箱舟
浮遊ラウル
箱舟
僕は箱舟に揺られている。感傷的で不作法に揺らされる。そうならざるを得ないほどその箱舟は大きくて、わがままだった。
箱舟は細長いコンテナが幾つも連なった不思議な形をしている。高さは手を伸ばせば天井に届くほど低く、幅は端から端まで大股だと二歩で横断できる。その癖、長さはめいいっぱいあった。体積のほとんどが長さによるものだ。もしこの船を外から見たら、青竜を思わせるだろう。
この箱舟は絶え間なく走り続けている。しかしその行き先を僕は知らない。正確には何処まで行くか知らない。僕は箱舟の旅路をつまみ食いするために乗っている。だから箱舟がどこから来て、どこに往くかは全く知らない。しかしそれは僕も同じで、僕だってどこまで行くかは自分にもわからない。
箱舟の壁は殆どが窓だ。目白押しに並んだパノラマウインドウが解放感を作り出している。しかし窓の向こうを眺めるものは一人もいない。みな顔を臥せて、思い思いの手遊びに更ける。彼らの手元には、目の前の景色よりもっと浪漫のある光景が映るのだ。
知ったような口で語る僕もその内の一人だった。しかし程なくして飽きてしまった。それは何故か。旅路に更なる面白さを見出したから?
そんな綺麗な理由じゃない。ただただつまらなくなった。目の前の道具には何日もの退屈を癒すような力はなかった。あれは退屈に対する治療薬ではなく鎮痛剤。所詮その場しのぎのエンドルフィン。狭い箱舟が作り出すわがままの前には霞んでいった。
僕は箱舟に抗うことを辞め、 外観を眺めていた。ガラスの壁に背中を預け、後ろを覗き込む。反骨心の芽生えた少年のように投げやりな姿勢だ。
田んぼばかりの田舎町を越え、たった今山間部に突入した。町で見慣れた田んぼの絨毯は全て木々の壁へ様変わりした。横から縦への変化。緑の水平線が立ちあがり、垂直な壁になったと思うと少し面白かった。
木々は箱舟とすれ違い、ざわざわ揺れる。まるで不安がってヒソヒソと噂しているようだ。それでも木々は僕たちに木漏れ日を作り出してくれる。船内の鈍感な白熱電球では寂しいだろうと、老婆心を見せてくれているのだろう。ちぐはぐで物好きな人たちに見立てると興味深く思えた。
箱舟は山中を走り続ける。誰も知らない秘境を探しているのだろうか。それともただ真っ直ぐ走った結果山越えしているだけのだろうか。箱舟に質問をしても「ドンドン」と唸り声をあげるだけで答えてくれなかった。
僕は木が並ぶだけの景色を食い入るように見ていた。別に特段面白いと思った訳じゃない。ちょっとは楽しさを見出す努力をしたが、やはり空しかった。結局はぽっと出の知らない物が、いつの間にか消えていく様を形を変えて永遠に見せつけられるだけだ。今の僕にはこれしかないからこうしているだけにすぎない。
気が付くと自分の体勢が変わっていた。背中越しに眺めるのに疲れたのか、右肩が壁に触れていた。いつの間にか僕は横目で外の世界を眺めていた。散々こき下ろしながらこの景色に執着している自分に呆れてしまった。
ふと景色から目を切り、正面を見ると少女が立っていた。少女は僕みたく壁のすぐそばで手遊びをすることなく立ち尽くす。しかし僕と違い何に寄り掛かることもなく、手すりも掴まず、目を固く閉じたまま、二本の足を鳥居のように真っ直ぐ伸ばして立っていた。時折襲いかかる箱舟の揺れに屈する姿勢を見せず、ただひたすらジッとしたまま、右肩を抱いて在る。
「辛くないのですか?」
僕は壁にもたれたまま問いかける。
少女は目を開き、訝し気にこちらを睨んだ。
「…………アナタは何処まで?」
意外な返答に、僕は戸惑いながら答えた。
「……分かりません。ただ当てもなく」
「アタシは終わりまで。終わりまでって決めていたら、目的を忘れることもなくて辛くない」
そう言うと少女は再び目を閉じた。ツンと上がったまつ毛が凛々しい。しかし彼女の立ち姿は凛々しさからは程遠く、むしろ精一杯我慢しているように見えた。
僕は再び窓の外へ目をやった。外は相変わらず一面の緑だ。変わらない。流れるだけだ。不変が流れるだけだ。一秒前にもこんなことをやった。一分前も一時間前もこれをやった。もしかしたら僕が気づいていないだけで一日前も、なんなら一日中こうしていたんじゃないだろうか。
そう思うと僕は急に恐ろしくなった。動揺が抑えきれず、救いを求めるように少女に再び話しかけていた。
「さ、さっきさ、い、言っていた目的ってなんですか。終わりまで行ってらしたいことでもあるんですか?」
少女は再び訝しそうに眼を開いた。真っ黒な二つの瞳孔がこちらへ向けられる。吊り上がった目じりの威圧感に、僕は大人げなく震えた。
「…………特に。アタシの目的は終わりに行ったらあるから。むしろ終わりについたとき、はじめて目的が生まれる」
