六花とけて、君よ来い

夢月七海

六花とけて、君よ来い


『夜の光を切り裂いて 君が突然現れたんだ』


 カーラジオから聞こえてきたその歌に、俺はハンドルを握る手が勝手に硬くなるのを感じた。しくも、状況はこの歌詞と似た、夜の道路で、フロントガラスの向こうからヘッドライトを灯した車と何度も擦れ違う。

 俺が八歳の頃、この曲は大流行して、いつでもどこでも流れていた。ただ、その当時にあの事故があったから、俺は今でもこの曲が嫌いだった。


 あの夜は、家族三人で買い物をした帰り道だった。俺は、新しい運動靴を買ってもらって上機嫌だった。運転席の父と助手席の母も、洗濯機の予約をして、届くのが楽しみだねと明るい声で話していた。

 その瞬間、反対車線を走っていた車が、急にスピードを上げ、さらに、こちらへ舵を切った。ヘッドライトを真正面から受けて、あまりの眩しさに目を閉じた……と同時に、激しい衝撃音と座っている自分の体が浮く感覚がした。


 ……次に目を覚ました時、俺は病院のベッドの上にいた。体の数か所が骨折していたが、意識ははっきりとしていた。命が助かったことを、その時だけは感謝していた。

 飲酒運転で反対車線を越えてきた車と正面衝突し、前の席に座っていた両親と相手側の運転手は亡くなった。それを訊いた時、喜びから一転、自分が暗い穴に落ちていくような感覚になったのを、今でも覚えている。


 そのショックも大きかったが、幼い俺にとっての不安は、たった一人で生きていくんじゃないかということだった。何故なら、ベッドの周りで自分の事を心配そうに見ている親戚たちと、俺とは血が繋がっていないからだ。

 東京で暮らしていた実の父と母は、俺が三歳の頃に離婚、母は俺を連れて、すぐに再婚した。二年ほど、色々困惑はあったものの、新しい父も、自分のお父さんなんだと思えるようになってきた頃に、その父の生まれ故郷である沖縄に引っ越した。一気に増えた親戚に、必死に馴染もうとしていた矢先の事故だった。


 母は、東京の実家とはもともと折り合いが悪かったらしく、実の父と結婚していた時も、帰省した覚えはない。実の父は、離婚の際に一悶着があったらしく、事故のことを知っているはずだが、会いに来たことはなかった。

 そんな厄介者の俺を、引き取ってくれたのは運送会社を営む隼介はやすけ叔父さん一家だった。そこの長男と俺が仲が良いという薄い繋がりではあったが、彼らは長男の隼太はやとと娘の初江はつえと同じように、俺のことを愛してくれた。


 当時の俺は、本当に面倒な子供だった。事故の怒りや両親を失った悲しみを誰にぶつければいいのか分からず、自室に引きこもり、鬱々と過ごしていた。一家とも、事務的な会話しか出来ない日々が二年も続いた。そこから何とか立ち直って、学校に通えるようになったのは十三歳からだった。

 なんて、根気の強い人たちだったんだろうと、大人になった今、振り返って感激する。血の繋がらない子供を家族として迎え入れて、そばでずっと支えるなんてこと、反対の立場だったら、出来ていたかどうか分からない。


 少しでも、この恩に報いたくて、別の夢があると家を出ていった隼太の代わりに、俺はこの運送会社を継ぐことに決めた。今の両親からは、恐縮したように、好きなように生きていいと言われたけれど、車の運転は好きだから、無理はしていない。それも伝わり、今は認めてもらった状態だ。

 そうして、二十年近くの時間が流れた。今はもう、自分にそんな過去が無かったかのように、普通に暮らしている。


 はずなのだが、傷は完全に塞がらないものらしい。酒が全く飲めないのも、只の恋愛ソングが苦手なのも、あの事故のトラウマだった。

 まるで呪いだ。眩い街明かりの中、暗闇の一点を眺めながら呟く。どれだけアクセルを踏んでも、事故の地点から、俺の心は離れることが出来ない。


 このトラウマを因数分解していくと、自分が何を恐れているのかがはっきりとしてくる。

 俺は、また大切な人を、失うのが怖い。






   □






 テレビの中は、酷い雪だった。吹き抜ける風の中にも雪が混じり、歩道や街路樹を白一色に染めていく。

 全国版のニュース番組は、関東一帯を十年に一度の大寒波が襲ったと、報じていた。今年の沖縄の冬も寒いは寒いが、東京とは比べ物にならないだろう。


「あんな大雪、生で見たことないね」


 隣で体育座りした恋人の春乃はるのが、ホットコーヒーを飲みながら呟く。沖縄生まれ、沖縄育ちの彼女にとっては、信じられない光景のようだ。

 「今日は冷えるし、鍋パしない?」と、春乃に誘われて、このマンションの一室を訪れていた。海鮮鍋を腹いっぱい食べてから、特にやることもなく、カーペットの上に座ってぼんやりテレビを眺めている、そんな時間だった。


