第5話 返す手の平

 夜間の下山を避け、いったん猟師小屋まで戻った。また湿気た薪をカーバンクルに乾かしてもらって湯を沸かす。スズメは同じ間違いをせず、今度は太さの様々な薪を持ってきた。二度目の食事もまた蒸かしたバタイモを温めなおし、付け合わせは鹿の干し肉だ。硬くて食べづらいが、あぶると香ばしい匂いが小屋一杯に膨れ上がった。

 一瞬で食べ終わったフェリシアはあっという間に眠気に襲われ、かろうじて残っていた意識で荷物から毛布を引っ張り出す。体に巻き付けて小屋の片隅に倒れ込んだ。

 次に気が付いた時には小屋の端でシギとマグノリアに挟まれていた。二人を起こさないよう静かに体を起こす。少し離れたところに男性陣が同じように雑魚寝をしていた。

 閉じた木戸の外からは、もはや雨音は聞こえてこない。風が木々の隙間を軽やかに駆けていくざわめきが聞こえていた。合わせて大きないびきが合唱している。

 だが暗闇に目を凝らすと、いびきの真ん中に囲われているはずのスズメの姿が見当たらなかった。

 雨が上がったとはいえ、秋から冬に転がっていくこの季節。フェリシアは寒さに身震いして毛布を巻き付けて立ち上がる。音を立てないように小屋を出ると、同じように毛布に包まった少年が座っていた。

 満天を仰いでいた彼が物音に振り向く。音の主がフェリシアだと気付くと、彼は落胆した顔をすぐに空の方に戻した。


「素晴らしい星空だ、アーミラリィでは見ること叶わない」


 彼の視線の先には星空があった。長く続いた雨が空を清めたのか、今日は一段と美しい。小さな星の揺らぎまで手に取るように見えた。


「星空は宝石のようだと聞いたことがあったが、宝石なんかよりもずっと美しい。そなたもそうは思わないか?」


 言葉に詰まったフェリシアは見慣れた星空を見上げた。月はすでに西の空に消え、より一層星たちの瞬きが明るく見える。その星々を見ながら、オパールが結婚式で着けたティアラとネックレスの宝石の輝きを思い出してみた。だが黒に見紛うほど深い紺青の空にちりばめられた星たちは、確かに綺麗ではあるがあまりに小さ過ぎて、どうもぱっとしない。

 かと言って、嘘を吐くのも気が引けた。仕方が無いのでスズメが目を輝かせている隣で曖昧に首を傾げる。するとスズメは口を尖らせた。


「物言える口があるのに、言わないやつは嫌いだ」


 大きな風が一つ、また山林の合間を駆け抜けながら木立を揺らす。フェリシアと彼の間にある大きな隔たりも風が通り抜けた。

 ざわめく木々の間に、昼間見た小さな白っぽいモヤのような精霊、ユキワリがあちこちに頭を出している。ユキワリの群れの中に様々な精霊が混ざっており、お互いに一定の距離を保ちながら気持ちよさそうに揺れていた。非常に穏やかな風景だ。

 昼間見た時よりも数は減っていたが、小屋の周囲見渡す限りに精霊の姿がある。精霊にも野次馬根性などというものが、もしかしたら存在するのかもしれない。

 だとしたら見られているのはフェリシア自身だ。


「そんな気に障るようなこと、私、しましたか」


 会って間もない少年から向けられる敵意に、逃げ場を無くして顔を背ける。常にぴりぴりとした視線を受けているだけでも、ひどく疲労した。近くにいるだけだというのに、スズメはまるで牙をむくかのように終始威嚇していた。その理由が単に嫌うだけとは思えず、彼女は頭を悩ませていた。

 確かにフェリシアの大きく傷の走る顔は、普通の人の目には醜く奇異なものに映る。可哀そうと言われることはあっても、好かれることはまずない生い立ちだ。

 だが、それはそうとしても、会って数日でこれほど嫌われるというのもまた珍しい。

 それでも藻掻こうと決めた彼女がなけなしの勇気を振り絞って言えることは、誰も指摘しない少年の素性のことだった。


「それに私が口を噤む理由ぐらい、あなたなら十分に理解できるはずなのでは」


 必死で傷を隠そうと長めに残した前髪をかき上げ、歪に伸びる傷をあらわにした。これで想像はつくだろう、彼はおそらく貴族だから分からぬはずがない。

 今までの言動から、彼がカラスやシギのような人体書籍の管理者ではないのは自明だった。そのことに、仮にも貴族の家で育ったフェリシアが気付けない方が難しい。

 彼の正体は武官見習いというのは偽りで、正体はどこかの貴族の子弟といったところ。どこの誰とまでは分からないが、傷のある貴族の娘の扱いぐらいは知っているはずだ。

 案の定、彼はうつむいた。


「……それは、すまない」

「いえ。私の方こそ、自分が見るに堪えない顔なのは分かっていますから」


 乱暴に前髪を戻し、しかしフェリシアは途中で手を止めて少しだけ前髪を横へ流した。人には分からない程度に少しずつだが、傷痕を外に出す。

 誰かへの反論も誰かからの奇異の目も、酷い苦しみが伴う。それでも蛇神を前にして生きのびたフェリシアは、それが単なる徒労に終わらない可能性に少しだけ心が救われていた。

