第20話 密偵、背信、不実(4)

 「俺たち」は、ドラグのように生まれついた。


 いや、違う。ドラグは、一つ腹から同時に生まれてくるわけじゃない。

「ドラグとなる」時に、互いが互いの片割れとなるだけだ。


 「俺たち」は生まれる前から、互いに互いの片割れだった。


 だから、「あいつ」の命の灯が消えた時、俺にはそれが解った――

 どんなに遠く離れていても、すぐに俺には解った。


 俺の片割れは「影」と呼ばれていた。

 そして、俺もまた「影」という名を持つ。


 蒼の王が俺たちに「影」と名付けた。

 俺たちは、ふたりで一つの影だ。

 王にとっては、俺たちのどちらがどちらでも構わなかったはずだ。


 俺たちは、ふたつの身体を持つ、ひとりの人間だった。

 片割れの考えていることは、時同じくして俺も知ることができ、俺が知ったことは、自ずから片割れも知るところとなった。いつだってそうだ。


 だからイレルダから、何の報せを受け取っていなくても、俺には――

 今、目の前に現われた「ふたり」が、蒼の王の「獲物」であることが、すぐに解った。


 俺は、「その男」に会ったことは一度もなかった。

 

 ポーリスの片田舎、シェームの街にまで足を運び、森の門へと赴くのは、ごく限られた間諜だけだ。

 それに、そもそも「彼ら」とて、ただの「足」にすぎない。

 携える「報せ」の中身についてもろくに知らず、文字すら読めない者もいる。

 「彼ら」が果たすのは、ただ、各国で間諜俺たちが放ったドラグをシェームで受け取り、「報せ」を門番ガルディーンに託すだけの役目。


 だが、俺にははっきりと解った。

 この背の高い、灰色の髪をした男が、「王国の森のガルディーン」であるということが――


 そして、その男の連れ。

 白い外套の頭巾の内側に覆い隠されている波打つ長い髪。


 その蜜色の髪を見た刹那、俺の頭の中で「何か」がはじけた。


 命の最期に「影」の目に映った物。

 床に散らばる、金の絹糸――


 イレルダの冷酷で聡明な蒼の王。

 その「影」として、「報せ」を集めるため、俺は闇に紛れ、様々なことに手を染めた。


 手脚には事欠かない。

 わずかの金ほしさに、余計なことなど何一つ考えず「くぐつ」のように働く者など、ベルグには吐いて捨てるほどいる。

 この賑々しい街の隙間は、そんな瀬戸際で生きている者たちで埋め尽くされているからだ。


 蹴落とされるものは、どこまでも落ち、上り詰める者は、もはや、この世で買えない物などないほどに富み栄える。それが、自由都市ベルグ。

 「報せ」と「金」という、ただ流れていくだけの物の上に築かれた、何も根ざさぬ空中楼閣――


 そしてガルディーンの方も、すでに「何か」を勘づいているはずだ。

 危険の兆候を。自らを見張るまなざしを。

 今、奴の様子を見て、俺はそう感じずにはいられない。

 

 ガルディーンはすぐにでもベルグを去り、さらに用心深く立ち回るようになるだろう。


 だが、あの門番に、何がばれた?

 一体なぜ、勘づかれた? 

 手脚とした者たちに、つまらない失敗でもあったのだろうか。

 それとも――


 誰かが裏切ったのか? 


 無論、俺が、蒼の王の「影」であることなど。

 手下たちが知る由もない。

 しかしそれでも、ガルディーンが不審を抱くようなことをしでかした者がいるに違いない。


 「片割れ」を無くした今。

 俺は蒼の王の「影」なのか、それとも、もはや「そうではない」のか。

 

