足元の黒い泥から水分が抜けて太陽の光が反射し始める。

 尋常ではない速度でキノコの精霊は周囲から水分を吸い始めていた。


「ともかく全員、水の少ない足場へ逃げてください!」


 マグノリアに手を引かれ、フェリシアは崩れた会議室から退室を余儀なくされる。少し離れたところまで来て振り向くと、大きな精霊の体がぶるっと震えて、また一回り大きくなった。


「いいえ、これは、本来の動きと違う……?」


 離れたところから、マグノリアは精霊の巨体を突き刺すように見ていた。こめかみをトントンと人差し指で二回叩く。

 足元のぬかるみが小さくなり、泥が黒光りする。血と水と一緒に泥まで吸い上げ、純白に近かった精霊の体が黒く染まっていった。


「違うとはどういうことだノーラ、説明せよ」


 周囲の人間たちのざわめきを押しのけて、シリウスがマグノリアの横顔に言葉を投げつける。

 書籍として正統な持ち主に命じられると、彼女は目を細めて青い空を見上げた。


「わたくしの記憶が正しければ、ですが」


 こめかみにあった指先が空を滑り、トントンと二つ虚空を叩く。フェリシアが見るのはこれが三度目だ。

 マグノリアの書が三度みたび開かれた。


「あのキノコの形を模した精霊は、白い頭部形状と雨水に宿る性質からユキワリと呼ばれる種であると同定いたします。特別な名を持つ固有種でなく比較的低位の精霊で、各地の山岳や山林地で生息している一般種に該当いたします。水を司る精霊ですが、好んで宿るのは土中にある淀んだ水です」


 マグノリアは一人、記憶の中にある本の世界に没入していった。


「本来は大きく移動をする種ではありません。ユキワリは群体で数メートルから大きくとも数十メートル程度の輪を描くように発生するため、古くは『精霊の輪』や『異世界の扉』、『妖精の休憩所』と呼ばれ、何らかの精霊の残滓と考えられておりました。しかし帝歴二百六十八年、アケルナル帝が編纂を命じられた『精霊大全・中巻』にて、精霊の残滓ではなく精霊本体であることが記載されました。それから約五十年後、『精霊大全』の第一回改訂の際には具体的な生態が追記されました」


 フェリシアはこの時、不覚にも周囲で起こっていることを忘れた。

 並外れた情報量の多さに追いつくことに困難を感じながらも、ある種の快感を覚える。単純に話を聞くのが楽しいと思ってしまった。

 カラスとシギは開示される情報の書き取りをこんな時も欠かさないが、彼らは特別、情報の中身を吟味している様子はない。一方でマグノリアからあふれ出る知識の奔流に曝さらされた使用人たちは、ある者は言葉の途中で、またある者はほとんど最初の方で、言葉の意味を拾い上げて理解する努力を手放していた。

 言葉はよどみなく続く。


「『精霊大全』第二版より抜粋、要約いたします。ユキワリは土中に水の淀む場所を見つけて飛来、固着し、個体が分裂と増殖を繰り返しながら同心円状に数を増やしていくとされています。しかしユキワリ自身は本来あまり歩かないため、根を伸ばした範囲から水が無くなると霧散して死ぬか、次の水場を求めて他所へと飛んで行ってしまいます。古い個体、つまり群体の中心部から徐々に姿を消していくということです。そのためユキワリを発見する際には環状に発生している状況であることが多く、このことから『精霊の輪』と呼ばれていました」


 マグノリアはここで一度瞼を持ち上げた。

 話をしていたマグノリア本人ではなく、周囲から止めていた息を吐き出す音が漏れる。情報の多さと難解さから、特に勉学に精通していない平民は、慌てふためくのを通り越して茫然としていた。聞きなれない単語の音だけが右から左へと流れて、その流れを追うだけで精いっぱいだ。

 そんな疲弊した観衆をよそに、マグノリアは目の前で土中の水分と埋もれた人間の血液を吸い上げるユキワリを睨みつけた。従来とは異なる姿を取る、凡庸な下位の精霊に視線がくぎ付けになる。


「ここからは別種のある精霊族の生態と合わせた、わたくしの推測です。そのため正誤は不明です。それをご理解したうえでお聞きください」


 記憶ではなく、推測。

 その言葉の違いに、フェリシアは顔をしかめる。


――今回のユキワリの行動は、今まで観測されたことがない……?


 経験則で知っている人、あるいは伝聞として知っている人はどこかにいるのかもしれない。しかしながらそれを体系的にまとめた精霊に関する記述は存在しない。

 これは新たな事案であり、もしかしたら今後マグノリアが何かに記載、あるいは知識として彼女の頭の中の書庫に収蔵するのかもしれない。

 それが栄誉なことなのか、はたまた不名誉なことなのか、判断はできなかったが興味は惹かれた。


「許す、続けよ」


 シリウスが頷くと、マグノリアは言葉を紡ぐ速度をやや緩めた。


「それでは、わたくしの推測が正しければですが」


 彼女はもう一度、空を見上げて赤紫の瞳を閉じて、開く。彼女本人にしか見えていない本を、優雅な指がまたなぞり始めた。


「不定形でありながら移動ができる十八種の土の精霊が属するショゴスというグループがございます。俗称であるスライム族という名の方が、ご存じの方が多いかもしれません」


 少しだけ緩くなった口調とは裏腹に、声色は冷え切っていた。人形とも見紛うほどの不気味な静けさだ。

 フェリシアは瞬きを忘れ、彼女の口元を食い入るように見つめる。


「このスライム族の精霊は宿主を探すために地面を這うように移動いたします。この不定形の移動方法については帝歴五百七十一年発行のマテオ・リー著書『オクシド山野絵図』の二十一から三十五ページに詳しい図解がございますので、資料が必要な際にはそちらを見てくださいませ。『オクシド山野図』は帝立図書館の三階、四十八番棚の二段目にございます」