 それに雨の外側から来た彼ならば、まだしも話が通じる可能性がある。その可能性に賭けて声を震わせた。


「仲良くしてほしいとは言いません。……けど、嫌いだからって邪険にされるのは、私だって、嫌です」


 今まで通りなら、相手の気分に合わせて縮こまって、嵐が去るのを待っていた。そうやって父や兄からの仕打ちに耐えてきた。

 だからこの声は、初めての反抗だ。

 思い描いた通りに言えたわけでもないし、そもそも本当に言いたい相手でもない。でもようやくできた意思表示に、ばくばくと拍動する胸の辺りをギュッと抑えて目をつぶった。


「それは、すまぬ……」


 消え入りそうな微かな謝罪に、フェリシアは意を決して顔を上げた。スズメは一瞬だけ浮かない面持ちを見せたが、一呼吸する間に元の険しい表情に戻る。薄氷の色をした瞳が、下から穿つように睨みつけていた。


「だが、そなたにマグノリアは渡さぬぞ」

「何の話ですか」

「いずれそなたと私は敵同士になる」

「な、なんて……?」


 あまりに唐突な話に、言葉の意味をはかりかねた。ただフェリシアが疑問を挟む余地もなく、スズメは立ち上がり言葉を続ける。


「その時が来たらお前にも負けない。ノーラは誰にも渡さぬ、私のものだ」


 戸惑って言葉無く立ち尽くしていると、スズメは毛布で自分の体を包み直し、再度星空に向かう。横顔は異様に張りつめていた。


「どうしても相容れぬ相手というものが、世の中には居るのだ。そなたなら存分に理解していることと思う」

「それが私……ですか?」

「私にとって、辺境伯の娘であるそなたは――」


 彼は何事か言葉を続けようとしたが、寸でのところで思いとどまってしまい、その先がフェリシアに届くことはなかった。小柄な少年の影が、無言のまま小屋の中に引き返していく。あまりに中途半端な終わり方に、フェリシアも何と声を掛けて良いか分からないまま彼の背中を見送った。

 凍てついた少年が去ってから、思い出したように肩で息をする。


「やっぱり難しいですよ、マグノリア様……」


 傷痕を指でなぞる。痛みはないが夜風が沁みた。

 翌朝、戸板の隙間から差し込む光でフェリシアは目を覚ました。目を細めて明るい方を向く。光の正体は朝日だ。久しく朝に光を見ていなかったせいか、朝日で朝を認識するまでにかなりの時間を要した。

 外に出て冷える指先に息を吹きかけると、息は白く濁って立ち昇り消える。朝の冷え切った空気が湿り気を含んで土の臭いを運んできた。清涼感のある山の空気が静かに枝を揺らす。


「いきなり冷え込んだなぁ」


 他の人が起き出した音を聞いてフェリシアは小屋の中へ戻り、三度目の食事の準備を始めた。

 荷物の残りは北東地方の平民の間でチュニャと呼ばれる保存食だった。バタイモを雪の中で発酵させ、春先に掘り出して輪切りにしたものを縄で連ねて軒先に吊るす。春から夏場にかけて干したチュニャはすっかり水分が飛び、黒ずんで軽く嵩張らない。生のバタイモが底をつく時期、貧しい北東の民はこれを塩茹でにして食い繋ぐ。

 そのなけなしの蓄えを盛りつけた器を、スズメはカラスの方に突き出した。


「やる」

「いや、しかし……」


 押し付けられたカラスが困惑した表情で手の中に納まった器を見る。食べ逃せば館に帰るまでは水以外ない。口には出さないが、だったらよこせと彼の残したものにマティスの視線が釘付けになった。

 ところが緊迫した室内でスズメのお腹がくぅと自己主張する。静まり返った猟師小屋の中に響き、彼が決して満腹ではないことが周囲に喧伝された。

 顔を紅潮させて、少年はうつむく。


「わがままはなりません」


 カラスの手の中でおろおろしていた器をマグノリアは取り上げて、スズメの手に戻した。


「だってこれ、本当に食べ物なのか?」


 彼の文句を聞いて、ようやくフェリシアはこの少年が見た目の悪い黒ずんだ食べ物に忌避したことを理解した。空腹と見た目を天秤にかけ、彼は見た目を取ったのだ。


――食べ物だったら本物の貴族相手でも、余裕で勝てそうだな……。


 昨夜のやり取りを思い出し、フェリシアはチュニャのグニグニとした食感をあえて楽しむ。慣れれば美味しいものなのだが、南にはもっと美味しいものが溢れているのだろう。

 グロー辺境領を含む帝国の北東の地域はコゾ麦の栽培には不向きで、パンを作るコゾ麦は他領からの輸入に頼る高級品だ。よほどのことが無ければ毎食イモ料理が続く。

 戻ってきた器とスズメはしばらく睨み合っていた。他の者たちは黙々と食べているだけで、彼を諌めることも無ければ擁護することもない。ただ咀嚼音だけが聞こえる。


「お食べなさい」


 すでに完食したマグノリアの戒めるような口調に、彼はようやく小さな塊を口に入れた。半分ぐらい食べたところで力尽き、残りは手ぐすねを引いていたマティスが一口で腹に流し込んだ。

 食事を終えた一行は昨日雨の中を苦労して登ってきた山道を、今度は楽々下り始める。登りはフードから垂れる雨水が顔に当たるのを避けるために下を向いて歩いていたが、その必要が無くなりあたりを見回す余裕があった。雨の山道ではもっぱら足元に気を付けるばかりだったが、今度は山が冬支度を始めている様子を確認する余裕すらある。

 木々に残る葉は茶色と黄色の間をしていて、紅葉に間に合うかどうかは分からなかった。このまま落ちてしまうかもしれない。それでも葉が落ちれば養分になり、来年の実りに繋がる。


――ちゃんと間に合うかな……?


