02

 社会人になって数年経つと、何かしらの壁にぶち当たるものらしい。それは職場への不安だったり、変わっていく人間関係だったりと人それぞれだろう。漠然とした将来への不安というのもあるかもしれない。


 知紗の場合は、後者だった。


 知紗は家庭の事情で金銭的に余裕がなかった。そのため、やむを得ずに進学を諦めて就職することになったが、興味本位で飛び込んだ医療の世界は思ったよりも性に合っていたらしい。医療従事者としての仕事にやりがいを感じられたし、その分、一筋で真面目にやってきたと思っている。同世代の若者に比べてパソコンを扱うことに長けていたことも、仕事に早く馴染めた要因の一つかもしれない。慣れない電話対応も今ではそつなくこなせるようになり、苦手意識を持っていた人とのコミュニケーションも、常連の患者を相手にしていれば多少の雑談は交わせるようになった。今では帰る前に駆け寄ってくる子どもとハイタッチすらできる愛想ぶりだ。

 その見違えるような成長は自覚していたし、職場でも『仕事のできる女』という立ち位置がすでに出来上がっているのは知紗も理解していた。


 そんな彼女が将来への不安を抱き始めたのは、突如世界を脅かしたウイルスのせいである。海外から流行が始まったそれは我が国でも猛威を揮い、あっという間に各医療現場を地獄絵図に変えていったのだ。


 知紗が働く調剤薬局でも、その影響は少なからず出ていた。病院に比べて患者と密接に接する機会は少ないが、それでも圧倒的に患者の数は変わる。

 特に、門前の小児科は顕著だった。

 前代未聞の病では病児保育にも預けられず、仕事への支障を危惧した親が次から次へと押しかけ、その数は例年に比べて膨れ上がるばかり。当然のことながら門前の薬局も定時より一時間も二時間も残業する日々が続いたため、休日も疲労感が絶えなかった。


 知紗はこの数年間、ほぼ家と職場を往復するのみだった。感染が拡大していると聞いては生真面目な性格が友人と会うことを許さず、医療従事者であるという自覚から人との接触は極力避けていた。職場の休憩時間もお弁当を食べ終われば物静かにスマホでゲームをするか本を読むだけだったし、出かけるとしても日用品や食料の買い出しか、他人との接触が極力少ない本屋や映画館に行くぐらいだ。


 漠然とした不安は、そんな日々が三年目になろうとしている時に訪れた。

 ある日の休憩時間。食事を終えていつものように読書でもしようかと本を手に取った知紗のスマホに、一通のメッセージが届いた。ポコンと画面に映し出された差出人の名前は、ここ数年会えていない親友の理香子だ。


『やっほー! 知紗元気?』

『実は大事なお話があります』

『なんと私、優君と結婚することになりました!』


(……結婚!?)


 理香子とは幼稚園からの幼馴染で、高校からお付き合いしている恋人がいることは知っていた。知紗が直接会ったのは一度か二度だが、とても愛想の良い好青年だったと思う。メッセージにある『優君』がその人である。


(そっかぁ……もう結婚する歳なんだ……)


 仕事一筋で生きている知紗には縁遠い話だ。

 恋をしたことはある。けれど、それは気になる男子がいる、という程度の淡い気持ちだ。自分から何かアプローチしようとは思わなかったし、好きだからと言って付き合いたいと思う気持ちはなかったので進展はなかった。

 その結果、相手には「タイプじゃない」と理香子を伝手にしてフラれたのだが――意外にも初めての恋だったため、その一言は知紗の乙女心に深い傷を作っている。今にしてみれば、奥手だった自分にも原因があるので当たり前の結果だと思えた。

 そうだとしても、やはり失恋は辛い。

 知紗はそれ以来、異性を恋愛対象として見ることもなく、できるだけ距離を置くようになった。


 そうした苦くも淡い初恋の経験もあり、知紗は就職後も貯金のことしか頭になかったため、恋愛など二の次どころか視野に入れたこともない。職場にいる男性は親と同じぐらいの年齢だ。あとはみんな女性ばかりで、もちろん全員が既婚者。間違っても職場恋愛など誰にも起こるはずがない。むしろ、何年経っても知紗は周りから娘や妹のように可愛がってもらっている。


 結婚なんて、知紗の未来では想像もできないおとぎ話だ。

 それでも親友の幸せは嬉しいもので、自然とメッセージを見た頬は緩んでいた。


(おめでとう……って、今回は言葉だけじゃなくてちょっと可愛いスタンプでも探して送ろう)


 ここはやっぱり猫がいい。理香子は無類の猫好きだから、きっと喜んでくれるに違いない。

 そう思いながら課金して、可愛らしい猫のスタンプをダウンロードした。返信した数分後には『ありがとー!!』と一緒に喜びを表現するスタンプがたくさん送られてきた。次いで、『それでね』と文章が続き――。




『友人代表のスピーチ、知紗にお願いしてもいいかな?』






 ――メッセージは、まだ返せていない。


 今日も一段と長い残業だった。仕事を終えて、トボトボと街灯が照らすアスファルトの上を重い足取りで歩く。


 理香子のことは嫌いじゃない。

 逆に、他の誰よりも気の置ける姉妹みたいな関係だと思う。


 ただ、自分の中で何かが引っ掛かっていた。その『引っ掛かる』部分が何か、知紗は自分でもよく分かっていない。分からないことにまたモヤモヤとしてしまい、結局昼休憩の間に返信することが出来なかった。