「俺はあるよ、小さい頃に」

「あ、ほんと? 雪合戦とかして遊んだの?」

「それどころじゃなかったよ。電車が止まるくらいの大雪だからな。まあ、雪降ってなくても、寒くて、外には出たくなかったと思う」


 俺が東京生まれだということは、春乃も知っている。流石に一年半も付き合っていたら当然だ。

 なのだが、それ以上の事情を、彼女には話せていない。きっと何かあったのだろうと、春乃も察している様子だが、無理に聞こうとはしなかった。


「沖縄だと、マイナスなんて、ありえないからなぁ。そんなに寒い中、学校とか職場に行くのって、大変なんだろうね」

「……俺は、あるよ。沖縄でも凍えたこと」

「あれ、そんなに寒い年、あったっけ」


 ただの独り言のつもりが、結構大きく出てしまったらしい。春乃は、不思議そうに俺の顔を覗き込む。

 言いたくないと主張するように、俺の唇は真一文字に結ばれていた。それを、肩の力を抜くように、解いてしまおう。話すなら、きっと今しかない。さりげない話題かのように、伝える他ない。


「八歳のある夜に、両親と出掛けた帰り道だった――」

「……」


 堰を切ったかのように、俺は、自分の半生を全部話した。多少支離滅裂になったり、時間軸を遡ったりしながら。

 誰かに、ここまで話すのは初めてだった。当時の気持ちも伝えたのだから、春乃には、今の家族以上のことを知っていることになる。


「――それで、今は普通に過ごしているんだけど、あの時の、悲しみで凍り付いた心は、まだ残っているように感じるんだ。それがあるから、今の俺も、上手く歩けていないみたいで――」

「……」


 何か、無茶苦茶な話になってきたと気付いた俺は、「ごめん、上手くまとめられなくて」と言って笑おうとしたが、それよりも先に、春乃が俺の手を握った。

 俺が話している間、ずっと相槌も打たずに黙っていた春乃は、自分の気持ちを全て込めて、力強くこの手を握る。ローテーブルに置かれたコーヒーカップよりも温かい彼女の手に驚いて顔を上げると、泣きそうな目で、俺を見つめ返す。


「ありがとう、このことを、話してくれて」


 ああ、春乃は、この瞬間を待っていたんだな。自分の鈍さに呆れると同時に、彼女が寄せてくれた信頼が嬉しくて、俺も涙ぐんだ。

 鼻を啜って、おずおずと、春乃は語り出す。


「あのね、私、綾人あやとと出会って、まだ二年ちょっとで、こんなことを言い出すのは、おこがましいっていうか、生意気だと思うけれどね、」

「いいよ。教えてくれ」

「……綾人のご両親は、多分、綾人を残したことを、悲しいとか悔しいとか、そう思ってばかりではなんじゃないかな。きっと、綾人には、一日でも多く、笑っていてほしい、そう願っているって、思うの」

「……ああ、そうだよな。天国で、そんな風に見守ってくれているよな」


 春乃の真っ直ぐな優しさに、笑顔が零れてしまう。それを肯定するように、真剣な顔で何度も頷く彼女の様子が、また可笑しい。

 最後まで凍り付いていた心の結晶も、春乃の手の温もりとその一言で、じんわりと溶けだしていくようだった。自分の事を、こんなに思ってくれる相手が、今、何よりも愛おしくてたまらない。


 そして、ふと思う。俺が一歩踏み出せなかったのは、大切な人を失う覚悟ではなく、自分が幸せになろうとする勇気が足りなかったからだと。

 それを意識すれば、彼女に対してすることは、ただ一つしかなかった。






   □






 お互い、翌日が休日だという夜に、春乃を名護へのドライブへ誘った。


「夜に運転しても大丈夫なの?」


 助手席に座ってからも、彼女は不安そうにしている。今の今まで、夜のドライブデートは断っていたから、当然の反応だった。

 俺は、「大丈夫」と頷いてみせる。虚勢や決意ではなく、実際に自分が思った以上にリラックスしていたから言い切れる言葉だった。


「単純に、怖かっただけだったから。夜に、大切な人を乗せて走っていたら、またあんな事故が起きるんじゃないかって」

「……もう、平気なの?」

「ああ。取り越し苦労だったみたいだ」


 春乃が、俺のことを心配そうに見つめているのを、ちらりと確認して、俺は大袈裟なくらいに笑って見せた。もちろん、これも無理をして作った笑顔じゃない。

 あの夜、自分の過去とそのトラウマを告白してからも、春乃の態度は変わらない。ただ、ちょっと、あの話のことをどう触れればいいのか、気を遣っているのは分かる。俺は、彼女のそんな優しさが素直に有り難かった。


