ロディ・ローランドの花嫁
ナギ
01
事実は小説より奇なりと言うが、現実はいつだって物語のように甘くいかないものだ。
壁にかけられた蝋燭の灯だけが差し込む冷たい地下牢の中、やつれて少しばかり細くなった自分の手首を見つめながら、女はぼんやりと考える。
窓のないここに閉じ込められて、いったいどれぐらいの時間が経っただろう。
意識を失っている時間の方が長いため、すでに時を数えることは止めてしまった。なんとなく覚えているのは、メイドらしき女性が食事と水を届けにきた回数ぐらいだ。
――水のように味のないスープ。
――硬くなって所々にカビの生えたパン。
――腐って変色した果実。
とても人が食べられるような物ではない。水ですら妙な臭いがするので、途中からは手をつけないようにした。
そんなことも両手で数えられなくなっているので、ここに閉じ込められてからそれなりに時間は過ぎているはずだ。
気だるさで重くなった体は、すでに冷たい床の上に投げ出している。
自分の体が少しずつ死へ近づいているのを感じながら、霞んだ視界がゆらりと歪んだ。
目を閉じると、はらりと目尻から一滴の水が流れ落ちた。
(私……どうして、こんな目に遭わなくちゃならないんだろ……)
声を発すれば、殴られる。
黙っていれば、尖りのある声で嘲笑われる。
大人しくしていても、まともな食事さえ与えられない。
こんなにも人の尊厳を奪われるような扱いをされるほど、自分は彼らに何かしたのだろうか。どれだけ問いかけようとも、その問いに答えが返ってきたことはない。
何故なら、彼らは自分の知る言語とは全く異なるものを話しているからだ。
女の言葉を理解しようともせず、それどころか声をかけると煩わしそうに眉を潜め、気味の悪いものを見るような目を向けられる。食事係のメイドでさえ、話しかけると怯えた目でこちらを見つめ、逃げるように地下牢から去って行った。
(……私が……)
(私が……何をしたの……?)
(何をして、こんな扱いをされなくちゃいけないの?)
すでに空腹は感じなくなった。退屈で狂いそうな時間はただ体力と気力を奪い、精神を蝕む。唯一できることは、現実から逃れるように夢の世界に旅立つことだけ。
元の日常が戻ってくることを願って眠り続けるぐらいなら、いっそ、このまま二度と目覚めなければ良い。そうすれば、いつか自分が怒りと憎しみで壊れてしまうこともない。人よりも苦労の多い人生だったが、それでもこれほどまで殺意を感じたことはなかったのに――。
それが今では人を見るたび、どうやって目の前の相手を殺そうかと考えを張り巡らしてしまう。そんなこと、数日前の自分なら想像もしなかった。こんなことにならなければ、一生知ることのなかった負の感情だ。
それでも生まれ育った環境で培われた道徳精神を総動員させ、女は手探りで今を耐え凌いでいる。
(もういっそ……最後に……誰かの喉元でも噛み千切ってやりたい……)
手枷をつけられて満足に身動きが取れなくとも、チャンスがあればそれぐらいはできそうだ。こんなくたびれた体でも、まだ体を動かす力は残っているのだから。
そんな物騒な思考に吞まれた時、ふと鉄格子の向こう側が騒がしくなった気がした。
耳を澄ませば、石壁に隔たれながら複数の足音と金属がぶつかり合う音が反響してくる。遠くの方で怒鳴る男性の声がした。半狂乱に叫ぶ女性の声も聞こえる。まるで強盗にでも押し入れられたような騒々しさに、女は自然と自分の体が恐怖で強張るのを感じた。
(犯罪者……? それなら都合が良い……)
殺す相手が悪人であるなら、こちらも気が楽だ。
完璧に、一矢報いるつもりで、息を殺して横たわる。
誰かがここに足を踏み入れた時、その瞬間が最大のチャンスだ。
例え相手の命を奪えなくても、少しでも相手に一泡吹かせてやれれば、それでいい。それで逆上した相手に返り討ちされることになったとしても、目的が達成されたなら悔いは残らないだろう。
そう信じて、彼女はただ静かに待ち続ける。
好機は、予想していたよりも早く訪れた。
どこからか狼の遠吠えがしたと思ったら、地下牢の扉が開かれたのだ。
続けて、薄暗い階段を駆け降りて来る複数の足音が複数。そのまま迷いなく女の方へと近づいてくると、少しぼやける視界の端で大きな犬が見えた気がした。
次に、ひらりとカーテンのように布が靡く。
騎士の外套だろうか。ピクリ、と指が無意識に動いた。
女にとって、騎士には全く良い印象がない。
地下牢に閉じ込められると気づいて抵抗した時に最初に暴力を加えてきたのは彼らだ。奴らは相手が女性であっても平気で顔を殴る。もしこれが騎士であるなら、それは自分の中にある僅かな命の灯が奪われようとしているのだろう。
(けれど、今までの仕返しをするチャンスだ……)
奴らには、死ぬ前に一撃だけでも食らわせてやりたい。
その執念が、ゆっくりと体に力を取り戻してゆく。
檻の中の女の有り様に驚愕の声を零したのは、フードで顔を隠した人物だった。声から察するに、若い男。開いた鉄格子の扉を潜り抜け、近づき、身動ぎする女に手を伸ばす――チャンスは、今、この瞬間だった。
渾身の力で腕を使い、手をついて体を起こす。口を開いて相手の喉元を狙って飛びかかると、焦りや驚きの声がいくつも聞こえた。
敵は一人じゃない。それでも捉えた標的を逃さぬよう、女はなりふり構わず口を開いて噛みついた。残念ながら精一杯の攻撃は腕で防がれ相手の喉元には届かなかったが、食らいついた腕に歯を食い込ませることはできた。
鉄格子の向こうで声を荒げながら剣や杖を構える気配がしたが、死に際にいる女はもう、怯えも恐怖も感じることはなかった。ぶつりと己の歯が皮膚を貫く感覚だけが気持ち悪かったが、相手が痛みに呻く声に満足する。
(ざまぁみろ……!)