 ここまでくる間にほとんどの人が人体書籍の取り扱いから脱落していた。大量の脱落者の中にあって、確実に言葉の意味を捉えて食らいついていくのは至難の業だ。

 それが可能なのはほんの数人しかいないが、マグノリアの方は周囲の反応が薄いことを気にする様子もない。あるいは誰かが聞いていることも気にならないのか、彼女の知識は溢れ続けた。


「このスライム族の習性と今回のユキワリの行動を照らし合わせてみると、今回のユキワリの異常行動の原因を、強引ですが一つ導き出すことができます。異常行動を起こす前のユキワリは普通の個体群でした。しかし三か月にもわたる長雨により、司る雨水が全く減少しない稀な状態に長期間晒されました。これによりユキワリは本来の環状発生から、山全体を覆うように増殖したものと考えられます。恐らく陸上で群体を形成する精霊では、観測史上最大の規模です……わたくしの記憶が正しければですが」


 フェリシアはユキワリを見かけた猟師小屋での出来事を思い出した。よくよく思い返すと、猟師小屋で見たユキワリの群体は周囲一体、見える限りびっしりと生えていた。本来の発生であれば、円や円の一部として弧を描いて見えるはずだ。

 ところがあの一帯全て、山の入り口から山頂に向けて雨の届く範囲全てにユキワリが発生していた。確かにあり得ない話ではない。


「ところが雨はついに止み、ユキワリにとっては司っていた雨水が一気に減じました。巨大な群体を維持できる水が無くなったら、それを求めに動くのは必然ですが、先ほども申し上げた通り、本来彼らは動くことはありません。ですから徐々にユキワリは霧散していくはずですが、ここで先ほど説明したスライム族との接触があったのではないかと考えられます。あのユキワリ群体の不定形のままの移動様式は、スライム族の移動形式と酷似しています。また、山中で観察したユキワリの群体の中に、種類は同定できませんでしたが、何らかの別の精霊が混在している様子は確認しております」


 動かないユキワリと動くスライム、この二つが出会った時に何が起こるのか。

 フェリシアはその答えに胸を膨らませている自分に気付いて唇を噛んだ。皆が困っているこの状況で、ただの一人だけ彼女の話に食い入るように聞いている自分がいる。

 それを恥ずかしいと思ったが、もう一人だけ自分と同じ顔をしている者がいた。シリウスだ。嬉々として彼女の話を聞いている皇子がいる。

 あまりにも不謹慎な心持ち反面、どうしてこんなに楽しい話を聞かないでいられようかという、相反する気持ちがせめぎ合った。


「一般的には知られておりませんが、精霊には精霊同士の交流がございます。つまり水の精霊のユキワリと土の精霊のスライム族が、山の中で出会って交流することは十分にあり得ます。その際に、ユキワリに対してスライム族が手助け、あるいは水を得るための解決方法を教授したとすれば、群体移動をするユキワリの説明はつきます。ちなみに精霊間の交流による事案は様々な書籍においても複数の報告があり、有名なものは南から渡って火鳥サンズゥーと名前持ちシーサーペント・モーガウルが交流の末の闘争に発展し、大規模な水蒸気爆発が海上で起こしたファルマス湾爆発事件などをあります。事例が膨大なため割愛いたしますが、参考資料が必要な際には別途ご用命ください」


 最後にとって付けたように言ったそれで、幾人かの使用人は『あれか』という顔をした。

 ファルマス湾爆発事件は歴史書にも書かれる有名な精霊災害の一つで、精霊同士の喧嘩によって近隣の港町が一つ消し飛んで丸い湾が出来た事件だ。被害が大規模な精霊災害の例として、一般庶民にも良く知られている。

 フェリシアもその事件は知っていたが、その理由までは知らなかった。ユキワリが歩く謎が解けて多くの人が満足感に浸るなか、フェリシアは腕を組んで考える。


――じゃあ、こんなに大きくなったユキワリはこの後どうするんだろう? 山一つ分の精霊なんて、水なんていくらあっても足りない。


 マグノリアが話を始めてから、しばらく経つ。

 その間もユキワリは根のように泥に突き刺した部位から、絶え間なく水分と血を吸い上げている。


「ここの水が無くなったらどうなるノーラ」

「また水を求めて移動すると考えるのが妥当です」

「一番近い水場はどこだフェリシア」


 シリウスに前触れなく話を振られて、慌てて声が裏返る。


「一番近いのは川です、屋敷には池も何もありませんし……」


 川から直接生活用水を引いている屋敷に、貯水槽のような物はない。他にまとまって水があるのは、近場だとシシラ川だけだ。

 万が一、この場の水を吸い尽くしたら、次に向かうのは川。


「この巨体があんな細い川を塞いだら、すぐに溢れて低い土地が沈んじゃいます!」

「そうです。ユキワリの巨体をバラして山へ戻せない以上、この場でどうにか仕留めなければなりません。ですから殺すしか方法が無いのです」


 ユキワリはさらに数を増し、倍ほどにも膨らんでいた。根の数も増えて、赤と黒の液体で膨張する体は、破れた天井から外側に突き出している。


「助ける方法はないのか」


 こんなデカブツをどうやって殺すのか呆然と見上げていた面々が、信じられない物を見つけたようにシリウスを振り返った。

 当然のように命令じみた口調で繰り返す少年に、無表情のままマグノリアは再度目を閉じた。


「人の血を啜った精霊は、わたくしの記録の限りでは八例ございますが……、いずれも討伐されております」


 書籍たる彼女をもってしても頭の奥底に堆積した記憶の砂泥から、皇子が所望する宝石を見つけることはできなかった。答える表情からは何も読み取れない。額にはうっすらと汗が浮き出ていた。


