研究者視点④
……いつまでも落ち込んでいては駄目だ。いい加減、動き出さなければいけない。
これ以上彼の厚意を踏み躙ったのなら、いよいよ死にたくなってしまう。
「っぐ、う」
痛む足に歯を食いしばりながら、箪笥の中を覗いてみる。
きっちりと畳まれていて、それでいて少しぐちゃりと並べられた服の数々。
シャツの列の中央付近に、たった一つだけ埋まっているスカート。
そして、その上に少しまばらな間隔で置かれた防虫剤。
つい数日まで、これをお母様が使っていた。
この箪笥から溢れる生活感が、その事実を強烈に叩きつけてくる。
「ッ」
思わず目を逸らしてしまった。
しかし、さっさと選んで着替えないと、彼を待たせてしまう。
自分に喝を入れて、箪笥の方に向き直る。
とりあえず、シャツと、ズボンと……下着って今、どうなっているんだ?
襟を引っ張り、上から下着の様子を確認してみる。
うん、完全にアウトだ。既に血でガチガチになっていた。
恐らく、この分では下も駄目だろう。
確か下着は……一番下の段だったか。
箪笥を引っ張り、空いた隙間から適当な一枚を掴んで、引っ張り出す。
……これ、私のより3つ下の……いや、なんてことを思っているんだ。
だがしかし、流石にこれは……まぁ、流石に着ないよりかはマシだよな。
服を脱いで、体を拭く。タオルが一瞬で赤茶色になった。
どれだけ汚れていたというんだ、私は。
……っていうか、これ、まさか、結構臭っていたのか?
大丈夫だよな?彼に臭いとか思われてないよな?
……い、いや。とりあえずまずは着替えが先決だ。
下もしっかりとタオルで拭いてから、服を着る。
靴下は……流石に止めておこう。
普通に痛いし、包帯を取り替える時に面倒だ。
座ったまま、お母様の服を着させていただく。
ズボンとパンツは腕と踵で体を持ち上げて、履いた。
……ふむ、下着のサイズは多少アレだが、それ以外のサイズはほぼ同じだったらしい。
問題なく着れた。
念のために鏡で違和感が無いか確認してみるが、しっかりと着れている。
これならば、彼に見せても大丈夫だろう。
さて、それじゃあ彼を……
……あ。
そういえば忘れていた。
最後に行ったのが……昨日の……いつだったか?
取り敢えず、長いこと行っていないのには違いない。
早くしなければ、大人としての尊厳が保たれない事態になってしまう。
「スゥ……おぉぉ”ぉ“ッ、ゲフッ、ゴフッ!?」
喉に声が引っかかり、思いっきり咽せてしまう。
ま、拙い。そういえば大声なんて数年間くらい出していない。
私の声帯は、もはや完全に弱り切っている。
しかし、ここで呼べなければ大惨事だ。
何としてでも大きな声を出さなければならない。
「うぐっ、うぅ……スゥ……おぉぉーい!できたよー!!」
二回目にしてなんとか成功できた。
扉の向こうから、ドタドタという足音も聞こえてくる。
私の声は、どうやら無事に伝わったらしい。
「……大丈夫だったか?」
「あ、ああ、大丈夫だったよ。サイズも大体は同じだったらしいし、ちゃんと着れた」
扉を開けて、彼が入ってきた。
……いや、そんなにガン見しないでくれ。仕方ないだろう、そこのサイズは人それぞれ……っていや、違う。
彼が見ているのは、これじゃない。服だ。
恐らく彼はこの服を着た私に、母親の面影を重ねているのだろう。
彼の母親もこんな風にこの服を着て、彼と一緒に買い物に行ったり、遊びに、行ったり………………
……あー、駄目だ。また思考がいけない方向に進もうとしている。
それが彼にとって、一番の迷惑になるんだ。それだけはいけない。
「……それは良かった。では、湿布を貼ろう。足を出してくれ」
「あー……」
いや、流石にそこまでやってもらうわけにはいかない。
っていうか時間がない。早くしないと拙い。
「いや、それは後で私が貼る」
「そうか、では、脱いだものを渡してほしい」
「うん……ほら、これでいいかな?」
血塗れになった布の塊を手渡す。
……そんなにじっと見つめないでくれ。汚いのは分かっているんだ。
「……ん、大丈夫だ」
「では、これで俺は失礼する。今日からここが貴女の部屋だ。要望があったら呼んでくれ」
「……あー……じゃあ、ちょっと……」
彼がこちらを向き、不思議そうに首を傾げる。
……拙いぞこれ、いざ言うってなったら滅茶苦茶恥ずかしいぞこれ。
「……どうした?」
「……その……お、お手洗いに……」
うぐぅ……ッ!は、恥ずかしい……ッ!!
何でいい歳になってこんな……こんな…………こん、な…………
あれ?……もしかして、今の私って、赤子とか要介護老人とか、その辺と一緒くたの……?
「………………成程」
「………………本当に、迷惑を……」
「いや、構わん」
そう言って彼は私の体の下に手を差し込み、持ち上げる。
……本当に、本当にもう駄目だ…………もう、無理だ…………
そっと、優しく便座の上に置かれる。
そうすると、彼はさっさと扉を閉め、何処かへ歩いて行ってしまった。
………用を足す。
「────────もう、大丈夫だ」
ズボンを直してそう呼ぶと、彼はすぐに来てくれた。
先程と同じように手を私の下に差し込んで、持ち上げる。
そして、私を部屋の方にまで運んで……ん?
なんだ?アレは。
先ほどまでは気づかなかったが……ゴミ袋……にしては、何か違う。
だったら、あんなにガムテープで密閉する必要は無いし、ベランダあたりから下に落としてしまえばいい。
だとしたら、アレは一体……?
「……なぁ」
「……どうした?」
「アレは、なんだ?」
布団に寝かされる寸前に、問いかけてみる。
彼は少しの間考える素振りを見せると、たっぷり間を置いて言った。
「あぁ……まぁ、ゴミだ。気になるようなら……あー……他へ移すが」
「……いや、いい。そこまでしてもらうわけにはいかないさ」
「そうか。それなら、そのままにしておこう」
絶対に嘘だ。目が泳ぎまくっている。しかし、私はそれを指摘しない。
彼は私を布団に寝かせると、洗濯物を持って部屋を出て行った。
……………………………気になる。
……いや、駄目だ。
彼が慣れない嘘までついて隠そうとしているのだから、アレは相当な秘密なのだろう。
ただでさえ迷惑しかかけていない私が、興味本位で彼の秘密を覗くなど、言語道断にも程がある。
……しかし…………駄目だ駄目だ!
…………寝よう。寝て忘れよう。
明日になれば、きっとどうでも良くなっているはずだ。
ゾンビ世界で元研究者の女と共依存しながら退廃的な生活を送る話 @POTROT
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