 雨が止めばおのずと季節は進み始める。問題は他の生き物がその変化に追い付けるかどうかだ。収穫期を逃したバタイモは諦めるか、味は劣るが全部チュニャにするしか方法はない。

 しかしボンは違う。ボンの収穫時期は晩秋、摘み取った赤い果実を干して脱穀をした種の部分を出荷する。食料にはならないが、食料を買う元手にはなる。

 ただ実を干す作業に意外と時間がかかるため、帰ったらボンの成熟状況を色々な畑で確認しなければならない。特に日当たりの悪いところに植えたものが心配だ。


――北側の畑が一番遅そう。南側はゲゲに食われる前にとっちゃわないと。


 などとフェリシアは考え事をしながら歩いていると、山道の右手にボンを見つけた。少し離れたところに倒木があって、見上げると樹冠の切れ目から空が見えた。隙間から降り注ぐ日の光を受けてボンが濃い緑色のつややかな葉を広げている。一本だけ周囲から浮いた南国風の葉の影には、赤い艶やかな実が見えた。

 フェリシアは一瞬にして、子供たちに山野のボンを探させる手間を胸算用する。ゲゲの糞を経由して、気が付かないだけで人知れず育っているボンがもっとあるのかもしれない。


――そういえば峰のボンもどうにか処理しなくちゃいけない。


 蛇神によれば峰を占拠したボンのおかげで大変な目にあったのだから、もちろん伐採した方がいいだろう。だとすれば今年一回ぐらいは、収穫しても許されるのではと胸を躍らせる。

 峰の切々草は触れてはならないが、あの蛇神をもってして南の侵略者と言わしめたボンならば手を出しても怒られまい。


――いや、でもちょっと待って……?


 足を止めないように気を付けながら、よくよく考えてみる。

 そもそも長雨が続かなければ、こんな事態に発展することは無かったはずだ。長雨さえなければ、バタイモも普通に収穫できただろう。

 長雨の原因は蛇の精霊が脱皮できずに苦しんでいたせいで、その原因を作ったのはそもそもボンだ。ボンさえなければ精霊も苦しむことは無く、長雨にもならなかった。

 五年前にオパールが実家のインデラ領から持ってきたボンを、挿し木で増やして畔に植えて農民たちに手入れさせるように案を出したのはオパール本人だった。しかし妙案を女の手柄にすることを領主のディオンは良しとしなかった。農民たちをはじめ、領内の誰もが『領主と息子の慈悲』としてボンの挿し木が配られたと思い込んでいる。そう広めるようにと本人たちが推し進めた。

 ところが雨の原因は、そのボンだと判明した。

 長雨は領民に甚大な被害を及ぼしている。誰もが早く雨をどうにかしてほしいと懇願していたのをフェリシアは知っている。

 とどのつまりグロー辺境領に長雨の原因を広めたのが、当の領主本人とその息子という話になってしまう。

 だとしたら。


――もしや、これは結構まずいのでは……?


 フェリシアは先ほどまで考えていたボンの収穫に係わる思考を横に置き、初めから考え直し始めた。

 真偽や名称はともかくとして領民たちから見れば、長雨の原因を突き止めて解決したのは都から来た高名な女精霊師ということになっている。


――長雨を解決したのが地元の精霊師たちなら、お父様は原因を有耶無耶にできるけど、マグノリア様では絶対に無理だ。あの方は必ず真実を伝えるだろうし、管理者のカラスさんやシギさんの目もあるから嘘も吐けない。記録されてしまう。


 マグノリア達が館に帰りつけば、長雨の真実は公のものとなる。

 すると批判の矛先はボンを広めた実父と実兄へと向かうことになるだろう。マグノリアは皇帝陛下に侍る人物だ。口封じはおろか、金を握らせて黙らせることも難しい。


――まって、これでは、あまりにも。


 都合が良すぎる。

 枝が引っかかったように装って後ろを伺うと、ひたすらフェリシアのことを睨みつけているマティスと目が合った。妹を生贄として処理できなかったのがよほど気にくわないのか、それともこの後に起こる事態に気が付いたのかは分からない。

 視線を前方に戻しながら、フェリシアはこの先起こるであろう展開を、順を追って頭の中で辿った。

 もしこの後、彼女が考える通りの事態になるのであれば、得をする者はいない。

 ディオンとマティスは領民たちから恨まれて苦しい立場になり、その苛立ちの矛先は家族内の弱者へ向くことになる。つまり怒りのはけ口になるのはフェリシアと叔父のノアだ。

 ノアはどうにか事態を収めるようにとディオンに無理難題を突き付けられ、四苦八苦するのが目に見えている。フェリシアは今以上に実父と実兄の憂さ晴らしで、輪をかけて手ひどい扱いを受けるだろう。


『そなたはもうこのノア・グローの娘として生きてくれるか?』


 あの日、ノアに強く肩を持たれながら聞いた言葉が耳の奥で繰り返された。今ならあれが一蓮托生を求めていたのだと分かるのに、あの時は意味が分からなかった。


――叔父様はこうなることを、まさか予想してたってこと? でもこれじゃ、元の生活から何も変わんないじゃない……!