 だが、いずれにせよ。

 「あいつら」は「影」の最期の獲物だった。

 そしてそれは「俺の最期の獲物」でもあるということだ。


 だから……。

 あのふたりがベルグを離れる前に、俺はドラグを飛ばさなければならない。

 イレルダの王城へ、ドラグを――



□□□



 ――「彼女」が「王女」なのだと。

 この大陸で、もっとも古い血筋であるサリトリア王家の姫なのだということを。

 折に触れ、俺は思い知る。


 テラ・スールが高慢だと言いたいのではない。決してない。

 それどころか、彼女は優しく、穏やかでやわらかい。


 テラ・スールの生まれの高貴さを思い知る、そのきっかけのひとつひとつは、ほんの些細な事々にすぎなかった。


 テラ・スールは扉の前に、ただ佇む。

 閉ざされた扉の前に立って、ふと怪訝そうな顔をする。


 そうだ、彼女には不思議でならないのだ。目の前の扉が「開かない」ということが。おそらく「扉という物」を、めったに自身で開けたことがないのだろう。


 「骸骨と矢羽」でもそうだった。

 「湯浴みは手伝えない」と釘を刺したにもかかわらず、テラ・スールは濡れたままの身体で、俺の前にただじっと佇むだけだった。

 他のことなら、手とり足とりと教えもしよう。だが、こればかりはそうはいかない。布を広げ、裸のテラ・スールをくるみこむのが、俺にはやっとだった。


 そしてさっきも、彼女は濡れた身体を上手く身体を拭うことができず、しずくの滴る身体の上から服を身につけた。

 長く波打つ髪にいたっては、まるで手に負えないらしい。


 テラ・スールの濡れた身体に上衣がはりつき、白い膚が透けている。

 それを見ないようにと、ひどい苦労をしながら、俺はその蜜の色の濡れ髪を拭って梳いてやった。


 今、ベルグの街で、服を揃えようと店に入っても、やはり同じことだ。

 みつくろった品に着替えをする段になると、まるで人形のように、じっと動こうとしない。


 「自分ひとりで着てくれ」と言って、森で渡した俺の服は、ひとりで身につけることができるというのに。


 初めのうちは、店の者もそんなテラ・スールの様子に面食らってはいたが、さすがは自由都市ベルグ、様々な客をあしらい慣れているのであろう。

 すぐに中年の女の売り子が出てきて、テラ・スールの手伝いについた。


 そう。

 なんの悪気もないのだ。テラ・スールには。

 それが解るからこそ、その浮世離れした仕草のことごとくに思い知らされる。


 「テラ・スール」が、遠い夢であることを。

 本当ならば俺など、その金糸のような髪の一本にすら、触れることなどありえなかったはずなのだと。


 売り子もすぐ、テラ・スールが、なにがしかのやんごとない出であろうと察したようだった。

 俺たちの前に、高価できらびやかな衣類を、次々と並べ始める。

 そのどれもが素晴しく、どれもが彼女に似合うに違いないとは思われたが、俺は「馬の旅を続けるから」と告げ、それにそぐわない品々を退けた。


 新たな女物の旅装に着替えたテラ・スールが「わたしの帯を取って」と、俺に請う。


 合鍵が盗人の手にあったと解っている部屋に、おちおちと物を置いて出かけられようか。

 だからその日、俺は荷の革袋を持ち歩いていた。

 そこから、テラ・スールの腰帯を取り出す。


「デ・ガータ、ガルディーン」


 テラ・スールは帯を自分の腰に巻き付けて笑う。

 それは春の陽差しに輝く朝露のように眩しかった。

 そのせいで、まだ頬に残るひどい痣が、よけいに痛々しさを増すほどに。


 店を出て、すこしばかり歩いたところで、俺たちは、あの客引きの子供に声を掛けられた。

 昨晩のことを何も知らないテラ・スールは、少年に微笑みかける。


「……母さんに、ぜんぶ話したんだ、おれ」

 少年が、俺を見上げて言う。

「馬番を辞めさせられるなら、それでいいって、母さんが。そんな事までして、続けなくてもいいって……」


 客引きの子供は、テラ・スールに向き直った。

「ごめんよ……サリトリアのお嬢様」


 なぜ少年が「謝る」のか、テラ・スールにはまるで解らない。

 目に涙を浮かべ、何度も謝り続ける少年を、テラ・スールは困ったように、心配そうに見つめていた。