 人前に出ることは確かに緊張するが、理香子を心から祝福したい気持ちはちゃんとある。なのに、「もちろん、喜んで」とすぐに言えなかった自分がいることに、知紗はとてつもなく憂鬱な気分になった。


(何が親友よ……こんな薄情な女、日本中探し回っても私ぐらいだっての……)


 自分のメッセージに既読がついたまま返信がないなんて、理香子はきっと知紗の反応が気になっているだろう。もしかしたら不安になっているかもしれないし、つれない反応に少しばかり腹を立てているかもしれない。


 ――にゃおん。


 ふと、道脇からから猫の鳴き声がした。仲間に話しかけているのか、はたまた餌を強請っているのかもしれない。そう思って視線を動かした。


「……何よ。お前も私を責めたいの?」


 野良猫か、それとも家出猫か。駐車場の入り口付近に置かれた車の下で、黒猫が真っ直ぐにこちらを見つめている。金色の目を睨めば、また「にゃあ」と短く鳴いた。

 それがどうにも情けない自分を叱責する声に聞こえ、知紗は小さくため息を吐いた。


(結婚……結婚かあ……)


 女性なら一度は憧れるというが、生憎と知紗はそういった未来を想像する機会に恵まれなかった。

 不運と言うべきか、社会人になればまず、異性との出会いがない。それに初恋の一件だけでなく、知紗の親は不仲で離婚している。そのせいか、どうも恋愛や結婚に良い印象が持てない。当時の荒れた家庭環境を思い出すと、どうしても他人と共に歩む人生など考えることができなかった。そうして長年続けてきた独り身生活に慣れてしまったことも一因する。


 理香子が結婚して、他の友人や、まだ大学生の弟もいつか結婚して――そうして周りが自分の人生に『新たな家族』を増やしていく場面は容易に想像できるのに、自分の未来など浮かび上がることはない。彼らの未来が幸せで白い輝きに満ち溢れた光景なら、自分の未来にあるのは真っ暗闇だけだ。なんてネガティブな発想だろう。


(私……何してんだろ、ほんと……)


 仕事ばかりの人生だった。ここ数年は、特に。

 進学を諦めて働くと決めたのは可愛い弟のためでもある。覚悟していたことなので、今さら文句など言わない。給料もそれなりにあるので、そこにも不満はない。

 面倒事は多少起こるが、決して悪いことばかりの日々ではなかった。

 ただ、こうして親友の結婚をきっかけに自分の将来を考えると、漠然とした不安が襲ってくるだけだ。


(別に、結婚しなくてもいいんだけど……そうなんだけど……)


 そう思っているなら、どうしてこんなにも不安になるんだろうか。

 好きなことをして生きて、いつかは独り死んでいく――そんな気楽な未来を想像して、気分が沈むんだろうか。

 うだうだと考えれば考えるほど後ろ暗い思考に呑まれていくような気がして、知紗はブンブンと頭を振った。


(とにかく、友人代表のスピーチは受けよう。親友だもの。やっぱり自分の口からこれまでの感謝と「おめでとう」はちゃんと伝えたい)


 そう考え直して、信号の待ち時間を利用してメッセージを打ち込んでいく。


(返事、遅くなって、ごめん……それから、スピーチの話……)


 もちろん、私で良ければ――そう文字で打ち込んだ時だった。

 フラリと人影が自分の横を横切って行く気配を感じ、「え」と知紗はスマホから視線を上げた。

 信号無視だろうか。どこにでもいる学生服を着た女の子が、赤信号の横断歩道を渡ろうとしている。


(……ちょっと……待って)


 異様な気配を感じた。

 冷たい空気が自分の体に纏わりついて、背筋を凍らせるほどの何か。


 信号はまだ赤い。

 なのに、目の前の年下の少女は長い髪を揺らしながら、周囲を確認することなく真っ直ぐ進んで行く。


 知紗の直感が、ガンガンと警鐘を鳴らしている。


 一台の車は――もうすぐそこまで迫っている。


「危ない!!」


 咄嗟に知紗は叫んだ。

 同時に体を動かしたのは、子どもの頃から培ってきた運動神経と、若い子どもを無意味に死なせたくないという正義感からの衝動だった。


 真横から大きなクラクションと眩いライトが迫ってくる。

 その寸前に知紗は触れた少女の腕を掴み、全力で自分の方へと引き戻した。


「は……?」


 危険を察知すると、脳は人の表情すらスローモーションに見せるらしい。


 女学生の目が、少しずつ大きく見開かれていく。


 その足元には、駐車場で見かけたあの黒猫が佇んでいた。

 あとを追いかけてきたのか、知紗を見てキラリと金色の目を光らせていた。


(あーあ……やっちゃったな)


 少女の代わりにドンッと真横から車にぶつかった体が宙に浮く。

 そして激しく地面に叩きつけられた後、痛みによる衝撃で知紗の意識は完全にブラックアウトした。

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