 むしろ悪くなる可能性すらある。

 背中を兄の視線に射抜かれながら歩き続け、館までたどり着くころには疲れ果て顔色が悪くなっていた。

 ディオンは久方ぶりの晴れに上機嫌だったが、フェリシアの姿を見るなり失望したように長男を見た。一方でノアとオパールは全員の無事を確認するなり、喜んでいるのが遠目からも明らかであった。


「生贄は必要ありませんでしたよ、グロー卿」


 目の前に立つなり、マグノリアは穏やかに微笑む。一瞬、青筋が走ったディオンは、しかし背後に控える使用人たちの手前、晴れ自体を喜ばないわけにもいかない。事実を不承不承受け入れ、不服そうに咳ばらいをした。


「何があったのか詳しくは後程お伺いする。まずは食事と温かいお湯を準備させよう」


 使用人たちに指示を飛ばし、汗と泥にまみれた一行を館の中へ迎え入れた。

 その喧噪の中でノアが案内人に言葉をかけていた。

 案内人は表情筋を動かさず、少しだけ頭を縦に振って何かに肯定の意を示す。するとノアは満足そうにうなずき、案内人の肩を軽く叩いて謝意を示しているようだった。


――叔父様、一体何を考えてるの。


 雲一つ無く晴れた空に相反する陰鬱な心模様を抱きながら、フェリシアは自室に戻った。荷物を置いて濡れたマントを干し、汚れた服を脱ぎ去ったところで、珍しく女中が食事と桶にお湯を持ってきてくれた。日陰者の娘にも労いがあるぐらい、晴れを呼び戻したことは喜ばれている。

 お湯で洗って乾いたタオルで頭からつま先まで拭うとさっぱりとする。乾いた新しい服に袖を通すとようやく無事に帰宅した気になれた。

 気重なのに空く腹に難儀しながら、冷めたバタイモにヤギ乳のチーズをのせてかぶりつく。ぬるい豆のスープを一気に飲み干した。

 食べ終わるとベッドに倒れ込む。荷解きする気力などこれっぽっちも残っていない。これから先のことを考えるには、体も頭も疲弊しきっていた。瞼の重みに耐えられなくなり、無抵抗に固い毛布に体を預ける。

 そこへいつかの再来のように、女中のノックと声が静穏を打ち壊しに来た。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」


 疲れきった体はまるで反応できず、ただ瞼だけが飛び上がった。

 まさかあの父親が生贄を免れて帰ってきた娘に対して褒めることはないだろう。だとすれば呼ばれた理由は推して知るべしだ。


「我が父ながら、早すぎだわ。諦める暇もないなんて」


 自嘲しつつ体を起こした。

 ディオンは不出来で顔の傷を憎悪している娘を、正当な理由で抹殺する機会を逸した。フェリシアは命拾いしたが、事態が好転するわけでもない。雨が上がっても、結局は今まで通りの待遇に戻るだけだ。

 固いベッドからのろのろと降りて、三つ編みを結い直す。ゆっくりと雨上がりの中庭を眺めながら、応接室へと向かった。


「やっぱり、私には無理だったのかな」


 雨の檻は上がったというのに、フェリシアにはその外側へ行く術が見当たらなかった。外へ出たい、世界を見たいという思いは募るのに、些細な努力などなかったものとされていく。

 きっとフェリシアへの風当たりは、これまで以上にきつくなることだろう。するとこの鬱屈した家から出ていくことがさらに難しくなる。

 陰鬱な気分は何度も何度も反芻すると、次第に毒気が強くなる。だが今までと違って、悔しさも一緒に強くなっていた。


「マグノリア様についていけたら、よかったのにな」


 まるで不可能なこととは理解しつつも、呟かずにはいられなかった。

 応接室を前にして、しばらく奥歯を噛み締めて立ち尽くしていた。何度も深呼吸をしてどうにか喉のこわばりを解き、ノックする。

 ところが内からはしばらく声は無く、かなり間が空いてから「入りなさい」とノアの声がした。


「失礼します。フェリシアです」


 諦めて応接室に入ったところで、フェリシアは目をしばたたいた。

 俯いて真っ青な顔のマティスがまず目に入った。その向こう側にふんぞり返ったまま、顔から色の消えたディオンがいる。マグノリアは相変わらず背筋がピンと伸びて美しく、手元にはまた甘ったるいボン茶があった。

 だが一番下座のところでノアが冷静な怒りをあらわにしていた。

 なんともちぐはぐな各々の様子に、フェリシアは言葉を失って視線を彷徨わせる。するとなぜか場の主導権を握っている様子のノアがこちらを向いた。


「今しがたマグノリア殿とマティスから、山頂で何があったのか話を聞いたところだ」

「はい」

「蛇神様のお世話を直接したのはフェリシアだというから、本人の口からちゃんと話を聞いておいたほ方がいいと思って呼んだんだよ」


 ノアという人は羊か山羊か、少なくとも草食動物を思わせるような穏やかな人当たりの良い人物だ。

 兄であるディオンから何を言われても、しょうがないという顔をして受け入れる。それがこの家の中で生き延び方だと、身をもってフェリシアに教えてくれたのも、叔父であり養父であるノアだった。

 ところが今、そのノアが話を仕切り、珍しく屋敷の絶対強者に対して切り込んでいる様子だった。


「まずフェリシアが一人で蛇神様の脱皮を手伝ったというのは本当かい?」


 マティスが青い顔のままこちらを睨む。マグノリアがいなければ、おそらく手柄を横取りされていたに違いない。だがマグノリアの背後にはカラスもシギもスズメもいる。嘘を言うわけにもいかない。