 俺は客引きの子供に、そっと耳打ちする。

「……お前のことは何も話してない。だからもう、いい」


 少年は、俺の言葉に激しく頭を振った。

「母さんも謝りたいって。たいしたもてなしもできないけど、どうかうちに来てくれよ、お願いだ?」


 まっすぐで誠実な瞳だった。

 「この子に馬を任せよう」と思った、あの時と同じに。

 その頼みをその謝罪を、むげにする気になど、到底なれはしなかった。



□□□



 結局、俺は「あの宿」を出ることにした。


 帳場人がふたたび、部屋に盗人を手引きするほどに「厚かましいか」は解らない。

 だが、ヤツが「女が部屋にひとりになったら『自分』に報せろ」と命じたなどと聞いたからには、もう、あの部屋で夜を明かす気にはなれない。


 さらに気に掛かるのは、同じ宿のダユルのことだ。

 帳場でテラ・スールを見つめていた、あの褐色の膚に砂色の外套を纏った男。


 「ハレン」で俺に声を掛けてきたのは、偶然なのか、それを装ったのか。

 しかも「サリトリアの出」などと。


 あまりにも「出来すぎ」ではないだろうか? 



□□□



 ――客引きの子に名を訊ねたのは、テラ・スールだった。


 少年の名前が「レフ」だと知ると、テラ・スールはひどく熱心に、由来を知りたがる。

 けれど少年は――「レフ」は、恥じらって黙り込むだけだった。


 盗人に負わされたテラ・スールの傷のことを考えれば、もうしばらくの間、馬になど乗せず、ゆっくり休ませてやりたい。

 だが、「このままベルグに留まり続けるのは危険だ」と。

 俺の中の「何か」が、強く諫めていた。


 だから、町外れにあるというレフの家で一晩の宿を借りて、明朝、ベルグを発つことに決めた。

 レフとともに馬の準備をしていると、ふと、向いの馬房から声が掛かった。


「おや、もう出立なのか?」


 声の主はダユルだった。

 俺はすかさず、レフの肩に手を置く。「何も喋るな」という意味だ。

 レフは勘の良い子供で、その意味をすぐに解した。


 俺もヤツに訊ね返す。

「ダユル、そっちはどうなのだ? まだ、ベルグここに留まるのか」


「そうだな、故郷くにのことは気になるが……今、急いでサリトリアに帰るのもどうかと思って。もう少し『報せ』を集めたい」

 ダユルは、軽く目を細め、微笑みとも苦笑ともつかない、曖昧な表情を浮かべた。


 ――いや、むしろ「今だからこそ」、帰郷には良いのではないか?

 心の中で、俺はダユルに問いかける。


 蒼の王が大軍を引き連れ、イレルダを出ることがかなわない冬の間こそ。

 サリトリアでは、身軽に動き回れるのではないか?

 

 それとも、ダユル。

 お前には、サリトリアの「外」で動き回らなければならない理由でもあるというのか――


「どちら周りの道で行くつもりだ?」


 ごくさりげなくダユルが俺に、道程を問う。

 俺は軽く肩をすくめ、首を傾げてみせた。


 ダユルは俺の返答が得られなかったことを、さして気にかける様子もなく、

飛ぶように流れよよい旅を」と、旅人の別れの挨拶を口にした。

 サリトリアの挨拶だった。


 言われた方は、たしかこう返すはずだ。


「薔薇と月のあいだ、しばしのいとまを」


 ダユルは俺の返礼を聞くと黙って頷き、馬屋を出て行った。



 □□□



 俺はドラグをつないである檻へと急いだ。

 

 ドラグは何組も持っている。

 けれど、これからどれほど「報せ」を飛ばさなければならないか、定かではなかった。

  

 むやみとはばたかせ、すべてのドラグを手放してしまうわけにもいかない。

 「蒼の王にのみ」飛ばすべきか、同じ「報せ」をサリトリアのペトリ伯にも飛ばすべきなのか。俺はしばし逡巡する。


 ――「影」よ、迷った時には「報せ」を散らばせるな。

 蒼の王の声が頭をよぎった。そして、


「風になり風をこえ、地に影が落ちるいとまなく」と。


 ドラグの無事を祈るまじないの言葉を呟きながら、褐色の翼に血の色の斑模様を持つドラグを一羽、俺は宙へと放った。



□□□



 ――これは「街はずれ」というより、街の「外」と言うべきだろう?