「質問を変えよう、血を吸った精霊はどうなる?」

「ユキワリと同種や、近縁種にそのような記録はございません。まったくの別種では『狂った』との記載がございます」


 マグノリアの白い額から汗が零れ落ちた。

 暑いわけはない。晴れてはいたが、雨上がりと同時に大地の熱が逃げ、昨日から急激に冷え込んできている。

 だが彼女の様子には構わず、シリウスは質問を続けた。


「狂った精霊はどうなる」

「精霊の種類によります。ユキワリ本来の行動と一致するのであれば、取り込んだ水分がなくなり、体が維持できなくなった時点で死んで霧散するか、あるいは飛散して次の宿り場所を見つけるはずです。飛散する場合、次の固着地にも被害が出る以外に、飛散する際に植物の種のように弾けるため、この巨体だと小規模な爆発になる可能性がございますね」


 最後の方は早口になりながら、どうにか言い切ったところでマグノリアの膝が床を叩いた。

 慌てた様子で彼女の背をシギがさする。冷や汗滴るこめかみを繊手が抑えた。激しい頭痛なのか、彼女は苦しそうに頭を抱え、肩を震わせながら大きく息をした。


「ノーラ、砂糖は?」

「不覚にも土砂崩れの際に失くしまして」


 ようやく彼女の不調が糖分切れだと気が付いたシリウスは、慌てて周囲を見回す。だがこの場には菓子など高価なものを持っている人間はいない。ただでさえ砂糖は貴重な物だ。こんな災害時に、最前線に持ってくる奇特な人間はいなかった。


「カラス、シギ、お前たちも持っていないのか!」

「申し訳ありません、今ここには」

「何のための護衛か!」


 マグノリアは荒く息を重ねる。苦しそうな音に気持ちが煽られて、フェリシアは自分のことのように拳をギュッと握った。あれほど気丈だった彼女が、苦しんでいる姿を見ているのが辛い。思わず目を逸らした。

 だが逸らしたところで荒い息使いは聞こえ続ける。フェリシアは逃げるように身をよじり、調理場の方へと向かおうとした。


「お砂糖取ってきます!」


 珍しく大きな声を放つと身を翻した。その時。


「いいえ!」


 服の裾を掴む手があった。


「要らない。少しすれば大丈夫、今はその方が、たぶん、いい」


 息を荒くしながらも、マグノリアが顔を上げた。赤紫色の瞳には不思議と力がある。


「でも」

「フェリシア」


 あまりにも強く言葉と視線が貫くので、裾を掴まれたフェリシアは空間に縫い付けられたように動けなくなった。吐き出す彼女の口調は、いつぞやのように鋭い。


――雰囲気が、変わった……?


 手足に鉛でも流し込まれたように、フェリシアは動きを止める。静かに彼女の言葉を待った。


「別に糖分が足りなくなっても死ぬわけじゃあないのよ。ただ、その……の性格を維持できなくなるというか、その、性格が色々と面倒というか……あーっもう、鬱陶しい!」


 声を荒げた彼女は、顔についていた泥を乱暴に手でごしごしと拭った。険しい顔になる。

 どんな時でも余裕と笑みを絶やさなかった美女が、鬼のような形相をしていた。

 幼い頃フェリシアは、山賊退治に赴く兵士たちを見送ったことがあったが、その時の彼らと似ている。見えない敵を睨み付ける目がぎらぎらとしていた。

 マグノリアは支えるシギを乱暴に振りほどいて立ち上がると、高そうなヒールの靴を蹴り飛ばして脱ぎ捨てる。動揺するシギの軍靴を指さして「寄越せ」と怒鳴った。

 ついさっきまで丁寧が服を着ていたようなマグノリアが、まさに正反対ともいえる口調と所作で軍靴を奪い取る。

 何が起こっているのか分からないまま、フェリシアは使用人たちと共に成り行きを眺めていた。カラスとシギは少し慌てた様子はあったものの、この不思議な現象に努めて冷静に対処していた。


「どうするつもりだノーラ」


 シリウスもまた彼女の性格が豹変することを知っていたようで、緊張した面持ちだったが逃げ腰ではない。マグノリアは悪くなった目つきを彼の方へと向けると、わざとらしく意地悪に顔を歪めた。


「燃やして殺す」

「ノーラ!」

「ユキワリは水と一緒に崩れた大量の土砂を巻きこみながら移動しているはずだ。ここの土砂に何が含まれているか、シリウスは分かってンだろ?」

「殺さずに済む方法はないのかと聞いている!」

「そんな穏やかな方法があるなら、私が出張る理由はねぇよ」

「そうじゃなくってっ」

「いい加減にしろ! てめぇは一体いつまで精霊の肩持つつもりだ!」


 押し黙った皇子をマグノリアは見下ろして凄んだ。本来誰にもできない所業であり、不敬罪で首を刎ねられてもおかしくはない。

 だがそんなことが、実際に目の前で起こっていた。

 あまりの変わりようにフェリシアは両手で顔を覆い、まさしく文字通り開いた口がふさがらなかった。ただただ変化の激しさに仰天する。同一人物という認識の方が危ういぐらいだ。


「あのなぁ、シリウス。てめぇは精霊を助けるのが全てにおいて正しいと思っているみたいだが、それは大きな間違いだ」

「なんで? 正しいだろう?」

「お前こそ馬鹿か? これは戦争だ。ユキワリが生き延びるか、人間様が生き延びるか、そういう縄張り争いしてんだぞ?」


 それでもシリウスは分からないと、ぶんぶんと頭を横に振る。しばらく沈黙していた柄の悪い美女は、はぁと大げさにため息を吐いて真っ白な前髪を掻き揚げた。


「もう知らねぇ。優しくしてもらいたきゃ都に帰れ!」


 面倒くさそうに舌打ちをして使用人の一人に油を、もう一人には馬を一頭連れてくるように指示した。その勢いで振り返り、今度はフェリシアの方へ言葉を飛ばす。


「フェリシア! 渡したファイアスターターはどこにある?」


 突然話しかけられ、思わず一歩後じさりした。覇気とでもいうのか、今の彼女からは見えない圧力を感じる。

 嫌な感じはしなかったが、得体のしれない恐ろしさがあった。物怖じしながら、荷解きしていないサックを思い出す。


「部屋に、あります」

「持ってきてくれ。火種が必要だが水が怖い。悪いがカラスはガキのお守で手一杯みてぇだしな」


 靴を取られたシギは足場の悪い場所から遠ざかり、カラスの方はふて腐れる皇子の傍から離れよることができない様子で、フェリシアに頭を下げる。

 大丈夫できる、と無言で頷き返すと、彼女はにやりと大きく笑った。彼女の笑みはいつものたおやかなものと全く違う。今は泥だらけて武骨で少し怖いが、温かくて大きい。粗野な雰囲気のマグノリアに、フェリシアはもう一度頷き返した。