「はい。蛇神様が体に触れるのは『赤毛の娘だけ』とおっしゃられたので……私以外に赤髪の娘はいませんでした」

「じゃあ次の質問だ。蛇神様はどうして脱皮できないとおっしゃったのか、フェリシアは聞いたかい?」


 やはりその件か、と俯いた。

 足が棒のように固くなった。息が浅くなり、ふわふわと足元がおぼつかなくなる。

 真実を言うことは容易い。しかしそのあと彼女を待ち受けているのは、今までの比ではない父兄からの仕打ちだ。事実、マティスは目で明らかに何かを訴えていたし、ディオンもフェリシアの一言一句を殺す勢いで睨みつけている。

 一方で、嘘を言うことは不可能に近い。いとも簡単に露見してしまう嘘は、もはや嘘でも何でもない。マグノリアの恐ろしげな声を思い出し、握り拳の中で爪が手の平に食い込んだ。


「大丈夫かい、フェリシア」


 ノアの声は優しい。怒りがフェリシアへ向いていない証拠だ。

 ずっと続いていた雨だれの音は消え失せ、風のそよぐ音が耳に優しい。軽やかな風に乗って、使用人たちの笑い声が聞こえた。久方ぶりの晴れを喜んでいる。

 朗らかな外と壁一枚隔てたところでフェリシアは一人全身を緊張させ、何度も肩で息をする。それでも一向に肺に空気が入ってくるようには感じられず、頭が重さを増して不安定に揺れた。


「どうした」


 ノアの声が遠ざかる。


「あの」


 続かない。

 飲んだ息の代わりに出て来る言葉がない。ただただ体が冷え切っていく。

 目の前が黒く白く反転しそうで、早鐘の様な心臓が口を開くたびに飛び出そうになるのをこらえるだけでも精一杯だった。


「えっと」

「大丈夫だ、ゆっくりでいい。落ち着いて」


 席を立ったノアが肩を叩いた。その拍子に言葉が飛び出した。


「峰に生えた南の侵略者が、脱皮のための切々草の場所を奪ったと、蛇神様は言ってましたっ」

「その南の侵略者とは?」

「ボン、だとおっしゃってました」


 両手を胸の前で握りしめ、取り返しのつかないことを吐き出した。口の中から唾液が蒸発する。膝が笑うのをどうにか堪えて、ノアとディオン、二人顔を見る。


「兄上」


 恐ろしく低い声でノアは、中央で冷や汗をかくディオンに迫った。


「やはり、先ほどから申し上げている通り、これは兄上とマティスの失策としか考えられません」

「ならばこの事態をどうにかしろ、それがお前の仕事だノア」


 ディオンは、フェリシアが予想した通りの言葉で弟に命じた。このままでは領主への批判は免れないが、それをどうにかしてきたのはディオン本人ではない。領主の仕事を肩代わりさせられてきたノアだ。

 ところが命じられた叔父は満面の笑みで頷いた。


「承知しました。では兄上とマティスの責任を話し合う場を設けましょう」


 その言葉を吐き捨てたことに、フェリシアは目を開いてノアを見た。

 普段の彼なら、粛々ともっともらしい言い訳を考え始めるところだ。フェリシアと同じで、家長に逆らうことを恐れ、ただひたすら耐えることを是としてきた人である。

 逆らうことがこれほど予想外な人はいない。


――叔父様は、これを予想して……?


 ノアは恐らく、長雨の原因をおおよそ把握して、そのうえでマグノリアを呼んだはずだ。養女ともども苦しい立場になると分かっても、領民に晴れ間をもたらす覚悟なのだとフェリシアは思っていた。

 それがどうしたことだろう。

 今まで逆らったことがなかく手足のようにこき使われていた人が、先陣を切ってディオンに噛みついた。まさかに身内が、しかも長らく反抗しなかった従順な飼い犬が反旗を翻す。

 部屋は静まり返り、控えていた使用人たちも微動だにしなかった。衣擦れの音すらない。それがさらに無言の圧力となってのしかかった。

 重圧を振り払おうと大きく咳払いしたディオンが座り直してみるが、どこか覇気に欠ける。


「何を、ふざけたことを」

「領民を代表して申し上げるが、あまりにもこれは酷過ぎる。予想外のことで兄上も混乱しておいででしょうが、すぐにでも氏族会議を開きたい。よろしいですな」

「氏族会議だと? よさないか!」


 ディオンは懇願するようにテーブルに這いつくばった。フェリシアも無言のまま凍りついた。

 だがノアは冷たくあしらう。取りつく島もない。


――親戚中を集めてお父様とお兄様をつるし上げるつもり……?


