空を飛ぶ

増田朋美

空を飛ぶ

その日は、花冷えというのにふさわしい日で、桜は満開になっているが、何故か寒くて、花がなんだか寂しそうだなと思われる日だった。ちょっと曇っている空に、桜のピンクの花が、なんだか合わないなと思われる日だった。

その日、富士駅から富士山エコトピア行のバスに乗って、桂浩二くんは、古郡舞さんという女性を連れて、製鉄所に向かった。ちなみに製鉄所の最寄りのバス停は、富士かぐやの湯という温泉施設の近くにあるバス停である。ここは、温泉施設を利用する客が多いので、結構降りる人が多いのである。二人は、ここですと言って、かぐやの湯から五分ほど歩いて、製鉄所についた。

「へえ、すごく立派な建物ですね。なんか製鉄所なんていうから、工場みたいな建物かと思っていたら、全然そんな事無いんですね。まるで伊豆とか、そういうところにある、高級旅館みたいな建物ですね。」

と、古郡舞さんは、そういった。

「ここに、住んでらっしゃるんですか?」

「ええ、僕もあまり詳しい事は知らないんですけどね。先生は、こちらで間借りさせてもらっているみたいです。」

浩二くんは、そう説明した。

「へえ、間借りですが、意外に質素な生活されているんですね。すごい先生だっていうから、もっと立派な屋敷とか、高級マンションに住んでいると思ってしまいました。」

古郡さんは正直な感想を述べた。

「まあ、そう思われる方もいるかも知れないけど、それでも、すごい演奏技術を持っていらっしゃる先生だから、きっとレッスン受けて損はないと思います。行きましょう。」

浩二くんは、古郡さんを連れて、製鉄所の正門を潜ろうとしたところ、

「あの、すみません。このあたりに磯野水穂さんという方は、住んでいらっしゃいませんか?」

と、一人の男性が、浩二くんに声をかけてきた。

「え?磯野?ああ、右城先生の現姓ですね。右城先生ならこちらにおりますよ。僕達も、右城先生にレッスンしてもらいに行くところでしたから、ちょうどよかった。どうぞ、お入りください。」

浩二くんがそう言うと、

「あの、妹が一緒に居るのですが、それでも、良いですか?」

と、男性は、隣に居る女性を指さした。彼女は、車椅子に乗っているが、体の自由がほとんど効かないらしく、車椅子に縛り付けるように座っていた。

「ああ、大丈夫です。こちらは、車椅子の方もよく見えますから、段差が無いように作ってあります。」

浩二くんがそう言うと、

「良かったな。もうすぐ、水穂さんに会えるよ。」

男性は、車椅子の女性に言った。彼女は、それを聞いてとてもうれしそうに笑った。どうやら言葉もほぼ言えないらしい。ありがとうも言わないで、ああ、あとだけ反応した。それを見て、古郡舞さんという女性は、ちょっと嫌な顔をした。浩二くんは、それを無視して、

「じゃあ、お入りください。右城、いや、現姓は、磯野といったほうが良いのかな。先生には、お客さんが来たと言っておきますので、お名前を教えてくれませんか?」

と、男性に聞いた。

「はい、僕は村瀬優、こちらは、妹の村瀬繭子です。」

男性がそう答えると、

「わかりました。村瀬優さんと村瀬繭子さん。どちらからお見えになりましたか?」

浩二くんは聞いた。

「千葉の養老渓谷からです。こちらに来てみたら、思ったほど大都市で困ってしまったほどです。杉ちゃんから、富士は田舎だと聞いたので。」

「へえ、千葉の養老渓谷ですか。随分、遠いところから来たんですね。そんなところから、右城先生に会いにくるなんて、右城先生は、よほどすごいということになりますね。」

と、浩二くんはそう言いながら、段差のない玄関を入って、製鉄所の四畳半に行った。

「右城先生。お約束していましたよね、今日は、1時から、レッスンをしてくださるんでしたよね。ちゃんと連れて来ましたよ。古郡舞さんです。特に音楽学校を志望しているとか、そういうことでは無いんですけど、またピアノを習ってみたくなったそうで、右城先生に見てもらいたいというものですから連れてきました。先生、よろしくおねがいします。」

そう言いながら浩二くんが、部屋に入ると、水穂さんは、布団の上で二三度咳をした。それでもえらく疲れているような顔をしているので、浩二くんは、嫌な顔になった。

「先生、今日はちゃんと約束しましたよ。せっかく古郡さんが一生懸命練習してくれましたから、レッスンしてあげてください。今日の曲は、シューベルトの即興曲、ハ短調です。」