 そこへ沈黙を破ってシリウスが割り込む。


「私は! 私は何をすればいい!」


 ふて腐れた口調で少年は言い放つ。ただ自分一人、取り残されるのが嫌で叫んでいる子供の声だった。

 明らかに足を引っ張る皇子に、ほんのりと剣呑な気配が立ちあがる。それに気が付かないシリウスは、無視して動き出そうとするマグノリアの腕に絡みついた。


「都に帰れっつったろ」

「嫌だっ! 私はノーラを絶対に手放さないと決めたんだ!」


 絡みついた腕を軽く振るが、少年は振りほどかれないようにぎゅっと彼女の腕を抱き込む。


「ふざけるな!」


 マグノリアは自分の腕を力づくで振りほどき、間髪入れず少年の頬を張った。ぱぁんと乾いたいい音が響き渡る。

 まさか叩かれると思っていなかったシリウスは呆気にとられて硬直した。その彼の呆けたきれいな顔の左横すれすれを、今度は拳が通り抜け、背後の壁に音を立ててめり込む。素手とは思えないほど大きく鈍い音で陥没し、少年は目を見開いたまま尻餅をついてわなないた。

 無様な様子を見下して、マグノリアは腰に手をやる。


「そんなに精霊が大事なら勝手に心中でもしてろ、たわけっ!」


 言い放つと背を向けて、シギから帯剣すらもぎ取った。抜き放たれた白刃を確かめた彼女は、中段に構えるとユキワリの巨体を横一線に振り抜いた。

 その動きは剣術に心得がある者の動きではなく、ただ筋肉に任せて剣を動かしているだけに見える。しかし鉄の切っ先は伸びきった精霊の胴部を深く切り裂いた。マグノリアは傷痕に顔を突っ込んで、素早く内部を検分する。

 断面には何か器官があるわけではなく、巻き込んだ土砂や草木が隙間に大量に挟まっているだけだ。ユキワリの断面と巻き込んだゴミ、それらをつぶさに観察してマグノリアは後ろに一歩跳ねて距離を取った。

 切り裂かれた傷は、ゆっくりとだが着実に塞がっていく。


「大丈夫だ、これなら燃やせる」


 逃げながらマグノリアは足元から一つ石を拾い上げ、怯える使用人に投げた。その石は真っ黒で少し油ぽい変な臭いがした。


「土砂の中からこれと同じ石を集めろ! 大きいのも小さいのも取り交ぜて全部、それさえあればこいつを燃やせる!」


 手近にあった石を塞がりかけたユキワリの傷口に放り込む。ユキワリの体は黒い石屑を体に取り込んでまた彩度を落とした。


「さあ、お前たち気張れッ! このデカブツを燃やすぞ!」


 手を力強く二回叩くと瞬間、糸をぴんと張ったように全員の意識が張り詰めた。腹に力を込め、フェリシアも自分の責務を全うするべく走り始めた。



 マグノリアの指示通り、フェリシアは自室へと急いだ。

 途中には建物が崩れた土砂の下敷きになっている凄惨な現場がいくつもあった。土砂崩れは複数個所あり、まだ崩れる気配がある。どうやら崩れた場所は敷地の外から続いている。ユキワリは山の方からずっと、土中を耕すように崩してこちらへ来たらしい。

 しかし、これら全てがあの小さなユキワリの仕業かと思うと、眩暈がするほどの崩落の量だ。


――あんな大きいものに、いったいどうやって火をつけるつもりなんだろう。


 敷地内は崩れた土砂と、ユキワリが抱えていた大量の泥水で大規模なぬかるみがそこかしこに出来ていた。あんな水で膨れた巨大な精霊を燃やすならば大量の油が必要になるはずだ。ところがマグノリアは、油は瓶三つ程度でいいと指示していた。


――いや、今は細かいことは考えちゃだめだ。


 脚を動かし続けながら、ぶんぶんと首を横に振る。

 想定外だったのはフェリシアの後をシリウスがついてきたことだった。付き添いで困り顔のカラスも一緒についてきていた。

 ただ彼は無言で付いてくるだけで、とやかくいってくる気配はない。それだけが唯一の救いだった。

 不安を覚えながらも自室のある西棟にたどり着き、一気に階段を上って三階へとたどり着く。勢いよく自室の扉を開けて、放置してあった荷物に飛びつこうと、部屋に駆け込んだ。

 中には人影があった。


「お義姉様?」


 オパールが椅子に腰かけてお腹をさすっていた。

 足元には少ないフェリシアの家財道具の全てがぶちまけられている。


「フェリシア、なんで」


 いつも連れている侍女二人の手によって、フェリシアの粗末な箪笥の中身が引き出され、小さな文机の引き出しの中身が逆さまに、ベッドの下に隠しておいた本まで掻き出されて散乱していた。

 どう見ても部屋を物色している最中だ。


「私の部屋でいったい何を?」


 乱雑に物が散らばった部屋を唖然と見回してフェリシアは問うが、答えは無い。

 向けられたのは単純な敵意だった。


「フェリシア、ファイアスターターは……、って何だこれは!」


 少し遅れて追いついたシリウスも入り口で急停止する。背後に控えたカラスがシリウスの声に咄嗟に前に出た。しかし荒らされた部屋を見るなり、申し訳なさそうに顔をそむける。