 アルミラ帝国の世襲貴族の制度上では、貴族の地位を持っているのはフェリシアの実父ディオン・グローしかいない。嫡子として、もちろんマティス・グローは貴族と同じような扱いではあったが、法律上では彼はまだ貴族ではない。ディオンの死後、辺境伯の地位を継承してようやくマティスは貴族となる。

 同様に、グロー家に連なる親戚一同は辺境伯の弟のノア・グローですら貴族の地位には叙されていない。貴族は当人一人であり、家族はその余資で養われている。これは制度上の当たり前だった。

 だが、長らく帝国の拡大に伴って軍務に当たってきた辺境伯の一族は、『氏族』という古い考え方を未だに踏襲している。氏族とは簡単に言えば、祖先を同じくする血族の連なりだ。

 この氏族の中では、辺境伯爵当人のディオンですら好き勝手はできない。氏族会議とは辺境の安保を担うグロー一族が集まる場であり、一族の意思決定機関でもある。グロー辺境領内の影響力に限って言えば、氏族会議は貴族権限を持つディオンと同じぐらい有力な力を持っていた。


――氏族会議で頭を下げて、それだけで終わるとは到底思えない。


 氏族会議を構成する親戚の顔ぶれを思い出して、フェリシアは身震いした。

 歳を食っている親戚はほとんどが元軍人で、中には北方の国々との国土回復戦争後のいざこざを覚えている猛者もいる。世襲貴族の爵位とは別に、自力で武勲を上げて騎士に叙されている者もいる。それはやはり、グローライトが元は城塞都市だったことに由来するところが大きい。

 親戚の若者の多くは軍務を選ぶ傾向が強く、現在も都で軍務に当たっている者もいるぐらいグロー一族は戦争を担う家柄だ。

 そんな物騒な連中が雁首そろえてこの屋敷に集まる。しかも目的は父と兄への追求だ。考えるだけでも寒気のする光景に、フェリシアは慄然とした。


「話は終わりです。さ、行こうかフェリシア」


 こんな状況ではノアの言葉を拒絶することは難しい。手放しに養父に従順するが、それは旗色を明確にするようなものだ。したがって、ノアに付き添うようにしてフェリシアは部屋から出る。

 そこで声があった。


「フェリシア」


 声だけで誰に呼び止められたのか分かって振り向く。

 先ほどから姿が見えないと思っていた人がそこにいた。


「お義姉様……、聞いて、おられたんですか」


 大きなお腹をさすりながら、オパールが続きの部屋から出て来たところだった。

 その視線は凍てついた怒りに燃えていた。

 ことと次第によっては、ボンを持ち込んだ彼女自身が責め立てられることも考えられる。ところが彼女の視線はまるで萎えておらず鋭い。刺し貫かれるような痛みを覚え、フェリシアは思わず視線を床に逃がした。


「随分と怖い声を出すじゃないか」


 義妹を呼び止めたオパールに、ノアが警戒の色をあらわにした。

 大股で一歩前に出ると二人の間に割って入る。叔父の大きな背に庇われて、フェリシアはわずかに顔を上げた。だが自分を呼び止めた義姉は、ただ冷えきった一瞥を寄越しただけだ。


「さすが手八丁口八丁、都で医者をやりながら皇帝陛下に取り入っただけのことはあるわね。でもまさか本物の人体書籍を引っ張り出すなんて、さすがに驚いたわ」


 くじけた様子の義妹を、もはやチラリとも見ない。それでも淡い期待を捨てきれないフェリシアだったが、肩を掴まれてぐいとノアの背後に隠された。


「娘に近寄らないでもらえるか。怯えさせないでくれ」

「そんな小汚い娘に、こっちから願い下げよ」


 その言葉に愕然とした。

 フェリシアにとって、オパールと秘かに話をするひとときほど楽しいものはなかった。今は同じ声が嘲笑じみた言葉で耳を突いて来る。

 義姉の本心に気が付けなかったみじめさが、フェリシアの心に容赦なく爪を立てた。うなだれる彼女の頭の上に、容赦なく義姉の言葉が降り注ぐ。


「親しくしておけば利用できるかと思っていたのに、まるで役に立たなかったわ」

「言うに事を欠いて、それが君の本性か」

「そっちこそ、次男の分際で身の程もわきまえずに何を勘違いしているの? 自領を帝室に売りつけるなんて意地汚い!」

「何を言っているのか分からんな」


 互いに取り繕う言葉は一切ない。

 いつも優しく接してくれていた義姉の言葉一つ一つが、まるで別人の言葉の様に廊下に響いた。


「そうやってシラを切るつもりなら、こっちにだって考えがあるわ。これ以上あなたの思い通りになんかさせない、絶対。覚えてらっしゃい」


 オパールは肩で風を切って、うなだれた夫が待つ応接室に入って行った。乱暴に閉めた扉の音が全てを拒絶される。フェリシアは固くぎこちない体を押されてノアと二人、自室がある西棟へと戻って行った。



 あくる日、そうそうたる面子が屋敷に集まった。

 領主の館の一番北にある平屋の棟には大人数が入る大きな、古くは軍議に使われていた部屋がある。フェリシアの曽祖父の弟が最年長で、最年少ははとこに当たる人だった。遠縁で初めて会う人も多い。

 その中にあって、やはりマグノリアとフェリシアは異色だった。

 帝国法の制度上では女性も貴族の地位を世襲できるものの、制度と一線を画す氏族会議には基本的に男しかいない。軍閥を背景に持つグロー氏族会議に女性が混ざることは稀だった。


「皆さま、お聞きになった通りです」


 ノアは芝居がかった身振りで広い部屋に集まった親類縁者を見渡した。

 筋書きとしてはこうだ。

 なぜ長雨が止まなかったのか?それはソレル山に住む蛇の精霊が脱皮できなかったせいで、脱皮が上手くいかなかった原因はボンにある。ゲゲがボンの実を食べ、その糞に交じってボンの種がソレルの峰に運ばれ、蛇の脱皮に必要な切々草が失われた。

 そのボンを広める方針を決定したのは、何を隠そう辺境伯のディオンとその息子のマティスだ。


「私は五年前、オパール殿が輿入れの際に持ち込んだボンの木を、挿し木で増やすことを反対しました。本来は生えていない果樹をわざわざ増やすのはいかがなものかと! しかし我が兄ディオンと甥のマティスは断行してしまった、結果がこれです」


