恋する乙女

さかな

第1話

最愛の夫が死にました。

君の紡ぐ小説は美しいと、君の微笑みは向日葵よりも愛おしいと言ってくれた夫も、帰らぬ人となりました。

私は泣きません。悲しくないからです。

薄情者だと思いましたか?

それとも、浮気を疑いましたか?

いいえ、残念ながら私は夫が大好きでした。今も愛しています。

それに私を知る人はみな私を情に厚い人間だと言います。夫だけには違う面をしていただなんて、さすがにそんなむごいことはしません。

私は今夫の通夜の席にいます。

若くして最愛の人を亡くした私に、沢山の人が話しかけてきます。

ほらまた、誰かもわからない人が近づいてきて、大丈夫かと声をかけてきました。大丈夫なわけないとわかっていながらなぜ聞くのでしょう。私もまだ20代、若いことは承知で言うと、今時の若い人のことが理解できません。


「お隣よろしいですか」

ふと、懐かしい声がしました。いえ、幻聴だとわかっているんです。

「薫さん?」

わかっていても、欲望には抗えません。悲しくはなくても、会いたくはなるものです。夫ともう一週間も話せていないんです、さすがに限界でした。

「ああ、やっぱりあなたは私に会いに来てくれるんですね」

「僕は薫さんではないですが、あなたを放っておくことはできないので」

彼が夫のふりをしてくれればどれだけ癒されたことでしょう。私を本当にわかってくれる人はもうこの世にはいないのだと痛感させられたではありませんか。

「どうして?」

「あなたの微笑みが好きだから、なんて言ったら今時だめですよね。ごめんなさい、なんでもないんです」

彼はそう言ってお酒を一口、でも一気に口に含んで微笑みました。

「私はあなたが誰か知りません」

彼が私にもお酒をくれたので一口啜ってから続けました。

「あなたの誠意は伝わります。少なくとも大丈夫かと聞いてくる人たちより何倍も、私のことをわかってくれる人だと思うので」

「すみません、僕は」

人様の話を遮るなんて野暮なことだと思っていたのに、私は我慢なりませんでした。

「私が薫さんを愛していたのは、彼の美しい言葉のおかげなんです。書くじゃなくて紡ぐ、面白いじゃなくて美しい、好きじゃなくて愛おしい。彼の台詞一つ一つに愛を感じたのは私の思い上がりなんでしょうか。彼は、彼が、彼の、言葉に私はかなわない。私がいくら努力して言葉を知ってものを書いても、彼の何気ない一言にゆうに負けてしまう」

彼は静かに聞いていました。うなずきも返事もせず、ただ聞いていました。

彼は夫とは違います。君の微笑みが『好き』と言いました。『愛おしい』とは言ってくれませんでした。どうでもいいことにこだわって彼の厚意を拒絶した私はやはり壊れかけているのだと思います。

長い沈黙の間、私たちはただお酒を飲み続けました。喉の奥を焼くような痛みは、心の痛みを忘れさせてはくれないけれど、頭まで焼いてくれるような気がします。

そしてついに彼が口を開いて言った言葉は、「あなたは薫さんが大好きだったんですね」の一言でした。お酒を片手に、ふわっと笑う彼のえくぼに、夫の顔を少しだけ、本当に少しだけ重ねてしまいました。

私は無意識に腕を彼の首に回して、彼の胸の中に飛び込みました。

彼は背中をさすることも、私を離すこともしませんでした。ただ、私の話を聞きながらお酒を啜る音が時々聞こえるだけ、静かな空間です。

「みんな、夫のことを去ったとか、逝ったとか言うんです。死んだって言われるほうが全然良いのに、みんなわかってくれません。私のそばにずっといると誓った人が、もう、私の前に現れないとわざわざはっきり伝えてくるのはあまりにも残酷で。そもそも死ぬことは去ることなんでしょうか。私たちはいつかみんな死ぬのに、その時期が違うだけ、少しばかり会えなくなるだけでしょう?それを永遠に会えないみたいに言うのは私を傷つけたいからでしょうか」

そのとき、彼は静かに口を開きました。

「僕には死というものがよくわかりません。あなたの言い分はよくわかりますが、正しいのかはわからない。かと言って他の誰かが例えば科学的に、文学的に、歴史的に解説してくれたところで、わかる気がしません」

