03
そう、あの時、自分は死んだと思った。
でも、違った。
――今度こそ死んだと思ったのに。
ぱちりと目を開いた知紗は、深い眠りから目覚める感覚に安堵の息を吐いた。
呼吸が止まっていたのかもしれない。恐怖を思い出してバクバクと激しく脈打つ心臓が、今もなお、必死に体が生きようとしていることを証明している。
やや乱れた呼吸も、柔らかいシーツの感触も、どこからともなく聞こえる鳥の鳴き声も、全てが自分の命の在処を教えているようだった。
(ここ……どこ……?)
少し頭を動かすだけで目が回るが、吐き気さえなければ問題ない。
力が入らず震える腕でゆっくりと体を起こし、知紗は部屋の中をぐるりと見渡した。
牢屋と違い、旅行で予約したホテルのような華のある部屋だった。
自分が今いるベッドも、傍に置かれているサイドテーブルも、その上にある水差しやコップまで、一見して高価な品揃えであるのは間違いない。
牢屋での扱いを考えると、天と地ほどの待遇の差を感じる。
一先ず乾いた喉を潤すため、知紗は水差しを両手に取ってみた。
ゆっくりとコップに水を注ぎ、色や臭いを確かめてみる。特に異変は感じなかったので、次はお行儀悪くも動物のようにおそるおそる舌を出して水面を舐めてみた。微かにレモンの味がするだけで、こちらも問題なかった。
そうすると、途端に乾いた喉が水を求めて疼き出す。
勢いよくコップを傾け、知紗はごくごくと水を飲み干した。
しかし、数日と飲まず食わずだった胃は、たったそれだけで驚いたらしい。飲み込んだはずの水が喉奥に迫り上げてきて、知紗は堪えきれず咳き込み、吐き出してしまった。
本能が生きる糧を求めていても、異物を警戒して弱った体はほとんど受け付けないようだ。
ベッドを汚してしまったことを少しばかり申し訳なく思いながら、知紗はコップをテーブルに置く。万が一、この水差しに何か入れられていたら――ようやく覚醒した頭で考え直した知紗は、早急にこの部屋から出ていくことを決めた。
「……?」
ふと、そこで濡れた自分の手を見下ろす。
右手の甲に、見覚えのない模様がある。牢屋にいた時はなかったものだ。
(な、何これ……?)
擦っても、引っ掻いても、花の模様をしたそれは全く取れない。落書きではなく、刺青のようだった。
――意識を失っている間に何かされたのかもしれない。
気だるい体を動かし、窓の外を見る。
どうやら自分は一階にいるらしい。
硝子の向こう側には広い庭園が見えた。様々な色の花が見える。中でもガゼボ付近にある藤は遠目でも見応えのあるものだった。
(あっちは……森……というか、林?)
庭園の、そのさらに向こう側。木々が連なっているが、庭園からそちらに抜け道があるようだった。明らかに人の手で整備された道がある。
ここがどこだか知らないが、逃げるなら今しかないだろう。
もう地下牢の時のような目に遭いたくはない――そう思い、知紗は意を決して窓を開き、窓枠に足をかけて外に飛び出そうとした。
真横から声が聞こえたのは、知紗が窓枠から今にも飛び降りようとした時だった。
「〈ドアはそこじゃないはずなんだけどね〉」
何を言われたかは知らない。ただ、低い男の声が思ったよりも近い場所で聞こえ、知紗は目を丸くした。
ゆっくりと視線を動かせば、地面の上に犬――いや。
(おっ、狼……!?)
それも、知紗の知る狼よりもずっと大きい。艶やかな銀色の体毛と、宝石のような金色の瞳を持つ狼だ。足には青い宝石の金具が装着されている。
鋭い眼差しと目が合った知紗が恐怖にビクリを体を震わせると、狼はフイッと顔を背けた。
どうやら敵意はないらしい。
ホッと胸を撫で下ろし、知紗はまた視線を少しずつ上に上げ、その隣に立つ瑠璃色の瞳を見つける。
思わず、口から「あ」と声が漏れ出た。
スラリとした細身に合う白いシャツと黒いスラックス。ラフな格好だが、その絶世の美女と言っても違和感がないほど整った色白の顔には見覚えがあった。
藤色のふんわりとした癖のある髪を風に揺らしながら、色気を感じさせる泣き黒子を添えた目を細め、青年はどこか楽しそうな表情で知紗を見つめていた。
「〈おはよう、可愛い僕の『花嫁』。目覚めの気分はどうだい? できることなら、もう少しベッドの上で大人しくしておいて欲しいんだけど〉」
聞き取れない言語で話しかけられ、さらに包帯を巻いた腕が伸びてくる。
反射的に体が震え、知紗はその手から逃れようと窓枠を蹴って地面の上に落ちた。
筋力が低下しているせいで勢いの余り上手く着地できずに転がってしまうが、それでも知紗はすぐに体を起こして相手を見つめた。
「〈ふふっ……まるで野良猫だな〉」
避けられたことに驚いたのか、それとも知紗のすばしっこい動きが予想外だったのか。きょとんとした顔をした見目麗しい青年は、ジリジリと自分を見つめたまま後退していく知紗に肩を震わせた。
それでも残念なことに、知紗には敵意のない青年の言葉は一切伝わらない。
(さっきからなんて言ってるの……? どこの国の言語か全然分からない……)
何がおかしくて笑っているのかも理解できなくては、ただ気味が悪いだけだ。
クスクスと笑う青年の傍で、銀色の狼は退屈そうに大きな欠伸を一つ漏らす。
各々の反応を交互に見て、知紗はもう一歩後ろに下がって距離を置いた。
「〈大丈夫。ここにいる者達は君の嫌がることは絶対にしないから、安心して〉」