 そうだ、と何人から合いの手が入る。フェリシアの目から見ても叔父は、特に親戚の若者を中心に味方に引き込んでいるのが手に取るように分かった。

 フェリシアとマグノリアは、山で見たことを話すように促され、聞かれるままに答えた。嘘などもってのほか、マティスも一緒に足を運んだため、彼の嘘を封じる保険という二重の役割も透けて見えた。

 兄はひたすらにフェリシアの方を睨んでいた。睨まれたからと言って庇うことも擁護することも出来ない。周囲の雰囲気が正しい筋書き以外を許してくれなかった。

 間違っていないのに悪事を働いている気分になり、体を小さくして隠れるように座っていた。


「グロー卿、このような事態になった責任、どのように取られるおつもりか」

「領民のことを思ってやったのに……!」


 横からマティスが口を挟もうとしたが、ノアがひと睨みすると途端に萎縮してしまう。ノアは後ろ手に組んで、議場の中をゆっくり往復しつつ、ディオンの様子をうかがった。昨日とは打って変わり、ディオンは落ち着いて、口を真一文字に結んでふてぶてしく成り行きを見守っていた。

 この場に至ってもフェリシアは一つ分からないことがあった。辺境伯とその息子を糾弾してまで、叔父が成したいことだ。

 言い換えるなら、一番の身内のフェリシアですら、ノアが目指している落としどころが予想出来ないのだ。

 謝罪のためだけに氏族会議を招集するとは思えない。もっと何か、その先のことを考えているのかと思ったが、彼女には思い描くことができなかった。

 ディオンはそれをノアの力不足と考えたのか、フンと鼻で笑って吐き捨てる。


「なんとでも言え。お前の望む物は手に入らんぞ」


 フェリシアも思わず頷く。


「お前が欲しいのは辺境伯の席だろうが、知ってのとおり帝国爵位は終身制だ。お前が相続するには私と、私の息子を殺さねばならん。だが殺せば罪人となり相続は認められない」


 椅子を蹴って立ち上がったディオンは嫌らしく笑う。フェリシアはその表情に酷い嫌悪感を覚えた。実父のこの顔。追い詰められて、なおも居直ることができるふてぶてしさ。ちらりとフェリシアの方を見た実父の目つきは、明らかに娘も敵視していた。

 だが実父が言っていることは的を射ていたので、だからこそフェリシアは叔父の決め手が分からなかった。どういう言葉と方法で、この事件をどこに帰着させようとしているのか、目標地点が見えない。


「さてどうする? 私とマティスを殺して、養女にしたフェリシアに継がせるか? それでもお前は牢屋行き、何も得られまい」


 対するノアは恐ろしいほど落ち着いていた。

 まるでここまで言われることを想定していたかのように、いや、彼は確かに想定していたのだろう。


「兄上、落ち着いてください。ダバラン陛下より親書を預かっております」


 もったいぶって取り出したのは白い封筒だった。

 赤い封蝋には翼の無い竜の印璽、紛れもなく皇帝からだと全員に分かるよう、わざわざ手にもってぐるりと周囲に見せつける。出席していた面々は赤い封蝋を認めると、誰とはなしに背筋を伸ばした。

 一方でフェリシアだけが、あの封筒の存在を事前に見知っていた。


――最初にマグノリア様のお部屋に行ったときに貰ってたやつだ!


 叔父の背後に立つ人物が見えた。

 都の一番高いところにいる人物が叔父の背後にいる。それが明らかになったこの瞬間、フェリシアは横に座るマグノリアを見上げた。彼女はとこしえに変わらぬ泉のように微笑みを湛えて、事の成り行きを見守っていた。

 フェリシアは肌が粟立つのを感じ、思わずスカートを握り込む。


――マグノリア様が長雨を解決させることも、最初から全部織り込み済みだったんだ……!


 乾いた音と共に開けられた封書の中の物を、叔父は押し頂いてから読み始めた。


「この封書が開けられた日を以って、謀反の疑いでグロー卿ディオンより辺境伯爵位を褫奪ちだつする」

「馬鹿な!」


 ディオンは机を叩き割りそうなほど引っ叩いた。机を這って乗り越え、ノアの手から親書をもぎ取る。その姿は蛙に似て無様で、思わずフェリシアは顔をそむけた。兄はガクガクと震えている。

 ディオンは白い親書にこれでもかというぐらい顔を近づけ、書面を舐めるように読む。顔を真っ赤にして破ろうとするも、目に入るのは皇帝の印璽だ。それに顔を青くし、辛うじて震える手を止めた。


「確認されましたな」


 自失茫然の兄ディオンから親書を取り上げ、弟のノアは読み上げを再開する。


「では続きを。――同領地には新たに伯爵家を創設し、新たにノア・フォン・グローをグロー伯爵に叙す、とのことです」


 末席に近いところにいた若者が数名立ちあがり、賛辞の拍手を送る。拍手の波は次第に大きくなっていき、幾人かを除いて全ての人が波に飲み込まれた。全会が一致して新しい貴族と一族の代表の誕生を認める。氏族としても皇帝の判断を受け入れたという証しだった。