浩二くんがそう言うと、水穂さんはわかりましたと言って、布団の上に座った。

「あと、先生。今日はレッスンを見学させていただきたいということで、村瀬繭子さんと、村瀬優さんという方が来ていらっしゃいます。なんでも、千葉の養老渓谷からわざわざ来てくれたようで、先生に会うのを楽しみにしているようです。」

「村瀬優と繭子?」

水穂さんがそう返すと、

「はいそうです。先生、予約してなかったんですか?なんでも車椅子に乗っていて、大変そうな女性ですが、ピアノがすきなんでしょうかね。言葉もはっきりしないので、もしかしたら、知的障害もあるのかもしれませんが、先生のことをすごく想っていらっしゃるようですので、先生、彼女にもお話してやってくださいね。」

と、浩二くんは言った。それと同時に、村瀬優くんと、村瀬繭子さんが、四畳半にやってきた。

「どうして、どうしてここに?」

水穂さんが驚いてそう言うと、

「突然押しかけてきて迷惑でしたよね。繭子がどうしても、こちらに来たいと言って聞かないものですから、こさせていただきました。」

と、優は答えた。

「しかし、この建物は、検索サイトにも乗っていないはずですけど、どうしてここがわかったんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「はい。利用者さんたちの、ブログとか、SNSとかにかかれていたので、そこから情報を集めてたどり着きました。こちらには、東名バスで富士インターにこさせてもらって、あとはタクシーでこさせていただきました。」

優は、にこやかに笑っていった。

「それでは随分大変だったでしょう。そんな障害で、バスに乗るのも大変だったんでは無いですか?それはかなり苦労したのでは?」

水穂さんがそうきくと、

「そういう事は、仕方ないことです。運転手さんに手伝ってもらって、乗ってきましたよ。まあ、こういう人間が乗車することもあるかなっていう顔で、受け入れてくださいました。」

と、優は答えた。

「そうですか。それは大変でしたね。それでは、今からピアノレッスンしますので、もしよろしければ聞いていってください。よろしくおねがいします。」

と水穂さんはそう言って、古郡舞さんに、ピアノの前に座るように言った。その傍らで、繭子さんが、本当に、にこやかというか、嬉しそうな顔をして、水穂さんを見つめているのを、古郡舞さんは、嫌そうな顔をした。

「どうしたんです?」

と水穂さんが言うと、

「こんな人の前で、私の気持ちを言ってしまうのは、申し訳ないんですけど。」

古郡舞さんはいう。

「右城先生って、名前を聞けばすごい先生だって、桂さんから教えていただきましたけど、こういう重度の障害のある人も相手にして、私達のような人は、やっぱりだめな人だって見ているんでしょうか。私は確かに、空を飛ぶことしか覚えませんでしたし、今は、仕事もしていないし、学校にも行ってないし、社会とは何も関わりを持っていません。だから、そういう女性を、相手にはしてくれないんですね。それでは、完全に晒し者ですよね。」

「そんな事、思いませんよ。それに繭子さんをそういうふうに見てしまったら、彼女は可哀想ですよ。」

水穂さんは、そういうのであるが、

「だったらどうして、こんな障害のある女性と、関係を持ったりしたんですか?先生は、あたしみたいに、ピアノを一生懸命やっている女性よりも、こういう手も足も動かないし、言葉も言えない女性のほうがすきなんですね!私、ここへ来て大損したような気がします。」

と、舞さんは、ヤケクソになったように言った。

「そんな事ありません。関係を持つような事はしておりません。」

水穂さんがそう言うと、

「だってその女性の顔を見たらすぐに分かりますよ。そんな素晴らしい笑顔をしているんだから、関係を持っているんだなってすぐわかりますよ!だって彼女は、先生にあって本当に嬉しいんだなって誰が見てもわかる顔をしているじゃないですか。先生は、私より、そういう障害を持っている女性のほうが、良いってことになりますよね!養老渓谷からわざわざ会いに来たというけれど、それも、余計に先生が、彼女と関係を持っている証拠なんじゃないですか!」

と、舞さんはすぐに言った。

「そんな事ありません。僕が、彼女と関係を持つなんて、そんな事したことはありません。それに、歩けるあなたのほうが身分が上とか、そういう考えをしてしまうのは、いけないことです。」