 後から部屋に飛び込んできた少年の顔を見て、オパールが目を細めて訝しんだ。

 だが次の瞬間、ハッと息を飲んで机を平手で叩く。バァンと大きな音をさせて彼女は立ちあがり、聞いたこともないような声で叫んだ。


「そういう、ことかっ!」


 オパールは息をするのも忘れたように、フェリシアとシリウスの両方を交互に睨んだ。膨れ上がる殺気に、カラスが再度手を広げてシリウスを庇う。

 だが大の男を前にしてもオパールは引かず、頬から額にかけてを痙攣させ、どんどんと目が吊り上がった。義姉から憤怒の溢れ出る様子に、フェリシアはたじろぐ。

 そんなフェリシアには目もくれず、オパールはシリウスを指さした。


「どこかで見た顔だと思えば、まさか皇子殿下か!」


 シリウスは否定も肯定もしなかった。

 おかげで確信を得たオパールは、悔しそうに何度も握り拳を机に打ち付ける。恨みがましそうな顔で睨んで、幾度も「なんてこと」と繰り返す。


「病弱でほとんど外廷に出てこないから忘れていた……ああ、私はなんて、ひどい見落としを……!」


 義姉の鬼気迫る様子に驚いて。フェリシアは声無く立ち尽くしていた。一方のシリウスは臆した様子はあったが、首を傾げながら応じる。


「インデラの、宮廷で会ったことがあったか?」

「そちらは気が付いていなかったでしょうけど、遠目に何度かね……。いえ、かなり前とはいえ、気が付かなかったのは私の失態だわ……」


 オパールは顔を歪めながら、椅子に腰を落ち着かせる。大きなお腹をさすりながら、シリウスのことを改めてねめつけた。


「どうやらあなたのおじい様と、私の父は同じものを欲しているようね。でも先に眼を付けたのは我がインデラよ」

「何の話だ?」

「それをあなたのおじい様、皇帝陛下に横流ししようとノアが今回の茶番を演じたってところかしら……見返りはグロー領の爵位だけかと思っていたけれど、皇子殿下が直々に出向くということは、さらにその先まで見据えてのはかりごとと考えて差し支えなさそうね?」

「私はおじい様の使い走りでグロー領へ参ったのではない」

「はっ、口では何とでも言える」


 シリウスと応酬をしながらオパールはゆっくりと立ち上がる。荒れた部屋の中をゆったりと歩き、荷ほどきしていなかった登山の荷物に手をかけた。

 フェリシアが、あっと声を上げる。

 たゆみなく喋りながらオパールの手が、フェリシアのくたびれたサックをまさぐった。そうしておもむろに黒い棒を取り出す。


「憶測の真偽はさておき。何か脅せる材料でもないかと思ったが、そちらの探し物はこれかしら」


 黒い棒をゆらゆらと振って見せながら満面の笑みを浮かべる。ファイアスターターだ、フェリシアの探し物がオパールの手の中で揺れた。

 だが一度瞬きをしている間に、それは開いた窓の外へと放り投げられた。

 弧を描いて、ゆっくりと黒い棒が落ちていく。

 目で追うことが出来ても手が届くことはない。目の前には散乱した家財と本と、壁の様に立ちはだかるオパールの侍女が二人。手を伸ばしても到底詰められる距離ではなかった。

 マグノリアから貰ったお守りが窓の外に姿を消す。そこへ突き刺さるのは義姉の高笑いだ。


「いい気味だこと!」


 その言葉がフェリシアの中の砦を崩した。良心を堅固に守っていた壁が音を立てて瓦解する。


「お義姉さま!」


 叫んで、フェリシアははじけ飛ぶようにオパールの方へ一歩踏み出した。侍女二人がサッと前に出る。

 だがそこでぴたりと動きが止まり、その場にいた人間は微動だしなくなった。

 ふうふうと怒りに染まる息が、フェリシアの口から洩れる音がする。その様子を満足そうに、残念そうに、たっぷりの憐みの表情でオパールは見る。

 彼女は今一度椅子に座りなおして、大きなお腹をさすった。


「フェリシア、あなたのことは嫌いじゃなかった」

「そんなおためごかしッ!」

「本当よ、そんな怖い顔しないで」


 涙に濡れかけた目でフェリシアは義姉を睨む。ところがオパールから棘のある笑いが消えると、残っていたのは哀愁にも似た表情だった。


「あの男の妹なんて、どんな愚鈍な娘かと最初は本当に何の期待もしていなかったのよ。なのに蓋を開けてみれば、まさかだった。顔に傷は聞いていた通りだったけど、あなた自身は機転も利くし飲み込みも早い。本当に、本当に驚いたんだから……」


 怒りに髪を振り乱し、生まれて初めて敵意を向けた相手から、憐みを掛けられる。

 屈辱的だが、意外でもあり、同時に悲しい。フェリシアにとって五年前から自慢の義姉で、数少ない同志だったその人は、丹念に言葉を探しながら話を続けた。


「フェリシアにはまだ分からないかもしれない、……いや、傷のあるあなたには一生分からないことかもしれないけれど、どこへ行こうが私たちに在るのは地獄だけよ」

「どの口が」

「実家の利益のため好きでもない愚かな男に嫁がされ、見知らぬ土地で貧乏生活を強いられて、その男の子供まで生むのよ。でも、こんな地獄にあって、あなたは救いだった。あなたみたいな子に会えるなんて思ってもみなかった。あなたのことを、嫌いになれるわけがないじゃないの」