「……」
知紗はまた一歩下がる。
青年が近づくと、また一歩。
思い切って彼の方から二歩、三歩と歩み寄られれば、飛び上がって近くの木を盾にするように逃げた。
「〈……ふっ……くく……〉」
堪らず、といった様子で青年がまた肩を震わせる。顔を背けて口元を手で覆い隠しているが、笑っているのは一目瞭然だ。流石の知紗も白けた目を向けた。
何が面白いのか、こちらは必死だというのに。
そんな物言いたげな視線を投げつつ、しかし、どうあっても警戒心を解かない。狼までいるのだ。いつ嚙みつかれるか分からない以上、身の安全はまだ保障されていない。
例え狼の方がつまらなさそうに地面に伏せ、目を閉じてしまったとしても、だ。
「〈師団長! ここに居られましたか!〉」
反対側からもう一つ声が聞こえ、銀狼と青年の意識がそちらに向く。
知紗もつられて木の陰からそちらに意識を向けた。
――騎士だ。
鎧を着こみ、肩にマントを羽織り、腰に剣を携えた、未だに見慣れないその姿。知紗にとっては恐怖の象徴でしかない人物が、真っ直ぐにこちらに駆け寄って来る。
青年は騎士の行動を制止するよう、手を上げた。
「〈ああ、ごめんね。できれば今はそれ以上近寄らないでくれるかな? 僕の可愛い猫が逃げてしまう〉」
「〈はぁ……? 猫……?〉」
怪訝な顔をした騎士がこちらを振り向く。
冷たい金の瞳がこちらを睨んだ瞬間、知紗は咄嗟に踵を返していた。
本能が騎士から逃げろと告げていた。あの騎士は自分を牢屋に入れた人物ではないが、植え付けられたトラウマというものはそう簡単に克服できそうにない。
広い庭園の中を迷うことなく走り抜けた彼女に、男達の慌てる声が聞こえる。
知紗はそれを無視して走り抜けようとした。
足を止めなければならなくなったのは、真っ先に行く手をあの銀色の狼に遮られてからだ。
さっきまで地面に伏せていた巨躯が、俊敏な動きで知紗を追いかけてきたのである。
自分よりも二回りも大きな巨躯が目の前に現れ、知紗は「ひっ」と恐怖の悲鳴を上げた。
狼は唸ることなく、ただ知紗のことをじっと見つめていた。
その静謐な眼差しはまるで知紗の行動を咎めているようで、「落ち着け」と言いたげだった。
「落ち着け。我らはお前を傷つけたりしない」
――いや、実際に、そう言った。
人の口のように音を形作って動いていた訳ではない。
けれど、僅かに牙が覗いたその獣の口から、しっかりとその声は聞こえてきた。低く物静かな、それでいて威厳を纏う声だった。
「戻れ、ローランドの『花嫁』。未だ殻の中で眠り続ける我が同胞を見捨ててくれるな。不安が尽きぬのであれば、気が済むまで我がお前の傍に控えよう。何人たりとも危害を加えさせたりはせん」
この狼は神の使いか、それとも神そのものなのだろうか。
知紗は混乱する頭で必死に考えた。
人の言葉を話す狼など普通ではない。これがただの動物であると、いったい誰が信じるのだろう。堂々たる姿に恐れ戦く。
だが、さっきから視線を交わす身を竦ませるほど鋭い眼光は、どこか温かさを感じさせた。
(……守って、くれるってこと……?)
知紗の言葉は、おそらく誰にも理解できない。
何故なら、ここは知紗の生まれ故郷よりずっとずっと遠い『異世界』だからだ。
そんな場所で、唯一、この一匹の獣だけが味方になってくれるという。
知紗の足から力が抜けた。
この際、獣でも何でも良かった。
異国の土地で、頼れる者も庇護してくれる者もいない世界で、唯一の味方となってくれる存在。それがこの獣だと言うのであれば、それでいい。
「うっ……うぅ……」
未来のことはまだ分からない。そんなことを考える余裕もないぐらい、心はすでに不安と恐怖に押し潰されそうになっていた。異形の優しさにすら縋ってしまいたいほどボロボロに、ひどく弱っていた。
ゆったりとした足取りで近づいてくる銀色の狼が神々しく見える。頬を伝う大粒の涙を慰めるように舌で掬った狼の体に、知紗はしがみつくように抱き着いた。
声を上げて泣き出す彼女に、銀狼は静かに告げた。
「言葉が分からずとも、ここでは誰もお前を見放したりはしない。ローランドの民を信じよ」
何度も頷いていると、誰かが優しい手つきで頭を撫でた。
知紗は涙で濡れた顔を上げ、その手があの麗人のものであると知る。
彼は困ったような、安心したような、そんな曖昧な笑みを浮かべていた。
そして知紗の膝裏と背に腕を回すと、ひょいと軽々しく抱き上げる。見た目によらず力持ちで、安定感がある。
きっと、自分はこのままあの部屋に戻されるのだろう。
だからと言って、抵抗する気はもうない。
自分を害することはないと言った狼の言葉を信じて、知紗は大人しく青年に運ばれる。
(……この人の手は、いつだって温かい)
ベッドに辿り着いたあとも、彼は知紗を労わるように触れてくる。
額を撫でる手の温もりを感じながら、知紗は自然と瞼を閉じた。
懲りもせず、次に目が覚める時は元の世界に戻っていることを夢見てしまう。
けれど、それでもまだ叶わず自分がこの世界にいたなら、どうかその時はこの優しい青年と少しでも言葉が交わせますように――再び訪れた暗闇を前にして、知紗はそう、心の中で強く願った。
ロディ・ローランドの花嫁 ナギ @wakanovel426
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