 レフの家に向かう道中ですでに、俺はそんなことを思わずにはいられなかった。


 こんな子供が、わざわざこんな遠くから、ベルグの街中まで客引きと馬の世話に来ていたのだということにも、あらためて同情せずにはいられない。


「あと、ほんのちょっとだよ、お嬢様」


 手綱を引くレフが、馬上のテラ・スールに声をかける。

 俺は、荷とイリを載せたもう一頭を引いていた。


「ほら」と。

 レフが指さす先に、小さな石造りの小屋が見えた。崩れかけた煙突から煙が細くたなびいている。


 小屋の前にたどり着き、俺とレフは、馬からテラ・スールと荷を降ろす。

 レフが二頭の栗毛を馬屋へ――いや、「かつては馬屋だった」のだろうと思われる物へと引き入れた。


 レフの暮らしぶりが豊かなわけがないことなど、俺とて解っていたつもりだ。

 しかし、目の前の小屋や馬屋のありさまは、思っていた以上にひどいものだった。


 屋根も雨どいも、すべてが傷んで壊れている。

 母ひとり子ひとりだという。修繕しようにも男手がないのだ。


 折れたままの柵や、ひび割れた壁。

 そんなものを見ていると、ひどくもどかしい気持ちになってくる。


 二日もあれば、あの屋根板もあの柵も、すべて直せるのだが……と。

 そんなことを考えてしまう自分自身に、思わず苦笑いを洩らした。


 小屋からレフの母親が出てくる。

 そしてテラ・スールの顔を見るやいなや、切なげに目を細め、悲しい溜息をついた。


 レフの母親は、サリトリアの言葉で何度もテラ・スールに詫びる。それは俺の耳で聞いても、ひどく癖があるサリトリア語だった。


 俺たちは、そのひどく粗末な小屋の中へと引き入れられ、暖炉の火の前に座らされる。小屋に椅子は二つしかなく、レフも母も、床の上に座り込んでいた。


 テラ・スールはレフたちに謝られる理由がまるで分らず、もの問いたげに俺を見つめている。


 宿でレフが盗人の手引きをしていたことを告げるのは、気が進まなかった。

 

 だが、こうなっては黙っているわけにもいかない。

 なるべく手短に、テラ・スールに「事の次第」を説明した。


 話を聞き終わり、テラ・スールが花の色の瞳を潤ませる。そして、椅子から降りて床の上に膝をつくと、レフをかたく抱き寄せた。


「『言うことを聞かなければ、仕事を取り上げる』だなんて……ひどいこと」

 レフの焦茶の髪に頬をうずめながら、テラ・スールが、せつなげな吐息を洩らす。


「もう、あの宿では働けなくなってしまうの? レフ」


「サリトリアのお嬢様……おれのせいで、そんなひどい怪我をしたのに、おれの心配なんか」

 テラ・スールの青紫の瞳を、レフがうっとりと見上げる。


「ああ、そのサリトリアの言葉。母を思い出しますよ……母もうんと若いころは、あなた様と同じ、蜂蜜の色の髪をしていました、ええ、そうでしたよ」


 そう言葉を震わせながら、レフの母親は、俺たちに飲み物をふるまった。

 それはほとんど湯に近いような、ごく薄いミレ茶だった。


「では、レフのおばあ様はサリトリアからいらしたの? やっぱり『レフ』は、サリトリアの名前だったのね」

 テラ・スールは、ふわりと表情を輝かせる。


「母はね、王都ラクドスにあった大きな工房のひとり娘だったんですよ、王都の建物の窓を飾る玻璃細工を作るような工房だったと聞いております。母も、ちいさな細工物をこしらえては小間物を扱う商人に卸していたそうで……」