 つうっと彼女の頬に涙が伝う。オパールは怒りの表情はそのままに、音も無く涙を流していた。

 義姉の相反する二つの感情に、フェリシアは混乱をして立ち尽くす。やがて侍女たちも警戒を解いて半歩下がった。


「でもどれだけ努力しても上手くはいかなかった。愚かな夫と義父を動かすのは酷く難儀なのに、遠く離れたインデラ領の父からは催促しかない。しかもそれが今になって、全部あなたとノアに横取りされるですって? そんなこと許せるとでも?」


 侍女たちさえうなだれるなか、オパールだけは背筋を伸ばして矜持を保とうとしていた。彼女はとても優秀な女性だから、我慢することで様々な苦難に耐えられるのを知っていた。耐えて耐えて、頑張って頑張って、だがその努力を認める者が一切いない上に、全てを失おうとしている。

 そこまで追い詰められても、彼女は諦めて頭を垂れなかった。負けを認めようとはしなかった。


「でも、……いいえ、だから。これまでの努力が全て無駄になるぐらいなら、私の手に入らないなら、いっそのこと、あなたの手からもすり抜けてしまえばいい」


 フェリシアはオパールを羨望の眼差しで見ていた。一方で、オパールもまたフェリシアをささやかな心の支えにしていた。

 方や顔に傷を負って貴族の娘として使い物にならなくなったからと虐げられたフェリシア。方や父親の欲望のために道具になったオパール。どちらの方がましな人生という話ではない。

 フェリシアはずっと、美しい亜麻色の髪の義姉を羨ましく思っていた。領内でその美貌は誰もが認めるところだったし、兄にとっても自慢の妻、すごい女性だと思っていた。なんて恵まれた、貴族の娘として良い人生を送れる女性だろうかと義姉のことを心底羨んでいた。

 しかしながら、彼女の心の叫びを聞いてしまった今となっては、義姉と不幸合戦をする気にはなれない。義姉には義姉の事情があり、事ここに至っても義妹の部屋の物色までして自分の役割を果たそうとしている。フェリシアにはこれ以上、彼女を責める気はなれなかった。願うことなら、もう一度出会うところからやり直せたらというその思いで背を向ける。


「……分った」


 フェリシアは息を切らして上がってきた階段を、同じ勢いで駆け下って行った。

 後ろ姿を追おうとする者は三人、シリウスと侍女の二人だ。だがオパールは彼らに「待ちなさい」と声をかける。

 三人は振り向いて、無言で涙を流しながら義妹を見送る彼女を見た。


「誰も、あの子の邪魔はしないであげて」

「ではなぜ投げ捨てた?」


 侍女たちは困惑しており、シリウスは明らかに苛立ちながら彼女を咎める。しかしオパールはきっぱりと首を横に振った。

 その目には強い光が浮かんでいる。


「もしあの子が、探し物を見つけられるなら、グロー領を手中に収めるに相応しいということでしょう。下は長らく手入れされていない茂み、その中から見つけられるほどの運と根性があればね」

「……愚かな」


 シリウスは軽蔑の眼差しで吐き捨てて、フェリシアの後を追うように階段を下って行った。カラスも無言で後に続く。侍女たちは不安そうにオパールの元に戻り、身重の彼女の背中をさすった。


「ようやく私の役目も終わりね。……五年か、長かったわ」


 オパールの表情から何もかもが抜けきる。窓の外には嫌味なほど爽やかな青空が広がり、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。



 フェリシアは階段を一段飛ばし駆け下って外に出ると、建物の裏手に回った。オパールがファイアスターターを投げ捨てた窓を上に確認する。そこは腰より高く手入れのされていない茂みが、枯れかけた蔓草を絡ませていた。

 だがその中へ臆さず入り込み、傷がつくのも厭わず、大切な黒い棒を探す。似通った太さと長さの木の枝を何度も投げ捨てながら、本物を探し求めた。

 彼女が茂みの中で服の裾をひっかけながらもがいているところへ、遅ればせながらシリウスも駆け寄る。ところが最初こそ手伝う様子を見せていたが、明らかに茂みに入るのを躊躇していた。


「何でついてきたんです?」


 義姉への怒りとも悲しみとも言えないものを持て余していたフェリシアは、思わず目の前で右往左往する彼を睨む。


「なんでって、その……」

「いずれ敵になる相手の様子見ですか? それとも精霊を殺したくないから邪魔しに? ああ、それともマグノリア様を取られたくないからって、嫌がらせでもしに来られたんですか」 


 慣れぬ煽り文句も、今のフェリシアにならば言えた。だがそのまま睨み続けることはできず、目を逸らすついでにファイアスターターの捜索に視線を戻す。

 ガサガサと大きな音を立てて枯れかけた低い庭木を掻き分けていると、シリウスは焦れ込むように言葉を放った。


「お前、悔しくはないのか。あの女をなぜ野放しにしておく、裏切られたのだろう?」

「なんだ、そんなこと」


 フェリシアは視線すら上げない。


「……手伝う気が無いのなら、気が散るのでどっか行ってください。カラスさんが困ってますよ」

「話を逸らすな!」

「殿下って仕返ししないと気が済まないお方なんですね」

「そう言うお前はそれで満足なのか、フェリシア!」


 普段は誰も立ち入らない西棟の裏手に、大きな声が響いた。白っぽい家壁に声が反射する。

 遠くにはユキワリとやり合う喧騒が聞こえていた。早く行かなければならないと言うのに、でもフェリシアは手を止めて顔を上げる。


「それをしちゃいけないのは、私が一番よく知っているんですよ」


 シリウスの吠え声を蹴飛ばすようにフェリシアは低い声を出した。人間の言葉が低い唸り声の様に響く。まるで動物の威嚇音の様で、シリウスは生唾を飲み込んだ。

 フェリシアは茂みから大股で彼の方へと歩み寄る。カラスが慌てた様子で駆け寄るも、それを手で押しのけた。

 怒る右手が一度持ち上がる。だが震える必死の左手に抑え込まれた。


「私、皆嫌いです。ずっと虐げていたお父様も、馬鹿な妹を持ったって被害者面するお兄様も、裏切ったお義姉様も、生贄になれって言う領民も、皆嫌いです。気にかけてくれる叔父様は好きだけど、でも大事なことを隠していたのはちょっぴり許せない」