そう目でせせら笑った時、愉悦に浸っていた彼女は噛みついた相手に意表を突かれた。
自分の背に男の手が回り、そっと撫でたのだ。
もう大丈夫、というように声をかけ。
癇癪を起こした子どもを宥めるように背を叩き。
よく頑張ったと優しい手つきで後頭部を撫でてくる。
――なんで。
くらくらとする視線を動かして、どうにか相手の顔を窺おうと目を凝らす。
そこで、彼女はようやく目の前にいる相手が騎士ではないことに気づいた。薄暗い中、喉元だけを狙っていたため気にも留めなかったが、外套で隠れた体のどこにも鎧が見当たらない。
もう少しよく観察して顔を見れば、男とも女とも区別のつけられない美しい顔と、やわらかい光を放つ瑠璃色を見つけた。宝石のようにキラキラと輝いて見えるその瞳は、自分と視線が交わると驚いたように目を瞠り、苦痛に歪んだ表情を浮かべた。まるで今まで女が受けた仕打ちに胸を痛めているようだった。
女が呆気に取られていると、その麗人は穏やかに、低く、かすれた小さな声を発した。女には何と言っているか全く分からないが、僅かに震えるその声が耳に届いた瞬間、本能的にこの人物が敵ではないと察した。
途端に気が緩み、腕から口を放してしまう。
ポタポタと流れ落ちていく血に、ぶわりと恐怖心が沸き上がった。
――傷つけた。勘違いで傷つけてしまった。
――善人だ。自分を助けてくれる人かもしれないのに。
さっきまでの勢いはどこに行ったか。食らいついた腕から流れる血は、圧倒的に自分の唇から滴るそれよりも多い。それを眺め、今度こそ自分は取り返しのつかないことをしてしまったと、女は体を震わせる。
そんな彼女の心境を察したのかは分からないが、未だ背後に回ったままの片腕が力強く女を引き寄せ、男は安心させるようにその華奢な体を抱きしめた。
続いて何かを呟き、今度は腕から滴る血を自分の口で吸い上げ、女の頬を両手で包み込む。そうして顔を上げさせ――二人の唇は、ゆっくりと重ねられた。
薄くて、それでいて柔らかい感触が、己の唇を押し開こうとする。ぼんやりする思考の中、自分に近づく美しい顔から目を逸らすことも許されず、女はただただ彼の行為を受け入れることしかできなかった。
何をされているのかは、唇の中に流れ込んできた鉄の味が教えてくれた。
見ず知らずの男にキスされただけでなく、その血を強引に飲まされているのだ。
事実を理解するより早く、乾いた喉が異物を受け入れてしまう。ごくりと血液が喉を通り過ぎた。心臓が大きな音を立て、背中が熱を帯びていく。だんだんと視界が黒くなるのを感じて、女はその目に諦観の色を浮かべた。
(ああ……もう……このまま、死んでもいいや……)
分からない、何も。
本当に何も、分からない。
どうして自分がここにいるのか。
どうして自分はこんなにも惨めな目に遭ったのか。
どうしてこの男は、己の血を自分に飲ませたりするのか。
信用しても良いのではないかと思った矢先の行動は異常だ。到底、理解できやしない。
(……助けてくれるなら、もう、なんでもいい……)
救われたい。楽になりたい。もう、終わりにしたい。だから、目を閉じる。
そうして辛い現実から逃れるために、女は暗闇へと身を投げた。
だから、彼女はこの時、まだ気づかなった。
意識を失った自分の手の甲に、花の模様が浮かび上がったことも。
その模様に呼応して、自分の周りに大きな魔法陣が浮かび上がったことも。
その魔法陣から現れた一つの卵が、自分の運命を変えるきっかけになることも。
彼女は――藤ヶ谷知紗は、まだ何も知ることはない。
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