 時刻は夜の七時。すでに空は真っ黒で、小さな星たちが光るだけ。もっと暗い方へ向かうように、我が愛車は住宅街を抜けた山道を、ゆっくりと登っていく。

 時々、向かい車線の車とすれ違う。体が硬くなる、なんてことは起きなかった。むしろ、無事に目的地へ着けますようにと、相手へ祈る余裕もあるくらいだ。

 春乃は、助手席側の窓から、後ろを振り返りながら言った。


「結構、登って来たねぇ」

「なあ、こういうところで、ヤンバルクイナって出てきたりすんの?」

「実をいうとね、私も見たことないの」

「あ、そうなんだ」

「マングースならあるんだけどね。あれ、外来種だけど」

「意外とよく見るよな、マングース」


 そんな話をしている間に、山の上の方にある公園に辿り着いた。広々とした駐車場は、殆ど車が停まっていない。

 目的地は話していなかったので、車から降りた春乃は、「ここ、始めてきた」ときょろきょろしている。山中の散歩道は、ちゃんと街灯があるので、安全に山頂を目指せる。


「あ、見てよ、桜だ」


 その途中、すぐそばで咲いている桜を、立ち止まった春乃が指差した。濃ゆいピンクの、東京では見かけない一月に花開く桜から、春乃は俺の方に目を移して、微笑みかけた。


「二年前の今頃も、こんな風に公園で桜を見たよね」

「ああ、フラッペを食べながら」

「私、あの瞬間、綾人から大切なことを伝えられると思って、緊張したんだよ」

「そっか、ごめんな」


 さりげない口調ながらも、非難していることは伝わるので、苦笑交じりに謝った。「もういいんだけどさー」と呟きながら、また歩き始めた春乃の後に続く。

 あの時は、まだ怖かったんだと、言い訳を心の中でしている。大切な人と一緒にいる未来を、俺は思い描けなかった。だけど、今は違うから、どんなことでも話せる。


「……この公園、俺が引きこもりを辞めた時、父さんが連れてきてくれた場所なんだ」

「そうなの?」

「あの時は夏で、日曜日の昼間だったんだけどな。母さんや、隼太と初江も一緒に、この道をゆっくり登って行ってさ、なんかリハビリみたいだなぁって思ったのを覚えている」

「いい話かと思ったけれど、意外と冷静なんだね」

「とはいっても、俺にとって大切な思い出なのは確かだよ」


 だから、新しいスタートもここにしたいと思った。アウターのポケットの小箱を、春乃に気付かれないようにそっと握り締める。

 十分ちょっと歩いて、俺たちは山頂に辿り着いた。他に人影は見当たらない。春乃は、柵に手を変えて、眼下の夜景を見下ろした。


「ねえ、恩納村って、どこら辺?」

「多分、あっちかな」

「あ、そうかも。海も近いしね」


 山風は存外に強くて、春乃の髪を撫でつけながら去って行く。寒さに頬を紅く染めた彼女が、沖縄の街の灯りに目を輝かせているのを、俺はしばらく見惚れてしまった。


「春乃」

「ん?」


 こちらを向いた春乃は、膝を立てて座っている俺を見て、はっと息を呑んだ。

 ポケットから、小箱を取り出す。ゆっくりと、中を見せるようにそれを開ける。たったそれだけの動作を、激しい動悸の中で行った。


「俺は、臆病で、大切なこともちゃんと言えず、ずるずると先延ばしてしまう、不甲斐ない男だ」

「うん。知ってる。でも、気にしてないよ」

「それでも、春乃が、そして自分の本心が、一緒にいたいと思っているのは、気付いている。だから、今、ここで告げる」

「……うん」

「俺と、結婚してください」

「はい。喜んで」


 さあ、返事はもらった。今度は、指輪を春乃に嵌めてあげる番だ。

 そう段取りを考えていたのに、俺が動くのよりも早く、春乃が俺に抱き着いてきた。慌てて、両手を広げて受け止める。


「綾人。愛してるよ」

「俺も。春乃が、世界で一番好きだ」


 耳元での囁きに、俺も返答して、指輪を持ったままの手で、力強く抱き締める。

 果ての無い暗闇から現れて、俺を照らしてくれて、長い長い冬を、その温もりで溶かしてくれた春乃。


 会えて良かった。来てくれて嬉しかった。

 そして、これからも、ずっと――





















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