彼が言葉を丁寧に選んでくれていることがよく伝わってきました。

夫とはまた違うけれど、彼もまた、優しい人なのだと知ったのです。そしてその雰囲気がどことなく夫と重なってしまうのを感じます。

私は顔を上げて、彼の目を見つめました。その奥はとても澄んでいて、夫の美しい黒い瞳と似ています。彼の鼻も、夫の少し歪んだ鼻筋が透けて見える気がします。そしてその唇は決して鮮やかではないけれど、彼の言葉が、私の愛する言葉たちが紡ぎだされるところです。

「でもあなたは薫さんとしばらく会えないことがこんなにもつらいんでしょう?死が何を意味するとしても、僕はあなたの言葉にできない思いを受け止められないけれど、薫さんへの愛だけは理解できるのです」

ふと、涙がこぼれるのを感じました。一滴、一滴が集まって流れになり、私は声がこぼれました。私の泣き顔を笑いもせず、泣きもせず、無表情だけどただ温かい表情で見つめる名も知らぬ目の前の男性が、夫の温もりを思い出させます。

「じゃあ、あなたは、死が何かを知りたいとは思いますか」

泣きじゃくりながら発した言葉を、彼は聞き取ってくれました。そして、「それがあなたのためになるのなら、あなたのことを理解できるきっかけになるなら、是非知りたいです」と答えてくれたのです。

人はときどき、酔うと奇抜で天才的なことを閃くものです。今がまさに、その時でした。

「お願いがあるんです。私は薫さんに殺されたい。でもそれはかなわないと知っています。だから、あなたが殺してくれませんか」

今度はさすがに彼も動揺を見せました。

「僕に、殺せっていうんですか。それよりも、あなたは死にたいんですか。というか、僕は薫さんの代わりには、」

私は彼の唇にそっと、自分の唇を押し当てました。

自分がかなり酔っぱらっていることはわかっていましたが、きっと彼も同じはずです。

私が言ったことは全て本気です。薫さん以外の誰かに私を殺せるのはこの人しかいないと思いました。だから変な言い訳などせずに、引き受けてほしいと身勝手なことを考えています。

「本当に死にたいのなら、お酒を飲み続けるのはどうですか。そのまま意識が消え去って、薫さんに会えるはずです。それに僕にはあなたを殺す勇気がない。必ず後を追ってしまいます。そうしたら、あの世で僕たち三人がみんな鉢合わせることになります。それは修羅場だと思いませんか」

全く、笑えない冗談を言うものです。

「別に構いません。夫は笑い飛ばしてくれるはずですから。それに、お酒はだめです。できれば、刺して殺してほしいんです。あなたが構わないなら、心中でも良いので」

話がおかしな方向に向かっているのはわかっていました。通夜でする話ではないことも知っています。

でも私はもう懲り懲りです。夫のいないこの世界で、生きていける自信がありません。たとえこの人といたとしても、私は一生涯死にたいと思いながら廃人になっていくはずです。

それなら一思いに殺してほしい、というのは無茶でしょうか。彼も私と同類だと思った私がいけないのでしょうか。ぼうっとする頭では死んだも同然、このまま死ねば悔いはないと思えます。

「わかりました」

彼は懐から小刀を取り出しました。護身用でしょうか、普段から持ち歩いているなら彼も死にたいのでしょうか。そうであってほしいと思ってしまう私がいます。

「彼の前で刺してください。彼に見えるように、心臓を一突きで。要望が多くて申し訳ないですが、正真正銘最期のお願いなのです」

「わかっています。その代わりあの世で会ったときは、僕の名前を憶えていてくださいね、三崎千尋さん」

そして彼は、私の胸に小刀を刺しました。痛みなどもう感じるのに疲れて、何も感じません。むしろ喜びを感じて見上げた先には、薫さんに似た男性の顔がありました。

私の胸から引き抜かれた小刀を刺して微笑んでいます。

「僕は、柳真人です」

それが最期の言葉でした。私が聞いた最後の言葉でもあります。



最愛の夫、柳薫。彼に会うために、私はあの世にはるばるやってきた、恋する乙女です。

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