僕は彼女の発言に首を傾げた。
「終わりに行くことが目的じゃないんですか?」
すると少女ははっきりと舌打ちした。
僕は怖くなり、つい謝った。
「…………アタシは生きる目的が欲しくて乗ってるの」
意外な発言だった。勝手な想像で彼女は一人でも強く、縛られることなく生きてゆけそうに思えたからだ。
「きっと終わりには生きる目的のためのヒントがある。今の空っぽで退屈で満たされない人生を変えられるような何かがきっと。だからこんな下らない船に乗って毎日辛抱強く待ってる。きっとあるはずよ、生きる目的が」
喋っていくうちに少女の手がキュッと握られる。思いつめた神妙な面持ち。きっと目を閉じて立ち尽くしていたのは、苦悩に蓋をするためだ。自ら塞ぎ込み、始めから反発することで、真実を遠ざけたのだ。
気が付くと僕の心から恐怖は消えていた。同情と薄情が混ざった、憐れむような見捨てるような心情になっていた。
「僕には終わりに行くこと自体が君の生きる目的に見えるよ」
少女は枯れた紫陽花のような萎れた表情で顔を背け、「知ったような口を利くな」と言い残し、それっきり喋らなかった。
僕は改めて窓の方へ体を向けた。外は相変わらず緑だけだ。馬鹿の一つ覚えにイライラする。
心を静める意を込めて先ほどの会話を反芻していた。当てもない旅路。生きる目的。満たされない人生。下らない船。
果たして、僕の船旅の目的は何だろう。
いや、どうして僕はこの箱舟に乗り込んだのだろう?
目的のない旅はある。しかしきっかけのない旅は存在しない。
「まるで生きる最中で生きる意味を忘れたようだ」
改めて船の中を見た。相も変わらず僕たち以外の乗員は手遊びに熱中している。それゆえ没頭している。周りに唆されることもなく、一意専心、確かにそこに活力を見た。
僕は手の内にあるものをもう一度見た。そこにはくしゃくしゃに丸まった一枚の紙があった。広げてみると一枚の絵が描かれていた。丹精込めた綿密な線画――だが、あと一歩で力尽きたらしく、見るからに未完成の絵だった。
この絵を見て僕は全てを思い出した。
「なんだ。あとちょっとで終わるじゃないか」
僕はこの船に乗ると同時に筆を執り、何日もかけて線画を書き上げる。それと同時この船を降りて次なる画材を用意し、また箱舟に戻る。そうしたらそこで今度は着色し、それが終わればまた船を去る。次の画材が見つかればまた船に乗り――――これを繰り返し、絵を完成させ、最後には終わりまで持っていこうと思ってたんだ。
しかし僕には線画すら完成させる技術も、忍耐も、信念もなかった。途中で投げ出し、無かったものだと背を向けて、完全に忘却していた。
「それは退屈なはずだ。本当にやりたかったことはここにあったんだから」
僕はポケットから古ぼけた万年筆を取り出し、絵に最後の一筆を加えた。
こうして線画は完成した。感動はなかった。ただただ遅くなったと、申し訳なさと後悔で胸がいっぱいだった。
外を見ると山を抜けて海沿いを走っていた。先ほどまでの真緑から一転し、澄んだ青色が水平線の彼方まで延びている。水面はキラキラと煌めきながら波うち、躍動する。きっと青絨毯の上で妖精たちが舞踏会を開いているのだろう。
外を眺めて初めて感動した。世界はただ流れていくだけのもじゃなかった。変化し、影響力を持つ。それは一方的な及ぼしだが、それでも人は変わる。僕は確かに、前へ進むべきだと、この胸打たれた感銘を、それを引き起こした景色を、全て忘れないよう、海を線画に書き加えた。
「もう下りないとだめだ。箱舟よ、降ろしてくれ」
すると箱舟はピタリと制止した。丁度、休憩時間だったらしい。箱舟は「プシュー」と息を吐くと、備え付けの自動ドアが一斉に開いた。
「ずいぶんぐうたらしてしまった。このペースじゃ終わりについても絵は完成しなさそうだ。でも元々そんなものだし、仕方ない。僕のできることを着実にやろう」
僕は僕にしか価値の分からない絵を胸に抱えて箱舟の外へ足を踏み込んだ。
ふと、後ろを振り返った。
少女はまだ、目を瞑ったまま立ち尽くしていた。
僕は絵の中の最も新しい部分だけを切り取ると、それを万年筆と添えて、少女の足元へ置いた。
そして箱舟の外から少女に呼びかけた。
「足元の絵! 一度は見てくれると嬉しいな!」
箱舟は再び「プシュー」と息を吐くと、僕を置いてどこかへ走り去ってしまった。
あの少女が僕の絵を見るかは知らない。見たとしても絶賛してもらえるはずもないだろう。しかし確かに彼女へ示せただろう。
「さて、次の目的に向かうとするか」
僕は純白の砂浜の向こう側を目指した。
箱舟 浮遊ラウル @fural
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