 言いながら、レフの母親は、炉の傍に置かれた古ぼけた大きな箱の蓋を開ける。


「ほら、うちにはもうこれしか残ってませんが。母が作ったものですよ」

 レフの母親が、色とりどりの玻璃と七宝がはめ込まれた美しい細工を取り出した。


「なんて素晴らしいの」

 テラ・スールが息をのむ。

「ええ、ラクドスの玻璃細工に間違いないわ……これは、蜻蛉ね」


「『蜻蛉』ってなに? お嬢様」

 レフが、テラ・スールを見上げて訊ねる。


「蜻蛉はね、月麦が実った後くらいに、草原や畑の上をたくさん飛ぶ生きものよ。透明な翅が四つあるわ。ほら、これと同じように……」


 そして、テラ・スールがレフの母の掌に載る細工を指す。

「とても大きな眼をしていて、まるで七色に光る玻璃のようなの」


 レフもその母も、甘くやわらかなテラ・スールの声の響きのとりこになっていた。


「おかあさまはどうして、ラクドスからベルグここへ?」」

 テラ・スールが、レフの母の目を覗き込みながら訊ねる。


「母は、小間物を扱うベルグの商人と好き合うようになったのでございますよ、サリトリアのお嬢様。もちろん、母のふた親は、そんなことを承知しやしません。母には親の決めた許婚もあったそうです。だから、母は逃げるようにしてサリトリアを出て、ここへ……」


 レフの母親は、ふとどこか遠くへと視線をさまよわせる。

 そして、ほんのついさっきまで、つらい暮らしに疲れ果てた色をしていた頬を、まるで少女のようにほんのりと朱に染めた。

 

「ええ、ええ。貧しくても、母は父と幸せに暮らしましたよ。それは間違いありません。父はわたしが、ほんの十にもならないころに死にましたがね、よく覚えていますとも」


 レフの母の皺だらけのまなじりに涙が浮かび、玻璃にも似た光を放つ。


「この子は、レフは、母からサリトリア語を聞いて覚えたんですよ。なかなかのものでしょう?」


 誇らしげに言うと、レフの母親はそっと指先で涙を拭った。


「おや、お茶のお代りをいかがですか? 旦那様」

 レフの母親が、俺に声をかける。

 そこで、俺はそれまでずっと考えていたことを口にした。


「道すがらレフに、ここに一晩、厄介になる分の価を支払いたいと言い続けてきたのだが」


「めっそうもないことですよ、旦那様」

 ぴしゃりと、レフの母親が言い返す。


「この子のしたことをお詫びしたくてお招きしたのです。こんなあばらやにお泊めするなんて、はずかしいばかりで。お代なんてとんでもない」


「だが、それではこちらの気がすまない」

 ふたたび口を開くと、レフの母親は厳しいほどの視線を俺に投げ返す。


 まったく。

 「我慢強い」に加え、「強情」というのも、サリトリアの血ではなかろうか?


 レフの母親の頑なさに、俺はそんな想いを抱かずにはおれなくなった。

 テラ・スールもそうなのだ。

 言い出したらまるで聞かない。


「ならば、頼みがある」

 俺がこう切り出すと、レフも母親も、がぜん身を乗り出した。


「あの柱のゆがみだ。先から、俺はあれが気になって仕方がない」

 言って俺は、暖炉の横の柱を指さす。


「屋根も壁も、直しても直しても、すぐに傷んでくるだろう? あれをまっすぐに戻せば、そんなこともなくなるはずだ」


 俺の言葉に、レフも母親も、テラ・スールさえも目を瞠って黙り込んだ。


「今からやれば夕方には終わるだろう。手をつけていいだろうか?」

 そして立ち上がり、レフに言う。


「手伝ってくれ」


 あとはもう、誰の返事も待たず、小屋の外へと歩き出した。



□□□



 小屋の屋根はごく軽い作りで、思ったとおり、柱のゆがみは簡単に直った。


 大したことをしてやれる時間は、もとよりない。

 だが、すこしでも役に立つことを覚えさせてやれればと、俺は続けて、レフに屋根板の束ね方を教える。

 縄結びのコツを見せてやると、レフは食い入るように俺の手元に視線を向けた。


 どのような壁のひび割れは無視してもよく、どれを修理すべきか。

 そんなことをレフに話して聞かせているところで、とうとう陽が沈んでしまった。


 レフの母親に呼ばれ、食卓につく。

 俺が買ってきた食料を使うようにと、レフの母親を説き伏せるのには、ひどく骨が折れた。

 俺ほどの大男の食事を賄えるだけの食べ物など、母と子供だけの家にあるはずないからと。そこまで言って、ようやく彼女は納得した。


 思えば奇妙な成り行きだ。

 ひび割れた壁から隙間風が吹きこむような粗末な小屋で、しかも、つい昨日今日、会ったばかりの母子と小さな卓を囲んでいる。


 蒼の王とその「鼠」たちから逃れて、サリトリアへと、なんのあてもなく旅を続けている。そんな旅のさなかに、何ともおかしなことではないか?