水穂さんはすぐに言ったのであるが、

「そんな事、私は思ったことありません。ただこの女性の顔を見て、先生は、そういう人なんだと思ったんです。やっぱり、有名な作家なんかが書いて居るんですけど、音楽家って、いろんな人と、関係を持ったりしますよね。それが、こういう女性であったということは、私は、本当に憎たらしいというか、そういう気持ちがしてしまって。」

舞さんはそういった。そういうことを言うのだから、やっぱり寂しい教育しか受けてないんだなと言うこともわかった。今の日本では、一般的な教育を受けているだけでは、障害者と接するところなんてまったくない。そういう人がいて、健康な人が居るということを、外国ではよく教えてくれるらしいのであるが、日本では、まだまだそういう人間は少ないと思う。

「古郡さんは、どちらのご出身なんですか?」

と、水穂さんが聞いた。

「出身って学校ですか?学校は、航空専門学校に行きました。それで、ヘリコプターの操縦はできるんですけど、、、。結局、会社は、兄に任せっきりで、私はただのお荷物さんです。それではいけない、なにか仕事見つけなきゃって思うんですけど、一応、人材は揃っているし、私の居場所は何処にもありません。」

舞さんは小さな声で言った。浩二くんが、なんだ、それなら、繭子さんと対して変わらないじゃないかという顔をしたが、すぐにそれを辞めてくれた。

「ご家族は会社を経営されているんですね。なにか町工場のようなものをやっているのでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「先生、今売上好調の古郡食品加工ですよ。あの企業の社長さんの妹さんなんです、彼女は。お父様が引退して、お兄さんの古郡傑さんが、社長になってから、すごい大会社になっているじゃないですか。先生はご存知無いんですか?ほら、柳島に大きな建物が立ってますよ。ただの町工場では無いですよ。」

と、浩二くんが言った。

「そうなんですか。僕は何も知りませんでした。そういう大会社のお嬢さんだったんですね。それなら確かに、そういう気持ちにもなるでしょうね。すみません。」

水穂さんがそう言うと、繭子さんはとても悲しそうな顔をして、涙をこぼして泣き出してしまった。その泣き方はまるで、幼児のようであるが、それほど悲しいんだと言うことが、よく分かる悲しい泣き方だった。

「ごめんなさい。大事なレッスンがあったのに、こんなふうに余分なことをしてしまいまして。すぐに帰ります。先生、レッスン続けてください。」

優は、繭子さんに帰ろうと促したが、繭子さんは、一言、

「にいに。」

とだけ言った。その言い方がその一言の中いくつもの言葉を持っているような気がした。水穂さんが、繭子さんに、

「繭子さんも、傷つけるような事を言ってしまって、本当にごめんなさ、、、。」

と言いかけたが、ここで激しく咳き込んでしまった。魚の骨でも引っかかったような気がしてそれを取り除こうと更に咳き込むと、水穂さんの口から、生臭い、赤い液体が噴出して、水穂さんはその場に倒れ込んでしまったのだった。浩二くんが大丈夫ですか先生、と声をかけて、背中を叩いてやって吐き出しやすくしてくれたけれど、咳き込むのは、止まらなかった。

「こういうことなら、救命救急とかそういうところに行ったほうが良いんじゃありませんか?」

優が浩二くんに言うが、

「いや、こういうときは、同和問題に理解のあるところにいかないと行けないので。救急車で運んでもらうとしても、病院に受け入れてもらえるかどうか。銘仙の着物しか、着られないのですから。」

浩二くんはそう答えるしかなかった。

「そうですか。わかりました。それなら、僕と繭子がよく通っている大学病院に行ったらどうでしょう。繭子のような重度の障害者でも見てくれるところですから、水穂さんのような方でも受け入れてくれるのではないでしょうか。」