 だろう、とは言わなかったが、聞こえてくるような顔でシリウスは彼女の顔を覗き込んでいた。

 でも、とフェリシアは言葉を続ける。


「でも嫌いだからって、仕返ししたり、見殺していいわけじゃない」

「なぜだ、どうして自分を虐げて裏切った奴をかばう?」

「それを許したのが父や兄です。……父や兄から見たら、私は落石に母を巻き込んで殺した罪人なんですよ」


 シリウスはハッと息を飲んだ。

 フェリシア自身もそれを口に出したことはあまりなかった。だが常々思っていたことを口に出してみて、ようやくの実感を得る。


「事故、だったのだろう……?」

「がけ崩れは事故だったとしても、そこへ母を連れて行ったのは間違いなく私です。覚えてますもん。私が精霊の声を聞けたから、母が死んだんです」


 納得しがたい表情でシリウスは口を噤んだ。納得などできるわけがないだろう。だがフェリシアにとっては、それだけでも十分な返事だった。彼女だって怒りに駆られて、右手が持ち上がったのだ。

 ただ怒りや恨みを覚えても、飲まれて動けば父や兄と同じになる。それだけは自分に許さないために、フェリシアはオパールに何も言わずに背を向けて出てきた。

 これで当面は静まってくれるだろうかと、少し自分よりも背の低いシリウスを見た。

 すると意外にも彼は真顔に戻ってフェリシアを見上げる。


「ではフェリシアは、私のことも嫌いか?」

「ええ、嫌いです」


 即答すると、背後でカラスがぷっと噴き出した。慌てて弁明を続ける。


「だってユキワリに身内が喰われている人間が目の前にいるんですよ、それなのにユキワリを生かせなんて。好きになれるはずがないじゃないですか、どれだけ想像力が欠如しているんです? 偽善ぐらい装ってくださいよ」


 最後まで言ってしまってから、さすがに言い過ぎたかと背を向けた。だがいまさら謝罪しても遅かろう。公式の場なら即拘束されてもおかしくない。

 ならば何もかも一切かなぐり捨てて、ともかくファイアスターターを探したい。その一心で再び茂みに入ったフェリシアの後ろで声がした。


「安心しろ。私もフェリシアのことは嫌いだ」


 そんなことは分かっていますよ、と憎まれ口くらいは叩いてやろうかと振り向く。

 カラスが佩いていた剣を奪い取ったシリウスが、抜身の長剣を構えていた。


「ひっ」


 無礼討ちといっても、まさか今この場でとは思っていなかった。啖呵を切った勢いはどこへやら、フェリシアは茂みの中に尻もちをつく。


「だが!」


 ザンと音がする。

 長剣は真横の低い庭木を見事に切り倒していた。


「今は手伝ってやる! 今だけだぞ」


 シリウスはぷいと顔を背け、枝を広い場所へ引きずって行った。そこでばさばさと振るう。


「もっと効率の良い方法を考えろ馬鹿」


 振るわれる枝の間から、黒い棒が転がり落ちた。

 転がるように駆けていき、フェリシアは慎重に人差し指と親指で摘まみとる。すべすべとした感触の黒い棒に革紐が付いている。まぎれもなくマグノリアからもらったものだ。


「あ、あった! あった、あった、あった‼」


 嬉しさのあまり何度も確認する。木の枝ではない、ちゃんと本物のファイアスターターだ。

 それを握りしめ、気が付いた時には駆けだした。礼を言うのも忘れて北の建物へ、その足に迷いはなかった。



 崩れた土砂に足を取られながら走り込んできたフェリシアを見て、マグノリアは破顔する。


「よくやった!」


 彼女は約束の物を受け取ると、興奮する馬を破れた壁の外側に引っ張った。連れてこられた馬は、目の前の得体のしれないどす黒い巨大な塊に怯えていななく。

 フェリシアが行って帰ってくるまでの間に、ユキワリは平屋建ての建物の高さの優に二倍、周径も同じぐらいの大きさに膨れ上がっていた。大小さまざまな石を取り込んだのか、体の色も灰色を通り越して黒ずんでいる。わずかに白く残すのは頭の頂点のみ。


「お前も、ごめんな」


 マグノリアは汗ばむ馬の首筋を撫でる。彼女は左の袖口に視線を這わせ、油断なくあたりを警戒していたカーバンクルに目配せをした。

 次の瞬間、馬は鋭く短い悲鳴と共に首から血しぶきを上げて倒れる。

 風の爪で深く掻き切られ、鋭利な傷から溢れた血はあっという間に川を作った。その流れをマグノリアの白い手が掬い取り、八方に伸びたユキワリの根に振りかける。

 電撃が走ったようにユキワリの体が震えた。


「この味だ、お前はこの味を覚えているな」


 フェリシアのいない間に、議場に流れ込んだ土砂はその水分のほとんどと失っていた。ユキワリの本体に近いところではすでに、吹けば飛ぶほど乾いていて、土が白っぽくなっている。

 新たな水の気配と覚えたての血の味がする方向を見つけたユキワリは、土砂に差し込んでいた根をゆっくりと抜いて移動を始めた。

 進行方向へ体から足のような突起物が滑るように足伸びて着地、その上にたわんだ図体がじわりと移動してくる。これを繰り返しながら馬の死体へ徐々に迫った。

 ユキワリはついに建物の外で極上の餌を見つけ、横倒しになった馬の上に完全に覆いかぶさる。その満足そうに丸みを帯びた胴体にマグノリアは油の小瓶を三つ投げ掛けた。ひ弱なガラスは音を立てて割れて黄色っぽい油が滴る。マグノリアは取り巻く人々に手を振って下がらせた。

