5分小説『男は5丁目の交差点で神に出会った』
所クーネル
男は5丁目の交差点で神に出会った
〝神は存在するのか〟
情けない問いだ。
存在すると思っている人の中には確かに存在し、存在しないと思っている人の中には、少しも存在しない。
それが神だ。
それは畏怖であり、戒律であり、愛だと、私は考えている。
しかし、残念ながら私は神に出会ってしまった。
日が暮れ始めた町に、家々の明かりがまばらに煌めいていた。
私はいつものように降車ブザーを鳴らし、トラムから五丁目の交差点へ降りる。
そしてその交差点で、その人は私のものになった。
私もまた、その人のものになった。
「やあ」
と、そっけない挨拶を交わし、私たちは出会った瞬間に旧知の仲であるように振る舞った。まるで待ち合わせしていたかのように。
——はて、この人は誰だろう
私の思考がよそ見をした隙に、その人は歩き出し、私も遅れまいと続いた。
——なぜ追うのだろう
その人は迷いなく颯爽と歩く。私も背筋を伸ばした。
仕事でくたくただったし、家で待つ口うるさい妻のことを思うと、つい背を丸めてしまうのだが。
——なぜ?
疑問が私の頭を支配した。
しかし私は、何に対して疑問を持ったのだろうか。
愛しているのに、妻を疎ましく思うこと? 安い給料でこき使われているのに、嫌味っぽい上司に文句のひとつも言わずに従い続けていること? 子供が出来ないことを両親にしつこく咎められても言い返さないこと?
子供の頃、川で溺れた友人を助けなかったこと? 彼はどこへ?
——なぜ今そのことを?
四丁目の精肉店の角へ来たとき、その人は振り返ってほほえんだ。私もほほえむ。
「疑問の答えは君の中にしかない。ただし、ヒントは世界中に転がっているんだ。目を凝らさなければ見えないものもあるし、大きすぎて存在に気づいてないものもある」
「なるほど」
私は反射のように答えた。
「でも、新聞や本を読めば、あらかたはわかるものさ。映画を見るのもいい」
その人は軽やかにそう言った。まったく屈託のない子供のような表情だ。
だが、どこか悲しげでもある。
そのせいか、角を曲がって歩き出した足取りは少し重かった。
私も慎重に歩いた。右足が、左足を追い抜いて、また右足が追い抜く。コンクリートで舗装された歩道を、革靴の底がノックする。
コン、コン、コン、コン……
「誰もが救いを求める。そうだろ?」
「そのためにあなたがいる」
私は、やはり反射的に答えていた。
この答えで合っているのだろうか。もっと、思慮深い人間であると示したいものだ。
その人は首を振った。
——なんてことだ、間違えてしまった!
「救いは外からやって来たりしない。君が君を救うんだ」
「それは……」
「自己中心的すぎやしないか」と、言いかけて口を閉じた。
——自分を救うなんて簡単では?
私が答える前に、彼は続けた。
「しかし他者との関係なくして自分は存在できない。だから、一人では救われない」
混乱してきた。
こんな時に限って、妻に牛乳のお使いを頼まれていたことを思い出す。
彼女の言う「いつもの」というのが、いつも難問だ。これだと思って買っていっても、いつも違うと言われる。
もしかしてわざとなのかもしれない。合っているのに違うと言いたいだけなのかも。
牛乳もろくに買えない私が、私を救える?
「すべての魂は救われるんだよ」
「それなら」
「それならなんの問題もないですね」と、言いかけて口を閉じた。
——いや…。
「どんな悪人でも救われる?」
私は恐る恐る言った。
何に怯えているんだ。
「許しを乞えば」
「そんな馬鹿な!」
私は声を荒げた。
なぜなら、今までの人生で、とても許せない相手が二人いるからだ。
一人は小学校で私を除け者にし、バケツで水をかけるなど子供が思い付くであろう限りの非道を働いた同級生だ。名前を口にするのも汚らわしい。
そしてもう一人は、父だ。
「許しを乞うても、許したりしない」
私は息巻いた。
四丁目の書店に外灯が点くところだった。それは小さな店で、私は一度も入ったことがなく、いつもは気にも留めていない。
「君が許さなくても、許しを乞うたとき、人は許される」
私は愕然とした。
あの連中も、「許してください」と言えば許されるのか?
理不尽だ。
「許しを乞うということは、自分の犯した罪を認めるということだ。己の罪を認め、許しを乞う」
その人は一息ついた。
「自分の罪を認め、受け入れることは、そう容易くはない。君はできるかい」
「罪なんて」
「ない、と言える? 片時も違わず善人でいたと?」
「いいえ」
私は迷わず答えた。
まだ牛乳を買っていない。
「では、罪とは?」
「え?」
「悪い行いとはなんだろうか」
その人は、真っ直ぐ私の目を見て言った。真剣な、強い視線だ。
私はしばし考えた。
「人を悲しませることでは」
「ふふ」と、その人は笑った。
馬鹿な考えだが、少女のようだと思った。
「きみは、まったく。優しい人間だな」
そう言ってその人が振り向くと、視線の先に小さなアパルトメントが見えた。
我が家の窓に、明かりがついている。
「牛乳を買わなければ……」
と、呟いた瞬間———
ビーっと大きなブザーが鳴って眼を覚ました私は、慌ててトラムから走り降りた。危なく乗り過ごすところだった。
交通量の少ない五丁目の交差点を、いつもどおり信号を見もせず渡る。
右に曲がり、真っ直ぐ坂を上ると角に精肉店がある。牛乳を頼もうとして、ふと、自分の名前と妻の特徴を告げてみた。
すると店主は妻を覚えていて、店の奥の冷蔵庫から低脂肪の牛乳を出してくれた。ヨーグルトのおまけ付きだ。
私は意気揚々を四丁目を通過しようとした。
するといつもは気にも留めない書店の、外灯が点くのが目に入った。
それで、どんな出来心か、その雰囲気のよい小さな書店に入ったのだ。
個人経営の小さな店とはいえ、目立つところにはやはり流行りの本が並ぶ。
とにかく儲ける方法だとか、何かをすれば病が治るだとか、あなたにだけ教える旅だとか。誰が悪いとか何かが悪いとか。
「誰もが救われるのに、ナンセンスだ」
いや、しかし、救われるとは?
罪を認め、受け入れる?
何か読もう。
私は店の奥に吸い込まれた。
——了.
5分小説『男は5丁目の交差点で神に出会った』 所クーネル @kaijari_suigyo
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