 フェリシアはうつむいたまま拍手を聞いていた。

 自ら拍手することなど到底できず、整理のつかない頭の中身を放棄する。隣に居るマグノリアのたおやかな手が音を発するたびに、罪悪感が湧き上がってきた。

 ディオンとマティスももちろん目の前の事実を受け止められずに呆然としていた。ディオンは「なぜだ、なぜだ」とうわ言を繰り返す。そんなディオンにノアは言葉を掛けた。


「兄上は陛下から依頼があった資源調査を、忙しいだのお金がないだのと難癖をつけて何度も断っておいででしたね」

「まさかそんな、それしきのことでか⁉ 我が家門は先々帝が国土を大きく回復なされた折に、蛮族を北へと追いやった北の英雄ぞ? その恩賞としてこの地を、特別に辺境伯として賜った名誉ある家門だ! ただそれしきのことで褫奪など……まさかノア、貴様ァ、陛下にどんな要らぬことを吹き込んだ!」


 実父の手は固く握られていた。かつてフェリシアのことを何度も叩いた手だ。

 辺境伯としてのディオン・グローは、この土地を守る貴族の意義を、その拳を振るって外敵を屠ることだけだと考えていた。


「残念ですが時代は変わりました。陛下はグロー領に別の意義を見出しておいでです。国力増強のためにこのグロー領の調査が必要だったから、資源調査の命が幾度となく下された。しかし兄上はその意味を解さなかった、よって解すだけの能がないと判断されたのです。だから陛下は私の手を取ってくださった」


 一方で弟のノア・グローは正しくこの領の価値を認識し、障害となった兄をどうにかしようとした。アルミラ帝室は弟の方が国にとって有益であると判断した、ただそれだけのこと。褫奪の理由など何でもいい、とりあえず弟の方を優遇してやれ、と。

 穿った見方をすれば、そういう話だった。

 言い終えてからノアはちらりと末席に座すマグノリアを見た。彼女の長い白い睫がピクリと動いて赤紫の瞳が、追い落とした弟と追い落とされた兄とを見やる。そこには何の表情も無かった。

 その瞬間、遅ればせながらからくりを理解したディオンは、吠えながら美女へと突進した。彼女の隣に座る実の娘も暴力の射程に入る。咄嗟のことにフェリシアは体を一瞬震わせただけで動けなかった。

 実父の手が迫る。いつもの折檻とはまるで違う。少なくとも腕を前に構えようするがままならならず、瞼を閉じることさえ難しい。

 つぶされると思ったその瞬間、ディオンが何かに跳ね飛ばされて急に視界から遠のいた。


「無礼者」


 騒然とする会議室に、低い女性の声が響き渡った。

 マグノリアは席を立って手を前に、掌底を突き出す。腕にしゅるりと見えない風を纏う。小麦色の毛並みをしたカーバンクルが頭を覗かせて、真っ白な犬歯を見せつけていた。ディオンにしてみれば見えない壁に突き飛ばされたと思ったことだろう。仰向けにひっくり返って、目を白黒させていた。

 隣にいたフェリシアですら何が起こったのか良く分かっていなかった。大きな空気の固まりが、マグノリアと隣のフェリシアを守るように揺蕩う。

 彼女は長く一つ息を吐き出して緊張を緩ませると、フェリシアの方を見てにこりと笑って見せた。言葉は無いが至って穏やかだった。


「陛下の御物に手を上げるとは兄上と言えども看過できん、拘束しろ! この場にて処分を決めさせていただく!」


 待っていたかのように銃剣を携えた兵士が部屋に入ってきて、ディオンを無理やり席へと引き戻し、彼の両脇を固めた。マティスは横で蒼白になって動けないでいる。

 あまりの手際の良さに、ディオンに近しい年寄たちは口をはさむ隙間を見つけられず、忌々しそうにしていた。


「さて」


 仕切り直しとばかりにノアが手を叩いた時だった。


『اوقا……』


 フェリシアの耳にまた、声が聞こえた。

 脳を揺さぶる悲しみの声、呪いの歌、文脈を成さない意味の羅列が、彼女の体の中に入り込んでくる。

 だが無数に聞こえ始めた声はとても小さく、蛇神よりも圧倒的に切迫していた。母が亡くなった崖崩れの時の声に近い。

 異様な気配にフェリシアは声を震わせる。


「に、逃げて」


 何かを求めて地の底を這いずり回る恐ろしげな声は、胸騒ぎというよりは確信に近かった。


「みんなにげて、だめ、早く逃げなきゃ、逃げて! この部屋にいてはだめ!」


 同じく何かを言いかけていたマグノリアよりも、フェリシアの叫び声の方が数段大きかった。

 一同の視線が集まる。中にはフェリシアが少し頭の可笑しな娘であることを知っていて、胡散臭い、あるいは余興でも楽しむ顔をしている者もいた。


「逃げなきゃ、ここは駄目だって、言ってるんだってば……!」


 フェリシアは耳を覆いながら、体はもう半分以上逃げ出している。強固な理性が辛うじて忠告のために、片足をその場にギリギリ残していた。

 だがフェリシアの突然の叫び声には、ノアですら首を傾げている。

 彼女の悲痛な叫びの真意を誰も理解できない。


「フェリシア? 大丈夫か?」

「叔父様逃げて、何か来る、危ないって、死んじゃう! みんな死んじゃうって言ってる!!」


 言葉が悲鳴に変わったその瞬間、音がした。

 地響きというには重たすぎる音とともに、屋根が破れて黒い泥水が降ってくる。


――雨で崖が緩んでたんだ……!


 最後にフェリシアの目に焼き付いたのは、自分を抱き寄せて庇う白い影だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る