 十かそこらの男の子が、歳相応の、とどまるところを知らぬ旺盛な食欲を見せながら、他愛ない無邪気なおしゃべりをとめどもなく続け、母親は、その無作法をとがめながらも微笑んでわが子を見つめる。


 そして少年は、ほんの時折口をつぐんだかと思うと、目の前にいる乙女をうっとりと見上げるのだ。

 蜜色に波打つ長い髪に縁取られた美しい娘の顔を。


 そして乙女は、薄紅色のくちびるをほころばせて微笑む。

 揺れるろうそくの光を受けた長い睫毛が、白い頬の上に濃い影を落した。


 人々が持つ「家族」というものは、おそらくこんな風に穏やかで温かなものなのだろうと、俺はそんなことを噛み締めながらも。


 ただ彼女だけを……。

 テラ・スールだけを見つめてしまう。


 レフの母親が問わず語りに、ぽつりぽつりと自分たちの境遇を語り始めた。


 街の商人の家で馬番をしていた夫は、年季明けに数頭の馬を手に入れ、荷馬車を引く仕事を始めたこと。それなりに実入りもあり、穏やかで幸福な暮らしが続いたこと。


 しかし少し前、流行り病がベルグを襲い、すべてが変わってしまった。

 病がうつることに怯えた人々は、死者を運びたがらず、街には遺体があふれていた。

 レフの父親は、金のためでなく死者とその家族のために、遺体を運んだという。


 そしてついには、レフの父親も病に倒れた。

 だが、一家を助ける者は誰もいなかった。


 馬を売って金を得ようにも、「流行り病の死者を運んだ馬だ」と買い手はなかなかつかず、やっと売れたが、ひどく買いたたかれてしまった。

 

 そして、レフの父親は没した。


 くだんの帳場人、ダートは「このこと」を盾に取った。

 レフの父親が流行り病の患者を運ぶ荷馬車を駆っていたことを宿にばらし、レフを馬番から外させると脅した。

 そのことを広められたくなければ、盗人の手引きをするよう、レフを言いくるめた。


 テラ・スールの青紫色の目からこぼれた涙が、雨だれに似た小さな音を立てて卓に落ちる。

「……テラ・スール、レフの父の死を悼んでいるのか」


「それだけじゃない。くやしいの……わたしはくやしいの」

 テラ・スールは小さく、だが決然と首を振る。


「悔しい? 何が?」

 俺がテラ・スールに問いかけた瞬間、表でイリが嘶き、遠く蹄の音が聞こえた。


 すぐさま立ち上がり、俺は弩弓を手にする。

 レフの母親が、テラ・スールの肩を抱きしめた。

 レフは炉の横の薪割り斧を手にする。


 すると、小屋の扉が乱暴に叩かれた。

「そこにいるんだろう?! わたしだ、ダユルだ」


 俺は眉をひそめ、すぐにレフを振り返り、部屋の奥に下がるよう合図する。

 レフは母親とテラ・スールを部屋の一番隅へと連れて行き、斧を手に、ふたりの前に立った。


 弩弓を構えたまま、俺は足先で戸のかけがねを外す。

 開いた戸の前に、ダユルが立っていた。


「すぐにここを出ろ、『ガルディーン』。これを見つけた」


 ダユルが、なにかを俺の方に投げてよこす。

 床に落ちたそれは、ドラグの死骸だった。

 イリではない。別のドラグだ。


 足に「報せ」が付けられている。


「飛び立ってすぐ、わたしが射落とした。『影』の放ったドラグだ……蒼の王へと」


「『影』?」


「ああ、蒼の王が最も重きを置いていると言われている間諜だ。あいつが『影』でないかと、わたしはずっと疑っていた。そしてこのドラグを放つのを見て、やっと確信できた。だからガルディーン、早くここを発つのだ」