不意に優がそんなことを言い出した。

「でも、それは、東京ですよね?」

浩二くんが言うと、

「そういうことなら。」

男たちの話に割り込むように、舞さんが言った。

「それでは、私の自家用機で行ったらどうでしょう?」

「自家用機?」

浩二くんが驚いてそう言うと、

「はい。そうです。正確には、会社の輸送用のヘリコプターなんですけど、それなら私も、操作できますし。」

舞さんはそういったのであった。それがなにか重大なことを決断したような顔で、無理しているような顔には全然見えなかった。

「大丈夫です。私は、そらとぶことしか覚えなかったと言いますが、逆を言えば空を飛ぶことはできるのです。」

「わかりました。そうしましょう。」

浩二くんがそう言うと、舞さんはすぐにスマートフォンで連絡を取った。そして、数分でヘリコプターが来ますからといった。その間に浩二くんは、水穂さんに薬を飲ませて落ち着かせた。数分後に、株式会社古郡食品加工と書かれたヘリコプターが製鉄所の中庭に到着する。ヘリコプターというだけあって、空港を用意しないで離着陸できることが良かった。その時は、古郡食品加工の従業員が操縦していたが、舞さんは、今回は自分で操作するといった。舞さんは急いで、ヘリコプターに乗り込む。浩二くんも水穂さんを背負ってヘリコプターに乗り込んだ。繭子さんは、ヘリコプターに乗りたいという顔をしていたが、優は、迷惑を掛けるからやめようと言った。

「にいに。」

と繭子さんは言ったが、優は自分の判断を間違いだとは思っていなかった。やがてヘリコプターはけたたましい爆音を立てて、製鉄所の中庭からとびたっていった。幸い、優が紹介した大学病院は、ヘリコプターで行けば、すぐのところにあった。駐車場も広いのでヘリコプターが止まれるようにもなっている。

水穂さんたちが、ヘリコプターで病院に行ってしまったあと、優は繭子さんに帰ろうかといったが、繭子さんは、その場に残っていたいらしく、何も言わなかった。優は黙って待つことにした。繭子さんが、ずっと中庭を見つめているのを、優は、止めることはできないなと思った。そのまま、シーンとした長い時間がたった。本当に時計が動くのを待っているような長い時間がたった。

夕方になって、もうお天道様が西に傾きかけたとき、ヘリコプターが戻ってくる音がした。それでは、見てもらうことに成功したのだろうか。繭子さんが、ずっと上空を見つめていた。もし彼女が体も動けて、腕を動かすことができたなら、大きく手を振るとかして迎えるに違いなかった。繭子さんは、ただ、上空に向かって、

「ああ、ああ、ああ、、、!」

と言っているだけである。やがて、また爆音とともにヘリコプターが製鉄所の中庭に止まった。舞さんが、疲れた顔で操縦席に座っている。ヘリコプターのドアが開くと、浩二くんが水穂さんを背中に背負って、降りてきた。水穂さんは、静かに眠っていた。とりあえず、そこだけは良かったんだなと優は思った。

「見ていただけましたか?」

と優が浩二くんに聞くと、

「ええ。まあ、そうですね。しかし、こんなひどい状態になるまで放置しておいたのはおかしいと、叱られてしまいました。水穂さんのことをちゃんと話しておけば、もっと理解してくれるのではないかと思いましたが、そのようなことを話せる状態ではありませんでした。」

と、浩二くんは答えた。というからには見てもらえたということは確かであるが、また何か嫌味を言われてしまったのだろう。どうしてそういうふうになってしまうかわからないけど、水穂さんという人はそうなってしまうらしい。

とりあえず浩二くんは、水穂さんを布団の上に寝かせてあげて、掛ふとんをかけてあげた。そして、舞さんに一言、

「ありがとうございました。本当に助かりましたよ。舞さんが、ヘリコプターを操作できるというのが、これほど役に立てたのは、本当に嬉し良いです。」

と言った。

「いえ、私も、ヘリコプターを操作できることで、役に立てたのは、久しぶりです。家族からも、空を飛ぶことしか覚えなかったと言って、嫌味のようなことを言ったりして、非常に辛かったんです。昔は、ヘリコプターを操作できるようになって、たくさん人の役に立てるってすごく嬉しかったんですけど、結局それしか覚えられなくて、なんの役にも立たない人間になってしまいましたから。それが、こういうことで役にたてて、本当に嬉しいです。」

舞さんは、本当にやることができたという顔でにこやかに浩二くんたちを見た。それを繭子さんが、言葉には言い表せない、嬉しさと悲しみの混ざった複雑な表情で見ている。舞さんは、繭子さんがそういう顔で見つめているのを見て、

「あなたのおかげよ。ちょっと私も夢を見させてくれてありがとう。」

と、にこやかに言って、彼女を見た。繭子さんは、そこで初めて、笑顔になった。もし、繭子さんが、言葉を言えて、なにか言うことができたなら、なんていうのだろうか。繭子さんは、それができない。でも、その顔は、誰にも真似できない、美しい顔でもあった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空を飛ぶ 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る