 剣を右手に、ファイアスターターを左手に持った彼女は、赤黒くに染まったユキワリの真横に立った。体を小さく丸めて風避けにしながら油がかかった部分でファイアスターターを擦った。ふわっと火が上がる。


――でもあんな量の油じゃ、全部を燃やすことなんかできない。


 確かにファイアスターターは鉄製の剣で擦れば多少濡れていようが火花を散らすことは可能だ。方法としては間違いではない。だが油が燃え尽きてしまうと燃料が無い。

 と、思っていた。

 燃えないはずだった。

 マグノリアが立ちあがって逃げると、彼女がいた場所を包み込もうとユキワリがもがいている。

 嗅いだことのない異臭がした。木を燃やしている臭いに近かったが、香ばしさの中に油っぽい嫌な臭いが混ざる。周りで見ていた者たちは思わず鼻を覆った。


「何この臭い」


 ユキワリの黒っぽい色の体の周りを逃げ回りながら、マグノリアは何カ所も火をつけていく。ユキワリも燃やされては敵わないと、自分の体で火を押し潰していくが、マグノリアの方が速い。

 次第に巨体から黒煙が立ち上っていった。

 大きな熱に飲み込まれ、巨大な精霊の塊に完全に火が付く。それでもやはり、フェリシアにはどうやって燃やしているのかさっぱり分からない。

 人々が集めるように言われていた黒光りする石を足元の土砂の中から拾い上げ、首を傾げて立ち尽くしていた。そこへようやく追いついたシリウスが並び、口元を袖で覆って顔をしかめて咳込む。


「それは燃石もえいしだ」

「もえいし?」

「燃える石、正体は木の化石らしい。薪や炭などよりもよっぽど強い火力がでる、科学産業で使う燃料だ。富を得たい貴族たちは、燃石の鉱脈が喉から手が出るほど欲しいんだ。……もちろん帝室もな」


 まじまじと黒い塊を見る。フェリシアは石が燃えると言われてもピンとこなかった。だが実際に今、黒い煙を吹き出しながら、仮にも水を司る精霊を燃やしているのはこの燃石に他ならない。

 帝室が欲しがり、オパールの実家インデラもが欲しがっているものの正体だ。


――グロー領が取り合いになる理由、こんなものが。


 見る人が見ればこれは真っ黒い宝石なのだろう。辺り一面に流れ込んだ土砂には燃石が多く含まれていて、崩れた崖を見上げれば太く黒い帯状の層がある。言われたことを真に受けるならば、領主の館の後ろにそびえ立つ山が丸々大きな資産ということだ。

 実感が湧かないフェリシアは黒い宝石を地面に無造作に放り投げた。手に燃石の黒い跡が付く方がよっぽど嫌だった。

 顔面に迫る熱に立ち尽くしていると、急に火の勢いが強くなる。ユキワリが苦しげに大きく立ち上がった。


「ノーラは?」

「まだあの中に」


 強くなる炎と一緒にマグノリアはユキワリの傍にいる。遠巻きにしている観衆の方へ戻ってくる気配はない。彼女は火の回りを確かめつつ、燃えるユキワリに何か語りかけていた。


「ノーラ、戻れ!」


 シリウスは大きく咳込みながら前へと出た。黒煙を上げる精霊の方へと、前のめりになって駆け寄ろうとする皇子を、カラスとシギは手で繋ぎ止める。


「お前たち、人体書籍が燃えてもよいのか!」

御物ぎょぶつより殿下をお守りするのは当然のことです」


 カラスの言葉は完全に冷めていた。フェリシアも愕然として、燃え盛る精霊の巨体に向かって叫んだ。


「マグノリア様!」


 見上げるほど大きな火柱から、人影がひらりと舞い出てくる。腕の袖から顔を出しているのは小麦色の毛並みと額に赤い宝石を持つふさふさの小精霊だ。カーバンクルはムッとしながら彼女の体を風で覆い、自分の身と共に主を守っていた。

 人とは思えないような軽い動作で舞い降りると、彼女は煤けた指でそのカーバンクルの頭を撫でてやる。彼女の指にこびりついた煤が自分の自慢の毛並みにもついたことに、カーバンクルは身をよじって袖の奥の方へと姿を消した。


「そんなバカでかい声出さなくても聞こえてるって。この程度の火で死んでたまるかアホ」


 マグノリアは煤のついた頬を擦りながら、ふんと鼻を鳴らした。

 無事だった様子を見てシリウスがさらに激しく咳きこむ。フェリシアは思わずその背をさすった。


「これ以上吸い込むんじゃない。お前には毒だ。おい、このクソガキをちゃんと遠ざけておけと言っただろうが」


 咳込む少年を使用人たちに託し、マグノリアは一人、炎にもだえ苦しむユキワリに向かう。

 フェリシアは追いかけて横に立って彼女の顔を覗き込んだが、今一つ表情が読み取れなかった。悲しみとも怒りともつかない顔だ。赤紫の瞳には、声の一つも上げられずに体をよじって苦しむユキワリだけが映っている。

 ある時は貴婦人、ある時は学者、ある時は奔放な女傑、彼女はいくつもの顔を持っている。


――本当に、あなたは一体何者なんですか。


 ラァ・エル・マグノリアを理解することは難しい。

 その彼女が精霊の方から、ようやく人間の方を振り向いた。苦笑いをしながら頭をかく。


「ねえ悪いんだけど、甘いもんお願いしていい? そろそろさすがに頭痛がしんどいわ」

「ええ、はい!」


 フェリシアは頬を緩ませた。

 その後、彼女は角砂糖を立て続けに三十個、口に流し込んだ。時間にしておよそ二分。甘味と激闘する彼女を、フェリシアは顔を引きつらせながら見守る。

 食べ終わったマグノリアは開口一番、「しばらくは甘いものは食べたくありませんわ」と穏やかにのたまった。

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