 ダユルが小屋の中へと足を踏み入れる。

 果敢にも、レフが斧を構えてダユルの前に立ちはだかった。

 

 ダユルは、あの微笑みとも苦笑ともつかない表情を浮かべてレフを見つめる。


「坊や、佳い度胸だ。だが、今は一刻を争う。さあ……」


 ダユルが、いとも容易くレフの手から斧を捻り取った。

 そして、テラ・スールへと手を伸ばす。

 俺はすかさず、ダユルの喉笛に懐剣の鋒を押し当てた。


「テラ・スールに触れるな!」


 俺は剣を持つ手にさらに力を入れる。刃がダユルの膚に食い込み、血がひとすじ胸元へと流れ落ちた。

 テラ・スールへと伸ばしかけた方の腕を、ダユルがゆっくりと引き戻す。

 俺はダユルの手から、レフの斧をむしり取った。


「そこの死んだドラグが『影』とやらの物だとして。ではお前は一体、何者なのだ、ダユル!」


「……わたしはサリトリアの商人、キサの石を取り扱うスマクのダユルだよ、『ガルディーン』」


 喉元に刃をつきつけられてもなお、ダユルの口もとには、あの曖昧な笑みが浮かんだままだった。


 次の瞬間、ダユルが目にもとまらぬ素早さで、俺の腕をくぐり抜けた。

 俺は剣を投げつける。

 ダユルの首筋、ぎりぎりをかすめた剣が、砂色の外套を留めつけるように壁に突き刺さった。


「ともかく急ぎ発て、ガルディーン」

 静かに言って、ダユルがまた、俺に何かを投げつける。


「……いずれ、それが必要となるだろう」


 ダユルは、おもむろに壁から俺の剣を抜いて放った。

 その剣が床に落ち、音を立てた瞬間、小屋の外の白馬が嘶き、その馬上に砂色の衣が翻る。

 そして白馬はダユルを乗せて、飛ぶように闇の中へと消えていった。


 俺はダユルが投げ寄こした物を懐に入れる。

 ドラグの死骸を拾い上げ、その足から「報せ」を外して読んだ。


「もっと火を熾して、このドラグを燃やせ、レフ。急げ、跡形もなくだ」

 俺は死んだドラグを火に投げ入れ、床に落ちた羽を拾い上げる。


「すまない。もしかしたら、この後、何かの迷惑をかけることになるかもしれない」


 レフの母親にこう告げれば、彼女は、きっぱりとした表情で俺を見つめ返した。


「行こう、テラ・スール」


 もうすでに、テラ・スールの手は俺へと、まっすぐに伸ばされていた。

 手綱で傷ついた掌の傷に触れないように、俺はその細い手首を掴む。


 開け放たれたままの小屋の戸から外へ……闇の中へと、足を踏み出す。


 風を切る翼の音。

 イリが肩へと舞い降りた。


 レフが、俺たちの栗毛を厩から引いてきた。

 食卓で見せていた、無邪気な少年の表情は、もうその顔からは消えている。


 今しがたのレフの振舞いは、どれも冷静で聡く、機転の利いたものだった。

 レフを「信用できる」と思った自らの直観が、決して誤りではなかったことを確信する。


 テラ・スールが地に跪き、レフを強く抱き寄せた。

 そして、まだあどけなさの残る少年の頬に薄紅色のくちびるを押しあてる。

 

「レフ、あなたのことは忘れないわ。いつか……いつか、きっとサリトリアで逢いましょう」


 テラ・スールのくちづけに、少年は忘我の表情を浮かべていた。

 俺は彼女を抱き上げ、馬に飛び乗った。

 イリが、もう一頭の栗毛の鞍先に飛び移る。


 俺は腹を蹴って、馬を駆け出させた。


 ――「テラ・スール」へと。


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テラ・スールの守護者 水城 @Mizuki_hejhej

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